主イエス様の証し3


ベック兄

(吉祥寺学び会、2011/11/22)

引用聖句:ヨハネの福音書10章11節-15節、27節-28節
11わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
12牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
13それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
14わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
27わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

この間に引き続いて、「イエスの証し」という題名で一緒に考えてみたいと思います。
イエス様の告白とは、今読んでもらいました11節ですね「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
良い牧者であるイエス様の捨てられた命こそが、考えられないほど愛されている証拠なのではないでしょうか。27節「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」

前に話したんですけど、ドイツのカールスルーエという町は、南ドイツの町で、ある羊を飼った人が、朝、目を覚ますと、一匹もいない。500匹泥棒されたんです。彼はもちろん全財産だったよ。全財産をいっぺんに失うのは、ちょっと考えられないことです。
もちろん彼はすぐに警察と連絡をとって、警察だっていろいろなことを調べたんですけど、様子を見てみましょう。一週間後でしょうかね、カールスルーエからずいぶん離れているケルンという町で、1万匹の羊があったんです。
外国まで行く羊たちだったんですけど、警察は「何もわからないけど、あなた一度行ってね、もしかしてあなたの500匹が入っているかもしれない」

行ってからもちろん、もしそうだったらありがたいけどね。羊はみな同じ顔をしてるよ。
どうしよう。けども考えて、よし今までのように羊を呼びましょう。それが向こうに1匹出て、向こう2匹、あっちこっち出たんですね。後で数えると500匹でした。ちょっと考えられない。
羊は普通愚かなものだと言われていますけど、そんなに愚かじゃないよ。少なくてもね、羊飼いの声を聞くんです。

イエス様の言われたとおり。イエス様は、自分の証しの中で「わたしは良き羊飼いであり、雇い人ではない。偽者ではない。本物です。」
唯一の良い牧者であるという証しをもって、イエス様は結局、自分自身を紹介してくださいました。「わたしは、旧約聖書で約束された救い主です。」と。
イスラエルの民はもちろん旧約聖書をよく知っていたし、解かったんです。すなわち来るべき救い主は、迷える羊のことを心の底から、自分を無にして心配してくださる良い牧者そのものであると。

ダビデという王様は、生けるまことの神を体験しました。すなわち彼は、彼の罪が徹底的に明らかにされたことによって、しかしまたそれと同時に、彼の債務が赦され、主こそ私の羊飼いですと喜びの声を上げることができたのです。生ける救いをもたらすお方を、体験的に知るようになりました。
「主は私の牧者です。そして主は私の牧者ですから、私には乏しいことがない。」いったい誰がこのことを本当に信じているのでしょうか。
確かに私たちは困った時、本当にこのみことばを信じることができるのでしょうか。

「主は私の牧者です。」と語り、そして証しする者はそれと同時に何を告白せざるを得ないかと言いますと、「私は助けのない本当に愚かな無力な羊です。」と言うことも言わざるを得ないのではないでしょうか。
自分自身のみじめさをよく知っている者は、良き羊飼いの所に来て、すべてをその羊飼いにゆだねます。渡します。
良き牧者は徹頭徹尾、自分を無にして羊たちの幸いだけを考えます。悪い牧者は、もちろん自分だけのことしか考えられない。真の牧者である主は、自分のことを考えないで、羊の幸いのために配慮していてくださるのです。真の牧者は、結局赦すお方であり、与えるお方です。

それからイエス様は、「わたしは門です。唯一の門です。わたしは結局盗人ではなく、嘘つきでもない。」
盗人は盗むため、また殺すためにやって来ます。けどイエス様は、守るため、力づけるため、必要なものを与えるために来たのです。
「わたしは門です」ということばでもって、イエス様は「わたしによって、守りと保護と安全が約束されている」とおっしゃるのです。

なぜ、イエス様は良い牧者なのでしょうか。なぜイエス様は門であると言うのでしょうか。
答えは、「わたしは、羊たちのためにわたしの命を捨てます。彼らの債務と罪のために、わたしは身代わりとして死にます。わたしの死は、彼らの罪に対する裁きです。けど、わたしはただ単に贖いと赦しのためにだけ死ぬのではなく、彼らにわたしの命を与えるために死ぬのです。わたしは、羊たちがわたしの命を自分のものとすることができるために、わたしの命を捨てるのです。」
良き牧者の近くで生活する者は、必要な糧を備えていてくださり、病気になった時、看病してくださり、誘惑から守ってくださり、そしてさらに多くの守りと安全を保障してくださいます。主は良い牧者そのものであられます。

イエス様のように次のような言明を行なった者はいないでしょう。イエス様は言われました。「わたしだけが良き牧者であり、ただわたし一人のもとにのみ本当の満足がある。わたしだけが、門そのものであり、わたしを通らなければ、誰でも父の御許に行くことができません。わたしだけが、父と一つになっている者です。わたしは永久の神です。」
イエス様がその言明によって、真理を語っておられたということを、主の復活を通して明らかにされたのです。証明されました。そして、今日、イエス様こそ私の救い主であると告白する一人ひとりも、その証明なのではないでしょうか。
イエス様の証しとは、ご自分についての証しだっただけではなく、イエス様は、ご自身の羊たちについても語っておられました。

もちろんイエス様は、ご自身の羊とはなっていない人々についても語っておられますが、けど救われて羊となっている人々については、次のように3種類の答えを明らかにしておられます。
第1番目、「彼らは、わたしの声を聞き、その声を知り、その声を聞き分けます。」と言われました。
第2番目、「わたしの羊たちを、わたしはよーく知っており、そしてまたわたしは、彼らによってよく知られています。」
第3番目、「わたしの羊たちは、わたしに従います。」

ところが、そもそも羊というものは、愚かな動物で、一匹の羊が川の流れに入ってしまい、溺れてしまいますと、その羊に続いている全体の羊の群れは、同じことを行ない、同じ運命に会います。
羊飼いのいない羊は、失われて、どうすることもできない状態におかれ、守ってくれる者もなく、完全に助けのない存在です。
そして生ける主なる神は、人間のそのようなものである、助けのない羊にたとえておられます。有名なイザヤ書53章6節に次のように書かれています。

イザヤ書53:6
6私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

人間は、自分が何故生まれたのか、人生の意味は何か、死んだ後どうなるのかということを知りません。すなわち、人間は愚かな羊と同じような者です。
羊はどこまでも羊であり、そしてまた羊に留まるのであって、突然熊になったりライオンになったり蛇になったりすることはあり得ない。そして人間もまた、どこまでも人間であり、守りなく、助けのない存在にすぎない。その状態に留まるのです。
確かにある人はね、「失敗は成功のもとだよ」と言っています。別の人は唄いました。「わかっちゃいるけど、止められない」、聖書は、人間の心は陰険で直らないと言っています。もし私たちが、ただ自分の力に頼ると、死ぬまで全く同じくダメな者です。

エレミヤは、もうすでに2,500〜2,600年前に書いたのです。17章9節「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」
そのような人間が、ひとたび良き牧者と結びつくようになると、迷ったり、空しく探し求めたりすることを止めます。しかし、依然として羊のようにどうしても、助けと導きを必要としています。イエス様の御手の中で、自分が守られていると言うことを知っています。
それでは一体誰が主の羊に属するのでしょうか。答えは、ペテロの手紙第Iの2章に次のように書きしるされています。

ペテロの手紙第I、2:25
25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

これこそが救いであります。
主の声を聞くことは、どうしても必要です。主の声を聞く者は慎重になり、立ち返ります。その人は悔い改め、謙虚になって、イエス様の御許に行き、そしてイエス様によって受け入れられます。
意味は、信じる者は救われます。

ヨハネの福音書5:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

信じる者は持つとありますね。確かに聞くということは、信じることを意味しています。そして信じるということは、永遠のいのちを持つことを意味します。
イエス様の御声を聞くということは、イエス様の御声を知るということにほかならない。そしてそれによって、主ご自身を知るようになるのです。

ヨハネの福音書10:5
5しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」

これこそが大切です。決心するということは、充分ではありません。罪から離れることも充分ではありません。もっと良くなりたいと思うことも充分ではない。大切なことは、私たちが主を個人的に知るかどうかということ、そして私たちが主の御声を聞いたかどうかということです。主の御声を聞くことは、実践的な意味を持っています。
すなわち、主のみことばを真剣に受けとめ、自分のものにすることを意味しているのであります。
イエス様は、しばしば「あなたの罪は赦された」と言われました。今日、悔い改めて、イエス様の御許に来て、恵みを切に求める者は、「わたしの罪は赦されている」というみことばを信じることができます。理解できなくても、何も感じられなくても。

罪人として、結局どうしようもない者として、イエス様の御許に来る者は、罪を赦されるというこのことは、否定することのできない事実です。
それですから、どうかあなたの債務をすべてイエス様に打ち明け、イエス様が赦してくださったということを幼子のように信じてください。
次にイエス様は、ご自身の羊たちについてまた言われました。

ヨハネの福音書10:14、27
14わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
27わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

「わたしは彼らを知っています。わたしのものは、わたしを知っています。」イエス様が、私たちを知っておられるということは、大きな慰めなのではないでしょうか。
イエス様は、あなたのさまざまな戦いを知っています。いろいろな失望をご存知です。あらゆる問題を知っておられます。
けどイエス様は、ただ単に我々を知っておられるだけではなく、そしてまた、ただ単にすべてのことをご存知であられるだけではありません。イエス様は、我々一人ひとりのために、全く個人的にご臨在しておられる、良い牧者です。

マタイの福音書7章、非常に聖書の中で最も厳しいことばの一つじゃないかな。

マタイの福音書7:21-23
21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

今の箇所には、イエス様の恐ろしい判断がしるされています。すなわち「わたしは、あなたがたを決して知らない」とイエス様は言っておられます。そして私たちは、知ることができます。すなわち、人はイエス様の名によって預言をすることができ、悪霊を追い出すことができ、奇跡を行なうことができますけど、これらのことは、イエス様と結びついていなくても出来ることです。これらの人々に対するイエス様の判断は、「わたしは、あなたがたを全然知らない。わたしから離れよ。不法を行なう者。」というものです。
自分の力によったり、悪霊の力と結びついて行なう場合は、奇跡を行なうということでさえも、不法を行なうことになり得るのです。

救われていることの特徴は、主の御心を行なうことです。21節「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」とイエス様は、はっきり言われました。
「わたしは、わたしのものによって知られています。彼らは、わたしを知っている。」このことこそ大切なのではないでしょうか。

イエス様は、彼らがキリスト教の教えを知っているとは言わないで、「彼らは、わたしを知っている」と言っておられます。
イエス様は、良き牧者であるということを、知っているだけでは充分ではない。イエス様は「わたしの牧者である」と誰もが、堅く信じて疑わないというようにならなければいけないのです。
「イエス様は、私の牧者であるから、私は乏しいことがない。というのは主が私を伴われ、主は私を導かれ、主は私を力づけ、主イエス様は、私と共におられます。」

それから、イエス様は主の羊たちについて、第3のこと「彼らは、わたしに従います。」と言われたのです。ご自身の羊たちについて、考えてきました。これこそ大切です。
イエス様の証しとは、いったいどういうものであったかと言いますと、もう一回まとめましょうか。「わたしは、雇い人ではない。唯一の良き牧者である。」2番目、「わたしは、盗人ではなく、門であり、わたしのもとには安全がある。わたしは、天国に至る唯一の門です。
それからわたしは、冒涜者ではなく、父の永遠の息子である。」とイエス様は言われたのです。




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