引用聖句:マタイの福音書16章13節-25節
今日の集いはいつものように、イエス様を紹介する集いです。 主イエス様とは本当に比類なきお方であり、嘘を知らないお方ですから、安心して信頼することができるお方であり、人間ひとりひとりの気持ちを100%理解することができ、人間ひとりひとりをまったく個人的に愛していてくださるお方です。 このイエス様に従うことこそが最高の特権なのではないでしょうか。聖書は言ってます。 マタイの福音書4:18-19
イエス様は彼らを救うつもりであっただけではなく、イエス様は彼らを用いようと望んでおられたのです。 主のみこころとは、人間がみなひとりひとり悔い改めて、真理を知るように。そのためにイエス様は、「ついて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われました。 イエス様の最後的な目的とは、個人個人の救いよりも、ご自分の教会を建て上げることです。ですから今朝ちょっとだけ教会を建て上げる秘訣とはいったい何なのでしょうかというテーマについて考えたいと思います。 主イエス様は目的を持たないお方ではありません。いつもはっきりとしたひとつの目的を持っておられます。 この時代にどのような目的を持っておられるか。イエス様は前からよくご存知でした。 イエス様は目標を持ち、目標を目指して死に向かって行かれました。 主イエス様は死んだのち三日目に約束どおりによみがえり、今天の御国に座しておられますが、けどもイエス様はそこで休んでおられるわけではない。イエス様はそこから御霊を送り、ご自分の目的を完成なさろうとなさっておられます。 けどイエス様が望んでおられる目的とはいったい何なのでしょうか。 今話したようにイエス様ははっきり、「わたしはわたしの教会を建てよう。」と言われたのです。主のご目的はご自分の教会を打ち建てることです。 イエス様がこの時代になさろうとしておられるこのみわざを、もちろん神の敵である悪魔もよく知っています。 もし知っていなければ、こんなにこのみわざに反対し、逆らうはずがないからです。 けどもイエス様はかつて次のように言われました。「わたしはわたしの教会を建てよう。よみの力もそれに打ち勝つことはない。」 この教会を見させられた今までの幾世紀もの間に生きた人々は、驚くべき激しい、教会に対する悪魔の働きを見てきました。 もし主イエス様がわれわれの心の目を開き、ご自分の目的である教会をわれわれに教えることができないなら、主は決して私たちにわたしの心にかなったものだと言えないのです。 私たちの目的とはいったい何なのでしょうか。悪魔がイエス様のご目的を絶えず心に留めているように、私たちも主のご目的をいつも心に留め、考えてるのでしょうか。 多くの人々は滅びゆくたましいをイエス様のみもとに導いて、それをひとつの組織、ひとつの団体に導き入れて、それで満足してる。 けどイエス様はそれをもって満足されてはいません。 何年前だったかちょっと忘れましたけど、ひとりの姉妹はもう輝いた顔で言ったのです。 「私の一番好きなことばは、エペソ人への手紙1章23節だったんです。」、ちょっとお読みいたします。 エペソ人への手紙1:23
今日暇がないんですけどどうか静かなところで、このエペソ人への手紙1章15節から23節までを読み、「主よ。どうか私の心の目をお開きになってください。」と祈りながらお読みになってください。 すばらしい個所です。パウロの心からの、救われた人々のための祈りでした。今日はちょっとだけ三つの点についていっしょに考えたいと思います。 第一番目。三つの大切な点とは何なのでしょうか。 第二番目。重要な質問とはどういうものなのでしょうか。 第三番目。必要な材料とはいったい何なのでしょう。 まず、教会を建て上げる秘訣について考えると、まずどうしてもはっきりとさせておかなければならない二、三の大切な点を挙げて考えてみるべきだと思います。三つの点とは、 一番目。新しい土台をもつこと。 二番目。十字架が必要であること。そして、 三番目。主イエス様の絶対的なご支配です。 まず教会は新しい土台をもっているということです。イエス様ご自身は、「わたしはわたしの教会を建てよう。」と言われましたが、それはどこで言われたみことばでしょうか。 前に兄弟のお読みになりました個所を見てもわかります。マタイの福音書の16章の13節ですね。イエス様は教会についてカイザリヤの地方で話されたのです。 この地方は首都エルサレムから一番遠く離れた地方でした。またこの地はガリラヤ湖の北端に位しています。 このピリポ・カイザリヤの地でイエス様はご自分のご目的である、「わたしはわたしの教会を建てよう。」というみことばを宣べられたのですが、なぜこの地方で言われたのでしょうか。 これはご自分のこのご目的は、今までの古い伝統とは何の関わりもない新しいものであることを教えるためにほかならなかったのです。 それまでユダヤにおいては、宗教組織として宮にまつわる色々な古い伝統があったんです。けどイエス様はご自分の教会をこのような土台の上には建てないと仰るのです。 教会はイエス様の教会でなければなりませんでした。ですからイエス様は新しい土台をお建てになったのです。 この土台はイエス様ご自身です。ペテロはイエス様にはっきりと「あなたこそ生きる神の子キリストです。」と申し上げました。 教会がイエス様の教会でなければならないのなら、その教会は肉の欲によらず、秩序によらず、人の欲にもよらず、ただ主なる神によって生まれたものでなければならないはずです。 したがって教会は決してひとつの組織であるべきではないはずです。 人間はひとつのクラブを作ってそこで聖書を学ぶことはできますが、それは決してイエス様のからだなる教会とは言えません。 教会は主なる神によって生まれたひとつの生きた有機体であるべきです。 伝道や人の力によって生まれ、人の努力、この世の力によって支えられている教会は本当の教会とは言えないわけです。 「あなたは、生きる神の子キリストです。」、このペテロの告白は教会の秘密を解く鍵のようなことばです。このことばは教会のかしらが主イエス様であることを言い表わしています。 教会のかしらであるイエス様は上から来られたお方ですから、主イエス様のからだである教会も上から生まれたものでなければならないことは、いうまでもありません。教会という意味はこの世から召し出されたものという意味です。 したがって教会はこの世に関わりをもち、興味をもってよいはずがありません。 教会を建て上げていくためにここまで、一番目として、新しい土台が必要であることを述べてきましたが、第二番目、十字架がどうしても必要であることを考えるべきです。 ピリポ・カイザリヤの地方は、地理的に今話したように首都から一番離れている地方であるだけではなく、霊的にもひとつの意味があります。 イエス様はこの地方で初めてご自分が十字架にお架かりになることを明らかにされました。21節を読むとわかりますね。 マタイの福音書16:21
とあります。どのようにしてイエス様はご自分の教会を建て上げられていかなければならなかったのでしょう。 多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえるとイエス様ご自身が言われたのです。 イエス様とともに教会を打ち建てるために働こうとする者は、教会を打ち立てるためにイエス様は死に渡されなければならなかったということを知らなければならない。 イエス様はご自分のいのちを捨てて初めて、教会を打ち建てることができました。 ですからイエス様とともに十字架につけられた者だけが、イエス様とともに働く者となることができると言えましょう。 人間の努力をもって新約聖書の教会をよく考え、構想を練ることが教会を打ち建てるためにまず大切なことではありません。 何にもまさって大切なのは、イエス様とともに十字架につけられて、この身が死に渡されるということです。 私たちはパウロと等しく、「私はキリストとともに十字架につけられた。生きているのはもはや私ではなくキリストが私のうちにあって生きるのである。」と言えるようにならなければなりません。 イエス様の教会を建て上げるために必要なのはいわゆるご奉仕ではなく、十字架を背負って主に従うことです。 マタイの福音書16:24
イエス様は決して強制なさいません、ついて来たいと思えば。来たくなければ結構です。けど必ず後悔します。 いつ教会が打ち建てられるのでしょうか。それは人々が、私たちが、主のみこころは何であるかを知り、このためにはどんなに病んでも、苦しんでも、誤解されてもよいと覚悟を決めるときに、主はご自分の教会を建て上げられるようになります。 多くの人々は熱心に主のために働く、仕えようとしますけど、わたしはわたしの教会を建てると言われる主のみこころを深く知っていないとはひとつの辟易と言わなければならないのではないでしょうか。 またある人々は喜んで真理を宣べ伝えますが、主イエス様の十字架を担って、イエス様にどこまでも従おうといたしません。 「収穫は多いが働き手は少ない。」と確かに書かれてますけど、今ある第一番の悩みは、働き人の少ないことではなく、働き人の数より質が問題です。 イエス様はご自分の教会の土台を据えるために死に渡りました。私たちは主とともに十字架につけられ、すべてを主に明け渡すとき初めて、主とともに主の教会を建てることができるのです。 イエス様は決して、「わたしはひとつの教会を建てよう。」とは言われなかったのです。「わたしはわたしの教会を建てよう。」と言われたのです。 イエス様は、私たちが主イエス様とともに教会を打ち建てる仕事にあたることを許してくださいましたけど、その教会をいかなる人間も自分のものとして使用することは許され得ません。 イエス様の教会はあくまでイエス様の教会であり、所有権はイエス様にあります。 イエス様はご自分の教会をひとつの団体のために、ひとつの組織のために、ひとつの国民のために建てようとは言われなかったのです。 イエス様はご自分のために教会をお建てになります。 多くの人々は、「私は主のために働いてる。」、「教会の責任をもってる。」と言いますが、人間は教会を主に与えることはできない。 イエス様はご自分の教会を、ご自分がご自分に迎えると言われます。 エペソ人への手紙の5章27節を見ると次のように書かれてます。 エペソ人への手紙5:27
教会の所有権はひとつの組織、ひとつの国民にはありません。教会はただイエス様のものです。 教会は、ある宣教師、ある牧師のものではない。隅から隅まで主のものです。 教会は聖霊の宮。主なる神の住まい。御子イエスの花嫁であるとあります。 もう一ヶ所見てみましょうか。テモテへの手紙第Iの3章。パウロの教え子であるテモテに書いた手紙の中の大切なことばです。 テモテへの手紙第I、3:15
このことばを読むと、私たちにとって大切なのはどのように教会を導くか、どのように教会を治めるか、どのように教会を助けるかなどということではなく、自分自身主の家でいかなる生活を送るべきかが大切であるということがよくわかります。 教会は神の家であり、主なる神ご自身がそこに住んでおられると書いてあります。 教会は隅々まで主のものです。したがって教会を支配し給もうお方はイエス様だけであるべきです。 イエス様は教会のお客様ではなく、教会のかしらであり、支配者であり、したがって教会はイエス様のみこころを行ない、主イエス様の願いを満たしていかなければならないはずのものです。 ここまでどうしても知らなければならない三つのことをともに学んできました。 その一番目は、教会の土台は伝統や組織ではなく、新しい土台、主イエス様ご自身であることを見てきました。 教会のかしらであるイエス様は天から来られましたから、からだである教会も上から生まれたものでなければならない。教会は天的な有機体として地のものとは何の関わりももたないものです。 次に二番目に、教会はキリストとともに死に、日々イエス様の十字架を担って、主イエス様にだけ従っていく者だけがこの教会の建設のみわざに参加することができるということも見てきました。 三番目に、教会の特徴はイエス様だけがご支配なさるべきである。私たちの場合もある人、ある組織、ある団体、教派のものではなく、隅から隅まで主イエス様のものであるべきはずです。 今まで私たちはこういうふうに三つの大切な点について考えてまいりましたが、今度は第二番目になりますけども、その大切な質問について考えたいと思います。 すなわち私たちはイエス様とともに働く者なのでしょうか。それともイエス様の働きを妨げる者なのでしょうか。このことについてちょっと考えたいと思うんです。 イエス様は、「わたしは、わたしの教会を建てよう。」と言われたのです。 主だけがこの霊の宮を建てることがおできになるお方です。どんな人間もこれを建てることはできません。 私たちは主とともに働くことができますけど、優先権は常に主にあるべきです。 人間は自分の思い通りに、「ここ、あそこの教会を建てよう。」ということはできません。パウロでさえも自分で教会を作ることはできなかったのです。 ご存知のように彼はタルソの町に生まれましたが、この町は大きな都市でした。 パウロはこの町でも証しし、伝道したに違いない。人間的な考えではこの生まれ故郷に教会を打ち建てたかったに違いない。 けどパウロはやがてバルナバに導かれて、タルソからアンテオケに行き、そこですばらしい教会を打ち建てることができました。 もちろん主がお働きになったのですが、これを見ましてもパウロは自分がどこで働くかということさえ、主の導きによらなければならなかったのであり、自分は好きなところを選ぶことはできなかったのです。 パウロは主のご目的とご予定をよく知っていました。イエス様がご自分で、ご自分の教会をお建てになることを確信したのです。 だからパウロは主にその身を任せ、導いていただく。「われもはや生きるにあらず。キリスト、われうちにありて生きるなり。」という態度を取り続けたのです。 私たちもパウロと同じように主とともに働く者となりたいものです。 もしイエス様のみわざの邪魔をし、用いられないような状態になったら、まことに悲しむべきこと、わざわいと言わなければならない。 主の御手を縛り、主のわざを妨げる三つのことがあります。 第一番目。自己中心な霊。 第二番目。ふたつに分かたれた霊。 第三番目。狭い心、狭い頼りない霊です。 まず、自己中心の霊について考えたいと思います。 イエス様は、「あなたを建て上げる。」とは言われなかったのです。「わたしは、わたしの教会を建てよう。」と言われました。 もちろんイエス様はわれわれを祝福してくださいますけど、それはほかの人々に私たちを通して祝福が及ぶための祝福です。 もし私たちが自分たちだけの祝福だけを願い求めるならば、それはイエス様の教会を打ち建てようとなさる、その御手を縛り、主のみわざを妨げることになります。 主イエス様が、「わたしは、わたしの教会を建てよう。」と言われたとき、すでにペテロはそのとき、イエス様のみわざを妨げようとした。ペテロは自分のことばっかりを考えていました。 イエス様が十字架に行かなければならないと言われたとき、もしイエス様が十字架で亡くなられたなら、自分も困ってしまう。そこでイエス様に十字架へは架からないでくださいと頼みました。 このようにペテロは自分のことを中心に考えることにより、イエス様のみわざを妨げてしまう結果になったのです。 二番目。ふたつに分かたれた霊も主のみわざを妨げます。 妥協することなく主に従わなければなりません。主の恵みによって導かれ、救われた人々は互いに平和の紐をもって結ばれ、愛の交わりがなければ教会は建っていきません。 これは決して容易なことではありません。本当の愛をもつことは大変です。 けど私たちは自らのむずかしいことに目を留めず、主の恵みがそれを成してくださることに目を留めていきたいものです。 いわゆる一致を図るために真理を曲げることはできません。主のみこころと反対の思いをもってる人々と妥協してまで交わっていくこともできません。 けど、どのように真理のためでも兄弟姉妹に対して愛のない立場をとってはなりません。たとえ、ほかの兄弟姉妹が自分の考えと違う考えをもっていても、その人の上に立ってその人をさばくようなことがあってはなりません。 絶えず愛をもって、平和の絆をもって、ひとつの霊に結ばれていかなければなりません。これがまことの愛であり、この愛なくしてイエス様の教会は建っていきません。 教会を建て上げていくことは決して簡単なことではありません。 主のみざわを妨げるものは今言いましたように、自己中心の霊であり、ふたつに分かれた霊であり、第三番目、狭い心、狭い頼りない霊です。 狭い霊はイエス様の教会を建て上げる邪魔になります。 主の目はあまねく各教会を見回し、ご自分の教会を建てようとなさっておられますが、主イエス様は、「わたしは、わたしの多くの教会を建てよう。」とは言われなかったのです。 「わたしは、わたしの教会を建てよう。」と。一つの教会を建てると願っておられるのです。 この主イエス様の言われる一つの教会はいうまでもなく世界的なものです。 ある人は日本の教会を建てようと考えてます。そして日本人でない者は外人として日本の教会から締め出そうとする人々もいます。 これらの人々は、日本の教会は日本人が責任を取るべきだと考えますが、これらの人々の教会はある特定の国民のものでも、個人のものでも、団体のものでもなく、教会はただ主イエス様のものであることをまったく知らない人々です。 もしまことの教会が何であるか、心の目で見ることができなければ、主のまことの働き人とはなることができません。 狭い霊は主イエス様の御手を縛り、その働きを妨げます。 三つの点についていっしょに考えてみようと言いましたが、今まで三つの大切な点、そして重要な質問について考えました。最後に必要な材料について考えてみましょう。 教会を建てるためにはどのような材料を使ったらよいのでしょうか。それはペテロのような男を使う必要があります。 イエス様はペテロに、「あなたはペテロである。」と言われ、すぐそのあとで、「わたしは、わたしの教会を建てよう。」と言われたのです。 ペテロは上よりの光によって、上からの啓示によって主イエス様がどのようなお方であるかを教えられ、ペテロという人間は変えられていきました。 ペテロのように上よりの啓示によって主イエス様を知った人々を、主は教会を建てる材料としてお用いになることができるのです。 聖書は言ってます。 マタイの福音書16:17
主イエス様はペテロをいつもヨナの子シモンと呼んでおられたのです。 ペテロのお父さんはバルヨナだったんですけど、バルヨナはどんな人だったのでしょうか。だれもわからない。 聖書はこのペテロのお父さんについて何にも教えていません。ですからそれを知ってる者はだれもいない。シモンはだれも知らない、知られていない人の子ですから、名もない人でした。 イエス様は、このような取柄のない人を教会を建てるためにお用いになります。 イエス様は、シモンが生まれつきの力をもって主のみわざを助けるところが、主のみわざの妨げになるので、彼を召し出すことができませんでした。 主イエス様はペテロの生まれながらの人を見ないで、このダメなペテロをご自分の恵みによって造り変えることができることを、よく知っておられたのでペテロを選んだのです。 シモンはバルヨナの子シモンのままではいませんでした。やがて彼は変えられ、主に「汝はペテロである。」と呼ばれるようになったのです。 ペテロはキリストにある新しい人間に生まれ変わりました。 ペテロは主イエス様に、「あなたは生きる神の子キリストです。」と言いました。 けどイエス様は彼に向かって、「わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。」と言われたのです。 人の心はイエス様を知ることによって変えられていきます。 イエス様は私たちのためにどのようなお方であるか、また私たちのうちにどのようなみわざをなさるお方であるかを知り、それに基づいて歩んで行くなら、そのような人を主イエス様は教会を建てる材料としてお用いになることができます。 もう一度、イエス様はどのような人を教会を建てる材料としてお用いになることができるのでしょうか。 イエス様はペテロのような人を教会を建てるために用いられるのです。「あなたはペテロである。わたしは、わたしの教会を建てよう。」 ペテロのような人とは、堅く立って動かされない人です。それから強い人です。また、霊的な人です。 シモンのような男が主の恵みによってペテロと呼ばれる男に変えられました。ペテロという意味は岩ですが、岩のように文字通り動くことのない者に彼は変えられたのです。 教会を建てるためには、ペテロのようにはっきりとした立場を取る、動かされることのない性格の持ち主が必要です。 ペテロはかつて海の砂のように定まりのない、信頼のおけない人物でした。 あるときには主を思い、その次の瞬間には主から目を離し、人のことを思う、そういう男でした。前に読みました個所、 マタイの福音書16:23
主イエス様は、彼に「バルヨナ・シモン。あなたは幸いである。あなたにこのことを現わしたのは血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」と言われた直後、「サタンよ。引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言わなければならないような定まりのない男でした。 天よりの啓示によって、神の子を知らせた直後、もうサタンの手に用いられるといった有り様でした。 これは彼の性格が弱く、まことに信頼のおけない人物であったことを表わしてるのではないでしょうか。 このシモンはいったいどうしてペテロのような経験を通して変えられたのでしょうか。これは十字架と五旬節の経験を通して、まったく変えられたからです。 われわれの生まれながらの人間は、本質的にはこういう性質をもってます。その人のもってる一番弱い性質ですが、教会を建て上げるご奉仕には何の役にも立ちません。 私たちはパウロのように、「生きてるのはもはや私ではない。キリストがわたしのうちに生きているのである。」というように、心から言えればやっぱり主は用いられるようになります。 全生涯を御霊のご支配のうちにゆだねると用いられるようになります。これこそがペテロの経験でした。 イエス様は五旬節の経験をしていない弟子たちに、ご自分をすべて任せることがおできにならなかったのです。 ですから弟子たちに、自分がキリストであることをだれにも言ってはいかんと言われたのです。 マタイの福音書16:20
とあります。弟子たちは信頼のおけない自己中心的な人々ばっかりでした。 私たちはどういうふうにしたら信頼のおける、堅く立った者になることができるのでしょうか。 マタイの福音書16:24
ペテロは十字架と五旬節を通して初めて、岩のように動くことのない者になりました。 ペテロは自分で自分を、ペテロ、岩とは呼びませんでした。この名前は、主自ら付けてもらった名前です。自分でどんなに努力しても自らを信頼のおける人間にすることはできません。 マタイの福音書26:33-35
マタイの福音書26:73-74
主イエス様は自ら、シモンにペテロという名前をお付けになり、そうすることにより、ご自分がより揺るぎやすいシモンを岩のように動かない者に造り変えることができることをお教えになったのです。 ペテロの名前だけでなく、その性質が変えられました。これを経験した者を通して主は教会をお建てになるのです。 生まれながらの弱い性質をもったままにとどまっている人は、主のみわざを妨げ、主の御手を縛ってしまいます。 十字架により自己から解き放たれ、聖霊のご支配に身を任せた人々だけを主はご自分の教会を建てるためにお用いになります。 もし私たちがこのように造り変えられていかなければ、われわれの交わりはひとつのクラブにとどまり、決して教会とはなっていかないでしょう。 ペテロのような人は今話したように、堅く立って動かされない人であり、第二番目、すごい人です。 岩のもうひとつの特徴は強いということです。パウロはエペソ人への手紙に、 エペソ人への手紙3:16
祈ってます。 もし私たちが主のみこころにかなった教会でありたいと思うなら、私たちには主よりの強さが必要です。 シモンはこの主なる神の強さをもっていました。ペテロはまったく主に従おうと決心したそのとき、反対のことをしてしまったのです。イエス様を三度も否んでしまいました。 ペテロ自体そんなに弱い男ではありませんでしたけど、ペテロを引き止め、落とそうとする悪魔の力に対抗するためには、十分な強さをもっていなかったのです。 五旬節のあとも、同じく悪魔の力は強く働きましたが、主イエス様は約束どおり、よみに打ち勝つ教会を打ち建てられました。 この戦いは今日まで続いています。私たちはともにひとつになって、心を合わせて生活し、主にこれこそまことの教会であると認められるような教会に建て上げられていきたいものです。 イエス様が私たちを十字架と御霊により強い人としてくださったら、本当に幸いです。 ペテロのような人とは今話したように、堅く立って動かされない人であり、二番目、強い人であり、最後に第三番目ですけど、霊的な人です。 コリント人への手紙第Iの10章の4節を見ると、霊の岩について書かれています。岩は霊であるとも書かれています。 ペテロは肉につける信者から霊的な信者に変えられるという段階を取らなければならなかったんです。 ペテロは人間の思いでことをなそうとしたとき、イエス様に邪魔者と言われました。 主イエス様の教会は霊の家です。ペテロの手紙第Iの2章5節を見ると、この表現が使われています。 ペテロの手紙第I、2:5
教会は霊の家である以上、それに連なる信者もみな霊的であるべきはずです。 多くの人々は、霊的とはどういうことであるか正しく理解しないかもしれない。何か漠然としたものを考えてるようです。これはもちろん誤りです。 イエス様は霊的なお方でした。すなわちイエス様は心にあることをそのまま口に出し、説教されたことを身をもって成していかれました。 イエス様は、父なる神のみこころは、私たちが口先でなく、身をもってみことばに、恵みに従順に従うことであることを自ら身をもって教えられたのです。 イエス様が建て上げようとなさっておられるまことの教会は、兄弟姉妹が心をひとつにしてともに礼拝し、祈る人々を見ます。このためにはそれに連なる主体である信者ひとりひとりが霊的でなければならないことはいうまでもありません。 同じ霊、同じいのち、同じ思いをもって御栄えのために心を用いていくものでなければならないということです。 したがって、イエス様の教会を建て上げていくことは、第一に内面的な、霊的なことがらであり、外面的な形は第二、第三の問題であるべきです。 兄弟姉妹は御霊に満たされ、日々主の御形に似せられていくことがまず大切です。このような者になりたいものです。 主の御霊に満たされ、主の御形に似せられた教会になりたいものです。 そしてイエス様のからだの一部として、私たちひとりひとりがイエス様のからだに欠けたところのなくなるまでに満たしていきたいものです。 |