引用聖句:ダニエル書、2章28節
ペテロの手紙第1、5章7節-11節
今日の集いとは、生けるまことの神を紹介するための集いであります。今読んでもらいました箇所の中で、「天に秘密をあらわす一人の神がおられる。」と、あります。この方を紹介することができるのは、ほんとにすばらしいのではないでしょうか。 ダニエルよりもずっと前に生きていたヨブという男は、この生けるまことの神を体験して、そして次のように言ったのです。 ヨブ記5:8-9
もし私たちは、毎日この断固たる態度を取りつづけるなら、見方変わります。 ヨブは人と話しても、相談しても、何にもならないとわかったのです。そして自分でいくら考えても、結局わからないし、いくら心配しても助けにならない。「だから、祈ろうよ。」と、ヨブは思っただけではなく、そうしたのです。 そしてこのヨブとは、ダニエルの見本でした。ダニエルは祈ったから主は答えたのです。ダニエルは祈ったから、イエス様は答えたのです。 そしてイエス様も、ダニエル書をお読みになったのです。ダニエル書の中からみことばを引用してくださったのです。 エレミヤという預言者は、ダニエルの時代に生きていたものでした。彼は次のように、祈りの大切さを強調したのであります。 エレミヤ書33:3
求めよ。そうすれば与える。呼べ。そうすれば答えられる。人間は本当に愚かなもので、まず自分で考えます。ほかの人の意見を考えます。どうして! 何でもできる、何でも知っておられる方のところへ行けないのでしょうか? 私たちはどうして導かれ、イエス様を信じるようになったのでしょうか?もちろん答えられない。 けどわかっているのは、私たちは困ったから、人生の目的についても、考えてもわからなかったから、なぜ生まれたのか?わからなかったから、将来のことわからないと、思ったからやっぱりどうしよう、と思ったからなのではないでしょうか。 私は不完全で過ちを犯すもので、罪滅ぼしのためにどうしたらいいのでしょうか?結局答えられるお方は、十字架の上で犠牲となられたイエス様しかない! 結局悩むこととは必要です。何の悩みも苦しみもなければ、誰も心を開こうとしない。ですからね、ここまで来る人とはみんな悩める人々です。 時々考えますけど、最近信仰の歌を歌うでしょ。本当に良い歌です。けども私たちは、歌っているだけなのでしょうか?本当にそう思っているのでしょうか? イエス様は、私のすべてのすべてのお方ですと、平気で歌うでしょう?もしそう思わなければ、私たちとは大うそつきの群れになるのではないでしょうか。 司会の兄弟も、歌ってから始まるといったんです。ちょっとちがうよ。歌う瞬間から、もうすでに始まっているんでしょ。 歌(詩)とは、祈りであり、主を賛美するものであります。 結局人間は、何の悩みも苦しみもなければ、救われないし成長しません。 私たちはどのような状態にいるとき、イエス様を豊かに知るようになるのでしょうか?ダニエルのように獅子の穴にいるとき、暗闇の悪魔が勝利を握っているどん底に落ちたとき、一番すばらしく主を知ることができるのではないでしょうか。 主は、私たちが少しも妥協することなく、ひたすらに主にだけ仕え、ダニエルのように奇跡を経験する人にしたいのであります。 ダニエル書6:20
神ができたか?不可能なことを成したか?私の祈りも、あなたの願いも答えられたのでしょうか? ダニエルの生涯とは、ある意味で面白くなかったかも知れない。彼は若いときから、聖書の話しを聞いただけではなく、生きるまことの神に出会った人です。けども、彼の生きていた時とは、非常に大切な分かれ道の時だったのです。 すなわち紀元前606年、バビロンの世界制覇によって始まりました時とは、異邦人の時です。その時まで世界の中心とは、ユダヤ人、イスラエルだったのです。 結局主は、ユダヤ人を特別に選んだ国民であり、主にとって非常に大切な国民です。将来性のある国民は、ユダヤ人だけです。 将来日本はどういうふうになるのか?アメリカは?わかりません。けども、世界の中心になるのは100%イスラエルです。世界の首都になるのは、100%エルサレムです。 けども紀元前606年から、いわゆるユダヤ人は中心ではなくなったのです。征服されてしまって、バビロン帝国のネブカデネザルという王は、いちばん将来性のある若者を全部自分の国にまで連れて行ったのです。その中の一人とはダニエルでした。 何歳だったかわからない。たぶんまだ大人になっていなかったでしょう。そして外国で大きくなりましたし、異邦の文化を学ばなければならなかったし、そしてバビロンの王宮に取り上げられたのです。 それだけではなく、王さまに愛されるようになったのです。外国人としてです。ちょっとまれなことです。 どうして彼は大切にされるようになったかといいますと、祈ったからなのではないでしょうか。 王さまは一つの夢を見たんです。そして夢の説き明かしをする人々は、みなお手上げだったんです。誰もできなかったんです。ダニエルはできたんです。 結局、王さまは、夢の説き明かしをする人をみな呼んだんです。 「王さま、大丈夫。私たちはできるとみな約束したんです。」、そしたら「言って。」、と言うと、「いや!王さまの夢のこと知らせてもらわなければ無理。」、王さまは「それ。忘れた。」と言うのです。 自分の見た夢を、王さまは忘れたんです。そうしたら、どうしようもないでしょ? ネブカデネザル王は、この見た夢が非常に大切だとわかったんです。2回目の夢を見ても、次の朝忘れちゃうんです。結局彼の夢とは、紀元前606年から、イエス様から、再臨までの公の歴史です。 全部あの一つの夢の中で示されたんです。ですから王さまは、知りたいけど忘れちゃったから、説き明かしができると言った人たちが、できませんと言ったとき怒っちゃったんです。 「あなたがたはできると言ったじゃないか!もうクビだよ!大嫌い!」ぷんぷんと。そしてダニエルが紹介されたんです。 聖書には、彼の内に違う霊が住んでいたと記されているんです。もちろんダニエルだって普通の人間でしょ。何もできないよ。けど彼はできたんです!どうして?祈ったから。 「主よ。あなたはできる。私は無理。」、主は答えてくださった。彼が心から叫んだからです。それで結果として偉くなったのです。 けど、あのネブカデネザルは、永遠に生きる者ではなかったのです。王さまの子、ベルシャツァルという男は王さまになりました。けども彼も、このダニエルのことを大切にするようになったのです。 どうしてであるかと言いますと、大騒ぎして呑んだり騒いだりした人、いっぱいいたでしょうし、そして急に大きな壁、手の先に文字が現れたんです。 もう、王さまは真っ青になって、いったいどういう意味か?だれも読むことが出来なかったんです。ダニエルは呼ばれて、そしてちゃんと読むことができたんです。結果として、彼は国の3番目の位につかせられました。 けどおもしろいことに、ベルツャツァルという王さまによって、ダニエルが第3の位に任命された夜、ベルシャツァルは殺されました。ダニエル書5章の20節を読んで見るとわかりますね。 ダニエル書5:29-30
次の王となった、前に話した6章に出てくるダリヨス王は、やはりダニエルを尊重して用いたわけですけれど、もしダニエルがベルシャツァルに第3の司に任命されていなかったならば、ただのユダヤ人としてだれにも気にもとめられなかったでしょう。 ダリヨスは、ダニエルを用いて国の最高の司に任命したのです。大臣として王さまの次の位に任命されるということは、あり得ないことといってもいいよ。 だからねたむ人が次々と出てきたのです。 このねたむ人々の裏に、獅子と呼ばれている悪魔が働いたのです。結局彼は攻撃の的になりました。 どうしようか?結局ねたむ人々は、手段を選ばずダニエルを脅そうとしましたが、けどそんなに簡単ではなかったのです。 隙がなかったんです。彼は王さまのためじゃなくて、主に仕えた者だったからです。いつも!生きるまことの神に仕えた。 ダニエルは訴えられても、ちょっとうまくいかなかった。心を尽くして、徹頭徹尾主に仕えたのです。ダニエルに敵対する人々を用いて、悪魔は計画を巡らせました。 ユダヤ人だ。あいつは生きるまことの神を拝する者だ。我々の神々を拝まない。宮や寺を訪ねない。偶像に対して見向きもしない。 けど毎日、いわゆる生きる神といわれる、まことの神の前に拝んでいる。彼を貶めるために、一つの法律を作りましょうと計画を立てました。汚い考え方ですけど、 ダニエル書6:6
こう言われたら気持ち良いでしょうね。 ダニエル書6:7-8
そこでダリヨス王は、禁令の文章に署名した。きれいに惑わされた。 けどダニエルは、このことを聞いたときどのような反応を示したのでしょうか?絶望したのでしょうか?友だちと相談したのでしょうか? 直接王さまの所へ行って、「王さま、あなたはだまされたよ。」などとは言おうとしなかったのです。 ダニエル書6:10
考えてくださいよ。彼は狂っちゃたのではない。彼は感謝したんです。 結局、国中の人が私を殺そうと思ってもできるものじゃない。私は生ける神の御手の中に守られていると、彼は確信していたから、祈っただけではなく感謝したのです。 「主よ。あなたは支配者です。あなたさまにとって不可能なことはない。全部おゆだねいたします。けど私は妥協しません。」 ダニエルは、つねに久しい間祈りの人でした。生けるまことの神は、自分の祈りに答えてくださるということを、彼はもう何年間何十年間、何回も何回も体験した人でした。 自分に危険を及ぼそうと計画された時、主にすべてをおゆだねしたのです。 ペテロの手紙第I、5:7
私たちは本気になって自分のものにすれば、もう安心して将来に向かうことができる。自分で思い煩っても、心配しても考えても、何もならない。主にゆだねなさい。その時はじめて、神があなたがたのことを心配してくださるのですよ。 ダニエルは思い煩いを捨てて、全部主にゆだねたのです。 ダニエルを憎む者たちは、ダニエルが主に祈ることを知っていたから、王以外のものを拝んではならないという定めを作ったのです。ダニエルが主の御前に祈っているところを、すなわち法律を破っているところを、見つけられたのです。 ダニエルは、隠れた信者でいるよりは死んだ方がましだと考えてました。だから全然恐れをもっていなかったのです。悪魔はおそらく、彼にも試みようと思ったでしょう。 「ダニエルあなた、今まで窓を開けっぱなしに祈ったでしょう。今度は窓を閉めて、押入れの中で、声を出さないで、心の中だけで祈れば安全じゃないか。 あなたが殺されれば、神はこまるよ。あなたは大切に用いられる器じゃないか。一ヶ月だけ窓を閉めて、押入れの中で祈ったら?」 彼は、「結構です!死んでも良い!!」という態度をとったのです。 エステルのように、「私は死ななければならないとしたら死にます。」、ダニエルとはこのような態度をとったのです。 もちろんダニエルは、自分の命を軽く見たのではない。しかし、「私は、少しだけでも妥協すれば、主は働くことができない、祝福することができない。」と彼は確信したのです。 決して隠れた信者にはならないと、彼は心を決めました。 獅子に似てたでしょうね。獅子のような性格をもっていたのではないでしょうか。獅子よりも勇気をもっていたのかもしれない。 窓を開けっぱなし、もろ手を上げて大きな声で、エルサレムに向かって祈ったのです。どんなに敵が見ていても、それには目もくれず、また、主に心を向けて祈るのは彼の素晴らしい習慣だったんです。 そうでなければもう、耐えられない!証し人になり得ないと、彼は確信していたのです。 ともにバビロンに捕らわれてきた同朋にとって、それは何というすばらしい証しだったのでしょうか。 ねたむダニエルを見つけ、自分たちの決めた掟を破るものとして、ダニエルを訴えました。彼らの思いはただ一つ、あのユダヤ人を引き落としてしまおう。 今世界中の大部分の国々の思っているのは、ユダヤ人みんな一人残らず殺しましょうという考えなんです。その背後に働いているのは、もちろん悪魔です。 当時の王、ダリヨス王はショック受けたと思うよ。「どうしましょうか?」、彼は心からダニエルを救いたい気持ちでいっぱいだったんです。だから彼の前には二つの道がありました。 ひとつは、ダニエルを獅子の穴に投げ込んで殺してしまうことであり、もうひとつは自分の定めた掟を自ら破り、自分の名誉を捨ててダニエルを救う道です。 生けるまことの神さまを知らない王さまは、もちろん自分のこと考え、ダニエルを獅子の穴に投げ入れることを決めました。辛かったと思います。 けれどもダニエルは、獅子に引き裂かれませんでした。普通であれば、そこに投げ込まれた人々は、幾秒かの間に殺され食べられたんです。ほんの何秒かの間に。 けれども、ダニエルは守られていたのです。どういうふうに守られいたかわからないけど、もし主イエス様御自身が一緒にいたかもしれない。 そうしたなら、イエス様を前にした猛獣は、自分の性質を忘れちゃうのじゃないでしょうか? はっきり言えることは、ダニエルは獅子の穴の中でぐっすり眠ったのです。もしかすると、獅子の鬣をまくらに寝たのかもしれません。全然寝られなかったのは、だまされた王さまでした。 ダニエル書6:18
ダニエルはぐっすり寝たのであり、王さまは寝られなかった。聖書の中で同じような実例はいっぱいあります。 ペテロは、刑務所につながれていた時、次の朝、彼は殺されるべきでした。けれども、聖書に書かれているのは、彼はぐっすり寝たんです。神経の図太い人と言われるかもしれないけど、決してそうじゃないよ。 結局、主によって用いられた人々とは、大体臆病者だったんじゃないですか?ですから、恐れるな。心配するな。そういう言葉だけを語られたんです。 心配があったから、恐れがあったからです。 主は生きておられる。獅子の穴に投げ込まれたことも、主は妨げようとしなかった。そうか。そしたら、主のせいです。主の御手から受け取れば、主は責任を取ってくださると、ダニエルは確信したのです。 ダリヨス王は、翌日の朝まだ早いうちに、大急ぎで獅子の穴に行き、生きていたダニエルを引き上げさせました。 ある人は考えます。旧約聖書、別に読まなくてもいいじゃないか?イスラエルの歴史だけじゃないか?けれども、この考え方は根本的に間違っています。イエス様は、また弟子たちもそうなんです。旧約聖書を必死になって読んだのです。 新約聖書を、旧約聖書なしに理解することできませんよ。ひとつです。どうしてダニエルの話しが残されているかと言いますと、我々にとって大切であるからです。 このダニエルの経験から、私たちは何を学ぶのでしょうか? 幼いときからダニエルは、自分をまったく主にゆだねていたということです。ですから、「いつも」という表現がでてきますね。 ダニエル書6:16
いつも!そして主に仕えていた者だ。それから、 ダニエル書6:20
王さまは二回も、「いつも」という言葉を使いました。ダニエルの神はつねに生き、ダニエルを守っていることをも知っていたのです。また王は、ダニエルがつねに生ける神に仕えていたことも知っていたのです。 ダニエルは、幼い時から主なる神に心から仕え、いつも御心をたずね求めていましたので、それは彼の性格となったのです。何かあった時、自分で考えるよりもすぐに祈ったんです。 主よ。聞いたでしょ。見たでしょ。どうしましょうか?教えてください。 この態度を取る者は、本当にしあわせです。ダニエルにとって、この態度を取ることとは決して簡単ではなかったのです。 現代人の多くは、楽な道を行きたいと思っているのです。けども不幸になる道です。ダニエルは、簡単な道へ行こうとしなかったのです。 彼の環境は、異邦の国でした。イスラエルから連れて来られ、異邦の教育を受け、文学も異邦のものを学ばなければならなかったのです。けど、まことの神を恐れる恐れは、ダニエルに異邦のものを避ける勇気と、力を与えたのです。 「王さまと同じ食べ物を食べなさい。」と言われたことがあったんですけど、ダニエルは、「偶像にささげられた物は結構です。食べません。」という態度を取ったのです。 そしてこのダニエルは、王さまに喜ばれようという気持ちもなかったのです。ただ、主にだけを喜ばせようと願ったのです。主を恐れる恐れから、彼は主の言葉を破ることを恐れました。 1章を見ると、結果はすごい結果です。1章の15節から。結局、彼は頼んだんです。 「お願いします。王さまの食べ物は美味しくて美味しくてすばらしいけど、お願いします。野菜と水だけでいいから試験的にいいよ。10日か?」 結果は15節です。 ダニエル書1:15
ダニエル書1:20
ダニエルはすべての若者よりも健康に優り、ほかの博士より知恵と理解において十倍、倍だけじゃなくて10倍も優っていたと、ありますがやはりこれも主の祝福の結果でした。 ダニエルの出来事を見ていきますと、私たちは、主につねに仕えるには勇気が必要です。この勇気はどこから飛んでくるのでしょうか? 祈りによってのみ生まれます。主とひとつになることによってのみ勇気が出てきます。知恵と知識と理解力、主なる神の奥義を知る力も祈りによってのみ生まれてきます。 呪術師や魔術師たちは、夢の説き明しができなかったけど、ダニエルには祈りのうちに夢の内容を、夢の説き明しを教えられたのです。 つねに、絶え間なく主に仕える者には、主の奥義が現されてきます。 ダニエルは、異邦の王の権威の前に小さくならなかったんです。平気で自分の仕える神の名を口にしたのです。後に国の司にまで引き上げられても、なお主に仕えつづけました。 ダニエルはどんな真っ暗なところに落ちた時も、また高く栄誉ある立場に立たされた時も、変ることなくまことの神に仕え続けました。 ダニエルは、またある時、ネブカデネザルが見た二つの夢を説き明した時がありました。この二つ目の夢はちょとひどい内容だったんですね。 王さまが、動物のようになってしまう。自分の名前もわからない。畑で草を食べるようになる。結局、完全に気違いになる。 けどダニエルはこの時も、王さまを恐れないで、王さまに恐ろしい夢の説き明かしをしたのです。 ダニエルはつねに変らないで、王の恐ろしい夢の説明かしをしたのです。彼はつねに変らず、主にだけ仕えたのです。 その出来事の後、聖書にはしばらくのあいだ何も言ってないのです。けどこのあいだにも、ダニエルはともに捕らわれていた同朋のあいだで、すばらしい証しをしたに違いない。 ダニエルは、何があっても妥協しないという断固たる態度を取り続けたのです。少しの妥協も見せなかったのです。 悪魔は、確かにダニエルを攻撃したに違いない。けれども、どうすることもできなかったのです。ダニエルにとって主は逃げ場であり、祈りを聞いてくださるお方であり、また奇跡をなすお方であるという方でした。「生ける神のしもべ」と王さまが彼を呼んだのです。 ペテロの手紙第I、5:8-10
この主を仰ぎ見ることこそが、大切なのではないでしょうか。ダビデも何を経験したかわからないけど、詩篇の中で次のように書いたのです。 詩篇57:4
ダビデ王は、憎しみの只中、むさぼり食う獅子の中に横たえていました。けども彼は、勝利の叫びをあげることができたのです。 「神よ。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌を歌いましょう。」 わらわれの獅子の穴とは、一体どういうものなのでしょうか?もしかすると、自分の家族は獅子の穴のようかもしれない。イエス様のゆえに、一致と平和がなく居たたまれないかもしれない。 イエス様はこの苦しみについて、マタイの福音書10章の34節から語られているのです。 マタイの福音書10:34-39
結局、主を第一にすればだいじょうぶ。心配する必要はない。 自分の家族は獅子の穴のようかもしれない。あるいはあなたの職場は、獅子の穴のようであるかもしれない。あなたがダニエルのように妥協せず、つねに職場にあっても主に仕えて行くなら、しあわせです! もし悪魔が、このダニエル書6章20節のようにあなたにささやいて来たら、「神ができるか?!」、どう答えますか?「あなたが仕えているあなたの神は、獅子の穴から救い出すことができたか?」 次のように答えたら素晴らしいと思う。 『はい!主はできると信じてます。主は救いたいのです。たとえ主が獅子の穴から救い出せなくても、栄光の彼方に引き上げてくださる。』と。 ほかの獅子の穴について、聖書はたくさん言っているのです。一番まとめられている箇所はたぶん、へブル人への手紙なのではないかと思います。 へブル人への手紙11:33-40
今読んだ箇所を見ると、今まで主の御名のゆえに殺された多くの人々について書かれています。彼らの経験したのはまさに獅子の穴そのものです。 彼らは拷問の苦しみに甘んじ、少しの妥協もせずつねに主に仕えていたのです。これらの人々は、ダニエル書6章20節を見るとなんと答えるのでしょうか?彼らは喜んでローマ人への手紙8章37節のように答えるに違いない。 ローマ人への手紙8:37
多くの主にある兄弟姉妹は病に倒れ、数週間数ヶ月数年間と良くなる望みのない闘病生活を続けています。 これらの人々には、この世の望みは何もありません。このような人々は確かに孤独です。けど主は、これらの兄弟姉妹の喜びであり、またよりどころとなっています。 これらの兄弟姉妹に、ダニエル書6章20節にあるように、「神はあなたを救うことができたか?」とたずねると、なんと答えるのでしょうか。おそらく詩篇の作者のダビデのように答えるでしょう。 詩篇103:1-5
もう一つの穴があります。すなわち死という獅子の穴です。何と多くの主を信じる者が、もうすでにこの穴を通って行ったことでしょう。 死を克服したイエス様を知るようになり、彼らが死ぬ寸前に、彼らの枕もとに立ってその心を伺うなら、何と答えるのでしょうか? コリント人への手紙第Iの15章54節でしょう。 コリント人への手紙第I、15:54-55、57
イエス様は、わたしを信じる者は、死んでも生きると約束してくださったのです。つねに主に仕える者は、ほんとにしあわせなのではないでしょうか。 |