引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、2章1節-20節
この間私たちは第一章において、生き生きとした教会について見てきました。そして生き生きとした証しをしているときに、その教会は本当の意味で生き生きとしていることがわかりました。 二、三週間の間に十字架につけられ、よみがえられたイエス様の福音によって一部分の人々が新しく生まれ変わったのです。 パウロはひと月間、テサロニケにいなかったでしょう。けれどもその間に主は恵んでいてくださり、ひとつの教会が生まれたのです。 新しく生まれ変わったテサロニケの人々は結局新しい人間になったわけです。もちろん彼らは新しい人間になっただけではなく、お互いに結びついてひとつの群れに作り上げました。 今までは全く無関係で、色々な意味においてバラバラだった見ず知らずの人たちが心を一つにして、一度に愛するようになったのです。 ユダヤ人も異邦人も聖霊によってひとつのものとなったのです。 彼らはひとつの群れになったのです。生き生きとした教会はまさに生ける神の奇蹟のみわざによって造られたものです。本当に生き生きとした教会は決して形式的な組織ではなく、まことの力、すなわち内住の聖霊による一致を持っているのです。 まことの教会は共通の課題とひとつの目的を持っているのです。 今日は、どのようにしてこのような生き生きとした教会が発達し、そしてどのようにしてパウロが大いなる働きを成すことができたかということについてちょっとだけ考えてみたいと思います。 2章ははっきりとした答えを与えています。 二、三の質問について答えたいと思いますけれども、第一番目の質問は、この2章に対してはいかなる表題をつけることができるのでありましょうか。どういう主題をつけたらいいのでしょうか。忠実なるしもべにとっては主の再臨は力づけ、勇気を与える望みを意味していると言うことができます。 もっと簡単に言うと、パウロの祝福に満たされた奉仕と言うこともできるでしょう。さらに簡単に言うと、むなしくなかったとつけることができるのではないでしょうか。 ひとりの人間の生涯についてむなしくなかったと言うことができれば、まことに幸いではないでしょうか。 パウロの奉仕の生涯について考えると、それは決してむなしくなかったと言えます。この章を二つに分けようと思えば、1節から12節の間に、パウロは自分の働きと同労者について述べています。ここでパウロは何回も、私たち、私たちということばを使っています。 それから13節から最後まで、20節までパウロは働きの結果、またテサロニケの集会や迫害する者について語っております。そしてこの場合に、あなたがた、あるいは彼らということばを用いています。この第2章の一番いいテーマは、「むなしくなかった」ではないかと思うのです。 第二番目の質問は、パウロおよび同労者たちの生涯の目標はいったい何だったのでありましょうか。彼らの人生の目的は何であったのでありましょうか。 彼らの人生の特徴であり、もっとも大きな影響を及ぼしたものはまさに福音だったのです。ですから福音ということばは何回も何回も使われていることばです。例えば2節。 テサロニケ人への手紙第I、2:2
イエス様を信じ受け入れると、全てはスムーズにいくということではありません。パウロも彼の同労者たちもピリピで苦しみに会うようになり、はずかしめを受けたのであるとここではっきり書いてあります。 だから彼らはぺちゃんこになって打ちのめされた気持ちになったのではなく、彼らは大胆に神の福音を語ったと書いてあります。 テサロニケ人への手紙第I、2:4
不幸になろうと思えば、人を喜ばせようと努めなさいと言えるでしょう。解放の道は神を喜ばせようと願うことです。 ここでパウロは、福音は私たちにゆだねられたものですと言っているのです。これこそが彼の喜びのもとだったのです。 8節でも福音ということばが出てきます。 テサロニケ人への手紙第I、2:8
何と多くの人々は朝から晩まで自分、自分、自分のことしか考えていないのでありましょうか。パウロと同労者の場合は違ったのです。 彼らは神の福音を宣べ伝えただけではなく、自分のいのちまでも喜んで与えたいという気持ちでいっぱいだったのです。 また9節にも福音ということばが出てきます。 テサロニケ人への手紙第I、2:9
働きながら宣べ伝えた。苦労しながら、苦しみながらあかしした。これは初代教会の特徴だったのです。 福音を通して救うことのできる神の力を体験した者は、神の使命を受けて福音を託されている。救われた人々は福音をゆだねられた者であるとここで書いてあります。これこそあらゆる信者に与えられた最高の使命です。 福音とはもちろん単なる教えではありません。福音はイエス様ご自身です。 初代教会のクリスチャンたちはひとつの教えを宣べ伝えようという気持ちを持っていなかったのです。彼らはイエス様を証ししただけです。 私たちは罪の世界に住んでいるのです。私たちの周囲は荒れ果てたように見えます。私たちの周囲にいる人たちは荒野で水を求めている瀕死の人に似ています。 私たちはどこに泉があり、どこに救いがあるかを知っています。それですから私たちは水を求めている瀕死の重病人を泉のところに、すなわち主イエス様のみもとに導いて行く責任と義務とを持っているのです。 未信者に対して無関心な態度を取る信者は、果たして救われているかどうかは大きな問題です。救われた人は福音をゆだねられた者であるとここではっきり書いてあります。 福音によってパウロと同労者の信仰と確信、弱り果てることなく、反対に力づけられ、水を求めて迷っている人たちにいのちの泉を、すなわち救いの井戸を力強く宣べ伝えたのです。 彼らは自分自身の思いや自分自身の考えを宣べ伝えたのではなく、ただイエス様だけを宣べ伝えたのです。自分たちの誉れではなく、イエス様の誉れだけが一番大切だったのです。 6節です。私たちは人からの名誉を受けようとはしなかったのです。 第三者から見ると彼らはちょっとおかしかったのではないでしょうかと言えるかもしれません。 みんなやっぱり役割を演じたいのではないでしょうか。大切にされたいという気持ちを持っているのではないでしょうか。 パウロと労働者たちは人からの名誉を受けようとはしないという態度を取ったのです。 第三の質問は、パウロと同労者がいかに働いたのかということについてちょっとだけ考えてみたいと思います。 この2章においては何々ではなく、何々であるという表現が何回も何回も出てきます。たとえば、むだではなかった。だましごとでもない。人間に喜ばれるためではない。へつらいのことばを用いたこともない。云々と書いてあります。 そうではなく、神に喜ばれるように福音を語るのである。自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったと書いてあります。 すなわちパウロと同労者たちの奉仕がいかなる性質のものであったかという問いに対する答えはこの2章ではっきり与えられています。 1節を見ると、彼らの働きがむだではなく、実りのないものではなかったことがわかります。 2節を見ると、激しい苦闘にかかわらず、神に勇気を与えられて力強く神の福音を、すなわちイエス様のことを語ったことがわかります。 また3節を見ると、彼らの宣教が決してだましごとではなく、公明正大なものであったこともわかります。 そして4節から6節を見ると、彼らの奉仕の目的が、ただ神の栄光のためであったことがわかります。 自分のために、自分の力で、自分中心に働く者はまことにあわれむべき信者です。そして7節から9節までを見ると、彼らが優しくふるまい、また慕わしく思っていたと記されています。 10節から12節までを見ると、彼らの生活が単なることばではなく、力強い証しであり、彼らの奉仕はこの聖なるきよい生活によって成されていたのです。 そして13節から18節までを見ると、彼らの奉仕の働きは、みことばを生きる神のみことばとして受け取ったゆえに大成功を収めたことが記されています。 そして19節と20節を見ると、彼らは奉仕をするときに、絶えずイエス様の再臨に姿勢を合わせ、待ち望む信仰を堅くもっていたということです。 要するに彼らは7節と11節を見ると言えるのです。彼らはちょうど母がその子どもを育てるように、あるいは父がその子に対してするように、信者ひとりひとりに対して力の限り配慮したということです。 今日パウロと同じように、このようにして奉仕をする者は、当時と同じように豊かな実を結ぶことができます。そしてそのような奉仕によってのみ、生き生きとした教会が生まれるようになります。 パウロと同労者の働きによってわかることは、福音の宣教がいのちを懸けるに価するものであるということです。ですから彼は8節に、 テサロニケ人への手紙第I、2:8
と書き記すことができたのです。 テサロニケ人への手紙第I、2:12
とありますが、彼らの宣べ伝えた福音の本質は、神が御国とその栄光とに私たち人間ひとりひとりを召してくださったことです。そのため私たちはそれにふさわしく神のみこころにかなって歩くように導かれているのです。 パウロと同労者の特徴は何だったのでありましょうか。それは無私無欲の心と、喜んで苦しみを受ける覚悟と、愛に満たされた真心だったのです。 彼らは決して自分自身のことを大切に考えず、絶えず教会がきよめられ、成長することを願ったのです。彼らはちょうど、親が子どもを育てるように、兄弟姉妹ひとりひとりのために配慮したのであります。彼らはつまずかないように、またいつも主のみそば近くにいるようにと心から願ったのです。 最後に第四の質問、すなわち彼らの奉仕の働きがいかなる影響を及ぼしたかについてちょっとだけ考えたいと思うのです。 私たちは今までに福音がいつも周囲の者に対して二面的な効果をもたらすこと、すなわちそれを受け入れるか、拒むかのどちらかであることについて学んだのです。 13節を見ると、テサロニケの兄弟姉妹は宣べ伝えられた福音を神のことばとして受け取ったことがわかります。事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたとあります。そしてこれこそパウロと同労者の心からなる感謝をささげた理由だったのです。 14節によると、テサロニケの信者たちは神のみことばを受け入れただけではなく、神の諸教会にならう者となり、苦しみや迫害をも喜んで受けたことがわかります。 彼らは多くの使徒たちと同じように、イエス・キリストの弟子が誤解され、迫害されなければならないという事実を身を持って体験するようになったのです。 そして20節を見ると、テサロニケの信者たちこそ実にパウロと同労者たちの誉れであり、喜びであったことがわかります。これこそがパウロと同労者たちの働きの結果でした。今日でも同じように、みことばに対して心を開き、それを受け入れて信ずる者には永遠のいのちが与えられているのです。 私たちの大部分が自分の罪が赦されており、神との平和を持っているということを体験的に知るようになりましたけれども、そのような信者であってもあなたこそ実に私の誉れであり、また喜びであると言わうる人の数は少ないのではないでしょうか。 どうしてでしょう。テサロニケの信者たちはみことばを受け入れ、激しい苦闘を通して神の諸教会にならう者となったです。 彼らの信仰が結局苦しみや悩みを通してダメになったのではなく、一層しっかりとしたものになったのです。彼らは意識的に見えるものではなく、見えないもの、すなわち主イエス様を見たのです。 彼らは日常生活においても、無私無欲の献身的な生活に忠実に従ったのです。このようなわけで彼らはパウロと同労者たちの誉れとなり、喜びとなったのです。 そしてパウロと同労者たちの伝道活動は福音の宣教の土台を成しているものはまさに神のみことばだけであったことがわかります。 神のみことばを受け入れるところには、いのちがあり、それを拒むところには、憎しみと争いとがあります。テサロニケの信者たちはみことばをむなしく聞くことはありませんでした。彼らはみことばを通して神の声を聞きました。 彼らはみことばを受け入れて信じ、イエス様との出会いを体験的に知るようになったのです。 彼らはみことばを通して神がひとりひとりに語りかけてくださることを確信していたゆえに、そのような信仰を持ち続けることができたのです。 けれどもこのようなテサロニケの信者たちとは反対に、大部分のユダヤ人は、みことばをむなしく聞くにとどまってしまったのです。そのようなユダヤ人たちは預言者たちを殺しただけではなく、イエス・キリストを十字架につけ、さらにパウロをも迫害したのです。みことばをむなしく聞くことはまことに悲劇的ではないでしょうか。 私たちも多くのみことばを聞きましたが、それはむなしく終わってしまったでしょうか。それともむなしくはなかったのでありましょうか。 テサロニケ人への手紙第I、2:13
と書いてあります。神のことばは死んだものではありません。神のみことばは働いているものです。神のことばは救う力をもつものであり、生かす力をもつものであり、解放する力をもつものです。 そして神のみことばは働くことを望んでおられ、実際働くことができ、みことばを通して神は自分の奇蹟を行なう力を明らかにしようと望んでおられます。その生き生きとした証拠は、取りも直さず、生き生きとしたテサロニケの教会だったのです。 このように、みことばがわれわれの心の内に宿り、働くことがお出来になるかどうかということは、非常に大切な問題です。 イザヤ書の66章の2節に。よく知られていることばです。 イザヤ書66:2
わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だと主は約束していてくださるのです。 エレミヤは、 エレミヤ書15:16
と言うことができたのです。 またパウロは、ローマに住んでいるクリスチャンたちに、そのように、 ローマ人への手紙10:17
と書いたのです。信仰の唯一の土台なるものは、みことばだけであるということです。 だからダビデはもうすでに3,000年前に次のように告白することができたのです。 詩篇119:25
詩篇119:50
私たちもこのような態度を取ることができれば、このように告白することができれば本当に幸いと思います。 今日はそこまでにして。 |