引用聖句:マタイの福音書9章36節-38節
ヨハネの福音書10:3-4、14、27
ヨハネの黙示録3:15-17
本当に生きる希望を持つことこそがすばらしいのではないでしょうか。 この間私たちは、福音を宣べ伝えるために走っていたピリポについて少し考えてまいりました。彼は本当に、ただそのとき、ひとりの人を導く特権にあずかったのですけど、このひとりの人は初めてアフリカでイエス様のことを紹介するようになりました。 いわゆる教会の歴史を見ると、北アフリカで多くの教会ができるようになったんです。間違いなく彼のせいだった。 彼は大ぜいの備えられてるたましいから離れて、荒野まで導かれたのです。 荒野だってどうせだれもいないんじゃないかと彼は思ったかもしれないけど従いました。結果としてあのエチオピヤ人を導くことができたのです。 彼がはっきりわかったのは、私は主イエス様のことを聞いた理由は、アフリカで、自分の国で主を宣べ伝えるためである。 彼はどうして用いられたかと言いますと、結局従ったからです。従うことの大切さは考えられないほど大切です。 ヨハネの福音書3:36
そうするとおしまい。もう希望がない。永遠の滅びです。 ここで、信ずることと、聞き従うこととなってるんです。結局同じことなんです。信仰が本物であればやっぱり従うようになるに違いない。 ですから今日は、少しこのイエス様に従うことの大切さについていっしょに考えてもらいたいと思いますけど、三つの点に分けましょうか。 第一番目、なぜ、イエス様に従うべきか。 第二番目、イエス様に従うための条件とは何でしょうか。そして 第三番目、イエス様に従うことと十字架との関係はいかなるものなのでしょうか。 まず、なぜ、イエス様に従うべきなのでしょうか。 もちろんイエス様に従うことをせず、またイエス様のみこころを行なわない多くの人々がおり、イエス様のことについて過去のことを言う人がおります。 多くの人は聖書に記されている真理を認めればそれで十分だと考えてます。 すなわち、聖書に記されていることとは例えば、イエス様は神の御子であり、イエス様は神の小羊として完全な救いを成就し、イエス様は復活なさり、すべてを支配しておられるお方であることを信じています。 またこのようないわゆる真理を宣べ伝えられればそれで十分だと考えてる人が少なくないのではないでしょうか。 けど本当はイエス様に従うことは一番大切です。 イエス様は、わたしの羊はわたしに従います。従ってもらいたいじゃないよ。わたしの羊は従うとはっきり言われたのです。 そうすると、従わない羊はイエス様のものではない。救われていないことになります。 このことを正しく理解されていないならば、それこそその人の生涯は大変なことになります。そしてまた、そのような人によって影響を受ける人々もとんでもないことになります。 本当に主イエス様に従うことをせずに、主のいわゆる恵みと主の測り知れない愛を信ずる者があるならば、その人の道は誤ったものにならざるを得ません。 ただイエス様の恵みだけを要求し、イエス様に従わない者は、イエス様を締め出して遠回りをしようとすることにほかならない。 恵みとは、すばらしい福音のみならず、イエス様が完全に支配なさることでもなければならないことです。 言葉を変えて言うならば、恵みとは、私たちが屈折してるものから解放してくれるものです。 したがって、イエス様に従うということは、決して頭で考えたものではなく、実際の行ないにほかならない。 この点について聖書は本当に厳しいことを言ってます。すなわち、もしも目が罪を犯すなら、その目をえぐり出し、手が罪を犯すならば、その手を切り捨てよと主は命じておられるのです。 恵みと主に従うことは、密接不可分のものであり、どちらかひとつだけを切り離して考えるということはできないのです。 どちらかひとつだけが切り離されるならば、それはもはや意味のないものであり、力のないものとなってしまうのです。 先ほども申しましたように、イエス様に従う備えなくして、恵みにあずかるということは決してあり得ない。 確かに、提供された恵みを受け入れた者だけが主イエス様従うことができます。 なぜイエス様はご自分に従うことを要求しておられるのでしょうか。なぜならば私たちを富んだ者とならせようとしておられるからです。 主イエス様が与えようとしておられるもの、すなわち、恵みは決して主に従うこととは別個のものではないのです。 私たちが本当に主イエス様に従う備えのあるときにのみ、主イエス様は私たちに恵みを与えてくださり、豊かに富ませることがおできになるのです。 イエス様に従うことは取りも直さず、イエス様のみこころに私たちのすべての思いを明け渡すことです。 このことだけはいかなる人と言えどもせざるを得ないことなのです。イエス様に従うことは、まさに日々主に対して従順であることを意味しています。 「主よ。語ってください。聞く耳があるだけではなく、従いたいのです。」と。 主に従うようにとの招きそのものが、確かに大いなる恵みなのではないでしょうか。 本当にイエス様に従う者だけが、心から主を賛美し、ほめたたえることができるのです。 悪魔は私たち人間が主の恵みを信じようとするときには、比較的にそんなに反対しないけど、イエス様にだけ従おうとするときには悪魔は猛烈な反対をするのです。 私たちは日々豊かな主の恵みにあずかろうとするならば、主イエス様に従う必要性を知らなければならない。 その結果、私たちの生活はからの桶にすぎないか、それとも満ち溢れる泉かどちらかです。 次に第二の点、すなわちイエス様に従うことの招きとその必要条件について、ちょっとみことばから学んでみましょうか。 まずマタイの福音書からちょっと一ヶ所読みます。 マタイの福音書4:18-19
いくら迷える羊も従うことができる。従うと安全です。 マタイの福音書4:19
救われるためではなく用いられるために、「わたしについて来なさい。」と。 マタイの福音書4:20
「明日また考えさせてください。」なのではない。すぐ、直ちに網を捨てて従った。 マタイの福音書4:21-22
ここも、すぐと書いてあります。次のマルコの福音書1章を見ても非常に似てることばが書き記されています。 弟子たちにとって、結局忘れられないことだったからです。イエス様に呼ばれることだって、イエス様に従う恵みとはすごいと彼らは思ったのです。 マルコの福音書1:16-20
もう一ヶ所。次のルカの福音書5章。 ルカの福音書5:1-5
こういうふうに、デモしたらいいんですね。でも、 ルカの福音書5:5-11
福音書を見て明らかなことは、主イエス様ご自身がご自分に従うべき人々を召されたということです。 イエス様は人々を召される前に、その人のことをじっと見ておられたことも聖書からわかります。 主はご覧になった、主はご覧になったということばが繰り返し、繰り返し出て来ることに気が付くことです。 その際に大切なことは、私たちは自分の力でついて行くか行かないかということではなく、私たちの心の状態がどうであるかということなのです。 イエス様はこの罪深いペテロを呼んだとき、もうすでに五旬節のことをもちろんわかったのです。 途中で彼は確かに失敗する。自分のみじめさをわかるようになる。もうおしまいだと思うようになるけどそれは終わりではない。 彼こそが用いられる。人間をとる漁師になるとイエス様はもちろんご存知でした。 イエス様に従うということは、幼子の如く従順に聞き従うことです。 またイエス様に従うということは、たとえどれほど大きな犠牲を払おうとも、イエス様とともにゆくという心構えです。 またイエス様に従うということは、主イエス様の要求に対していつでもそれに応じることです。 イエス様の働きによって信仰が生まれ、この信仰が本当の従順を生み、この従順の現われが、イエス様に従うことにほかなりません。人間的に見れば、しばしば主イエス様に従うということが馬鹿正直に思われるものです。 いったい信仰とは何でしょうか。 信仰とは自分が価なく罪深い者であることを認めることです。 イエス様を信ずるということは、取りも直さず自分自身を信じないということです。 本当にイエス様を信ずる者は、決して人間的な尺度で物事を計ることをせず、このような信仰こそイエス様に従うとなるのです。 幼子のように従順な行ないというものは、人々を通して傾聴せしめ、沈黙せしめるものです。 レビ、あとのマタイがイエス様に従うべき召されとき、彼は喜んですぐにイエス様のため、食事を用意したと聖書は言ってるのです。 もちろん、仲間、知り合いの人みんな誘って案内したのです。 主に従うことは決して個人的な事がらではありません。まことにイエス様がすべてを支配なさることを意味してるのです。 イエス様に従うことは決して隠れていることができません。イエス様に従うことは、与えられた恵みを感謝することであり、人々の前で主を証しする勇気の表われでもあります。 間違いなくレビは、マタイはそのとき、どうして職業を辞めてイエス様に従うようになったのか、必ず証ししたに違いない。 イエス様は私たちを召されるときに、私たちがすぐに従うことを望んでおられます。 主イエス様は本当にお用いになることのできる者を召し出され、主に従うことを心から求めておられるのです。そしてそのような者だけが、完全に主の支配下に置かれるのです。 そしてまたイエス様にすべてを明け渡す者だけが主に召し出され、また用いられるようになります。 福音書の中で、富んだ金持ちの青年について書いてあります。 この青年はすべてを正直にイエス様の前に言い表わし、イエス様にすべてを明け渡すことをしなかったため、悲しげにイエス様から離れて行き、主に従うことができなかったのです。 主に従うということは、主の前に見栄を張ることをせず、誇らず、傲慢にならず、知識に満ちた振る舞いをせず、立派な振りをせず、心から飢え渇き、心の貧しい者であり、イエス様のみことばを聞き、主に従うことをせずに求めることにほかなりません。 イエス様を愛するがゆえにイエス様に従順であることこそ、主に従うことです。 主イエス様を本当に愛する者だけが主に従順に従う者となります。 なぜ主イエスに従うべきか、イエス様に従うための条件とは何かという二つの点について考えたんですけども、最後に、主イエス様に従うことと、十字架との関係はいかなるものなのでしょうか、という点についてちょっと考えたいと思います。 まずマタイの福音書16章をちょっと見てみましょうか。 マタイの福音書16:21-26
もちろんイエス様が十字架の苦しみを避けようとしたならば、主は悪魔に従うことになってしまっていたことでしょう。 主の目からするならば、十字架の苦しみはどうしても受けなければならないものでした。 十字架と苦しみから分かれようとすることは人間的であり、この世的であり、やみから出てくるものです。十字架なくして、主に従うことはあり得ません。 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とあります。 ヨハネの福音書6章になりますが、次のように書かれています。 結局多くの宗教は色々なことを教えてるのです。なかなかいいことも教えてるんですけども、いつも「十字架はどこ?」と聞くべきです。十字架がなければもうダメ。人間のひとつの教えを信じ込むことによって決して救われ得ません。 ヨハネの福音書6:67-69
主イエス様は私たちが告白したり、心の中で認めること以上のものを望んでおられるのです。 もしも私たちが表面上、主イエス様の御そばにいて、主に従うような振る舞いを見せたとしても、それだけでは決して本当の意味で主に従うことはできません。 自分自身をより多く愛する者は決して主イエス様に従うことはできません。 私たちはペテロがイエス様を拒み、「私はそんな人は知らない。私とは何の関わりもない。」と偽ったことをよく知っています。 私たちも自分自身を捨てなければ、結局ペテロと同じようにイエス様を拒むことになってしまうのです。 自分自身を捨てるとは次のようなことでしょう。すなわち私はこの人間、すなわち私自身とは関係がなくなってる。自分自身は全然大切ではない。あなたがたがこの私をどうなさろうとそれは私にとってどうでもよいことです。 ただ、あのイエス・キリスト、私の生きる主であられ、父なる神のひとり子なる主イエス様だけを告白し大切にしてると。 自分自身を捨てるとは、自分の願い、自分の意思、自分のいのちを一番大切なものとせず、それらを全部捨てて、ただイエス様だけを大事にすることです。 そういう実例は聖書の中でいっぱいあります。 例えばモーセは、そのままいけば人間的な努力や力なくして、少なくても王の跡継ぎになれたはずですけど彼はそれを捨てたと、聖書は言ってます。 彼は自分自身を捨てました。それによって彼は考えられない多くの人々を救う器となったのです。 損しなかったヨセフという男も、ポティ・フェラの妻の言うとおりになれば、大金持ちになり、この世的にも最高の名誉を得ることができたでしょう。 けど、彼はその富を得たとしても、おのがいのちを損したならば、何の益にもならないことをよく知っていました。彼は自分自身を捨てました。 そしてそのことによって多くの人々が救われ、いのちを得ることができたのです。 また主に従うことは、主のために喜んで死ぬ備えができてることをも意味してるのです。 今話したペテロはイエス様が捕らえられようとしたとき、剣を抜いて、そのひとりに切り付けました。 もちろん彼は自分が捕えられることを覚悟していたでしょうが、けど自分の誇り、自分の傲慢などの人間的な思いをことごとく捨て去ることはできなかったのです。 イエス様が十字架につけられたとき、すなわち全人類の罪を背負って、尊い血潮を流してくださったとき、そこには誇りや傲慢な思いはなく、本当に砕かれた状態でした。 イエス様に従うということは、己に死ぬことであり、主イエス様のために喜んで死に応じることであり、すべてを主にささげることです。 それが具体的にどういうことかは、いわゆる山上の垂訓が明らかにしています。 山上の垂訓とは、マタイの福音書5章から7章までの個所なんですけども、マタイの福音書5章は、「主に従い、十字架を負う者は、隣人に対して新しい関係を持つ。」と言ってるのです。 そしてその人の生活は、自分自身のためであるとか、人に気に入られたいというようなものには向けられていないのです。 ただひとつの願いは、主イエス様に仕え、イエス様のご栄光を拝することにほかならない。そして隣人も十字架の一断片となり、隣人を本当に愛することができるようになるのです。 マタイの福音書6章は、「主イエス様に従うことと、きよめとが結び付いてる。」と言っております。 きよめとは、自分自身の栄光を捨てることです。またきよめとは、ただイエス様にのみ栄光と誉れとを帰すことです。 またイエス様に従う者はだれでも祈りの人となるのです。 その人の心構えは自分自身が大切なのではなく、自分の思いではなく、主のみこころが行なわれますようにということです。 また祈りだけでなく、断食のことについても記されています。断食とは、自分自身に対してはあわれみ深くなく、他人に対してあわれみ深いことです。 そして本当に主イエスに仕え、主イエスに従う者は、主が何を望んでおられるか、またイエス様がいかに導かれるかに対して常に細心の注意を払うはずです。 「主よ。私はどうしたらいいのでしょうか。知らせてください。教えてください。導いてください。」という心構えを持ち続けることです。 イエス様に従う者は決して明日のことを思い煩いません。なぜならば、主イエス様は常に私たちを見守り、昨日も今日も永遠に変わることなく、われわれのことを心に留めていてくださるからです。 イエス様を知らない者は思い煩いますが、イエス様を知っていながら、それにも関わらず思い煩う者は、主に栄光を帰さない者です。 そしてマタイの福音書7章は、「イエス様に従うことがイエス様の再臨と密接に結び付いてる。」ということです。 本当にイエス様に従う者にとっては、この世のものはすべて見せかけの価値しかもっておらず、ただイエス様の再臨を待ち望むことが唯一の喜びです。 イエス様は必ず来てくださる。この確信こそ、主に従う者を支配してるのです。 イエス様のためのあらゆる奉仕は、自分自身の死ぬことを意味しています。 他人のために本当に仕えることは、自分自身を捨てて献身することです。 私たちは喜んで主イエス様に従おうが、勝手に自分の道へ行こうが、イエス様は今日も「従って来なさい。」と私たちを招いていておられます。 イエス様に従うか否か、この選択にすべてのことがかかっていると言っても言い過ぎではありません。 イエス様は私たちを主の口から吐き出されるか、さもなければ主とともに勝利の栄光の座に着かせてくださるか、どちらかをなさることです。 イエス様に従いますと、いうまでもなくイエス様といっしょになれます。そうすると心から解放されます。いくら愚かな羊であっても従うことができます。 迷える羊に向かって主は言わないでしょう。すなわち、ライオンになりなさい。虎になれ。これはまったく不可能であり、あり得ないのです。 大切なのは迷える羊であるわれわれ人間ではなく、羊飼いなるイエス様なんです。 従うと安全に守られます。これこそがまことの幸せなのではないでしょうか。 兄弟の描いたかわいい、かわいい子羊の下に次のみことばが書き記されています。前に読んでもらいました個所です。 ヨハネの黙示録3:17
ある姉妹から私はこのはがきをもらいましたが、姉妹はこのみことばの下に次のように書いたのです。「このみことばは私にぴったりです。主の忍耐に感謝です。」 詩篇の23篇の1節と5節を読んで終わります。みんな暗記してる個所です。 詩篇23:1
主は私のものです。 詩篇23:1
そして、 詩篇23:5
私は喜びに満たされている。なぜなら、心配する必要はない。 イエス様は導いてくださるお方だけではなく、イエス様は道そのものであるからです。 |