引用聖句:マルコの福音書4章1節-20節
今も司会の兄弟が病気のことを証しされたけど、主から受け取っているから本当に有り難い。 そして今日からこの兄姉のことよく覚えて祈ってくれるでしょう。 今日はね、「みことばを聞く大切さ」について一緒に考えてみたいと思います。 みことばに対する態度は、イエス様に対する態度です。 イエス様のひとつの名前は「神のことば」です。みことばを大切にしない人は、イエス様を大切にしない人です。 イエス様は確かに何でもできるらしいけど、違う。聞く耳を持っていなければ、主は語ろうとはしない。やめます。 マルコの福音書1:22
確かに、イエス様は偉大なる比類ないお方です。イエス様は、誰にでもわかるような言葉を用いて、最も深い真理を人々に語られたのです。 霊的な真理をお語りになる時に、よくたとえ話をもってお語りになりました。 そしてそのたとえ話は、大自然の中から、あるいは日々の生活の中からその素材を採られたのです。 今、司会の兄弟の読んで下さった箇所から、3つの点に分けてちょっと考えてみたいと思います。 第1番目は、1−9節まで、種まきのたとえが書かれています。4種類の土があります。第1番目は、道ばた。第2番目は、岩地。第3番目は、茨の中。第4番目は、良い地です。 それから10−13節までは、たとえの奥義について書き記されています。そして、14−21節まで、たとえの意味について書き記されています。結局、4種類の人々が出てきます。 第1番目は、いわゆる聖書学者たち。当時の宗教家たちです。彼らの特徴は、頑固で頑な心を持つことでした。聞いてもわかろうとしない人々です。結局、聴く耳を持っていなかったのは聖書学者でした。 第2番目は、やじうまです。感情的で動揺しやすい人々でした。聞いても従おうとしない。 第3番目は、いわゆる民衆でした。この世に執着し、支配されている人々だったのです。聞いても身にならない。 第4番目の弟子達とは、おもにすべてを捨ててイエス様に従うようになった弟子達です。彼らは主に対して、心開く従う用意のある人々でした。そして、聞いた結果として実を結ぶ者になったのです。 イエス様は、ここではお百姓さんの生活からたとえ話の素材を採られました。 そして、イエス様は土地には4種類の土があることを示されました。 第1の土地は道ばたです。道は、人々や車の往来で踏み固められており、種は土に入ることができない。 第2番目の土地とは岩地です。岩地には土が表面にごく薄くあるだけなので、太陽が照り続くと、その土地はからからにに乾いてしまいます。根を出しても、深く根を下ろすことができません。 第3の土地は茨の生えた土地です。茨は、ほかの植物の上に覆うようにして育ちます。それ故、ほかの植物は生長を妨げられて実を結ぶことができません。 けども第4の土地は良い地です。この地に落ちた種は、よく耕やかされた肥沃な土地で、芽を出し成長するだけではなくて、多くの実を結ぶことができます。 種をまく人は同じです。蒔かれる種も同じです。けど、その種が蒔かれる土地によって、蒔かれた種の運命は定められるのであります。 種まきには、2つの責任があるでしょうね。2つのことが要求されています。まず種をまかなければならない。第2番目は、良い種を選んでまかなければならない。そういう責任です。 種まきにおいて、種をまく人と種とどちらが大切でしょうかね。種をまく人が未熟であっても、良い種をまくことはできる。だから種のほうが、それをまく人よりもずっと大切です。 イエス様はこのたとえ話しを、実例として語られたのではありません。このたとえ話しについて、一言も解説を付け加えようとはなさらなかったのです。 イエス様は、突然口を閉ざされたので、弟子達はいったいどういうことか奇妙なことに思えたことでしょう。 だから彼らは、イエス様にこのたとえの意味について尋ねたのです。10節から13節までです。 イエス様の答えとはどういうものであったかと言いますと、私は意識的に奥義を隠して、たとえ話しを話したとおっしゃいました。 それからイエス様は、10節から13節まで、神の国の奥義について述べられたのです。なぜ、イエス様はたとえ話しで語られたのでしょうか。 たとえ話しで語られた目的と理由はどこにあったのでしょうか。 イエス様はその宣教の初期においては、福音の真理を誰にでもわかるように、あからさまに語られたのです。 イエス様は、福音の真理をはっきりと啓示なさいました。 それを聞いた人々は、イエス様を救い主として受け入れるか、拒否するかのどちらかの態度をすぐにとったのです。 多くの人々は光を愛してイエス様のもとに来ましたが、光よりも闇を愛してイエス様のもとを去った者もいました。 真理を聞く者は、いつでもそれを受け入れるか拒むかの選択を迫られます。 救いを必要としている人は、イエス様のもとに来て助けを求めます。けれども、当時の聖書学者たちは違う態度をとりました。イエス様のみことばに反対し、民衆はひとつの結果として、みことばに対して無関心になりました。 当時、2種類の人々がいました。今日も同じですけど...。救いを必要としていることを自覚している人々は、まだ自分には救いが必要とないと思い込んでいる人々です。 第1の人々は、イエス様に対して心の開かれた人々であり、第2の人々は、主を拒んだ人々でした。 イエス様に対して心を開く者は、心の目が開かれて、救いを自分のものとすることになります。けどもイエス様を拒む者は、知性を暗くされ、なんにも持たない者、救いも喜びも、希望も感謝も持たない者になってしまうのです。 イエス様は、聞く者の大部分が恵みだけを期待して集っていることを悟った時から、みことばを、たとえを通してお語りになるようになりました。 彼らは、イエス様によって癒されることだけを望んでいたのであり、魂の救いを、本物を求めていなかったからです。 悔い改めたくない者は、神の国の奥義について理解する必要はない。ですからイエス様はたとえで話しをされました。 また、イエス様を切実に求める気持ちを持たない人々は、理解する必要がありません。みことばを理解したいと思う人だけが、イエス様に、たとえの意味について尋ね求めることができたのです。 弟子達は、みことばを理解したいと本当に願いました。それ故、イエス様にその意味について尋ねました。それ故、イエス様は、弟子達にだけたとえの意味を話されたのであります。 たとえの意味について前に話されたように、14節から20節までに書き記されています。ここでイエス様をみことばを聞く人々の中に4種類の人々がいると言われました。 4種類の人々の中で最初は、当時の比較的に立派な生活を送った聖書学者でした。 けれども彼らは頑固で、頑な心を持つ者でした。聞いてもわかろうとしなかったのです。 マルコの福音書3:5-6
結局、わかろうとしなかった。聞く耳を持っていなかったのです。これらの人々は、道のように固く無関心な人々でした。 第2の人々は、いわゆる野次馬をさします。 マルコの福音書3:34-35
野次馬の特徴は、聞くには聞くが行わないことです。 ヨハネの福音書6:60、66
この人々の特徴は、感情に左右されやすく、動揺しやすいことです。 第3番目のグループは多くの民衆たちです。 マルコの福音書1:22、1:27、2:12、3:8
これらの人々の特徴は、主のみことばに耳を傾け、それを喜んで受け入れるが実を結ぶには至らない人々です。 なぜならば彼らは、この世の事柄に心が支配されており、この世の事柄を大切にし過ぎているからです。 4つ目のグループは、イエス様に対して心を開いて、みことばを受け入れる人々です。彼らは弟子達であり、病いを癒された病人たちであり、多くの婦人たちがその中にいました。 マルコの福音書1:18
一番、今までに大切だった「網」を捨てちゃったのです。 マルコの福音書2:14
まかれた種とは、主のみことばをさしています。 前に読んでもらったマルコの福音書4章の4節から8節までは、種が落ちた、種が落ちたと言う表現が使われています。そして、15節から20節まで見ると、それに対して、みことばを聞く、みことばを聞くと言う言葉が繰り返し使われています。 まかれる種は神のみことばであり、それはいうまでもなく良いものです。けれども、そのまかれたみことばに対して、ひとりひとりがどのような態度をとるかが、大切な事柄になります。 ちょっと、みことばの働きについて考えたいと思います。 みことばは、次の7つのものに例えられるのではないかと思います。 イエス様がみこばを伝えた結果、いろいろな結果があったのです。 ヨハネの福音書6:63、66-69
詩篇の作者は、みことばについて次のように書いたのです。 詩篇107:20
ここで、みことばの替わりに「主イエス」と入れてもいいのではないでしょうか。 みことばは救う力を持つものです。けれども、みことばの働きとはいったいどう言うものなのでしょうか。今話したように、7つのものに例えられています。 第1番目、みことばとは鏡のようなものだそうです。ヤコブは、この鏡について次のように書いたのであります。 ヤコブの手紙1:23-24
主のみことばが、人々の心を映す鏡として用いられるなら、それは、その人が救いを必要とする存在であることを悟らせ、その人が救いを求めて救いに預かる者になります。 ヤコブの手紙1:21
第2番目に、みことばは炎のようなものであると聖書は言っています。清める力を持つものです。 エペソ人への手紙5:26
エレミヤ書23:29
主のみことばを自分に働かせるものは、火が金を精錬するように、みことばによって自分自身の心が清められるのです。 第3番目に、みことばは金槌のようなものであると聖書は言っています。 エレミヤ書23:29
みことばを自分自身の魂に対して働かせる者は、自由になります。解放を経験します。 ヨハネの福音書11:44
ラザロは、イエス様によって確かに甦らされました。しかし、彼はなお包帯によって縛られて、自由がきかない身でした。やっぱり自由にならなければならなかったのです。 ガラテヤの信者たちは、このラザロに似ている者でした。彼らの霊的な状態は、同じようなものでした。 ガラテヤ人への手紙5:1
パウロは、この解放の体験を持っていました。 ローマ人への手紙8:2
人は神の言葉を金槌のように用いて、自分の魂を捕らわれている枷から解放することができるのです。 第4番目に、神のみことばは食べ物です。どうしても必要な食べ物です。エレミヤはこれを経験しました。 「私は、あなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。」、わかったんじゃない。食べただけなんです。 エレミヤ書15:16
喜ぼうと思えば、みことばを食べなさい。必ず元気になる。 主のみことばを自分自身の心の中に受け入れる者は、主の霊がその人の心のうちに住んでいてくださり、その人には絶えざる魂の喜びが与えられます。 だからパウロは、コロサイにいる人々に励ましたのです。 コロサイ人への手紙3:16
主のみことばは食べ物であり、この食べ物を食べると本当に心から賛美することができ感謝に満たされます。 第5番目に、神のみことばは光です。詩篇の作者であるダビデは次のように記しました。 詩篇119:105
この光がなければ、迷うことばかりです。 第6番目に、神のみことばは剣です。 エペソ人への手紙6:17
この剣の働きとは、本当に考えられないものです。ヘブル人への手紙の次の箇所はよく引用される大切な言葉です。 ヘブル人への手紙4:12
この人間の魂、人間の理解力、人間の感情、人間の意志を霊から切り離すことは非常に大切です。主のみことばの剣は、そのことを成し遂げることができます。 このように主のみことばを用いることは、時として苦痛を伴うでしょう。でも為さなければならないことです。すなわち私たちの思いではなくて、あなたの御心、あなたの思いだけがなるように。 もうひとつ、神のみことばは真理そのものです。イエス様は祈りの中で告白しました。 ヨハネの福音書17:17
みことばを受け入れる者は、新しく作られた者になります。 人間は誰でも心の拠り所、心の平安、人生の内容、目的、そして生き生きとした希望を持つ必要があります。けどこういうものは、ただ聖書を通してのみ与えられます。 どうしてでしょうか。なぜなら主なる神のみことばである聖書は、回心の種であるからです。 ヤコブの手紙1:18
ペテロも同じことを書いたのです。 ペテロの手紙第I、1:23
イエス様も、みことばの大切さについて多くのことを言われました。たとえば、 ヨハネの福音書5:39-40
この、みこばを日々の糧として味わうことを知らない信者は、本当に気の毒です。 主のみことばによって、私たちは主ご自身をよりよく知ることができるようになります。主のみことばによって、悪魔に対して勝利を得ることができます。 さらに、主のみことばによって人々を救いへと導くことができるのです。 今まで私たちは、3つの点について考えて参りましたね。第1番目は、種まきのたとえ。第2番目は、たとての奥義。第3番目は、たとえの意味について。 もうちょっと、4種類の聞き手、4種類の土地について考えてみたいと思います。 前に言いましたように、第1番目の人々は道ばたに例えられている人々です。彼らは頑固で頑な人々です。彼らは聞いても理解することができない。悔い改めたくないからです。正直になろうとしないからです。 マルコの福音書4:15
主のみことばはちょうど道ばたのように固く、頑なな心には入ることができません。彼らは、主の招きに対して、頑固に拒み続けます。 彼らは、光の中に出て悔い改めたいという気持ちが全くない。悔い改めを望まない人は、その罰として主のみことばを理解する力を奪われます。 このような人々は、心の奥底から理解したいという気持ちを持ちませんから、理解することができない。ですから、このような人を悪魔は、種を奪う鳥のようにねらって働きます。 これは具体的には主のみことばを批判し、みことばを疑い、偏見を持つことによってみことばを退けてしまうことです。 このような人々の特徴は、みことばに対する無関心であり、みことばについて深く考えることもなく、聞いたみことばをすぐに忘れてしまいます。 ルカの福音書8:12
これらの人々は救いの福音を聞いても、悔い改めて主の恵みに預かることを望みません。みことばが働くことができなければ、救われるチャンスがありません。 第2の人々は、マルコの福音書4章16−17節に書かれてありますように、みことばを聞いて受け入れ、けど実行しない人です。 その人はみことばを喜んで受け入れますけど、みことばはその人の生活、その人の石にまで根を下ろすことはできない。 ルカの福音書8:13
マタイの福音書8:19
この律法学者は、感激のあまりこのように言ったのです。実際には従いませんでした。 しばしば、はじめのうちは模範的な出発をする人はいますが、迫害や困難に出会う時に、すぐ崩れてしまう人がいます。これは、根を下ろすことができなったからです。 このような実例が、聖書には本当にたくさん出てきます。たとえば、 エゼキエル書33:31
結局、「従うのは嫌です。」 ルカの福音書6:49
ヨハネの福音書6:66
これらの言葉を喜んで受け入れ、そのみことばは彼らの心の中で芽を出しますが、それを見て種をまく人は大いに喜びますけど、しばらくするとその喜びは失望に変わるのです。 みことばの根が、土が浅いがために深く根を下ろすことができません。それ故、困難や迫害に耐えることができないのです。 ルカの福音書8:13
みことばを受け入れ、心に受け入れることは信仰生活の第一歩に過ぎないのです。根がないために、それは長く持たずに遅かれ速かれ涸れてしまいます。これらの人々は、はっきりと主の側にたって証し人としての態度をとらない人々です。 主のみことばはただ単に、受け入れられるだけではなくて、忍耐を持って守らなければならないものです。 誰でもが問題をかかえていたり、困難に突き当たったりするのですけど、そのことによって実は、私たちの信仰が試されているのです。 私たちは、経験したことがあります。熱心に求めて、喜んでみことばを受け入れ、従って行こうと決心した方々が、突然私たちの喜びの集いにも、集会にも出席しなくなり、さらには主から全く離れてしまう人々がいます。 このルカの福音書8章13節によれば、彼らはしばらくは信じていたと書いてあります。このような人々も、同様に芽を出してもその信仰生活が途中で挫折してしまう人々です。 いろいろな試練が与えられた時、試みに屈して信仰を失うならば、その人にとって主のみことばは力を現すことはできません。ペテロは、ペテロの手紙第IIの中で書きました。 ペテロの手紙第II、2:21
実際このような方々は、みことばを聞いて救われる人々ではなく裁かれる人々であります。 第3の人々について、マルコの福音書4章18、19節から、学ぶことができます。 マルコの福音書4:18-19
ルカの福音書8:14
第3の人々は、第2の人々よりも信仰が持続しますが、最終的には御霊の実を結ぶことができない人々です。 彼らにとってこの世の事柄がたいへん大きな部分をしめているのです。彼らは仕事の鬼であり、この世の事柄に支配されているのです。 3つの事柄が、彼らが実を結ぶことを妨げています。世の心遣いであり、富であり、欲望です。 彼らはみことばを受け入れるにもかかわらず、彼らの心の中にあるこの世の思いを捨て去ることをしません。 主のみことばは、この世の思いの中では成長することができません。 これらの人々の特徴は、この世と妥協することであり、自分自身の思い煩いに満たされており、金を儲けることや欲望を満足させることに懸命になってる人々です。 ここで今まで、学びましたことを簡単に振り返ってみましょう。みことばに敵対するものは3つです。それらは、鳥であり、太陽の熱であり、いばらです。 鳥とは悪魔を指しており、悪魔は理解力を曇らされている人々からみことばを持ち去ってしまいます。太陽の熱とは人々の敵意です。そして人を恐れることは、信仰の成長にとってたいへんなマイナスになります。 いばらとはこの世の富のことであり、それらも私たちの心を誘います。つまり私たちの心に誘惑を与えるものは、悪魔であり、ほかの人々であり、わたしたち自身の心の中にあるものです。 第4の人々は、みことばを聞いて受け入れ、実を結ぶ人達です。良き地とは種がまかれるために準備が整えられており、よく耕やかされている土地のことです。 このような所にみことばがまかれるならば、その人の心は主に対して開いて、主のみを求める気持ちに満たされます。 ルカの福音書8:15
忍耐をもってみことばに留まり、みことばによってこの世の事柄の戦いをする人々でなければ、みことばによる実を結ぶことはできません。 わたしたちは、今まで4種類の人々について見てきましたが、私たち自身の心は、この4種類の中でどの土地であるのか考えるべきなのではないでしょうか。 私たちが、真剣に自分自身の心の状態を顧みてみるならば、私たちがみことばを聞いて受け入れない時もあり、受け入れてもつまずく時もあり、みことばを聞いて受け入れても、実を結ぶことがないことが往々にしてあることに気がつかざるを得ません。 つまり私たちの心の中には、これらの土地が、少しづつ入っていることを認めざるを得ないのではないでしょうか。 けどその中で、一番大きな部分を占めている土地はなんであるかということが大切です。 それは良い土地でしょうか。私たちは主のために仕えようとする心の用意ができており主のみを大切にしようという気持ちに満たされているのでしょうか。 みことばを聞いて受け入れることははじめに過ぎない。それは芽を出し、根を下ろし、実を結ぶに至らなければならない。この実というのは、すなわち聖書に書かれている救いそのものです。 ペテロの手紙第I、1:9
信仰の結果とは、たましいの救いのことです。 救いに至る信仰とは、みことばである種が十分に成長して実を結ぶに至る信仰のことです。 けど種が生長するためには、まず死ななくちゃならない。 ヨハネの福音書12:24
人が新しく生まれるに必要な新しい力を与えるものは、聖書です。神のみことばです。しかし喜んでみことばを受け入れても、回心にまで至らないこともあり得ることです。 母の胎に宿った幼い命は、必ず成長して出産にまで至るとは限りません。それは、途中で、流産する可能性もあるし、死産に終わることもあります。 それ故、主を求めておられる方々が、人間的な決断をするのではなく、本当に新しく生まれるということを体験しなければならないのではないでしょうか。 私たち人間に与えられている最高の宝物は、聖書です。世界1のばかは誰か。永遠に残る神のみことばに頼らない人です。 ですから、私たちがいつも覚えるべきこととは、「イエス様は神の言葉です。」 聖書も全く同じように神のみことばです。 みことばに頼ると心配から解放され、生きる希望に満たされ、前向き生活をすることができるのです。 みことばが与えられているから毎日感謝すべきなのではないでしょうか。 |