引用聖句:列王記第II、2章1節-18節
コリント人への手紙第I、3:1-4
ガラテヤ人への手紙4:19
エペソ人への手紙4:13
ヘブル人への手紙5:11-14
聖書を読む会みたいですね。けれども聖書しかない。 集会の出す本はなかなかいいものと思う人もいるけれど、本当は違います。集会の本の中の引用された聖書の個所だけがいいのです。 人間の言っていることは疑わしいものではないでしょうか。 先週、集会の前にちょっと言ったのです。「今日は寝てもいいよ。」と。寝た人もいるかもしれない。けれど寝ていない人もいたらしいのです。 なぜならば、集会のあとである姉妹から電話があったのです。「初めに読まれた個所とあとのメッセージとはいったいどういう関係があるのですか。」 初めの個所とは、アナニヤとサッピラについての個所でした。結局彼らはイエス様を信じ、救われたし、イエス様のために生きたいと思ったし、けれどあるときからやっぱり変な方向に行ってしまった。偽善的な態度を取ったのです。 理由ははっきり分かりません。ねたみだったかもしれません。そうすると結局、主は集会全体、初代教会全体を祝福することができなくなってしまった。ですから先週の題名は、「主のからだなる教会」でした。 「どうしてアナニヤとサッピラのことを読んでもらったのか?」、と。 結局、集会の中でひとりだけねたみを持ったり、批判したりすると、主はもう働くことができなくなります。非常にもう大変です。 サウロはクリスチャンたちを迫害したとき、もちろん、キリストはもう生きていない。キリストと関係ない。キリストに対する思い入れを消せばそれでいいだろうと思ったのですけれど、イエス様は彼に出会ったのです。「わたしはあなたが迫害しているイエスです。」 けれど彼は別にイエスを迫害する気持ちはありませんでした。 けれども、イエス様に属する人々とイエス様とは、離れられない。イエス様はかしらであり、イエス様を信ずる者は結局そのからだの肢体であります。そういう関係だったのです。 今読んでもらった個所は、今度喋る内容はいったいどういうものか、と思われるかもしれない。題名は、「エリシャと預言者のともがら」であります。 もちろん昔の話です。2,600年前の話なのですけれど、当時エリヤという立派な預言者は、エリシャに次のように言いました。「あなたのしてほしいことを求めなさい。」 「何を欲しいの。」、生きるまことの神もこれと全く同じことを私たちに言って呼びかけておられます。「あなたのしてほしいことを求めなさい。与えます。」、与えたくて、与えたくてしょうがない。 私たちの願いはどういうものであるべきなのでしょうか。イエス様がご自分の栄光を現わされることなのでしょうか。二つのことがはっきりしています。 まずイエス様は今日もなおわれわれの心の中に働いておられるということです。 二番目に、このことも確かです。もし私たちが、ただただ聖霊により頼もうと願うようになればさいわいです。なぜならば、主イエス様ご自身が語りかけたく思っておられ、御霊が支配しているならば、私たちは確かな期待を持ってイエス様を仰ぎ見ることができるからです。 あなたのしてほしいことを求めなさい。主のご臨在のうちにあるわれわれの願いとはいったいどういうものなのでしょうか。 われわれの願いは、当時のサムエルのごとく、「しもべは聞きます。主よ。お話しください。」という願いがあれば本当に祝福されます。 当時の預言者のともがらとは、いったいだれのことを言っているのでしょうか。彼らの仕事はいったい何だったのでしょうか。なぜ当時、預言者の学校があったのでしょうか。これらの疑問を解くために、サムエルの時代に返ってみなければなりません。 サムエルという男は初めての預言者でした。サムエルの以前には、いわゆる祭司だけがありました。預言者はいなかったのです。 けれど祭司の役目はいったい何だったのでしょうか。罪人が主なる神に近づく道は、いけにえをささげることでした。 主なる神ご自身がこの道を教えてくださったのですけれど、祭司だけがそのいけにえを主の前に運ぶことができたのです。したがって祭司の役目は、いけにえの動物を殺し、その罪のない身代わりの動物の血を主の御前に運ぶことでした。 祭司はいけにえをささげ、イスラエルの民に主のみこころを、主の近づく道を教えたのです。そして大祭司であるアロンおよびその他の祭司は、忠実にその役目を果たしましたが、時を経るにしたがい、堕落していきました。 最初の役目は、祭司の不誠実、不忠実により、主の欲し給わらないところのものになってしまったのです。だから主の導きにより、預言者たちが現われました。その初めての預言者とはサムエルです。 このサムエルがこの預言者の学校を開きました。預言者のともがらとは、その学校の生徒でした。この預言者の学校は、預言者の準備の学校でした。 前に話しましたように、祭司たちはいけにえをささげることにより、イスラエルの民に主のみこころを教えたのです。イスラエルの民も祭司たちがいけにえをささげることにより、主のみこころを認めたのです。 その主なる神のみこころとは、罪人は主に近づき得ない。けれど主はその逃れ道を備えたのです。すなわち、罪のないいけにえの血を信ずれば、主に近づくことができる。それをイスラエルの民は認めたのです。 けれど士師記の時代には祭司は堕落して、民も霊的な理解力を失ってしまったのです。 サムエルが幼かったときに、そのときの祭司のエリという人がいました。この祭司の肉体は当時のイスラエルの民の霊的状態を表わしていました。すなわち、この祭司の両眼はほとんど見えなかったのです。 この祭司は自分の家族の道徳生活を律することができないほど弱くなっていました。この祭司エリの息子たちについて、二、三ヶ所ちょっと見てみましょうか。 サムエル記第Iの2章、まず12節を読みます。 サムエル記第I、2:12
云々とあります。17節。 サムエル記第I、2:17
サムエル記第I、2:22
25節の後半。 サムエル記第I、2:25
もちろん、主のことも聞こうとしなかったのであります。霊的理解力があまりにも欠乏したので、道徳的堕落がやって来たのです。 当時、霊的理解力と霊的判断力が非常に衰えていましたので、違った教え方が必要だったのです。 口で教えなければならなくなりました。したがって、預言者の役目は、いけにえを持って、民に主のみこころを教えるばかりではなく、口で民に教えるのが預言者の役目でした。 主なる神のみこころで、直接、民に語るために預言者の学校が開かれました。この預言者の学校で預言者は次の三つのことを学ばなければならなかったのです。 まず第一に、彼らが己の民の霊的歴史を学ばなければなりませんでした。 もし私たちがイザヤ書、エレミヤ書、ヨナ書、ハガイ書、ダニエルの預言を読めば、そこに霊的歴史があることを発見します。 例えばダニエルはエレミヤの預言を学んだとあります。 第二番目。預言者の学校では、愛国心も養成しました。 主なる神がイスラエルの民を選び、特別な者として分け給い、あらゆる国民の中の証しとしました。したがって預言者たちはイスラエルの民が主のみこころを行なうようにと非常に熱意をもって説きました。 イスラエルの民は、主の選びに分かたれた者でしたから、預言者たちはイスラエルの民に対して非常に熱心だったのであります。 第三番目。そして、最も大切なことは、啓示によって、上からの光によって、主のみこころを認め知ることでした。 なるほど、霊的歴史を見ること、それから、愛国心を持つことは大切です。 けれど最も大切なことは、この主のみこころを啓示によって知ることです。 学問は大切であり、必要でありますが、一番大切なものではない。ガラテヤ人への手紙1章を読めば分かります。 確かに学者であるパウロは次のように証ししたのです。 ガラテヤ人への手紙1:11-12
預言者たちは、主のみこころ、主の願い、主の考えを宣べ伝えただけではなく、主のみこころを自分の生活のうちに実行しました。 どうでしょうか。私たちの生活のうちに主のみこころを満たしているのでしょうか。われわれの生活のうちに主の願いを満たしているのでしょうか。私たちの生活で私たちは主のお考えを実行しているのでしょうか。 預言者たちは主のみこころを伝える者であったばかりではなく、主のお考えを実行する者でもありました。預言者の学校はそのための準備の場所でした。 このような学校は、エリシャの時代にたくさんありました。預言者のともがらは準備中でした。したがって、まだ成熟していませんでした。 エリシャの生活は何を意味していたのでしょうか。エリシャの生活は、前に何回も何回も言いましたように、よみがえりの力を表わしていたのです。 エリシャの生活は、死に打ち勝った生活でした。エリシャの生活の根は、いわゆるヨルダン川でした。すなわち、十字架が彼の生活の源でした。預言者という役目が絶対に必要であることを、預言者のともがらはエリシャの生活からうかがい知りました。 預言者のともがらは何を経験しなければならなかったのでしょうか。彼らは三つの事がらを経験すべきだったのではないでしょうか。 もう一回、列王記第IIに戻りましょうか。 列王記第II、2:3
預言者のともがらは、エリシャが預言者の学校へ行っておらず、ただエリヤに師事しただけなので、預言者と認めず、このような質問を発したのです。彼らはエリシャよりも自分を高い者のように思いました。霊的傲慢とうぬぼれが彼らの心を支配していました。 預言者のともがらは素人であるエリシャに対し、尊敬の念を持っていませんでした。彼らは自分たちこそ主より奉仕の召しを受けた者であり、私たちこそ主に仕える者だとうぬぼれていました。 ところがエリシャは一回も預言者の学校に行ったことがありませんでした。彼は神学校を卒業しなかったのです。 ただエリヤの行くところ、エリシャはいつも従ってきました。したがってエリシャをエリヤのしもべにすぎない、と見たのです。 もし私たちが召しを持っていれば、それは特別な自分の手柄ではない。もしそれを誇りとするならば、それは霊的な未熟を表わしているにすぎない。 預言者の学校では多くの知識を学ぶかもしれない。けれど霊的に傲慢であったならば、本当にわざわいです。自分はほかの人と同じ仕事をやらなくていい。普通の仕事はやらなくていいから勝っているのだと思うならば、本当にわざわいです。 私たちも祈るべきではないでしょうか。すなわち、「主よ、どうか私を霊的な傲慢とうぬぼれから解放してください。」、と。 霊的な成熟とは自我を意識して否定することであり、そして主イエス様にあってすべてを持っていることです。傲慢は人を目くらとします。 心おごる者は主がほかの兄弟姉妹に働いていることを見ません。自分だけを考えます。預言者のともがらは主がエリシャの中に働いていることを見ることができなかったのです。 けれどもこの列王記第IIの2章15節、16節を読むと、預言者のともがらはのちになって内面的に成長したことが分かります。 列王記第II、2:15-16
結局預言者のともがらは、エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている、と認めたのです。預言者のともがらは、勉強や知識が決定的なものではなく、よみがえりのいのちの力をもっているかどうか、問題であることを知ったのです。 私たちが学び、奉仕をしてまいりますと、あるひとつの点に到達します。それは、私たちがよみがえられたイエス様の徹底的な支配のもとに、よみがえりの力をもって奉仕しなければならないことを知るに至ります。 今までは良い目的をもって行なってきたけれど、人間の力で行なってきた。これから後は聖霊の力をもってしなければいけないと思うに至ります。 預言者のともがらはエリシャのうちによみがえりの力があったことを認めました。それを疑いませんでした。けれど彼ら自身はおのれのうちにそのよみがえりの力をもっていませんでした。 私たちは聖書のひとつの真理を見て信じます。それを疑いませんけれど、その見た事実が自分のものとなるには数年を要することがあるかもしれない。 例えばイエス様が私たちの古き人とともに十字架につけられたことを理解しているかもしれない。疑いもなくこの事実を信じますけれど、突然困難が襲って来て、そのとき古き人がまだ死んでいないことを発見します。 あなたは失望し、望みが絶えてしまいます。「聖書の教えはいいけれど実行するに難しい。ダメだ。」と言うに至ります。 なぜあなたの両親、あるいはご主人、あるいは子どもはあなたに反対するのでしょうか。なぜ病気になってしまったのでしょうか。なぜ自分が自分の強い意志のために悩むのでしょうか。 自分が見た真理が実際になるために、主がそのように導かれたのです。 けれど主のみこころを知らず、絶望して、もうダメだと多くの人々は言います。「聖書の教えは確かにいいけれど自分の生活に当てはまらない。当てはめることができない。」 これこそ悪魔の働きであり、悪魔のささやきです。 主はあなたが聖書の真理を悟るためにあなたに挑戦することにより、またほかの人からの無理解のうちにあなたを置かれたのです。 預言者のともがらはエリヤの霊がエリシャの上にとどまっているのを見ました。けれどそれを自分の経験としていませんでした。 なぜなら16節を見ると分かります。エリヤが実際に昇天したかどうかを知らなかったのです。 もしエリヤが昇天しなかったとしたら、エリシャはエリヤの霊を受けなかったことでしょう。ところが預言者のともがらはその目に見える証拠が欲しかったのです。私たちもしばしば感覚によって何か証拠を欲しがります。 預言者のともがらは何かを見たり、感じたりして証拠を欲しがりました。よみがえりの力のしるしは、しかし私たちの感覚の外にあります。 私たちの感覚ではよみがえりの力を認め得ない場合がしばしばあるのではないでしょうか。よみがえりの力をもって生活している人は霊的ないのちで満ち溢れていることを意識して生活しているのでしょうか。 パウロは時々自分が死人のように力無い者のように感じましたが、それでもなお仕事を続ける力をもっていました。預言者の力、よみがえりの力で生活している人は、自分の弱さ、自分の虚ろさ、また自分が依存していることを意識しています。 よみがえりの力をもっている兄弟姉妹は、自分は働きたくない、また、自分の生活からよみがえりのいのちが溢れるほどになるまで、自分は何もしないと考えているならば、その人は決して進歩しません。 預言者のともがらは証拠を求めましたけれど、それは肉的なことです。肉はいつも証拠を求めます。けれど霊に導かれている人は目に見える証拠なしに辛抱し、主のよみがえりの力を自分のものにします。 私たちがこの地上の生活をしている間、私たちはイエス様がわれわれのいのちであるから、不可能にも屈せず、前進しようとする代わりに感情や知識の証拠を求めようとする誘惑にさらされています。 パウロが今日、私たちのところに訪れたとしましょう。もしそれが実際のことだったら本当にいいのですけれど、おそらく私たちはみなパウロに会うことができたとすれば、この男が新約聖書の書簡を書いた男か、この男が全世界を揺り動かした男かと驚かれるのではないかと思います。 そのときパウロに次のように尋ねてみましょう。 「パウロよ。あなたがたくさんの手紙を書き、長い旅をし、朝から晩まで働いているときあなたはいつもイエス様のよみがえりの力を感じていましたか。あなたは頭が痛くなかったのでしょうか。あなたは疲れたこと、また落胆したことがなかったのですか。あなたは泣いたこと、不安に思ったことがありませんでしたか。」と、尋ねましょう。 パウロはそれに対して何を答えるのでしょうか。 「私のように内面的な戦いをもっており、外面的な不安をもっていた者はめずらしいと思う。私は失望、落胆を経験し、疑うほどまでに試みられ、真っ暗やみを歩くということはどんなことかを知り、また、生きる望みさえ失ってしまう混乱と心の憂いに涙も流しました。」と、答えることでしょう。 パウロはよみがえりのいのちの力を感じませんでしたが、主イエス様のよみがえりの力で生きていました。 私たちが感ずることと実際は、しばしばちょうど反対のことがあります。 私たちは熱くもなく、冷たくもないと感ずるかもしれませんけれど、それにも関わらず私たちは自分の力によってではなく、イエス様のよみがえりの力をもっているのであるから、前進することができるのです。 預言者のともがらは目に見える証拠を求めました。これは霊的な未熟を表わしています。 預言者のともがらはエリシャの経験したことを経験しなければいけなかったのです。 エリシャはヨルダン川を渡って来ました。彼のいのちの源は十字架でした。 私たちは生まれながらの考え方を十字架に釘付けにしなければいけない。さもなくばイエス様のよみがえりの力を経験することができない。 もうひとつのたとえ話は、列王記第IIの4章に書かれています。 前に話したように、エリシャは霊的な成熟を示し、そして、これに対して預言者のともがらは霊的な未熟を表わしたのです。 第二番目の例として、彼らは肉的な考えによって支配されたのです。この第二番目の例を通して見ることができるのは、すなわち、預言者のともがらは肉的な考えだけではなく、彼らは肉的な心をもっていたのです。 列王記第II、4:38-41
とあります。預言者のともがらは何を習わなければならなかったのでしょうか。彼らは死よりも強い力を知らされようとしていました。また彼らは未来の奉仕のために、このよみがえりのいのちの力が必要だったのです。 今読んだ物語を見ると預言者のともがらがおのれのいのちを見て、それが役に立たないことを知り、いかにして死を避けたかがよく分かります。 38節を読むと、預言者のともがらがエリシャの前に座していたとあります。 彼らは未来の準備を整えるためにエリシャから学んでいました。福音書の中で書かれていますけれど、ベタニヤのマリヤもイエス様の御前に座り、イエス様の話に耳を傾けました。これはエリシャに対する預言者のともがらの関係と同じでした。 とにかく、主イエス様の御前に座り、耳を傾けることは、イエス様がご自身の栄光を現わされる道です。もしイエス様の御前に私たちが静かに座るならば、イエス様の栄光が現われるばかりでなく、私たちのあわれな様も現われます。 ヤコブの井戸の罪ある女の場合も同じでした。ここに現われたのは、イエス様の大いなるご栄光ばかりでなく、大きな罪もあらわにされたのです。よく知られているヨハネの福音書4章の16節ですか。 ヨハネの福音書4:16-18
ここで何という大きな罪があらわにされたのでしょう。けれど、またいかに大きな主イエス様のご栄光が現われたことでしょう。 預言者のともがらとエリシャの場合もこれと同じでした。当時、国に飢饉がありました。 エリシャはその地に飢饉があるのを知っており、自分のしもべに言ったのです。前に読みました、「大きなかまを火にかけ、預言者のともがらのために煮物を作りなさい。」と。 結局上手くいかなかったのです。「死がかまの中にはいった。」と、あります。預言者のともがらの間に死がやってまいりました。どうしてでしょうか。 良いものと悪いものの区別が分からず、何もかも持って来て、かまの中にいれたのです。 預言者のともがらは将来の奉仕の準備をしました。その中でもっとも大切なことは、区別することであるということを学びました。 預言者たちはいつも困難と苦しみのうちに生活しました。主のみこころからイスラエルの民が離れたとき、預言者たちが出てきたのであります。 このようなときにおける預言者の真理は、死といのちを区別することでした。 野うり、あるいは野生のうりは本当のうりのように見えますが、その中には毒があります。悪魔の目的はいたるところに死と毒をもたらすものです。 今日も善と悪、死といのちがしばしばいっしょになっています。これは死の鍋を意味しているのにほかならない。今日霊的な区別は絶対に必要です。 私たちの霊的ないのちでは何が必要であり、また何がいけないか、その区別を知らなければならない。 私たちは人間や人間の言葉によらず、主のみことばによって生活しなければならない。 聖書に頼らない者は必ず損します。 私たちはイエス様なしに、イエス様のよみがえりの力で生活することはできない。 私たちが主から離れて行なうことすべては、新しいいのちにとって毒のようなものです。 したがってエリシャはその鍋に粉を入れました。この粉は結局イエス様の象徴です。 もしイエス様が死の中にはいるならば、死は逃げ去り、毒はもはや効かなくなります。 私たちがもっているのは死と毒であり、イエス様がもっているのは救いといのちです。 もし主イエス様がわれわれの虚ろと貧困のうちにはいったなら、そこにイエス様のよみがえりの力が現われます。 |