引用聖句:ヨハネの福音書10章11節、15節、17節
今日は4回目ですけれども、「主イエス様の証し」というテーマでもって一緒に考えたいと思います。イエス様の3種類の証しとは、どういうものかと言いますと、 第1自分自身についての証し 第2羊たちについての証し 第3父なる神についての証し ご自身についての証しとは、どういうものだったでしょうか。3種類の事実に分けることができるのではないかと思います。 第1にイエス様は「わたしは、良い羊飼いである。雇い人ではないし、本物である。偽者ではない。」第2番目、「わたしは、門そのものである。道そのものである。道しるべではない。嘘つきでもないし、盗人でもありません。」 そして第3は、「わたしは、父の息子です。そしてわたしは、冒涜者ではない。」とイエス様は、はっきり証しすることができたのです。それを聞いた当時の多くの人々は、嬉しくなった。「やっぱりそうか。旧約聖書で約束された救い主なのではないか。」けども、自分のことばっかり考えた人々、当時の宗教家たちは、聞く耳を持っていなかったのです。 イエス様の言明は、確かにすごい言明です。「わたしだけが良い牧者であり、ただわたし一人のもとにのみ、本当の満足があります。わたしだけが、唯一の天に行く道です。わたしを通らなければ、誰も父のみもとに行くことができない。」 そして、第3番目、「わたしだけが、父と一つになっている者です。わたしは、とこしえなる神です。」、イエス様がその言明によって、もちろん真理を語っておられたということを、どうして解かることができるでしょうか。 イエス様の復活こそが、その証拠になるものです。もちろん今日、イエス様に頼って、イエス様に信頼して、赦されたという確信を持つようになった人々ひとりひとりはその証明であります。 ですから次のように言える人は幸いです。すなわち「私は、イエス様が良き牧者であることを知っている。」けれどもそれだけじゃない。この牧者なるイエス様は、私のものです。その主に私は信頼し、その主に従いたいのです。 また、「私はイエス様が、唯一の門であることをも知っているよ。」、イエス様お一人だけが、あらゆる問題の解決です。イエス様のみもとに来て、後悔した人は一人もいません。 イエス様は、約束された。救い主であることをも知っている。イエス様はとこしえなる神です。というのは、イエス様は、私の罪を赦してくださり、私に永遠のいのちを与えてくださったからです。」 イエス様は、こういうふうにご自身について、言うことができた。ある人は「本当かな、嘘だったのではないか。」が、今話したように、証拠なるものはイエス様の復活です。 イエス様は、よみがえられました。それで2、3人の弟子たちに現れただけじゃなくて、五百何十人の人々は、40日間のあいだに復活なさったイエス様に出会いました。そしてイエス様は、ご自分についてだけじゃなくて、ご自身の羊たちについても語っておられました。 何を言われたかといいますと、「彼らはわたしの声を聞き、その声を知り、そしてその声を聞き分けます。」、羊は確かに愚かな動物です。けども羊飼いの声をちゃんと解かっています。 それだけではなく、「わたしの羊たちを、わたしはよく知っている。そしてまた、わたしは彼らによってよく知られている。もう一つ、わたしの羊たちは、わたしに従います。」、キリスト教に入るのではない。教会に行くのでもない。わたしに従います。大切なのは、人間の思っていること、考えていることではない。神のみことばである聖書は、何といっているか、それだけ。 もちろん、そもそも羊というものは、愚かな動物です。一匹の羊は、川の流れに入ってしまい、溺れてしまうと、その羊に続いている全体の群れは、同じことを行ない、同じ運命にあいます。羊飼いのない羊は、失われ、どうすることもできない状態におかれ、守ってくれる者もなく、完全に助けのない存在です。 そして生ける主なる神は、人間をそのような助けのない羊にたとえておられます。旧約聖書の中で最も大切な書の一つは、おそらくイザヤ書53章じゃないでしょうか。 イザヤ書53:6
良き知らせ、福音そのものです。 人間は、自分がなぜ生まれたのか、人生の意味は何か、死んだ後どうなるのかということを知りません。すなわち人間は、愚かな羊と同じようなものです。 羊は、どこまでも羊であり、そしてまた羊に留まるのです。急に猫になったり、犬になったりすることはあり得ません。人間は結局、どこまでも人間であり、守りなく助けのない存在にすぎない。その状態に留まるのです。 けれども大切なのは、我々人間よりも、イエス様です。イエス様はどうしようもない人間のことを考えておられ、心配してくださり、イエス様によって愛されていない人間はいない。一人も。 昨夜遅く、またある男から電話があって、「私は、ちょうど15秒間ずつ同じ気持ちになる。私はダメ、私はダメ、私はダメ。15秒ずつだよ。」、15秒ずつと言ったんです。 「どうしましょうか。そしたらあなたは、今から15秒づつ、私は愛されている、私は愛されている、私は愛されていると考えて、感謝したらいいじゃないか。」、「あーそうか。終わり」 おもしろい人間がいるね。けども寂しかっただけでしょ。どうしたらいいか解からなかっただけなんです。 イエス様は、今話したように、ご自身について証ししました。「わたしは偽者ではない。本物です。雇い人ではなく唯一の良い牧者です。」、それだけではなく、「わたしは門であり、わたしのもとには安全がある。わたしは、天国に至る道です。」 それからイエス様は、「わたしは、冒涜者ではなく、父なる神の息子です。」、そういうふうにイエス様はご自身について、ご自身を信じる者について証ししてくださったのです。 けれどもそれだけではなく、3番目、イエス様は父について証ししてくださいました。ヨハネの福音書の中だけで、よく出てくる言葉は、80何回「父」ということばです。「神」ではなく「父」ということばです。しかもイエス様は、3種類に分けてこのことを語っておられます。 第1番目、「わたしは、父を知っている。」 第2番目、「わたしの父は、わたしを愛している。」 第3番目、「わたしの父は、すべてにまさって偉大である。」 ヨハネの福音書10:15
聖書は、主なる神の定義を何もしておりませんが、主なる神の本質とイエス様の性質についてはたくさんの説明をしています。 主なる神は、限りなく力をもっておられます。もう想像できません。主なる神の知恵は、考えられないものであり、当然です。完全なるものです。 主なる神は100%信頼でき、また信頼に値するお方です。主なる神は、徹頭徹尾、神聖なお方です。この主なる神は、自然の中にご自身を現しておられ、また預言者たちに与えられたみことばを通して、ご自身を明らかにしておられます。 しかしながら、とりわけ御子、すなわちイエス様を通して、ご自身を啓示しておられます。ただお一人の真の神だけが存在しています。そして、聖書はその他の多くの神々を偶像、あるいは悪霊と呼んでいます。 人間は、誰でもいわゆる神意識を持っています。聖書を知らなくても。人間は誰でも、主なる神の偉大さについて、何かを感じています。 多くの人間は、すべての被造物の背後に創造主である神が存在していることを、理解できないけど、認めています。 そしていつの時代でも、救われたいと願った人が、実際に救われたというのが実情です。恵みを切に願い求める者には、恵みが与えられます。そして恵みが与えられる者は、そのことを通して、主なる神を知るようになります。 けれども、イエス様はここで「わたしは、神を知っている」とは言わずに、「わたしは、父を知っている」と言われました。「神はわたしの父である」とイエス様は言われました。 結果として、当時の宗教家たちは、イエス様を殺してしまったのです。 次に第2の言明、すなわち「わたしの父は、わたしを愛している。」とヨハネの福音書10章17節に書かれています。 ヨハネの福音書10:17-18
別のことばで表すならば、主イエス様は次のように言っておられます。 すなわち「父の愛は、わたしに集中されています。わたしは、父の喜びです。」、今まで誰一人、そのような言明を行なったことはありませんでした。 当時の宗教家たちは、聖書学者たちは、それを聞いて怒り、悪霊につかれている、気が狂っていると言ったのです。 ヨハネの福音書10:20
イエス様を通して、そしてまたイエス様のために全宇宙が創造されたということは、いかにイエス様が中心的に立っているのかを我々に示しているのではないでしょうか。 けど、ここでイエス様は、次のように語っておられます。「わたしがわたしの命を捨てたから、父はわたしを愛しておられます。」と。 十字架の上で、全人類のために贖いの死を遂げてくださり、そのために呪われ、罪そのものとなってくださるという、イエス様の覚悟は、父なる神の愛がイエス様に注がれる原因となっているのです。 「私は愛されており、私は心配してもらっている」ということを人間が知る時、この人は非常に元気になり、不安は消えてなくなり、喜びに満ち溢れます。そしてこれこそ喜びの訪れ、すなわち福音そのものです。 ですから、誰でも次のことを知ることが許されています。すなわち、「私は愛されています。たとえ人間には無視され、のけ者にされているとしても、生ける真の神によって愛されている。」と。 そしてイエス様を自分の生涯の中に受け入れた者は、生ける主なる神が、ただ単に「私の神」であるだけではなく、主イエス様を通して「私の父」ともなってくださったということを知ることが許されています。 すばらしい恵みについて考えると、もう疲れませんし、感謝するばかりです。けれども、そのために永遠の世界に入っていってからも、いつまでも礼拝せざるを得なくなる。どうして愛されたのか、いくら考えても解かりません。私たちもまた愛されている。 けれども、それは私たちが主に愛されるに値するからなのではない。イエス様のゆえにこそ、私たちは愛されているのです。 さらに第3のイエス様の言明は、「わたしの父は、すべてにまさって偉大です。」、大切なイエス様の証しですね。「わたしの父は、すべてにまさってます。」これは、ちょっと他の点に手短に分けてみましょう。 第1に「父が罪や債務より偉大である」ということです。罪と債務は、人間の上に非常に重くのしかかり、あらゆる安らぎを奪い取ってしまうことがありますけど、主は次のように言っておられます。 旧約聖書の福音書であるイザヤ書を見ると、次のように書かれています。 イザヤ書1:18
すばらしい主の呼びかけ、約束であります。父が罪の債務より偉大であるということ。 2番目、父が人間のあらゆるたくらみより、はるかに大いなるお方です。人間は、力を持つことができるでしょうが、けど、父ははるかに偉大なお方です。 このことを旧約聖書のヨセフという男もまた経験しました。彼は次のように告白したのであります。 使徒の働き7:9-10
「しかし、神は」とありますね。「神は彼とともにおられた。」 同じことが、創世記にも書いてあります。 創世記39:3、23
刑務所の中でヨセフは、不平、不満を言わず、主の御手によって守られた者として、安心して前向き生活をすることができたのです。 救いとは、一時的な問題の解決ではありません。永遠なるものです。すなわち、主が共におられることです。 ヨセフの救いは、何だったんでしょうか。主との交わりです。 ヨセフは、主に信頼し、主の導きは完全で、最善の導きであると確信したのであります。ヨセフは、すべてを主の御手から受け取ったのです。 だから、復讐の気持ちもなかったし、なぜならば裁き主は決して自分ではない。主ご自身であると認識したのであります。 ヨセフをエジプトの奴隷として売ってしまった兄弟たちが現れた時、彼は、次のように言えたのです。 創世記50:20
人間は計るけど、主は導く。 出エジプト記33:14
すばらしい。勇気を与えることばです。イエス様は、「わたしの父は、すべてにまさっている」と言われました。すなわち、「わたしの父は、罪や債務より偉大である。」 2番目、人間のあらゆるたくらみよりはるかに大いなるお方である。 3番目、父がすべての病にまさったお方です。 何十年前に、私はスイスで、一人のご婦人を知るようになりました。彼女は神経に異常をきたし、体が動かなくなってしまった。恐ろしい、想像できない病気にかかってしまいました。 彼女の夫は、彼女を捨てて他の女性と一緒に生活していました。けれども、彼女はイエス様を喜んでいました。 結局、「イエス様を知るようになったから、うれしい。イエス様は支配しておられる。だから、この導きも理解できませんけど、間違いなく完全です」と言えたのです。 4番目、父が日常生活における、あらゆる問題にまさったお方です。 日々の生活は、一人の人間の上に何と神経破壊的に、また抑圧的にのしかかっているものでしょうか。けど、父は力づけ、活力を与え、勇気づけてくださることがお出来になります。 よく読む箇所ですけど、ヘブル人への手紙12章の中で、「なぜ、どうして」こういう愚かな質問に対する答えが出て来るんじゃないかなと思います。 ヘブル人への手紙12:5-6
主の命令は、「主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。」、私たちはいったいどうして弱り果てて、精神的に疲れてしまうのでしょうか。 私たちは、懲らしめの証拠について、また懲らしめてくださるお方について、それから懲らしめの目的について考えていないのではないでしょうか。懲らしめられることは、何を証明しているのでしょうか。 愛されていることです。主は愛されている者だけ、心配されている者だけを懲らしめられるのです。懲らしめられることとは、のけ者にされている、罰せられていることではなくて、大いに愛されている事実の証明そのものです。 私たちはいったい、どうして心配するようになるか。疲れてしまうのかと言いますと、懲らしめられていることこそが、愛されている証拠であると忘れているからです。懲らしめられるお方を忘れてしまうからです。 他人のせいだ、環境のせいだと思えば、間違いなく不幸になり、用いられなくなります。懲らしめを与えるお方とは、私たちを、心から愛していてくださるお方、主ご自身です。血潮を流して、ご自分をお捧げになった、命をとおしてこの計り知れない愛を明らかにしてくださったイエス様こそ、導いてくださり、懲らしめていてくださるお方です。 私たちはなぜ、すぐに召された気持ちになったり、あきらめたり、がっかりしたりするのでしょうか。懲らしめの目的を忘れているから。 主は人間一人ひとりの最善だけしか、考えられないお方です。 すべての背後に主は導いてくださるのであり、そしてすべては、間違いなく益となるのです。 私たちは、主の栄光にあずかる者となり、いつまでも栄光の主と共に過ごすようになります。 5番目、父が、あらゆる試みや攻撃にまさっています。悪魔は、あらゆる手段をつかって、我々をダメにしようと思っています。けど、主により頼む者は、ヨセフと同じような態度をとる力を得るようになります。 もちろん、初代教会の兄弟姉妹も、いろいろな辛いことを経験しました。主に信頼すればうまく行くのではない。 コリント人への手紙第II、非常にすばらしい証しです。パウロは、自分の苦しみについてあんまり書いていない。けど、このコリント人への手紙第IIの中で、急に別に隠さなくてもいいと思うようになり、証ししました。 コリント人への手紙第II、1:8-9
もうおしまいと思ったんですね。祈った結果として、彼は急に解かった。 コリント人への手紙第II、1:9
まだなっていなかった。なった、なったと思っていたのですけど、本当は違ったんです。 コリント人への手紙第II、1:10
本当にすばらしい証しです。 4章を見ても、初代教会の人々とは、どうして前向き生活をすることができたのかを書きしるされています。 コリント人への手紙第II、4:16-18
父とはどういうお方でしょうか。イエス様の6番目の答えは、「父が死よりも偉大なお方です」と。 父なる神は、死のかなたにおられ、あらゆる死の恐怖を取り去ってくださいます。イエス様を通して、父を知るようになった者は、慰められ、希望に満ちて安らかに死に立ち向かうことができます。 最後に第7番目のイエス様の父に対する証しは、「父が、わたしの理性にまさっているお方です。」、ペテロはこのことを経験し、また次のように証ししたのであります。 使徒の働き11:17
この主について、また次のように書かれています。みな暗記していることばです。読みましょう。 イザヤ書40:28-31
父なる神は、奇跡を行なうお方です。自分の苦しみとすべての重荷を父なる神の御手に委ねる者は、奇跡を経験することが許されています。 主イエス様を、自分の人生に受け入れた者は、次のことを知ることができます。「私は、父なる神の子であり、私の父なる神にどんなことでも言うことが許されている。私は、信頼することができる。父は、必ず助けてくださる。」 だから、イエス様は、初めに読みましたヨハネの福音書10章の中で、言われました。 ヨハネの福音書10:28-29
この主のみことばほど、信じる者の永遠の安全をはっきりと証ししているものはないでしょう。 聖書が永遠のいのちという場合、それは決して滅びることがなく、とこしえに続くことを意味しているのであります。イエス様を信じる者は、永遠に失われることがありません。 「だれもわたしの手から彼らを奪うことができない。わたしの父は、すべてにまさっています。」、私たちは、私たちの父の御手の内ににいるとイエス様は、約束しておられます。 救われた者は、父の御手のうちに、そしてまた、イエス様の御手のうちに守られています。これは、永遠の安全を意味しています。 それですから、パウロは次のように証しすることができた。 ローマ人への手紙8:35-39
最後に一つ、中国で起こった出来事について話したいんです。共産主義者たちは、何十年前にウォッチマン・ニーという男を、彼の信仰のゆえに刑務所に20年間投獄しました。 彼は、文字通り骨と皮ばっかりに痩せてしまいました。しかも、共産主義者たちは、このウォッチマン・ニーと同じ運命にあずからなければならないという恐怖を、イエス様を信じる者たちが持って、恐れることを期待しながら、恐ろしい見せしめとして町中彼を引きずり回しました。 けれども、結果は共産主義者たちは、考えたこととちょうど正反対の結果になりました。信じる者は、ウォッチマン・ニーの光輝く顔を見て、主の栄光を仰ぎ見ることができ、どんなことがあっても主のためにだけ、生きなければならないと堅く決心したのでした。 父は、すべてにまさって偉大なるお方です。ですから私たちは、もはや心配したり、恐れたりする必要がない。我々の信頼を通して、主は栄光を現してくださいます。 主に仕えることが許されているということ、そしてまた、全能なる主を父と呼ぶことが許されていることは、何と言うすばらしい特権でありましょうか。 |