詩篇34篇1-10、15、17、22
入院されているある姉妹からEmailをもらいましたが、その中の一文章だけをお読みします。 「わたしの左目の視力が戻らず、足もなえていますが、どんなところにでも、楽しく喜べるようになりました。」、そういう文章を書く人とは、ちょっと頭がおしかうなちゃったか、本物を持っているかどちらかなのではないでしょうか。 「いろいろな病気を持っています、良くなる可能性はない、けども喜んでいる。楽しく喜べるようになった。」、本日の主題は、「主イエスに頼る者のしあわせ」です。 神のみことばである聖書が、本当に幸せであることが、あらゆる信じる者のための主のご計画であり、目標であるとはっきり言っています。 けどわたしたちは、しばしば不幸せなのではないでしょうか。イエス様との交わりはしばしば、われわれの悩みや自己中心によってにごってしまいます。 しばしばわたしたちは、喜びよりも意気消沈してしまいます。 そこで今日は、これから少しばかり、詩篇の34篇のみことばを、2箇所を取り出して考えてみたいと思います。 今、司会の兄弟に読んでいただいた、8節と22節です。 詩篇34:8、22
この2つの節のなかに、わたしたちはふたつの対立を見ます。 8節のなかでは、幸いという言葉が現れてくるのに対して、22節では、罪に定められないという言葉が出てきます。 もともと罪に定められることは、すべての不幸せの根本です。けど主に身を避ける者は、不幸せにとどまる必要は無いと、神のみことばは言っています。 「主に身を避ける者は、不幸せになることはない。」とあります。 まことの幸せの土台はなんでしょうかということから、次に考えてみたいと思います。 第一番目、主イエス様に頼る者の幸せの土台は、たえず父なる神に守られていることの土台です。たえず父なる神に守られていることを考えると、うれしくなります。 詩篇34:1
これは本当に幸せな人間の告白なのではないでしょうか。この節の中で、一番大切な単語は、「あらゆる」と「いつも」です。 もしここで、「たまに主をほめたたえる。私の口には、たまに主への賛美がある。」、みんな、そういうもんだと思うのではないでしょうか。 けどここで、「あらゆる」と、そして「いつも」と書かれています。 ダビデは、心からこう言うことができたのです。 「雨が降っても、太陽が出ても、私が、苦しみを持っていても、持っていなくても、意気消沈していても、高められても、わたしはあらゆる時に主を褒め称え、いつもわたしの口には主への賛美があります。 主はわたしの御在天の父であり、わたしの良いことだけを考えてくださいます。主は、わたしのために、計画してくださいます。主は、わたしの道を平らにしてくださいます。」 たとえ主が、逃れ道のない状態に置かれたとしても、私は、私を愛してくださる方の御手のうちにいるということを確信できる人は、幸せなのではないでしょうか。 「わたしは、こんな悩みを、なぜ経験しなければならないのでしょうか?」、確かにわからない。 けど、わたしは、主が、主のなさることをご存知ですと考えると楽になります。 そして主は無駄なことはなさらない。ひとつもなさらない。間違った計算も無計画も、主にはない。主は、私の最善を考えておられ、主は決して変わることはありません。 「私は、感じようが、感じまいが、主が私を愛しておられることを知っている。私は困難な導きを理解することができません。でもどうでも良い。主は私を贖ってくださり、決してお捨てにならない。」、これこそがダビデの確信でした。 イエス様を信じる者は、頼る者は、いつも喜ぶことができます。なぜならこの確信があるからです。 多くのキリスト者は言い表すことができないほど、困難な悩みを持っています。 多くの未信者の方は、はじめて集会に来ると、次のような思いを持つらしいのです。すなわち、「この人たちは、なんの問題もない、すべてがうまくいっている。この人たちは、苦しみも悩みも何にも知らない。だから、喜んでいられる。でも、この人たちも、私達を同じ悩みを持つようになれば、どうでしょうか?」 わたしたちは、このような感想が、非常に短絡的なものであることを知っています。 イエス様のために生きたいと思う兄弟姉妹は、誰でも苦しみと悩みを経験します。けれども、それにもかかわらず喜ぶことができます。その土台とは、いったい何なのでしょうか? イエス様に頼る者は、自分が天にいらっしゃる父の御手の中にいることを知っているから喜ぶことができるのです。 偶然は、何ひとつありません。主、ご自身がすべての背後に立っておられるのです。そして、主は私たちの最善を考えておられるのです。 人間的に考えるなら、わたしたちは不幸せである根拠を十分に持っています。喜び根拠はほとんどありません。なぜなら私達は、いろいろな問題や、未解決の状況に取り囲まれているからです。 すべてがうまくいけば、誰でも喜ぶことができます。それは容易なことです。でもすべてがうまくいかないときに、「なぜ、どうしてこんなことを経験しなければならないの?」 どうしても説明がつかないときに喜ぶことができるということは、人間の能力を越えていて、主の恵みの現れなのではないでしょうか。 イエス様が私を愛してくださる、私の人生を計画してくださる。故にすべてのことは益になる。この確信を持つことが、大切なのではないでしょうか? ローマ人への手紙8:28
原語を見ると、「知っています。」は、「確信を持っています。」と表現できます。 初代教会の人はこの確信を持っていました。ですからたえず喜んでいますと言うことができたのです。この確信は誰も奪い取ることができません。 ヨブ記のヨブもまた、考えられない悩みに遭いました。けれども彼は、次のように告白することができました。 ヨブ記13:15
主イエスに頼る者は、いつも私の最善を考えてくださる父なる神を知っているから、喜ぶことができるのです。 パウロとシラスは、素晴らしい仕方で、主の器として用いられました。彼らはただ、主の御栄光だけを考えていました。 失われた者たちが救われるということは、一刻たりとも彼らを休ませませんでした。 けれども、彼らは、罪がないのに刑務所に入れられました。背中から血が流れ、足かせにつながれたにもかかわらず、彼は主を賛美しました。 真夜中ころ、何一つ希望の光が見えず、全く逃れ道がない状態の中で、彼らは主に感謝したのです。 なぜ彼らはそんなことができたのでしょうか?彼らは、主がなさり、許しておられることを必ず主がご存知であると、確信したからです。 主は、わたしが今何もわかならい特定の目標を追及しておられる。けどいつか必ず、私達は主に感謝するでしょう。 主に頼る者の喜びが本物です。主に頼る者の喜びは、外部の事情に関係ありません。 ペテロの手紙第Iの中で、当時の信じる者を励ますために、ペテロは次のように書いたのです。 ペテロの手紙第I、4:14
同情すべきなのでもない、かわいそうなのでもない、幸せ。なぜなら栄光がとどまるから。 さて第二番目の点、すなわち主イエス様に頼る者の土台は、あらゆる不安が取り除かれているからです。 詩篇の34篇にもどります。 詩篇34:4
この節における最も大切な単語は「すべて」です。 主は、私を大部分の恐怖から救い出したのではない。「すべて」の恐怖から救い出してくださいました。 これは聖書の教えであるばかりでなく、ダビデが経験した事実であるのです。そして、私たちの誰もが経験することができ、信じる者が経験すべき事実です。 あらゆる種類の不安と恐怖です。誰かある人が言いました。「あらゆる不安と恐怖が取り払われたら、世界中で一番幸せな人間となるでしょう。」 つぎのことを覚えましょう。あらゆる不安を取り除いていただけるのです。 イエス様はあらゆる恐怖から私達を解放したいと思っておられるのです。そのことをおできになります。 医者は、世界で最も広がっているのは恐怖症であると言います。 多くの人は、生きることに対して不安を持っています。結果として、多くの人はノイローゼの状態に沈んでしまい、またある人は、薬やアルコールでなんとかしようと努力し、またほかの人々は、なんの逃れ道も見つけることができずに自殺してしまうのです。 多くの人は将来に対して不安を持ち、失敗に対する不安を持ち、年をとる不安、病気に対する不安、困難な試練や誘惑に対する不安、家族や知り合いのための不安を持っています。不安は、萎えさせたり、完全に麻痺させたりできるのです。 つぎのことを覚えましょう、イエス様は私達からあらゆる不安を取り除くことがおできになります。不安を持ったり、恐れたりしたとき、あなたは何をしたの? 詩篇34:4
ダビデは、主を求め祈りが聞き届けられ、あらゆる不安から救い出していただいたのです。 おそらく思う人がいるかもしれない。「ああ、私もあらゆる恐怖から解放されさえすれば。」、もちろんそのようになることができます。 イエス様はそれをしたいと願っておられます。あらゆる恐怖は取り除かれ、あらゆる不安から解放されているならば、今日想像することもできない喜びが、自分を支配することでしょう。 イエス様は、全く大いなる喜びが輝き出る人間を創りたいと思っておられます。この喜びは、まだイエス様から離れている人々をひきつける力です。 この喜びを持つ人間は、イエス様に対する飢え渇きを起こす者です。なぜなら、あらゆる人はイエス様を知ることによって、あらゆる恐怖から解放されたいと思うに相違ないからであります。 イエス様に頼る者の幸せは、あらゆる不安が取り除かれることです。イエス様はあらゆる悩みを承認しておられるお方です。イエス様は、つぎのようにおっしゃいました。 マタイの福音書14:27
ペテロはその時叫んだのです。「主よ、助けてください。」、そしてイエス様はただちに救いの御手を差し伸べられたのです。 「この悩みを許したのはわたしだ。あなたの上に暗闇を起こさせたのもわたしだ。けども、また溢れるばかりの光を与えるのもわたしだ。」 「わたしだ。恐れることない。わたしを見上げなさい。そうすれば、あらゆる恐怖は消え去ります。見上げなさい。わたしは、能者です。わたしは、あなたのために生きている。」と主は言われます。あなたのために存在し、配慮してくださる。 第三番目の土台は、罪が覆われていることです。 詩篇34:5
主を仰ぎ見ると輝き、罪が覆われていなければ、義なる神の顔を仰ぎ見ることは絶対に不可能です。 私達は、イザヤと同じように叫ばざるを得ないでしょう。 イザヤ書6:5
もうダメ。主を見たから。けどもこの詩篇の中で、主の御顔を仰ぎ見ることができた人々を見ることができます。 彼らが主を仰ぎ見ると彼らは輝いた。滅びないで、しかも罪に定められないで、誰が主の御顔を仰ぎ見ることができるのでしょうか。罪が覆われている者だけです。 そしてこのことは、あらゆる罪に対して、主イエス様の流された血によってのみ可能です。すべての罪は明るみに出され知られるようになるのですから。 詩篇32篇で、この事実について語っています。ダビデは確かにひどい罪を犯し、とんでもない犯罪を犯してしまいました。 けど彼は、罪を隠さずに告白した後で、また喜ぶことができるようになったのです。 詩篇32:1-2
罪が赦されている喜びを個人的にご存知でしょうか。自由に主のいらっしゃる所に近づく幸せをご存知なのでしょうか。 それは恩赦を受け、罪が赦され、受け入れられていることによって可能となるのです。 この喜びと、この幸せの土台を、ご自身の流された血の代価によって、私たちのために贖いの代価を支払ってくださった、その事実です。私たちの罪は覆われ、覆い隠され、決して再び現れることはありません。イエス様に頼る者は、自分の罪が覆われいるゆえに喜ぶことができるのです。 ローマ人への手紙8:1
罪に定められることは決してない。自分の罪を意識して、イエス様に恩赦を願い求める者は赦され、受け入れられます。その罪は覆われます。これこそイエス様に頼る者の土台です。 イエス様に頼る者は言い表すことのできない、輝かしい喜びを持って喜びます。イエス様はすべての罪を永遠に覆ってくださるからです。 罪が覆われているので、イエス様に頼る者は誰でも大胆にはばかることなく、聖なる主に近づくことができるのです。 ヘブル人への手紙10:19
この全く、大いなる特権は日々私達を抑えることのできない喜びで満たしてくださいます。 主イエス様に頼る者の土台はなになのでしょうか?第四番目の土台は、すべての祈りが答えられることです。 詩篇34:6
詩篇34:16-17
ここで、たいへんな悩みの状態に置かれた一人の信者の状態について報告されています。 彼は自分自身を「悩む者」と呼んでいます。本当は王様でした。けども彼は、私は悩む者ですと告白しました。 私達は、彼の悩みがなんであるかわかりません。おそらく、私の問題はもっと大きいと言うかもしれません。 (テープ A面 → B面) 自分だけで解決することをやめようとするなら幸いです。ここのみことばにおいても一番大切なのは、「すべて」という言葉です。 すべての苦しみから主は救い出してくださいます。その状態のまま主に持って行き、自分自身で解決しようとすることをやめるならば、ここの聖句においては、主は救い出してくださる。 「すべての苦しみから、主は救い出してくださるお方である。」とあります。 詩篇の作者であるダビデは、この苦しみの真っ只中にいた時に、圧迫さて、絶望し、みじめになり、助けも望みもない状態でした。 その時彼は何をしたのでしょうか?彼は祈った、主に呼ばわった。これこそまことの知恵です。 イエス様のもとに急ぐ者は、イエス様に祈る者は助けが与えられます。イエス様のみもとに行く者は、誰でも豊かに報いられます。 重荷を持って、イエス様のもとに行く人は決して失望させられません。 自分はみじめな悩む者と感じ、重荷の下であえぎ、問題を自分自身で解決しようとする人々は確かにたくさんいます。そのような人たちは、あわれむべきです。というのは、自分の力ではなんにもならないからです。彼らは、ますますみじめになるだけです。 主は、苦しみの中にある人々が最後に主に呼ばわり、主の助けを求めることを切に待っています。 主は、自分勝手には、強制的に干渉しようとはせず、私たちの祈りに答えたいと思っておられます。 祈りが捧げられる場合に、主は行動することがおできになります。重荷を持ってイエス様の所に来る場合に、その人は解放を経験します。 人は主に助けを求める場合に、聞き届けを必ず経験することができます。次のような面会をリクエストする信徒がいます。 「私はたいへんな苦しみの中にいます。そのことについて、ご面会してお話しをさせて頂きたいのですが...。」、「はい、どうぞ、時間がかかりますか?」 「うん、時間かかります。全部の話しを初めからしないといけないから。私は、本当にたいへんな状態にあるのですよ。」 「あなたはもうそのことについて祈り、全部イエス様にお話ししましたか?すべてのことをイエス様に打ち明けましたか?」、そう尋ねると、たいていは「まだです。」 しばしば2、3日後で、うれしそうな電話がかかってきます。「私は、祈りました。するとイエス様は私に語ってくださった。私はもはや特に面談に行かなくても結構です。私の祈りは答えられ、わたしの悩みは取り除かれました。」 私達は、聖書の中に数え切れない約束を持っています。そして、また大いなる励ましのみことばが与えられています。 イエス様は励ます専門家です。イエス様は、人ができないことをなんでもできるお方です。すべての悩みを持って、直接イエス様のみもとに行くことを要求されています。 けど、なんと多くの人々がこの信者の所に行ったり、あの信者の所に行ったり、このことをしたりあのことをしたりすることでしょうか? けども、なされなければならないただ一つのことは、単純にイエス様のみもとに行くことであり、すべてをイエス様の御手にゆだね、イエス様が約束を守ってくださることを待つことです。 私達は自分で重荷を担っているのでしょうか。イエス様のみもとに行き、すべてをイエス様にゆだねましょう。そうすれば、イエス様が、なしとげてくださる。 詩篇50篇15節、よく知られているのですけれどもすばらしい。あらゆる問題に対する主の答えなのではないでしょうか。 詩篇50:15
イエス様はここではっきり言われました。「わたしを呼び求めよ。」 意味は、「私のほうを向きなさい。これをしたり、あれをしたりするのではなく、そのままの状態で私の所に来なさい。そうすれば、私はあなたを助け、あなたを救いましょう。」 このことを通して、主は賛美され褒め称えられるのです。 主イエスに頼る者のしあわせの土台は、なんなのでしょうか?五番目の土台は、すべての敵が散らされることです。ここも「すべて」という言葉が出てきます。 詩篇34:7
私達がイエス様に属し、イエス様のために生きたいと思うとき、私達は敵の攻撃の的になります。ですから私達は、絶えず守りと解放を経験する必要があります。 けど私達は、今の聖句を見ると守られているのです。主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り彼らを助け出されるとあります。主の御使いが私達を守り解放するためにいるのです。 2、3の例をちょっと見てみましょうか。 詩篇の91篇。悪魔もイエス様を攻撃するとき、この言葉を使ったのです。 詩篇91:9-12
御使いたちは、私達を守るために遣わされている者です。ダニエルもそれを経験しました。 ダニエル書6:21-22
遣わされた御使いによって、ダニエルは守られました。 マタイの福音書18:10
御使いたちに守られていることは、なんという幸せなのでしょうか。ペテロも、この守られること、解放されることを経験しました。 使徒の働き12:6-7
結局、遣わされた御使いによってペテロは解放されたのです。 人間的に考えればのんきな男だった。次の日に殺されることがわかっていた。それなのに彼は寝ちゃった。 彼は、「私はひとりぼっちじゃない。心配しても意味無いよ。主はなんでもできる。」と確信しました。もう一箇所。 ヘブル人への手紙1:14
主の御使いに守られてることとは、すごいことなのではないでしょうか? 聖書を見ると、主なる使いが我々を守るように御使いに命令されることがわかります。私達が出かけると、御使いが我々の周りにいて、守っていてくれることを知っています。 確かに悪霊の軍勢は我々をだめにしようとしますが、私達は、すべての敵が散らされることを知っています。私達は解放を経験するに違いありません。 イエス様の頼る者の幸せの土台とはなんなのでしょうか?第六番目の答えは、あらゆる欠乏が取り除かれることです。あらゆる欠乏が取り除かれる。 詩篇34:9-10
別の言葉で表現するならば、「まことに満たされている。」ことを経験するのです。主ご自身が、彼らが必要としているものを彼らに与えてくださるのです。 ダビデも「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と告白したのです。主が私たちの羊飼いであるなら、私達が欠乏に悩むことは、絶対に在り得ないことです。 羊飼いは羊のために配慮し、羊のために心を砕き、羊のために良いと思われるものをすべて羊にお与えになってくださいます。パウロはこれこそローマの刑務所の中で経験しましたから、次のように言ったのです。 ピリピ人への手紙4:19
あらゆる必要が満たされれば、これこそ、すごい宝物なのではないでしょうか。 ルカの福音書22:35
私達は、ルカの福音書12章の中に、ひとつの対照的な姿を見出します。そこでは金持ちの百姓がカラスと比較されています。12章をちょっとみてみましょうか。 ルカの福音書12:16-21、24
カラス ルカの福音書12:24
豊かな農夫は多くの蔵を持っていましたが、主を持っていませんでした。彼は神なしに計算しましたが、この計算は一度もうまくいかない計算でした。 カラスのことを考えて見なさい。豊かな農夫は、生けるまことの神により頼まなかっただけに愚か者だったのです。彼の蔵と財産すべては、彼を満たすことができませんでした。 けど、カラスは蔵を持っていないにもかかわらず主なる神が養ってくださいます。カラスは主によって、心配してもらい配慮され、すべてのものを与えられています。 私たちの場合はどうでしょうか?私達は蔵を持っているのでしょうか?自給自足しようとしているのでしょうか?自分の力で築き上げようとして、主の祝福に預からない人間なのでしょうか? 私達は、意識的に主により頼まない人間であるならば、実にみじめです。 あるいは私達は、蔵がなくてもまことの神を持っているのでしょうか?私達が主イエス様を持っているなら、何も乏しいものはありません。 助けを求めつつ、主イエス様を見上げる者は、決して見捨てられません。乏しさを持って、イエス様のみもとに行く者は、豊かに与えられます。 イエス様を求める者は、良いものに欠けることがなく、乏しいことがないと、ダビデはこの詩篇34篇で証ししています。 詩篇34:9-10
イエス様に頼る者の幸せの土台とはなんでしょうか。最後の答え、7番目になりますが、確実な将来を持っていることです。 詩篇34:21-22
ここでは、悪者と正しい者が対比させられながら述べられています。正しい者の将来が考えられないほど素晴らしいのに、悪者の将来はあまりにもひどいので、描写することができないほどです。 私達は、主イエス様に頼る者として保証された将来を持っているのです。私達が、まだ地上にイエス様が来るまで留まらなければならないとしても、あるいはその前に召されるとしても、確実なことは、私達がイエス様にお会いし、いつもイエス様のみそばにいるようになることです。 主イエス様に頼る者の幸せの土台が、われわれのテーマでした。 私達はこの幸せの秘訣が、イエス様ご自身であることを見てきました。それですから、ダビデは次のように証ししているのです。「幸いなことよ、彼に身を避ける者は、」 イエス様のみそばで守られ、強さ、愛、喜び、愛、平安を持つ者は、幸せになります。その人は、心から喜ぶことができるようになるのです。 私達は、なぜ本当に喜ぶことができるのでしょうか。今、7つの答えを中心に学んできました。最後に7つの答えをもう一度あげてみたいと思います。 イエス様に頼る者の幸せの土台は 1:絶えずイエス様の手に守られていること 2:あらゆる不安が取り除かれること 3:罪が覆われていること 4:すべての祈りが答えられること 5:あらゆる敵が散らされること 6:いかなる欠乏も取り除かれること 7:確実な将来を持つこと 主イエス様に頼る者は幸せです。主イエス様に頼る者は最もすばらしいものを獲得しました。 主イエス様に頼る者は、まことの神と共に生きる幸せを知っているのです。だからダビデは詩篇34篇8節で言いました。 詩篇34:8
喜びの声をあげ、告白することができたのです。 |