引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、1章1節-10節
今、兄弟がお読みになった第一章の中に出てくる一番大切な表現は、10節ではないかと思うのです。 9節からお読みいたします。 テサロニケ人への手紙第I、1:9-10
生けるまことの神に仕えるため、神に立ち返り、イエスが天から下って来られるのを待つと書いてあります。 ちょっとだけ3つのことについて考えたいと思うのです。 第一は、この手紙についての一般的なことがら。 第二は、この手紙の言わんとしていることとは、どういうことなのでしょうか。 第三は、このテサロニケにおける教会の発生についてちょっとだけ考えたいと思います。 ここでテサロニケと呼ばれている都市は、かつてサロニケと呼ばれていた所だったのです。 サロニケというところは昔からあった小さな村だったのですけれども、紀元前315年にアレキサンダー大王の後継者のひとりであるカサンドロス、すなわちマケドニヤのカサンドロスが新たに拡充して作りかえたものがテサロニケと呼ばれた町になったのです。 けれどテサロニケという名前の由来は、アレキサンダー大王の妹、すなわちカサンドロスの妻の名前にちなんで付けられたと言われています。それがパウロの時代には十万人の住民を擁する大都市だったのです。 テサロニケにはユダヤ人も少なからずおり、会堂を持っているユダヤ人もいたのです。またそこは港でもあり、大きな商取引の行なわれる場所でもあったのです。この手紙の作者はパウロであり、パウロといっしょにシルワノとテモテもいたことがわかります。 シルワノはアンテオケからパウロといっしょになり、テモテはルステラからいっしょになったのです。 手紙を受け取った受取人はいうまでもなく、テサロニケの教会です。西暦52年、パウロは二回目の伝道旅行をしましたが、そのときテサロニケにやってまいりました。 彼はピリピからやって来たのです。ピリピに滞在していたときのパウロの生活は人間的に見るならば、失敗のように見えますが、そこから小さな集会が発生した事実は非常に重要な意味をもっています。 確かに人間的に見るならば、パウロが捕われたことは失敗のように思われますけれども実際はその反対で、パウロは大喜びで力強くテサロニケにおける伝道活動を続けたのです。 彼は3つの安息日に大成功を収め、福音を宣べ伝えたのです。それを通してユダヤ人たちも異邦人もまた、少なからざる貴婦人たちもイエス様を信じ、受け入れるようになったのです。 それはパウロにとってもっとも体力と気力を消耗したときでありました。というのもパウロは他人の世話になることを好まず、他人から悪口を言われることも好まなかったから、自分で働いて生活しなければならなかったのです。 パウロはこのようにして悪口を言われないように頑張ったのですけれども、それにも関わらず大きな反対が持ち上がったため、信者のことを考えてテサロニケを離れたのです。 そのあとでパウロはテサロニケから出て、二人の同労者、アリスタルコとセクンドを与えられたのです。パウロはテサロニケにわずか4週間しか滞在しなかったのですけれども豊かに祝福されたのです。 パウロはテサロニケを離れてベレヤへ行き、そこで伝道活動を続けたのですが、結果は同じように、陰謀のためそこをも離れざるを得なくなり、そのようにしてアテネに向かったのです。そしてアテネでは非常に豊かな実を結ぶことができたのです。 使徒の働き17章16節からずっと18章までをお読みになればわかります。アテネでの奉仕は本当に祝福されたものだったのです。けれどもテサロニケのことを思ったパウロはシルワノとテモテとをアテネから帰したのです。 パウロは次にコリントへとやってまいりました。このコリントでパウロは再びシルワノとテモテに出会い、二人からテサロニケで見聞きしたことをつぶさに聞いたのです。 テサロニケの集会はユダヤ人から大きな攻撃を受けたにも関わらず、模範的な集会に成長したのです。 例えば今読まれました1章の6節を見てもわかります。 テサロニケ人への手紙第I、1:6
テサロニケ人への手紙第I、2:14
信仰のゆえに迫害を受けたのです。そして3章の4節。 テサロニケ人への手紙第I、3:4
そして今読みました個所の中で、苦難、苦しめられたという表現がよく出てきました。攻撃です。彼は大きな攻撃を受けるようになったのです。 けれどもそれだけではなく、彼らは模範的な集会になったのです。そのためでしょう。 もう一回1章の2節、3節を読むとわかります。 テサロニケ人への手紙第I、1:2-3
また、8節です。 サロニケ人への手紙第I、1:8
また、 テサロニケ人への手紙第I、2:19-20
彼は確かに迫害、攻撃を受けたのですけれども、主に頼ったのです。彼らは本当に成長したのであります。 パウロはこの2人の兄弟たちの報告を聞いたあとで、西暦53年にパウロはコリントでこのテサロニケ人への手紙第Iを書いて出したのです。この手紙はパウロが一番最初に書いた手紙です。 パウロがこの手紙を書いた目的は、信者にとって一番大切な目標を指し示すことでした。 彼らはみんな救われたばかりの人々だったのです。だから彼らに一番大切なことを伝えるべきではないかと思って、手紙を書いたのです。聖書の手紙はもちろん全部、もうすでに救われた人々のためにだけ書かれたものです。 信者の信仰がますます成長し、一層イエス様に拠り頼むように、拠り頼むために書かれたものです。 次にこの手紙が言わんとしていることについてちょっと考えたいと思うのです。 おもな内容は、イエス様がご自分を待つ者のために必ず来られるということです。手紙の中心はイエス・キリストの再臨です。10節を見るとわかります。 テサロニケ人への手紙第I、1:10
イエス・キリストの再臨を信ずるようになったかと書いていません。待ち望むようになったか。大切なのはそれなのです。 また、 テサロニケ人への手紙第I、3:13
と書いてあります。イエス様の再臨ならびに、それが持つ信者の体験との関係がいかなるものであるかを説明することが目指されています。 イエス様の再臨が、いかにひとつの狂喜のみならず、信者の信仰生活において生き生きとした力を現わす秘訣にもなっているのです。 どの章を見てもその終わりには必ず、イエス様は再臨されるというみことばで結ばれています。今読みました1章の10節を見てもそうですし、2章の19節にもそうなっていますし、3章の13節もそうなっていますし、4章の16節、17節、ちょっと読みましょう。 テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
そして最後の5章にも23節に次のように書いてあります。 テサロニケ人への手紙第I、5:23
と書いてあります。全ての書の終わりに、イエス様は再臨されるとはっきり書き記されています。 主の再臨がいったいいかなる影響を及ぼすのでありましょうか。 各章ごとにひとつのテーマを取り上げて考えてみることができるのではないかと思うのです。全部で5章ありますから、パウロは5つの答えを出しているのです。キリストの再臨がいったいいかなる影響を及ぼすのでしょうか。 第一章において、イエス様の再臨が神に立ち返ることに対していかなる影響を及ぼすかを考えてみると、これに対してパウロは、新しく生まれ変わった兄弟姉妹では主の再臨が、生き生きとした望みを与えると答えています。人間は生き生きとした望みを持つべきです。 第二章においては、主の再臨が救われた人々の奉仕に対していかなる影響を及ぼすかという問いが出されます。この問いに対しては、忠実な主のしもべに対して主の再臨は、力づけ、勇気づける望みを与えると答えられています。私たちは生き生きとした望みだけではなく、力づけ、勇気づけられる望みを持つべきです。 第三章においては、主の再臨が私たちの心の状態に対していかなる影響を及ぼすかという問いが考えられます。それに対して主の再臨は、救われた兄弟姉妹に聖める望みを与えると答えられています。 そして第四章の後半においては、主の再臨が信者の死に対していかなる影響を及ぼすかと問われています。これに対して主の再臨は、残された者に対して慰める望みを約束していると答えられています。慰めを与える望みです。 そして第五章においては、主の再臨が信者の目を覚ましている状態に対していかなる影響を及ぼすかを考えてみると主の再臨は、まどろんでいる信者を呼び覚まし、完全な献身へと導いてくれるのです。 したがって、このようなことからもわかるように、この手紙全体の中心点はまさに主の再臨にあるというわけです。そして主の再臨こそ、われわれの全生涯を根本的に作り変えるべきです。 主の再臨がなければ、私たちには何の望みもありません。主の再臨がなければ何ら力づけ、勇気づける力は存在しないことになります。ただ主の再臨を待ち望む者だけがますます聖められ、ますます高められるのです。 主の再臨がなければ、私たちが前に死んだ信者と再会する望みもなく、何らの慰めもないことになります。もしも主が再臨なさらなければ、献身の生活も価値がなくなります。けれども主は必ず再臨なさいます。これこそパウロが力強く言わんとしたことにほかなりません。 主を信ずる者は正しい道を歩もうとする限り、絶えず主の再臨に心の目を向けていなければならないのです。 われわれの人生を決定しているものは何なのでしょうか。目の前にある色々な出来事でしょうか、それとも主の再臨なのでありましょうか。 主は今日来られるかもしれない。この待ち望みを持つべきです。 最後に第三番目に、テサロニケにおける教会の発生についてちょっとだけ考えたいと思うのです。 パウロがテサロニケに送った手紙は、非常にわかりやすく書かれているため、だれが読んでも理解できると思うのです。 そしてローマ人への手紙のように、狂喜の手紙でもありません。また、ガラテヤ人への手紙のように、色々な対立の問題を含んだ手紙でもありません。この手紙は、まさにパウロがテサロニケにいる信者ひとりひとりに対して真心を込めて書いた手紙なのです。 それですから私たちはテサロニケの教会をよりよく知りたいものです。 使徒の働きをちょっと開きましょうか。使徒の働きの17章1節からちょっとお読みいたします。 使徒の働き17:1-2
パウロの土台なるものは、神のみことばである聖書だけだったのです。「聖書に基づいて」、この表現は非常に大切です。 使徒の働き17:3
キリストは苦しまなければならない、死者の中からよみがえらなければならなかったことは、パウロにとって非常に大切だったのですし、われわれにとってももちろん非常に大切なことです。 聖書の中心は、ちっぽけな人間は何と何と何をなすべきかではなく、キリストは何を成されたかということです。イエスこそキリストなのです。 すなわち、十字架の上で死なれたキリストこそが預言された、約束された救い主だったということです。 使徒の働き17:4
幾人か、大ぜい、少なくなかったと書いてあります。 使徒の働き17:5-11
良い人たちとはどういう人々であるかと言いますと、ベレヤの人々のような者ではないかと思うのです。彼らはパウロと彼の同労者の話、また証しを聞いたとき、すぐ信じようとしなかったのです。パウロはそれを見て、大いに喜んだのです。 彼らは自分で、パウロとパウロの話ははたして聖書的かどうか、聖書に基づいているものであるかどうかと、自分で調べたのです。パウロはそれを見たとき、大いに喜んだのです。 もし彼らが、パウロはそう言っている。だから信じましょうというだけだったならば、パウロはがっかりしてしまったでしょう。パウロの言っていることは、はたして聖書に基づいているものかどうかと、徹底的に調べたのです。 この1節から10節までを読むと、このテサロニケの教会はどういうふうにできたのかと書いてあります。 すでにご存知のように、ヨーロッパで最初に発生した教会は、ピリピの集会だったのです。パウロとシラスはピリピで捕えられ、ひどく取り扱われたのです。けれども彼らは決して周囲の人間を見ることなく、絶えず復活されたイエス様を見上げたので、苦渋においても絶えず喜び、感謝することができたのです。 彼らは捕われの身から解放されたあと、テサロニケへ行き、そこでも同じように喜びと感謝をもってイエス様のことを宣べ伝えたのです。 パウロはこのテサロニケでいかなる働きをしたのでしょうか。この1節を見ると、パウロの一行がテサロニケにあるユダヤ人の会堂に行ったことがわかります。 パウロはそこで・・2節を見ると、聖書に基づいて、すなわち旧約聖書に基づいて彼らユダヤ人と論じ合いました。 旧約聖書はパウロにとって最高の権威だったのです。彼は自分の思っていること、考えていることを言おうとしなかったのです。彼にとって最高の権威はみことばだけだったのです。 パウロはイエス様によって捕えられた者として人間が聖書についてどう思うかではなく、反対に、聖書が人間について何と言っているかということが非常に大切であることを強調しました。 聖書が絶対の権威を持っていると信じない者は、聖書について話す権利を全然持っていないのです。そしてパウロは福音の中心となる一番大切なこと、すなわちキリストが苦難を受け、死人の中からよみがえった事実を説明しました。 そのときパウロは、自分が復活したイエス様を見、且つ、御声を聞いたことをつぶさに話して聞かせたのです。そしてイエス様の復活はイエス様がメシヤであり、約束された救い主であることを証明した事実にほかならないことをも論証したのです。 けれども社会問題や政治の問題に立ち入ることはせず、ただ十字架につけられ、復活されたイエス様だけを語ったのです。また、イエスこそ聖書で約束され、イスラエルの民が長い間待っていたメシヤであり、全ての主であることをも説明したのです。 したがって、福音の中心というものは決して倫理、道徳の教義ではなく、イエス様が成されたみわざと、それが今日持っている意義にほかならないのです。 この福音がテサロニケにおいていかなる影響を及ぼしたのでありましょうか。17章の4節を見ると、その中には信心深いギリシヤ人が多数あり、信者になった貴婦人たちも少なくなかったことがわかります。 また単にユダヤ人のみならず異邦人もイエス様を信ずるようになったのです。けれども5節を見るとそのために、もしだれも信じなかったなら問題にはならなかったのですけれども、イエス様を信じ、受け入れた人がいたから迫害が、暴動が起こったことがわかります。 したがって福音は二重の、あるいは二面的な効果を持った影響を及ぼしたと言うことができるのではないかと思うのです。一方においてはイエス様を信じ、受け入れた者がおり、他方においてそれを拒み、迫害や暴動を起こす結果を招いたのです。 すなわち、一方においては神のことばを聞いてそれを信じ、全く新しい者に造り変えられることが怒るわけです。そのときまでは神に対して目くらであった罪人がみことばを信じ、イエス様を受け入れることによってイエス様に従う新たな決意を持つように導かれたのです。 私たちもこの大いなる神の力に徹頭徹尾拠り頼み、信頼しようではないでしょうか。そうする者は大いなる主の奇蹟を体験することができるのです。 テサロニケにおいてはこのようにしてイエス様を信じたユダヤ人もギリシヤ人もイエス様にあってひとつのものとなったのです。けれどもユダヤ人が異邦人といっしょになるなどということは、以前にはとっても考えられなかったことだったのです。 イエス様によって統一とひとつの教会が生まれたのです。ローマ人への手紙1章16節によると、福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、すなわち異邦人にも、全て信じる者に、救いを得させる神の力であるとパウロは書き記したのです。福音は神の力です。 福音は決して教えではなく、救いに至る、救いを得させる神の力です。この力をユダヤ人もギリシヤ人も、全て信じる者は共通に体験することができたのです。 かつては憎み合い、軽蔑し合っていたユダヤ人と異邦人がイエス様を信じた今はお互いにひとつになり、交わりを持つことができるようになったのです。 けれども福音は全ての人に対する神の力ではありません。イエス様を信ずる者にとってのみ神の力なのです。信じない者にとって福音は単なる教え、倫理、道徳にすぎないでしょう。けれども信ずる者にとって神の力となります。救いを得させる神の力です。 福音はどういう結果をもたらしたのでありましょうか。福音はユダヤ人の死んだ信仰を取り除いたのです。ユダヤ人たちはみんな信じたのです。みんな例外なく神の存在を信じたのです。 ユダヤ人たちはおそらくみな例外なく当時の旧約聖書を神のみことばとして認めたでしょう。けれども神の信仰は役に立たないものだったのです。死んだ信仰だったのです。 正しい教えを知ることによって、信ずることによって人間は救われません。このテサロニケの教会のことを考えるとはっきり言えることは、福音はユダヤ人の死んだ信仰を取り除いたのです。それだけではなく、福音は異邦人をむなしい試みから解放したということです。 あらゆる宗教は単なる人間的なむなしい試みにすぎないからです。そして異邦人たちは、結局むなしい試みから福音によって解放されたのです。イエス・キリストのみが、イエス様を信ずるユダヤ人と異邦人の目標と中心になったのです。 組織と結びつくのではなく、聖霊によってひとつになることが実現されたのです。イエス様のいのちが彼らの中に生き生きと脈打っておりましたがゆえに、ひとつの生き生きとした教会になることができたのです。 けれどイエス様が啓示されるところではどこでも必ず悪魔の攻撃が試みられます。悪魔の働きと悪魔の攻撃、悪魔の憎しみを感じなければあなたの信仰は神の前に役に立たないものであると言ってよいでしょう。 最後に、迫害原因が何だったのでありましょうかについてだけ考えて終わりましょう。17章の6節を見ると、彼らは大声で叫んだのです。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにもはいり込んでいる。」とあります。 使徒の働き17:6
これこそパウロに反対する要素のひとつの点だったようです。福音が宣べ伝えられているところでは人の心が動かされるものです。罪の赦しを体験した者は正しい望みをもつことができるようになったのです。 イエス様を知っている者は、かつて人生のむなしさを感じていた状態から解放され、はっきりとしたひとつの目的を持つことができるようにされたのです。 福音によってひとつの革命が引き起こされました。そしてこの革命が永遠の滅びから救われるためにはどうしても必要なものです。 告訴の第二の点は、パウロたちが・・・7節を見るとわかります。イエスという別の王がいるなどと言っていることだったのです。けれどもこの点こそ福音の中心ではないでしょうか。 すなわち本当の王はローマの皇帝ではなく、イエス・キリストであるという、このことこそまさに福音の中心をなすものです。イエス様は天においても地においても全ての権威がわたしに与えられていると言われました。 イエス様は今日でも全宇宙を支配しておられる万物の支配者です。 テサロニケにおいても信者も未信者も、友も敵も全ての人が、イエスが王であることを、結局知るようになりました。そしてこの証しの事実こそ、テサロニケにおける小さな教会の存在にかかっていたのです。 異邦の地において神と敵対している者が大ぜいいる真ん中にイエス様を愛し、忠実に従う教会が建てられ、そこからいのちと光とが出ていったのです。 今日も私たちの周囲は、その当時テサロニケにおいて見られたと同じような状態にあると言えます。けれども今日も神のみことばが人の心を新しく造り変え、悪魔の奴隷から解放して、神の子にしてくださる力を持っているのです。 神のことばは事実、神の力であり、奇蹟を行なう力です。私たちはこの神のことばに対して自分の心を開くのでありましょうか。それとも閉じるのでしょうか。 私たちが心の平安とまことの喜びを持つことができるか、それとも、望みなく、永遠の滅びに沈んでいくかということは、われわれ自身の心の態度にかかっているのです。 ただイエス様だけが王であり、イエス様以外に王はいないと確信をもって、また喜びをもって言うことができる者は本当に幸いではないかと思います。 今日は一度ここまでにして... |