引用聖句:エレミヤ書18章1節-6節
エゼキエル書36:26-27
イザヤ書64:8
ローマ人への手紙9:19-23
テモテへの手紙第II、2:20
エペソ人への手紙2:10
祈って賛美して終われば良いかもしれないね。みことばは素晴らしいなのではないでしょうか。 集会の本なんかも売っているんですけれど、大したものじゃない。集会の本の中の引用された箇所、すごい。永遠に残るものです。 結局、今日の題名は、「陶器師なる主」とつけましょうか。 主は、エレミヤを陶器師の家に導いたのであります。結果として彼は、主の変わらない恵みの計画を知るようになったなのではないかと思います。 もちろんこのエレミヤは、陶器師の家に導かれただけでなく、我々をもこの陶器師の家に導こう、言葉をかけようなのではないかと思います。 エレミヤは主の召使として、主のメッセージを伝えたのです。 エレミヤ書29:11
現代人の大部分は、将来のことに対してやっぱり不安でいっぱいなんです。安心して、喜びを持って将来に向かう人は、イエス様を体験的に知るようになった人だけなのではないでしょうか。 主の永遠に変わらない計画とは、もちろん恵みそのものです。 今、エレミヤ書の18章を見ると次のように4節に書かれています。 エレミヤ書18:4
とあります。粘土で器を作ることが、ここに書かれていますが、この粘土は、もちろん我々人間を象徴しています。 ですから主のみこころにかなった、主の良しとされる器でいなければいけないということを、ここで言っているわけです。 粘土は、陶器師が満足するように形造られなければ、役に立たないものになってしまいます。粘土である我々が、主の御子なるイエス様と同じ姿に変えられなければ、陶器師である父なる神は決して満足なさいません。 よく引用される、ローマ人への手紙8章29節見ても、主の永遠に変わらない恵みの計画についてかかれています。 ローマ人への手紙8:29
一人子なるイエス様は、長子になることこそが、父の永遠に変わらない恵みの計画そのものです。 主はもちろん、私たちのうちにも一つの目的を持って、すなわち私たちがイエス様の御姿に変えられるようにという目的を持って、働いておられます。 今読まれました4節を見ると3つの器であることがわかります。 それは、第一番目、仕損じた器、第二番目、他の器、そして、第三番目、意のままに造った良い器の三つです。 陶器師は、粘土で製作中の器を自分の手で壊しと書いてありますが、この一言だけを取り出して考えてみれば、それは望みのない、絶望状態になってしまいます。 私の生活は、もう台無しになってしまっている。私の生活は、壊れた器のように失敗の生活だ。私にはもう望みがない。のような状態を表しているのが、この仕損じた器です。過去の生活を振り返っているのが、このことにあります。 きっとそこには喜びがなく、後悔に満ちて、良心の責めるようなことがたくさん思い出されるなのではないかと思います。 仕損じたような粘土であるかもしれない。粘土を見ると、自分の仕損じたものだ、自分は望みがないと絶望して、生活に暗い影が差し掛かっているような重苦しい気持ちになっている人々はいっぱいいます。 今はもう仕方がない。今の状態から抜け出てできるだけよくなるように、努めるようになりますけど、そのように努める人の前には、希望が全くない。 その人は、絶望的な望みしか持っていないのです。 二番目、他の器とありますね。主は、他の器を造ったとここで書かれていますが、私たちはこれを読んで、主はご自分のみこころをなされるために、他の器をお造りになった。 あの人、この人をお立てになった。私は、主のみこころの外にある。そうでなくても主の最もよき心は、私に向いていないで、あの人、この人に向いているだろう、と考えてしまうかもしれません。 それも、もちろんダメです。 三番目、意のままに造ったよい器について書かれていますね。陶器師自身の気に入った他の器に作り変えたとあります。 主は最善をなされるお方ですから、主が意のままに造られた器は、もちろん良い器に違いない。主は仕損じた粘土をもう一度捏ねて、意のままに、みこころにかなう器を作り変えることのできるお方です。 同じ粘土で良い器を造ることのできる主が、我々に良い、お前は心にかなうものだとおっしゃってくださるならば、望みに満ち、更に前進することができるはずです。 私たちがどんな質の粘土でも、どんなに仕損じた粘土でも、主の恵みが更に勝って、勝利を取ってくださいます。 主の愛は、すべての問題の上に勝利を取ってくださいます。 そして最後の結論として、主は「良し」と言われるのです。 今日、私たちはこの三番目の器、主の意のままに造られた良き器について、ちょっと考えたいと思います。 主が今日、我々を陶器師の家に導いてくださり、主のみことばを与えてくださり、私たちの目を永遠に変わらない主の恵みの計画に向かって開いてくださって、我々の心は喜びで満ちあぶれれば、良いと願っております。 主が最初の人アダムをお作りになったとき、「非常に良い。」と言われました。 けどご存知のように、この最初の人であるアダムは、またそれに続く子孫は、罪によって、もう回復の望みがないと思われるほどまでに、仕損じてしまいました。仕損じた器となってしまいました。 ローマ人への手紙5章12節をみると次のように書かれています。 ローマ人への手紙5:12
けど、主の計画は永遠に変わらない計画であるから、たとえ罪が入ってきても動かされることがありません。 主は罪に汚れた古い人類を改善しようとはされずに、新しい器に作り変えようとなされました。それは、新しい器とはもちろん、イエス様です。新しい創造の頭であるイエス様ご自身です。 このことは、我々に何を物語っているなのでしょうか。それは、主は我々の仕損じた器の性質には、決して満足されないということを意味しているのです。 罪に汚れ、仕損じてしまった器を造り繕って良くするということは、決してできません。ただ、新しい器に置き換えられることによってのみ、良い器となることができるのです。 それはイエス様によって初めて可能です。 ですからイエス様は言われました。よく知られているヨハネの福音書3章見ると書かれています。 ヨハネの福音書3:3
意味は、決して救われ得ない。 コリント人への手紙第II、5:17
新しい創造とは、どうしようもない人間の中に住まれるイエス様です。イエス様は全人類の罪の、また過ち咎を一身に背負って代わりに罰せられ、死なれました。 コリント人への手紙第IIの5章21節を見ると、本当の意味でピンと来ない話です。 コリント人への手紙第II、5:21
すなわち、父なる神は、 コリント人への手紙第II、5:21
全く聖い主イエス様をどうしようもない我々人間の代わりに コリント人への手紙第II、5:21
罪の塊とされてしまった。どうしてであるかと言いますと、 コリント人への手紙第II、5:21
イエス様は罪とされたと書いてありますが、エレミヤ書の先程の例話に当てはめますならば、イエス様は仕損じた器となって、陶器師によって新しい器とされるために、手の内で潰され、捏ねられ、死んでしまったことを意味しているのです。 けどイエス様は、死ぬと共に全く新しい全人類と共に甦られました。 エレミヤ書18章5節に戻りますと エレミヤ書18:5-6
この主の問いに対する答えは、もうすでにイエス様が新しい器として与えられたことにより、我々のものになっているのです。 これは私たちにとって、何と喜ばしい訪れではないでしょうか? イエス様が、我々の罪、咎を全部背負って代わりに死んでくださり、我々の仕損じた性質を十字架の上で殺してくださったことは、もうすでに過去に行われた、実に幸いな事実であります。 イエス様において、父の永遠に変わらない恵みのご計画が成就されました。 けど、イエス様において成し遂げられた神の、父のご計画は、我々の内に実現されてこなければ、何の役にも立ちません。新しい性質が、すなわちイエス様のいのちが段々段々、私たちの心の内を占領していかなければダメです。 すなわち、イエス様の御姿と同じ姿に変えられていくことが、何にもまして大切です。 パウロは、有名なガラテヤ人への手紙2章20節に、 ガラテヤ人への手紙2:20
と証ししましたが、このパウロの体験が、私たち一人ひとりのものとなりますように祈っています。 もしそうなると、主の永遠に変わらない計画が、我々の内に成就されたことになります。 主のみこころのままに造られて、主に良しとされる器は、イエス様と同じ御姿に変えられた人です。 もう一つの点について考えたいと思います。すなわち、この主の恵みの計画が実現するための条件とは一体どういうものなのでしょうか? 主のみこころにかなった器に私たちがなるためには、すなわち、イエス様の御姿と同じ姿に変えられるためには、三つの条件があります。 第一番目、粘土が、陶器師に従うこと。二番目、「ろくろ」が必要なこと。三番目、陶器師の性質が問題である。この三つの条件が満たされないと、まずいのです。 まず粘土が陶器師に従うこと。当たり前のことですけども、粘土は瀬戸物作りに選ばれます。粘土が瀬戸物作りを選ぶのではない。陶器師は、粘土それ自身があんまり価値のないものであることを、承知の上で選び出します。 主は、役に立たない私たちをあまり深く見つめません。役に立たないダメな私たちを恵みの器に作り変えようとされています。 イエス様は、当時の弟子たちに、次のように言われたことがあります。ヨハネの福音書15章の16節です。 ヨハネの福音書15:16
主は私たちの憐れな様をご承知の上で、私たちを選んだのです。 主に従えば従うほど、私たちは自分自身に失望します。自らの内に何の良き物がないことが、わかるようになります。けど幸いにも、主は私たちがそのように憐れな者であることを承知の上で、選んでくださったから、主は我々に対して失望されるということはありません。 けど主は、もし私たちは、主にすべてをおゆだねして、自らの内にイエス様の形を造らせることを拒むなら、私たちを失望させます。主に従わないならば、主はその人を失望させます。私たちが主に従わないならば、どんなことにも失望されない神も悲しまれます。 粘土が固すぎて、陶器師の手に負えないことがある。主のみこころにかなった歩みをするということは、決して簡単なことではない。 預言者エレミヤでさえも、主のみこころに従っていくには、しばしば主に訴えていました。 エレミヤは、非常に苦痛を覚えたことでした。主のエレミヤに対するみこころは、エレミヤにはまことに理解しがたいことでした。けどエレミヤは、主に対して心を頑なにしたなのではない。 けど主に対して心を頑なにしたのではなく、主に従いました。従うことこそ考えられないほど大切なことであります。サムエル記第Iの15章を見るとこの事実も強調されています。 サムエル記第I、15:22-23
サウル王様に言われた言葉です。 今度は反対に、粘土が柔らかすぎて陶器師の手に負えないことがある。陶器師がせっかく器の形を作っても、作ると間もなく粘土が柔らかすぎて、形が崩れてしまいます。 神の子供とされた兄弟姉妹の中で、実にたくさんの人が移り気の持ち主であり、またむら気で臆病です。人は風の中の羽根のように、いつもフワフワしていて、自分に一番抵抗のない道を選んで歩もうとします。 私たちはなるほど、実に憐れな弱い粘土に過ぎない。けど、私たちが御子イエス様の御姿に変えられていくには、どうしても従うことが必要です。 主が、イエス様によって私たちを選び出してくださったことは、毎日毎日の感謝のもとです。もっともっと恵みに感じて、このことを感謝したいものですけど、私たちが選び出されたということだけでは充分ではない。何故選び出されたかが問題です。 粘土があるだけでは充分ではありません。その粘土が、陶器師の手の中にあるだけでも充分ではない。陶器師によって、意にかなった良い器に作り変えられる必要があります。 主は、粘土に例えられる私たちから、何を作るかということを知っておられます。また、どうやってそれを作るかも、もちろんご存知です。けど粘土である私たちは、陶器師である主に従わなければ、どうすることもできません。 私たちは主に従順なのでしょうか?従順に主に従っていることによって、主は私たちをいつもみこころのままにお取り扱いになっているでしょうか?私たちは聞く耳を持っているなのでしょうか? サムエル記第Iの3章の9節、よく覚えている言葉です。 サムエル記第I、3:9
「主よ、お話ください。しもべは聞いております。 イザヤ書の50章4節、5節見ると、また次のように書かれています。 イザヤ書50:4-5
云々とあります。 もう一箇所。出エジプト記の33章11節を見ると次のように書かれています。 出エジプト記33:11
主のみこころにかなった器に私たちがなるためには、すなわち御子イエス様と同じ御姿に変えられるためには条件がある。 すなわち、今話したように、粘土が陶器師に従うことです。 第二番目の条件は、「ろくろ」が必要であるということです。 私たちの生活において、「ろくろ」に相当するものは一体なんなのでしょうか?それは、私たちが毎日そこですごさなければならない環境です。 私たちは、聖書の話を聞くことによって教訓を受けます。みことばを読み、祈りの内に主との交わりを持つことができます。けど、実際に主と同じ御姿に変えられていくのは、毎日、日ごとの生活における困難や、苦しみを通して初めてできるのです。 粘土は「ろくろ」の上にちゃんと乗っていなければ、良い形に成り得ない。聖書を学ぶことにより、私たちは主から色々なことを教えられるようになり、教訓を受け、主のみこころを知ることができるでしょうけど、主と同じ御姿に変えられるためには、日ごとの経験という「ろくろ」の上に乗らなければダメです。 「ろくろ」は止まらないで、しょっちゅう動いています。もし、「ろくろ」がいつも動いていなければ、どんなに巧みな陶器師も器を作ることができません。 陶器師が、時にはあんまり強く捏ねるので、粘土は「ろくろ」の上から逃げようと思うことがあるかもしれない。 エレミヤは陶器師の家に行った時に、粘土を捏ねる人と、「ろくろ」を回す人が同じ人であることを見ました。ですから私たちが「ろくろ」の上から逃げようとすることは、結局主の御手から逃げようとすることに他ならない。 主は、我々の生活に細々までも自らお導きになっておられます。多くの人は、「もし、私があの所に行ったら、この所にいるならば、もっと霊的に進歩するはずなのに」と考え、すぐに「ろくろ」から降りてしまいます。これは大きな誤りです。 私たちを押し付け、苦しめるのは「ろくろ」ではない。陶器師、すなわち主の御手であるということを忘れないようにいたしましょう。 もちろん困難とか苦しみは、主が御子の形に私たちを形作るための手段に過ぎない。また、色々な「ろくろ」がありますけれど、私たちは、主のみこころを伺わずに勝手に環境を変えないようにいたしましょう。 主が最善の時、最良の方法をもって私たちを導いてくださるはずです。 だからヘブル人への手紙の著者は、当時の色々なことで悩んでいた人々に書いたのです。 ヘブル人への手紙12:5-6
嫌になった者じゃない。 ヘブル人への手紙12:6
とあります。主のみこころにかなった器に私たちがなるためには、すなわち御子イエス様と同じ御姿に変えられるためには条件がある。 今話したように、第一番目の条件は、粘土が陶器師に従うこと。第二番目の条件は、「ろくろ」が必要なこと。もう一つ、陶器師の性質が問題であります。 この陶器師は誰でしょうか?今話したように、もちろん人間ではない。もし人間なら、仕損じた器をどこかに捨ててしまうでしょう。 この陶器師は、創造主なる神ご自身です。もし人間なら、仕損じた器を元のようにしようなどと考えないでしょう。このようにダメになった粘土は、私の思うような器は作れないと言って諦めてしまうことでしょう。 けど、聖書で言っているまことの神は、そういうお方ではありません。この主に、私たちが今日、新しくお会いすることができるように願っています。 この主にお会いになるなら、恵みと知恵の勝利の微笑を浮かべた主の御顔を仰ぎ見ることができるはずです。どんなに仕損じた器となっていても良くしたもう、これが聖書の主です。 主なる神は、私たちの仕損じている器を作り変えられます。主は何ものによっても動かすことのできない計画を持っておられるからです。 主は、終わりまで成し遂げることのできないようなことを始められません。そのために主は、知恵、忍耐、恵み、愛、力をお持ちになっております。 我々の主は失望することを知らない、望みの神です。この主の御手のうちに私たちは、粘土として握られています。 主は、粘土である私たちを満足のいく壷に、すなわちイエス様と同じ姿に変えられるように作り変えるためにお選びになりました。 主のみこころの全部、この目的に傾いておられます。主は、私たちがその他のどんなものになっても満足されません。少しぐらい欠けたところのある器は、仕損じた器とはいえないでしょう。ちょっと、そこに違うものくっつけたり、色を塗ってきれいにしたりすることができます。人間はそうするでしょうけれど、主はそうしません。 主は、みこころにかなうイエス様と同じ姿に変えられない以上、決して満足されません。どんなに繕っても、色を塗っても、満足されません。 エレミヤ書18:6
私も、陶器師がするように、あなたがたを御子主イエスの形に変えることができないだろうか? エレミヤ書の32章の27節を見ると次のように書かれています。 エレミヤ書32:27
こういう風に主は尋ねておられますが、実際にはどうでしょうか?信仰のない者だけが、主の力を疑うでしょう。 エレミヤが、主のみことばを伝えようとして出かけていった所の人々は、主の民に属する人々だったんですけど、不信仰のものでした。 彼らは何と言ったでしょうかね。もう一回戻りまして、 エレミヤ書18:12
言い換えるならば彼らは、「主よ、私たちの今のままの状態で、我慢してもらいたい。」と言って、粘土として思いのままに作り変えられることを拒んだわけです。 自らの生まれながらの性質、また生まれながらの能力を使って主に仕えようとするものは、彼らと同じことをしていることになります。 主は、私たちがどんなに信心深くても、良い性質を持っていても、それが生まれつきのままであるなら、肉的であるなら、決してお用いになることができません。 我々の仕損じた憐れな性質が、イエス様にあって新しくされるためには、十字架が必要です。 限りない愛と忍耐を持っておられる陶器師は、「ろくろ」の上に乗っている粘土のような私たちを、その御手にしっかりと握っています。 主の御手は、我々の生活の根までしっかりと握り、その根まで主は干渉してきますから、時折痛いこともあるでしょう。 どんなにその生活が苦しくても、バプテスマのヨハネのように、「彼は、主は必ず栄え、私は必ず衰える。」という心を、主のみ前に絶えず持ち続けたいなのではないでしょうか? 最後にもう一箇所読んで終わります。詩篇の81篇、当時の悩んでいる主の言葉です。 詩篇81:10-14
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