引用聖句:エレミヤ書18章1節-6節
今日の箇所について、先週もちょっと考え始めましたけれども、エレミヤを陶器師の家に導いたのです。もちろん主は私たちをも陶器師の家に導こうと望んでおられるのではないかと思うのです。 エレミヤは、陶器師の家に行って主の言葉を聞いたのです。彼は幸いに聴く耳を持っていたのです。私たちも陶器師の家に導かれて、主の言葉を聞くことができれば本当にありがたい。 当時の主のメッセージと、今日の主のメッセージと、もちろん変わらない。 エレミヤ書29:11
本当に素晴らしい約束です。この約束を与えた方はもちろんこの約束を守るお方です。 この間言いましたように、粘土で器を作ることが書いてありますけど、この粘土は人間です。ですから主の御心にかなった、主のよしとされた器ができなければいけない。 粘土は、陶器師が満足するように形造られなければ役に立たないものになります。粘土である私たちがイエス様の御心に、御姿に変えられなければ、陶器師である父なる神は満足なさいません。 ローマ人への手紙8:29
救われるだけでは十分ではない。主は、あなたのうちにも私のうちにもひとつの目的を持っています。 すなわち、御子の御姿に変えられるようにとの目的を持っておられます。 今読みました4節をみてください。 エレミヤ書18:4
陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわしと書いてあります。この一言だけについて考えると、うーん、ちょっとたいへんです。望みのない絶望状態になってしまいます。 自分の生活はもう台無しになってしまった。壊れた器のように失敗の生活だ。もうだめ。望みがない。過去の生活を振り返って見ると、きっとそこには喜びがなく、後悔に満ちて、良心の責めるようなことがたくさんあるのではないでしょうか。 けれどもこの4節に、ほかの器についても書かれています。 これだけを見ると、主はご自分の御心をなされるために他の器をお作りになった。あの人、この人をお立てになった。私は使いものにならない、もう捨てられた。そう考えると、とんでもない話になります。 陶器師自身の気に入った他の器に作り替えたとあります。すなわち、主は最善をなさるお方ですから、主が意のままに作られた器は、間違いなく良い素晴らしいものに違いない。 御心にかなう器を主は、お作りになることができるのです。 主の御心にかなった器に、私たちがなるためには、すなわちイエス様の御姿に変えられるためには、この間話したように条件があるのです。まず粘土が陶器師に従うことです。陶器師のことは、粘土にはわかることじゃない。従うこと。 それから、ろくろもどうしても必要です。それから当然ですけど、陶器師の考え方、陶器師の性質も問題なのではないでしょうか。従順に従うことこそが、考えられない程たいせつです。 ある人々は、「私もイエス様を信じます。」と言いながら、従おうとしない。こういう信仰は役に立たない。サムエル記第Iの15章の中で、サムエルは、当時の王様であるサウル王に言ったのです。 サムエル記第I、15:22-23
従うことこそが、最も大切なのではないでしょうか。聴く耳を持つことです。 当時のサウル王は聴く耳を持っていなかった。 サムエルという少年は、心から言ったようです。「主よ。お話しください。しもべは聴いております。」、絶えずこの態度をとる者は大いに祝福されます。 それからこの間も言いましたように、ろくろがどうしても必要です。ろくろとは、どういう物なのかと言いますと、毎日毎日そこで過ごさなければならない環境です。 聖書の話を聞くことによっていろいろなことを知ることができるかもしれない。聖書を読んだりして祈ることによって、主と交わることができるのです。 けれども、実際に主の御姿に変えられていくのは、毎日の生活に起る困難や、苦しみを通してはじめて変えられるようになるのではないでしょうか。 エレミヤは陶器師の家に行った時に、大切なことを見たのです。粘土をこねる人と、ろくろを回す人が同じ人だった。 私たちを押しつけ苦しめるのはろくろではない。陶器師、すなわち主の御手であるということを忘れてはいけない。 主が最善の時に、最良の方法を持って導いていてくださるお方。 この陶器師とは言うまでもなく、主ご自身です。どんなにし損じた器となっていても、良くても、これこそが私たちの主です。 私たちの信じてる主は、なにものによっても動かすことのできないご計画を持っておられるお方です。主は、終わりまで成し遂げられないようなことを始められません。 そのために主は、知恵、忍耐、恵み、愛、力を持っておられるのです。私たちの主は、失望することを知らない望みの神であられます。 今日はちょっとだけ、「新しく作られた器」すなわち、「再創造された器」について考えたいと思います。すなわち7つの例話を通して、主がどのようにして、混乱し罪に陥り失敗に満ちた者を回復されたかということについて考えてみたいと思います。 主の再創造は、作り変えの御業は、間に合わせの取り繕いや回復とは違います。主の再創造は、全く新しく創造され、作り変えられる御業です。 再創造は死と暗黒、自分自身に対する絶望の後にやってきます。まず、アダムとアベルについて考えたいと思うのです。 初めの人であるアダムが祈らなかったから、「主よ語ってください、僕は聞いています。」という態度をとらないで、知らないうちに悪魔の声に耳を貸してしまったのです。 罪を犯してしまい、そのために全部の被造物が呪われてしまいました。全人類も主の呪いのもとに陥ってしまったとあります。 これに対して偉大なる陶器師は、いったい何をしたのでしょうか。仕方がない、もうできないとあきらめたのでしょうか。聖書の主は、そのようなことはなさいません。主は、哀れな様になった粘土にもう一度御手を触れ、お働きになりました。 アダムの子供の一人、アベルは主の目にかなう者になったと主は言っています。 彼は、その父アダムの罪の性質を受け継いでいましたが、偉大なる陶器師なる主の御手によって新しく作られ、主は良しと言われるまでに良きものになりました。 イエス様ご自身が、マタイの福音書23章35節によると、アベルを義人と呼んだのであります。 マタイの福音書23:35
第2番目は、アブラハムを観察してみましょうか。 聖書は偉大な信仰の人の弱さや欠点を決して隠していません。 アブラハムは実に哀れな粘土であったことが、聖書を読んでいきますとよくわかります。 アブラハムは偽って自分の妻を妹であると言いました。 アブラハムは主に信頼しないで、自分の息子欲しさあまりに妾を持ったのです。その結果はどうであったかと言いますと、主はアブラハムに対して、その後13年間、長いんです、13年間一言も御言葉をおかけにならなかったのです。 これは、もちろん主のせいではなかった。信仰の父と呼ばれたアブラハムのせいでした。 アブラハムのうちには、何か良いものがあったのでしょうか。決してそうではありません。アブラハム自身は、ほかの人と同じ憐れなとりえのない人間にすぎなかったのです。 けど、偉大なる陶器師はアブラハムを捨てようとはしなかったのです。このし損じた器であるアブラハムは、後に本当に信仰の父と言われるまでになりました。 全能なる主は、アブラハムをわが友と呼び、私のすることをアブラハムに隠して良いだろうかとまで言われたのです。 創世記18:17
一言葉で言いますと、アブラハムは陶器師の心にかなった、イエス様の御姿に変えられた者になりました。 第3番目は、ヤコブの場合を考えてみましょうか。 ヤコブもやはり普通の粘土でしかありませんでした。彼は奸策により、その長子の権を兄エサウから奪い取りました。それだけじゃなくてウソをついて、長子の祝福を受けました。 また主に頼らないで、自分勝手に妻を捜して娶りました。彼はまたラバンの富を騙し取ってしまいました。 これがヤコブでした。憐れな粘土だったのです。けど、ヤコブはろくろの上に乗り、陶器師の手によって陶器師の心にかなう器に作り変えられたのです。 主の恵みはヤコブの上に降り注がれ、主の誇りは、この新しく作り変えられた器の上にありました。 ヤコブはどうでしょう。主の御名の後ろに、その名をつらねるに至りました。神は、「ヤコブの神」と呼ばれるようになったのです。 第4番目は、エリヤについて考えましょうか。 ヤコブの手紙5:17
エリヤは、「私たちと同じような人」とあります。意味は、エリヤも同じ材料、同じ粘土でできていた者でした。 エリヤは、列王記第Iの19章4節をみると、全く絶望して、えにしだの木の下に座り込んでしまったことが書かれています。 列王記第I、19:4
また死のうと思ったのです。「もう十分です。私の命を取ってください。」 このエリヤの特徴は、その信仰に勇気があり、また従順だったということです。でも、このエリヤも初めは粘土に過ぎませんでした。主の御手に落ちてはじめて御心にかなう器となりました。 彼は死ななかった。死を望んだのですけど、そのまま天国へ行っちゃった。すごい特権に預かるようになりました。変貌山で、モーセと共にイエス様に会ったことも私たちのよく知っているところです。エリヤは、主の御姿に変えられた人となったのです。 第5番目。ダビデについて考えても同じことです。 ダビデはもちろん主を信じ、主に従おうと思って、そのために生きたいと思った者でした。そしてその信仰生活の初めの半分を、主の導きのままに確かに過ごして参りましたけど、彼の生活にも破綻がやってきたのです。 姦淫の罪を犯し、同時に殺人の罪までも犯してしまったのです。もし私たちが、自らの心をよく知っていなければ、あんなに素晴らしい信者でさえ、あのような罪を犯すのだろうかと、疑問に思うことでしょう。 これに対して主なる神は、「ダビデはもう望みがない。あきらめて捨てちゃいましょう。」と言われたのでしょうか。 いえ、それは聖書の神ではありません。大いなる陶器師は、この損なわれた器を御手のうちに収め、ろくろの上にお乗せになりました。 それは本当に苦痛に満ちた事柄だったでしょう。ダビデは、詩篇の51篇に魂の底から出てくる叫び声を上げました。 詩篇51:3、12
その時、ダビデは救いの喜びもなくなっちゃった。 けども後にダビデは、「わたしはエサウの子、ダビデを見つけた。彼は、私の心にかなう人だ。」と主に言われるまでになりました。 人を称えるのに、これより素晴らしい言葉はあるのでしょうか。 第6番目。ペテロであります。 福音書を読むとわかります。ペテロも同じく惨めな材料でできた者でした。彼の生活のうちには、同じく失敗があったでしょうか。ペテロは、やっぱり役に立たない粘土のようなものだったのでしょうか。 ペテロは力をこめて、「たといあなたと一緒に死ななければならないとしても、主よ、心配しないで、あなたを知らないなどとは、決して申しません。」そう彼は誓ったのです。けども間もなくペテロは、イエス様のことを知らないと言って、イエス様を否んでしまいました。 ペテロはたいしたもんじゃなかった。わたしたちと同じ人間に過ぎなかったのです。このし損じた器はどうなったでしょう。偉大な陶器師の手に陥り、その心にかなう器に作り変えられました。 もし私たちが、五旬節の時行った証しを読み、裁判官の前でいかに大胆にイエス様を証ししたかを考え、ペテロの書いた手紙を見ると、彼がどんなに主の御心にかなった素晴らしい器に作り変えられたかがわかります。 彼は、主の恵みによって、御子イエス様と同じ姿に変えられたひとりでした。 第7番目、最後にもうひとり。マルコの福音書の著者マルコを見てみましょうか。 彼はエルサレムのクリスチャン・ホームに育ちました。イエス様はこの若きマルコの家にしばしば出入りされていました。ですから、マルコは幼い時にイエス様をその目で見、主の御言葉をその耳で聴くことができた本当に幸せな男でした。 ある時、このマルコは自ら奉仕に立とうと決心し、パウロとバルナバの大伝道旅行に加えられました。彼は、各地で主の御業を目の当たりに見て旅を続けましたが、この旅はもちろん楽しい散歩道ではなくて、決して楽な旅ではなかったのです。 そして結果として、マルコはある時苦しさに耐えかねて、パウロとバルナバから離れ、エルサレムに逃げ帰ってしまったのです。 イエス様は言われました。 ルカの福音書9:62
マルコは後ろを見ただけではなくて、逃げちゃったのです。ろくろから降りてしまいました。けど、その後彼はいったいどんな具合に考えたことでしょうか。 「私は裏切った。私は本当にだめです。私のためにパウロとバルナバは争いを起こしてしまいました。私のためにパウロとバルナバは共に働くことができなくなってしまった。」 マルコは、非常に自らを責めたに違いない。主なる神である陶器師は、このし損じてしまった器をも見捨てないで、御手のうちに取り上げました。偉大なる陶器師は、この器を全く新しく作り変えられました。 その後に、マルコを役に立たない者としていたパウロは書いたのです。「マルコを連れて、一緒に来なさい。彼は、私の勤めのために役に立つから。」、パウロがそうテモテに書き送ったほどに、マルコは神の人となったのです。 主はそれに加えて、4福音書のひとつのマルコの福音書を書くために、彼を用いたのです。 このマルコの福音書により、どんなに多くの人々が救われ、主の御許に立ち返り、またどんなに多くのキリスト者がマルコの福音書によって祝福されたことでしょう。マルコは陶器師の心にかなう器になったのです。 限りない知恵と忍耐を持っておられる陶器師なる主は、ろくろの上に乗っている粘土のような私たちを、その御手にしっかりと握っていることは、何という素晴らしいことでありましょうか。 アブラハム、ヤコブ、エリヤ、ダビデ、ペテロ、マルコは、新しく作られた器、再創造された器となりました。 陶器師なる主が言われます。「私があなたがたを御子イエスの形に作り変えることができないだとうか。」 もうひとつの点について、ちょっと考えたいのです。ここまでは、陶器師によって新しく作り変えられた7つの器について考えてきたのですけど、今度は陶器師の手からもれて、めちゃくちゃに壊れてしまった4つの器について、ちょっと考えたいと思うのです。 ここでやめて、暗い所は見ないほうが良いような気もしますけど、聖書は明るい面だけを述べていない。主の御手から漏れし損じた器で、ついに回復せずに、終わってしまった器もあると聖書は言っています。 たとえば、アベルの兄弟カイン。ヤコブの兄エサウ。ダビデの敵のサウル。それからイエス様の弟子の群れの中のイスカリオテのユダ。この4人がいます。 なぜ、神の御言葉である聖書はダメになってしまった器について書いてあるなのでしょうか。 それは、まずなぜ回復されなかったかという理由を、私たちに教えるために。また、反対の場合はなぜ回復されたか比較するために書かれているのではないかと思います。 2番目に、私たちが回復に向かうか、滅びに向かうかは二つに一つを選び取る決心をするためなのではないでしょうか。 はじめにカインについてちょっと考えたいと思うのです。 ヨハネの手紙第I、3:12
カインは、いわゆる宗教的な男でした。彼は、主の存在をもちろん疑い得なかったのですし、信じました。 この主に彼は捧げ物をしていましたし、けれどももし捧げ物をしなければ喜び賜わない、御利益がないというような動機から、捧げ物をしていました。喜んで主に捧げることをしなかったのです。 けど、どうしてカインは回復しないで滅んでいってしまったのでしょうか。 彼には罪の自覚が全くありませんでした。彼は自分自身を知らなかったし、知ろうともしなかったのです。自らを正しいとし、自らに満足していました。 ですから、カインは自分の身代わりとなってくださる救い主を必要としませんでした。 彼がアベルを殺す前に、誰かが彼に、あなたは人殺しと同じ罪人だと言ったとしても、彼はうなずかなかったでしょう。 カインは罪の自覚がありませんでした。主は、このような人をどうすることもできません。正直になろうとしなければたいへんです。 アブラハム、ヤコブ、エリヤ、ダビデ、ペテロ、マルコは、自分のどうすることもできない罪の性質をよく認めたから、どうしても陶器師の助け、救い主を必要としたのです。 カインの場合は、それとは全く反対でした。 どんなにすぐれた陶器師も、このような粘土を扱うことはできません。救われたくなければもうダメです。 もし私たちがダビデのように、人殺しダビデのように、「私は自分の咎を知っています。私の罪は、いつも私の前にあります。私はあなたに向かいただあなたに罪を犯した。あなたの前に、悪いことを行った。」と叫ぶことができるならば、もちろん望みがあります。 お前は、私の心にかなった人であると主に声をかけられる望みがあります。 2番目は、エサウについてちょっと考えたいと思うのです。 エサウは、霊的なことを尊ばない典型的人物でした。 創世記25:31-34
ヘブル人への手紙の中では、エサウの態度について次のように書かれています。 ヘブル人への手紙12:15-17
イスラエルの国では、いわゆる長男が家族の長となり、主なる神に仕えるように定められていました。その家族の祭司として立てられましたから、長男は霊的なことをいつも執り行うことになっていたのです。長男は家族の祭司として、家族を主のご臨在に導き責任がありました。 けれども創世記25章に、エサウは長子の特権を軽んじた。長子の権利を軽蔑したと書いてあります。 どんなに偉大な巧みな陶器師でも、このような人物を取り扱うことはできません。本当にぺちゃんこにならなければ、憐れんでくださいという気持ちがなければおしまい。 第3番目は、サウルの場合はどうったのでしょうか。 彼は、ご存知のようにダビデの敵でした。彼には主に信頼する信仰とへりくだりが欠けていました。主は預言者サムエルを通して、彼に語られましたが、彼はそれに従おうとしなかったのです。彼は、主を信頼しなかったのです。このような粘土を、陶器師は思いのままに扱うことができません。 彼の最後は、ご存知のように自殺でした。主が、私を御心のままに形作るには、私たちの信仰と従順と信頼が必要です。 第4番目は、ユダについて考えるとわかります。 彼はイエス様と共に3年半一緒に生活しました。素晴らしい特権に預かるようになりました。もし、今私たちがイエス様とともに生活し、主と交わりができるとするならば、それこそすごい特権なのではないでしょうか。 ユダはイエス様との交わりに召されたのに、ただの銀30枚ですべてを失ってしまいました。ユダは、主との交わりが持つことができると言う素晴らしい特権に気がつかなかったのです。 コリント人への手紙第I、1:9
私たちひとりひとりはイエス様に召されて、御子、主イエス様との交わりに預かる素晴らしい特権が与えられているとは、何という幸せなのでしょうか。 主である偉大なる陶器師が、哀れな粘土である私たちを御子に似た形に作り変えられるには、私たちが、この驚くべき特権を深く知ることが極めて大切です。 私たちはこの特権を用いて、もっともっと、イエス様との交わりを深めたいものなのではないでしょうか。 ユダはこの特権を軽んじました。彼の最後を見てください。彼は自殺してしまいました。ほかの道もあったはずです。 十字架につけられたイエス様の所に行って、「3年間大嘘つきでした。憐れんでください。ごめんなさい。」、その態度をとったならば、イエス様は、犯罪人の一人に対してと同じことを言ったのに違いない。 「あなたは、今日私と一緒にパラダイス、天国に居るようになる。」 彼は後悔しただけなんです。イエス様の前に行こうとしなかったのです。逃げ続けたのです。 私たちも、もしイエス様との本当に親しい交わりを持っていないなら、それは霊的な自殺です。 主はもちろん全部ご存知です。主は、私たちがどんな材料でできているかも、もちろん全部知っておられるのです。それにもかかわらず主は、私たちに対して決して失望されないお方です。 主は、決して絶望されません。あきらめません。 主は、限りない忍耐と愛を持って、ご自身の御心にかなった器に作り変えようとして、私たちを御手のうちに収めておられます。 私たちは、この永遠に変わらない主の恵みの御心のことを心の目ではっきりと見て知っているのでしょうか。 ローマ人への手紙8:18
そう、初代教会の人々は証ししたのです。 私たちは、陶器師が操るろくろの上に乗っている従順な粘土となっているのでしょうか。それはきっと苦しいことでしょう。けれども初代教会の人々は結局、「今確かにたいへんです。でも大切なのは今から、将来です。」 私たちは人に喜ばれても、喜ばれなくても、人に認められても誤解されても、もし私たちが主の御心にかなう器でさえあれば、それで良いのでしょうか。 主の永遠に変わらない恵みの計画とは、どういうものなのでしょうか。 その道はどういうものなのでしょうか。 私たちはどういう心構えを持つものなのでしょうか。 最後に、みことばだけ読んで終わります。 ヨハネの福音書3:30
ガラテヤ人への手紙2:20
コロサイ人への手紙1:27
ガラテヤ人への手紙4:19
コリント人への手紙第II、4:7
コリント人への手紙第II、4:10
コリント人への手紙第II、4:17-18
ローマ人への手紙8:29
陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手で壊し、それを再び陶器師自身の手で、気にいったほかの器に作り変えたとあります。 |