例えば前回やったように、神に立ち返ることに対してイエス・キリストの再臨がいかなる影響を及ぼすかという問いに対して、生き生きとした望みを与えるという答えをすることもできるわけです。 このテサロニケの教会はただ出来て存在したというだけではなく、しっかりと根を下ろし、信者も成長して妥協することなく、いつもはっきりとした態度を取ることができたのです。このテサロニケの教会の特徴は、非常に早く成長したということです。 この手紙には、選ばれていることであるとか、再臨、聖め、聖霊について記されていることから判断して、テサロニケの教会が生まれたばかりの状態にとどまらないで、立派な大人の教会の成長したことがわかります。 第一章は、要するにテサロニケの教会が神に立ち返ったことに対するパウロの感謝の祈りで満たされています。そこで次に六つの質問について簡単に考えてみたいと思います。 第一番目の問いは、このテサロニケの教会の特徴はいかなるものであったかということです。 第二番目の質問は、みことばがこのテサロニケの教会に対していかなる影響を及ぼすことができたかということです。 第三の質問は、いかにしてみことばがテサロニケで宣べ伝えられたかということです。 第四に、みことばを受け入れることについてパウロは何と言っているのでありましょうか。 第五番目の質問として、テサロニケにおいていかなるいのちの現われが見られたかについてちょっとだけ考えてみたいと思います。 最後に結論として簡単に、テサロニケの教会がどれほど広がる力を持っていたかについてちょっとだけ考えてみたいと思うのです。 第一番目の問いは、このテサロニケの教会の特徴はいかなるものであったかということです。 それは、生き生きとした健全な教会、したがって、清澄な教会だったことがわかります。この教会の秘訣は神のみことばの上に立ち、神のみことばを第一にしたということです。1章の今読まれたところなのですけれども。 テサロニケ人への手紙第I、1:5
また6節、 テサロニケ人への手紙第I、1:6
テサロニケ人への手紙第I、1:8
とあります。ここで5節、6節、8節と三回も「みことば」という表現が出てきています。 この教会はパウロにとってのみならず、イエス様にとっても大きな喜びだったのです。まさに模範的な教会でした。どうして模範的な教会であったかと言いますと、神のみことばの上に立ち、神のみことばを第一にしたからです。 われわれの教会は決して模範的な教会ではないと思います。なぜならば、兄弟姉妹すべてがみことばの上に立つことをせず、みことばに満たされていないからです。 何としばしば私たちは自分の心や他人の言うことや悪魔のささやきのほうをみことばよりも大切にするのではないでしょうか。それらのものに耳を傾けないで、ただ主のみことばだけを大切にする者は、豊かに祝福されるのです。 何があってもいつも覚えていただきたいことは、自分の思っていること、考えていること、他人の思っていること、考えていることは全然大切ではない。大切なのはみことばだけです。 みことばにだけ頼ると大いに祝福されます。テサロニケの教会はどうしてそんなに早く成長したかと言いますと、みことばにだけ頼ったからです。 第二番目の質問は、みことばがこのテサロニケの教会に対していかなる影響を及ぼすことができたかということです。 今読みました1章の5節によると、神のことばはテサロニケの教会で力ある働きを成すことができたとわかります。聖霊の力によってパウロは福音を宣べ伝えました。 そして1章の6節を見ると、彼らがみことばを受け入れたこともわかります。したがって、ただ単にみことばを聞いただけでなく、それを受け入れたことも明らかです。みことばを理解することは全然大切ではありません。受け入れることが大切です。みことばを受け入れて自分のものにしなければ、みことばの力を体験することはできません。 福音は宣べ伝えられたのです。宣べ伝えられたみことばを彼らは受け入れたのです。したがってみことばの力を知るようになり、みことばによって生かされた者となったのです。そして1章の8節を見ると主のことばが彼らから出て響きわたったと記されています。 ここでみことばが広められたことがわかります。これは本来、健全な教会が成長していく過程を表わしています。すなわちまず力を持って福音が宣べ伝えられ、そのみことばが受け入れられ、さらに広められるということこそ、生き生きとした教会の特徴です。 もちろんみことばは単なる普通のことばや、単なる教えではなく、イエス・キリストご自身を表わしているのです。みことばはイエス様ご自身です。聖書は単なる教えではなく、神の啓示そのものです。 ヨハネの福音書はこの真理をはっきりと示しています。例えば1章の1節からちょっとお読みいたします。よく知られている個所です。 ヨハネの福音書1:1-2
今まで「ことば」だったのです。急に「この方」となっています。ですかた単なる「ことば」ではなく、ひとりの人格者です。 ヨハネの福音書1:2-4
ヨハネの福音書1:14
すなわち人間となって ヨハネの福音書1:14
と書いてあります。ことばそのものは、イエス・キリストご自身であるとこの個所を通してはっきりと知ることができます。 だからここでも同じように、ことばの代わりにイエス・キリストを置き換えてみて、イエス・キリストが力強く宣べ伝えられ、イエス・キリストが受け入れられ、イエス・キリストが広められたと表現すれば意味もはっきりします。 テサロニケの兄弟姉妹たちは、いわゆるキリスト教のために宣伝しようとしなかったし、ひとつの教えを宣べ伝える気持ちも無かったのです。彼らはイエス様を証ししたことだけです。 みことばを宣べ伝えることはすなわちイエス・キリストを証しすることでなければ悲劇的なのです。 何回も何回もここでも色々な兄弟たちを通して言われたことは、今日のキリスト教はどうしておかしくなってしまったかと言いますと、いわゆる一つの教えが大切にされているからです。正しい教えが宣べ伝えられれば、人間はこの教えを信じ込めばそれで十分なのではないかという考え方です。けれども決してそうではありません。 みことばそのものはイエス・キリストであり、イエス・キリストに出会わなければ、イエス・キリストとの関係を持つようにならなければ、人間は聖書学者になるかもしれませんけれども、イエス様は当時の聖書学者たちに向かって、「あなたがたは幼子のようにならなければ決して決して救われません。」とはっきり言われたのです。 すなわち、あなたがたの聖書知識は役に立たないことです。ということなのです。 みことばは単なる教えではなく、イエス・キリストご自身です。テサロニケの方々は、イエス・キリストについて聞いただけではなく、彼らはイエス・キリストを自分の救い主として、主として受け入れるようになり、そしてこのイエス・キリストを証しせざるを得なくなったのです。 本当の宣べ伝えは全てその内容の中心がイエス・キリストご自身です。 パウロはコリント人への手紙第Iの15章の中で、一番大切なことは何であったか、何であるかと次のことばでもって書き記したのです。 軽井沢の修養会に出た方々は、このことばをよく思い出していると思うのです。大きな字で真正面に書かれていることばです。 コリント人への手紙第I、15:3
自分で考え出したことではないのです。私も受けたことであって、すなわち啓示によって受けたことであって、 コリント人への手紙第I、15:3-4
です。結局キリストこそが、われわれの罪の代わりに死なれたキリストこそが、それから、死を克服して復活なさったイエス・キリストこそが中心であります。 ここでパウロは意識して、聖書の示すとおりに、聖書に従ってという表現を使ったのです。すなわち私の考えていることは決して大切ではない。大切なのは、聖書は何と言っているかということなのです。 この態度を取ると、本当に大いに祝福され、用いられます。 第三の質問は、いかにしてみことばがテサロニケで宣べ伝えられたかということです。5節を見ると書いてあります。 テサロニケ人への手紙第I、1:5
と書いてあります。 力と聖霊と強い確信とによって福音が伝えられたことがわかります。 ここで明らかなことは、聖霊とパウロとがひとつになって働いたということです。これこそ祝福の秘訣です。人間は一人ぼっちでいくら頑張っても何にもなりません。聖霊の唯一の目的は、イエス様の栄光を現わすことです。 この聖霊といっしょに働くようになればイエス様のご臨在が明らかになり、人間は神の栄光を経験するようになります。 パウロはいつも聖霊に聞き従いたいという飢え渇きをもっていたがゆえに、聖霊が臨んで働いてくださったのです。聖霊は忠実に従う者に望み、臨んで働くことができるのです。 使徒の働きの5章の30節に次のように書いてあります。 使徒の働き5:30-32
と書いてあります。聖霊の働きは教会の成長にとってどうしても必要なものです。 聖霊が働かなければ教会は単なる教える会になり、ひとつのクラブになってしまいます。決して生き生きとした教会になりません。聖霊がともに働くことができれば、今日でもテサロニケに見られたと同じことが実現されます。 第四に、みことばを受け入れることについてパウロは何と言っているのでありましょうか。テサロニケ人への手紙第Iに戻りまして、5節と6節を見ると、聖霊によってみことばを伝えただけでなく、みことばを受け入れたこともわかります。 聖霊による喜びをもってみことばを受け入れたと記されています。聖霊はみことばを宣べ伝えるときのみならず、受け入れるときも積極的に働くと言っています。 そしてみことばを受け入れることは、イエス様を受け入れることであり、イエス様を受け入れることこそ本当の信仰なのです。信ずることは意識してイエス様を受け入れることです。 みことばは理解するものではなく、受け入れるものです。みことばは読むべきものではなくて、食べるべきものであると有名な哲学者ヒルティーは言っています。ヒルティーは読んだことは忘れやすいのに対して、食べたものは力となると言っています。 私たちはみことばを読むだけにとどまるか、それとも本当に食べて消化するかということは私たちの人生にとって非常に大きな結果をもたらすことになります。 ただ単にみことばを読むにとどまった者はやがて失われてしまいますが、本当に食べて、十分にみことばを味わい、消化した者は永遠に救われています。 みことばを食べる。すなわちイエス様を意識して受け入れることこそが大切です。受け入れることはもちろん意思の行為です。 ヨハネの福音書1章の12節に、信ずることは、すなわち、受け入れることであるとはっきり記されています。 ヨハネの福音書1:12
信ずることとはすなわち、一人の教えを信じ込むことではなく、一人の人格者、すなわち神の救い主なるイエス様を受け入れることです。 受け入れることは意思の行為です。信仰とは、結局その人の意思の問題なのです。信仰とは、知らないうちに心の中に入り込んでくる感情、あるいはそれを漠然と待っている気持ちではなく、まさにひとりひとりが決断しなければならない意思の問題です。 したがって、順番としてはまず、決心して、それから行なうようになります。 ルカの福音書15章に書いています放蕩息子、彼は豚といっしょになるほど落ちぶれたとき、いい気持ちになることを待つことはしなかったのです。彼は父の身元に帰ることを決心したのです。決心しただけではなくて実際に行動したのです。 帰ろうと思っただけではなく実際に帰ったのです。信仰とは自分自身のみじめな状態と罪の苦しみを素直に認め、主なる神が提供された贈り物を素直に受け入れることを決心する決断にほかなりません。 神のみことばは今日も力強く生きているものです。みことばは決して死んだものではない。 ヘブル人への手紙の4章の12節に、よく知られている個所ですけれども次のように書いてあります。みことばはどういうものであるかと説明されています。 ヘブル人への手紙4:12
主のみことばは決して死んだものではなく、生きているものです。みことばは力強く、生きているものであるかゆえに、それを受け入れた者には大きな影響を及ぼすものです。 みことばによって人間は生かされるようになり、救われます。みことばは救う力を持つものです。 テサロニケの人々はみことばを受け入れたことによって、結局新しく生まれ変わったのです。このようにして受け入れられたみことばは、新しく生まれ変わるための種であり、決して感情や気分や人間の理解力によるものではありません。 新しく生まれ変わることは次のようにして実現されます。すなわちまず第一に、8節に書いてありますように神に対する信仰。次に、9節。神に立ち返ることと偶像を捨てること。そしてテサロニケ人への手紙第Iの4章の8節によると、聖霊を受け入れることです。 みことばを受け入れる者は神を信ずることができるようになり、その結果、偶像を捨てて神に立ち返り、聖霊を受けるようになるわけです。 第五番目の質問として、テサロニケにおいていかなるいのちの現われが見られたかについてちょっとだけ考えてみたいと思います。 みことばによってテサロニケの教会が新しいいのちを持っていたことがわかります。そして1章の3節にこの新しいいのちのことについて記されています。もう一回お読みいたします。 テサロニケ人への手紙第I、1:3
とパウロは書き記すことができたのです。 ここで三つのことがらについて、すなわち第一は、信仰の働き。そして第二目は、愛の労苦。第三は、望みの忍耐について書き記されています。 この三つのことがらについてちょっとだけ考えたいと思うのです。 第一は、信仰の働きについて記されていますが、本当の信仰はおのずからその結果として豊かな実を結ぶようになるのです。信仰とは、新しい生涯を送るための力です。 したがってテサロニケの信者たちはただ単に信じただけでなく、その信仰が行動の形で行ないとして現われてきたのです。実際には偶像から離れてまことの神に仕えるようになったのです。 命令されたからではなくて、信仰の結果としてこういうふうになったのです。 次に二番目になりますけれども、愛の労苦という表現が使われています。信仰が新しい生涯の力であるとするならば、愛は新しい生涯のための温かさを意味します。 テサロニケの兄弟姉妹たちは神を愛したのみならず、神を愛するがゆえに、神のために苦しんだのです。実際には生きるまことの神に仕えるという形で現われたのです。 そして三番目は、望みの忍耐と書いてありますが、この望みの忍耐とはいったい何を意味しているのでありましょうか。 信仰が新しい生涯のための力であり、愛が新しい生涯のための温かさであるとするならば、望みは新しい生涯のための光であると言うことができると思います。 このテサロニケのクリスチャンたちはただ単に望んだだけではなく、その望みのために勇敢にも迫害を甘んじて受けたのです。彼らは偶像から離れて、生きるまことの神に仕えただけではなく、心からイエス様を待ち望むようになったのです。 イエス様の再臨を信ずることはもちろん大切でありましょうけれども、もっともっともっと大切なのは待ち望むことです。イエス様は今日来られるかもしれないという生き生きとした望みを持つことこそが大切です。 テサロニケにおける信者の特徴は、試された信仰、偽らざる愛、そして生き生きとした望みだったのです。あらゆる信者の生涯はこれと同じように、救われてまことなる神に仕え、主を待ち望む心構えであるべきです。 私たちはただ単に救われるために救われただけではなく、まことなる神に仕え、心からイエス様を待ち望むために救われたということをテサロニケの信者たちはよくわかっていたのです。だから彼らは主によって用いられる者となったのです。 このような理由からテサロニケの教会は隠れている状態にとどまることはできませんでした。光は輝かなければなりません。 まことのいのちは成長し、広く、大きくなっていかなければなりません。テサロニケの教会は模範的な生涯を送ったために、その周囲への証しとなったのです。 新しく生まれ変わる人生の実は信仰と愛と希望でした。新しく生まれ変わった人生の特徴は、まことなる神に立ち返り、忠実に仕え、主を待ち望むことでした。 けれどもこのことは彼らの人間的な力によったのではなく、神によって選ばれ、聖霊の働きを妨げなかったからです。 けれど今日多くの信者が「私はイエス様を信じている。」と言いながら、実際生活の中で豊かな実を結ぶことなく、未信者とほとんど変わらないような生活をしていることは、悲しむべき事実です。 試された信仰、偽りのない愛、生き生きとした望みが少しも見られないような場合には、その人が本当にイエス様と結び付いている、交わりをもっているかどうか疑わしいものになります。 最後に結論として簡単に、テサロニケの教会がどれほど広がる力を持っていたかについてちょっとだけ考えてみたいと思うのです。7節をお読みいたします。 テサロニケ人への手紙第I、1:7
こういうふうに、あなたがたは、 テサロニケ人への手紙第I、1:7
彼らがその地方全体の模範となったことがわかります。彼らは人間として立派だったのではなく、イエス様が彼らの中に大きな位置を占め、十分に働いてくださったがゆえに、模範となったのです。8節を見てもわかります。 テサロニケ人への手紙第I、1:8
主のことばがテサロニケに教会から出て、その地方一帯に響き渡ったのです。彼らは本当に生き生きとした証しだったのです。 イエス様についての喜ばしい訪れは、この教会を通して広く告げ知らせられたのです。そのためにマケドニヤとアカヤの人たちもイエス様のことを知るようになったのです。 みことばを受け入れることと、それを広めることとは、お互いにひとつの関連性を持っています。心の中に深く入れば入るほど、外に広まる力も大きくなります。 生き生きとした教会とは絶えずイエス様を宣べ伝えている教会です。私たちがみことばを受け入れ、それに従う程度に応じて多くの人々が私たちを通して導かれ、救われるようになります。 「あなたがたはわたしの証し人となるべきです。」というみことばは、イエス様の願っておられることです。生き生きとした証しをしない教会はもはや教会としての権利を持っていません。 主はテサロニケの教会をご覧になったとき、心から喜ぶことができたのです。 けれども主は例えば、エペソの教会を見たとき、喜ぶことができなかったのです。主は次のように言っておられます。 ヨハネの黙示録2:3-5
燭台を取り除けるとは、証しがなくなることであり、やがてはその教会が、エペソの教会がダメになってしまったのです。 エペソの教会は悔い改めることをしなかったから、とうとう教会として存在することができなくなってしまいました。 私たちも絶えず悔い改めなければ同じようにダメになってしまうことは明らかです。だから私たちは主の御声に耳を傾け、それに従わなければならないのです。 今日は一度ここまでにします。 |