引用聖句:エペソ人への手紙4章1節-3節
今朝のメッセージの題名は、「共なる生活の大切さ」 私たちはどういうふうに主を喜ばすことができるのでしょうか。心を一つにして、ともに主を拝む時なのではないでしょうか。 私たちは一つの団体ではない。ある組織に属する者ではない。けども私たちは一つの家族です。少なくとも主の目から見ると私たちは一つの家族です。決して仲良しからではありません。 何年か前に、あるところですばらしい集会をもつことができたのです。そこで集まった銘々が持っている悩みや苦しみ、信仰の問題をみな話し合うことができたのです。 そのときみんな、本当に一つである交わりを感じ、経験したのです。これこそが信者たちのあり方であると思ったのです。 銘々の悩みがほかの兄弟姉妹の悩みとならなければいけないはずです。 一つの肢体が、すなわち一人の信者が苦しめば、ほかの肢体、すなわちほかの信者たちもともに苦しむと聖書は言っています。もしそうでなければ、根本的な誤りがどこかにあると申さなければならないでしょう。 もし銘々が自分一人で苦しんでいると、その人は霊的な成長ができないばかりか、そうすることによってほかの信者もみんなに影響が及んでいます。 自分の悩みはみんなの悩みであり、自分の喜びはほかの兄弟姉妹すべての喜びでなければならないはずです。 私たちはだれにも言わないで、一人で苦しんでいることがあるのでしょうか。エペソ人への手紙を読むと、まことの教会とはどういうものであるかわかります。3章の21節を見ると次のように書かれています。 エペソ人への手紙3:21
とあります。私たちは教会により、すなわち私たち信者の群れによって、栄光が、主イエスに帰せられるようにという願いをもっているのでしょうか。 集会に来るのにどういう目的をもって来られるのでしょうか。何かお喋りするために、またはありきたりの交わりを求めて来るのでしょうか。それともイエス様に御栄え帰し、ともに主の栄光を拝せんがために集会に来るのでしょうか。そのうちのどれでしょうか。 私は、主が私の信仰生活に一歩一歩導き、引き上げてくださったのを思い起こします。考えてみると、それは3段階に分けられます。 第一番目。私は救われていないとき、もちろん毎日聖書読んだのですし、また祈ったのです。もちろん救いの確信をもっていなかったのです。 いわゆる多くの人々とともに、「自分たちは罪人である。」と告白し合っていました。決して、「私は罪人である。」と一人主の前に立って、自分の罪を認め、悔い改めませんでした。 「あの人も罪人。この人も罪人。」と人の中に自分の罪をごまかしていましたけど、それから主が私の心の目を開いてくださいました。 心の目が開かれると、自分の罪ばかりしか目に入りません。それで私は絶望し、自殺しようとしました。 ですが幸いにも私の恐るべき罪を十字架の上で主が負い給い、もうすでに解決されていることも知ったのでした。 第二番目。その翌日、私は救われたことを知り、救いの喜びを覚えました。その日、この喜びをすぐほかの人に証ししたのです。 私はそれまで罪人であるということをわかっていました。ですけど、罪を赦され、救われた時、それを公にし、主イエス様は救い主であるという大きな喜びを言い表わすことができたのです。 主は私にとって段々日増しに、偉大なお方となってきました。 そしてエペソ人への手紙、おもに1章3節から15節までが私の身に起こったことであることを知ったとき、私はこのエペソ人への手紙の個所の、「私たち」複数形の「私たち」というところを消して、単数形の「私」と書き直しました。実に驚くべき幸いな救いでした。 それからの8年間、私は救われて、イエス様こそが私の喜びそのものでした。 第三番目。何十年かあとで、エペソ人への手紙の1章3節からのことばに、なぜ複数形、すなわち「私たち」と書いてあり、単数形の「私」と書いていないか、その意味がようやくわかりました。 私たち兄弟姉妹が一つになり、主イエス様のご臨在を現わし、証しするために私たちが、信者が一つになっていることが、主にとってどんなに大切なことであるかがわかったのです。 ですから、おのおのの信者がほかの信者と共にする生活こそが、考えられないほど大切です。 まことの教会、すなわち救われた兄弟姉妹の群れは、霊的成長の場所、証しの場所、戦いの場所、また満たされる場所であるべきです。 使徒の働きの3章と4章から、いやされた足なえの例えを通して、いやされた足なえは主イエス様を知り、主のもとに来て救われた時、自分は知らなかったけど自然に教会、すなわち救われた兄弟姉妹の群れに加えられていたことを見、経験した。 どうしてでしょうか。主のところに行ったということは、主と一つになったことを意味し、主イエス様をかしらとする主体に加えられたことを意味します。 かしらと主体は分けられることはできません。ですからしたがって、いわゆる教会の見方が問題でないのでして、イエス様ご自身を知ることが問題となってきます。 もしこれを心の深くに見ることができず、また知ることができなければ、前へ進むことができないでしょう。 新約聖書を見ると、初代教会はこの世の征服からまったく離れ、組織や規則に縛られていませんでした。御霊だけが導き手でした。もしこの御霊の統制と導きがなければ、人の作った組織や規則が必要となってきます。 独立教会と言いますが、この独立という意味は、自分勝手な思うがままの生き方をするための自由をもっているといった独立ではなく、御霊が、御霊だけが支配できるための独立を意味しています。 まことのからだなる教会の使命は、だれかほかの人が私たちの群れに入ってくるなら、私たちは一つの教えを信じ込んだ人々よりも、われわれの内に現実に主イエス様がご臨在しておられることを感じさせる。そのような生きた群れとなるのが目的です。 主の恵みによって救われた者は、かしらを主イエス様と過ごしたいです。そして主イエス様はこの主体を通してご自身のご栄光を現わそうとしておられる。 みなむしろ主イエス様はわれわれ信者を通してだけしかご自身を現わすことができない。私たちは主の栄を現わす使命を負わせられているのです。 私たちが主のささやかな御声を聞き、みこころを心に留めることができるように。そのとき初めて私たちの群れ、主のからだなる教会が霊的成長、実り多き証し、ひたすらなる祈りの戦い、また想像に余る満たしの場所となることができると確信している者です。 本当におのおのの信者がほかの信者と共なる生活は、主の栄光を現わすためにどうしても必要です。 私たちは主の満たし、自分一人で経験することはできない。どうしてもお互いに経験しなければなりません。したがって信ずる者が一緒になってする生活は大切であり、非常に尊い価値あるものと言わなければならないと思います。 この救われた者たちの交わりは、理論ではなく、銘々が経験すべきものであり、また経験しうるものです。 パウロはそれをエペソ人への手紙に述べています。パウロの生涯を見てみるとわかります。 彼の生まれたときの名前とは、もちろん違う名前でした。サウロだったのです。サウロという名の意味は本当にすばらしい意味です。「祈りによって与えられた者」です。祈りの結果です。すばらしい名前。 けども彼はあとで自分の名前を変えたのです。「パウロ」と言ってもらいたいと言ったのです。パウロという名前の意味は「ちいちゃい者」。本当にすごい決心なのではないでしょうか。 このパウロという男は宗教によって夢中になったのです。夢中になった宗教家は悪魔の道具であると言わなくちゃいけない。 けどもパウロはユダヤ教から離れました。どうして?聖書の教えを耳にし、聖書を読み、学び、それからユダヤ教と比べ、聖書の教えをより良い宗教として選んだのでしょうか。 決してそうではありません。パウロがイエス様とともに受けた新しいいのちそのものが自然にパウロを押して、ユダヤ教から脱皮せしめたのでした。 パウロは、理論は一つもありませんでした。経験があるのみです。パウロは死といのちを知っていました。なぜならパウロ自身死に、且つ、よみがえりの力を自分のものとして経験したからです。 彼はまた、主の支配を理論的ではなく、実際に知っていました。それはパウロが実際にイエス様を主として、単なる助け手として、単なる救い主としてではなく、主として認め、おのれを主の奴隷として生活したと言えます。 前にも話したことがありますけれども、「救い主」、「主は救い主である」という個所は聖書の中で、合わせて26回しか出てこない。 けどもこの「救い主とは主である」という個所は670回出てきます。考えられるべきなのではないでしょうか。 数え切れない多くの人々は、主を救い主として、助けてもらうお方としてほしい。けど、主として結構です。自分で考えたい。自分で決心したい。自分で支配したいという思いがあるからです。 前に読んでもらいました個所、4章1節に、「主の囚人である私」とパウロは言っています。3章の1節も同じ表現が出てきます。 エペソ人への手紙3:1
パウロはローマの王君であるネロという皇帝によって囚われたとき、自分はネロに囚われた囚われ人とは言わなかった。 彼は心からなる喜びをもって、私はイエス・キリストに囚われた、主イエスの囚人、主に仕えるしもべであると証ししたのです。 これと同じようにパウロは、主のからだなる教会に対しても理論的に学んだのではなく、体験的に教えられたのでした。 彼はかつて救われた人々を迫害しようと、ダマスコの道を急いでいました。そのときイエス様を迫害しようとはもちろん考えなかったのです。イエス様はもうすでにそのとき地上におられなかったから。 けどそのときどうでしょう。主はパウロに現われ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するの?」と申されました。「なぜ信者たちを、わたしを信ずる者たちを迫害するの?」とは言われなかったのです。「なぜわたしを迫害するのですか?」と。 このときパウロは、高く天に座し給う主イエス様と、地上の信ずる者たちとはまったく一つのものであることを薄々ながら感じ取ったことに違いない。 それからというものパウロは、自分は何かあるものの一部分に過ぎない。すなわち、主イエス様のからだなる教会の一部分に過ぎないということを段々知ってまいりました。 彼は最初はやはり、少ししか主を知らなかったのです。けど段々イエス様を知り、もっとイエス様を知ろうと願ったとき、もっとイエス様を知るためには、ほかの救われた兄弟姉妹とともにしなければならないということをも知るに至ったのです。 パウロはダマスコの道すがら主に会ってからパウロのところに、いわゆる普通の信者であるアナニヤという兄弟が来て、どういうふうに挨拶したかと言いますと、「兄弟パウロよ。」、今までの敵そのものだったのです。けどもアナニヤは主のことばを信じたのです。 主は、「このサウロという男はわたしの名を呼び求めている。」 今まで信者たちを、自分たちを迫害したサウロという男は、イエス様に向かって祈ることだってあり得ないと彼は思ったから、ちょっと断ったのです。「主よ。恐ろしくて行きたくない。」 けども主は嘘つきじゃないでしょ。結局彼は必ず思ったのです。 何が正しいか。私の思いと気持ちか。あるいは主の言われていることか。それを考えると明らかです。やっぱり主は嘘つきじゃない。ですから、この確信をもって彼はサウロのところに行ったのです。 「兄弟サウロよ。主イエスが私をあなたのところにお遣わしになりました。」 結局パウロは回心したその第一歩から、ひとりの兄弟とほかの信者と語り合いをもったわけです。ただ一人では決して前に進むことができなかったのです。 私たちの今までの信仰生活を静かに振り返って考えると、どんなに多くのことがらをほかの兄弟姉妹に負っているかがよくわかります。 また逆に一人で何かをやろうとして失敗に終わったことも多くありました。 パウロは兄弟に向かって、アナニヤに向かって、「あんたは何者だ。私はあなたと何の関係があるのか。私は自分一人で主を知ったのです。」と言いませんでした。 パウロはイエス様に直接会いましたけど、あのアナニヤの助け手と奉仕が無かったなら、信仰の第一歩すら踏み出すことができなかったのではないでしょうか。 パウロはしたがって、まことの主のからだなる教会、すなわち信ずる者の集いはいかに大切なものであるかを本当に知るようになったのです。 彼は自分が洗礼を受けた日より、自分はただ単に主のからだなる教会の一つの部分にしか過ぎない。主イエス様が、主イエス様こそ、ご自分の教会のかしら、支配者であり、導き手であられることを知ったのです。 パウロはイエス様のからだである全世界の教会を見たとき、「自分は主を見た。」という誇りはどこかに消え去り、自分がいかに小さな存在であるかを知るに至ったのです。 私たちは主に対する知識が大切であることをよく知っていますが、もしこの偉大なる教会を見るに至るならば、また、イエス様を教会のかしらとして見るならば、私たちのもっている主に対する知識はいかに小さいかを知るに至るでしょう。 パウロはローマ人への手紙の中で次のように書いたのです。 ローマ人への手紙1:11-12
パウロは自分の奉仕を通して、ほかの兄弟姉妹は祝福してもらいたいと思っただけではなく、やっぱり私もほかの兄弟姉妹によって祝福されなければダメとはっきりわかったのです。 よく土、日曜日出かける、奉仕する兄弟たちはみんな味わうようになっているのじゃないか。やっぱり自分のみじめさを、無力さを感じます。 だから、「主よ。お願いします。行く兄弟姉妹に会いますけれども、彼らは本当に祝福されますように。」と願いながら帰って来たら、私は兄弟姉妹によって祝福されたと喜んで証しすることができるのではないでしょうか。 パウロの経験も同じものでした。成長のため、お互いの助けを必要としています。またエペソ人への手紙に戻りまして、 エペソ人への手紙3:18
云々とあります。こういうふうにパウロはとりなして祈っていますが、原語では、理解するようにだけではなく、完全に知るようになることと書かれています。イエス様を完全に知りたいと願うべきなのではないでしょうか。 私たちは、少ししか持っていない主を知る知識で満足していてよいものなのでしょうか。それとも、もっともっとイエス様を完全に知りたいのでしょうか。 4、5年信仰生活を送っている者は、もうすでにイエス様を知り得たかのように考えてしまいます。 パウロは今ようやく主を知り始めたと言っています。 ピリピ人への手紙3:12
主イエス様を完全に知りたい。これがわれわれの目指す目的でなければならないのです。 前に読みました、 エペソ人への手紙1:23
と。この節には全き主イエス様について書いてあります。すべてのものをすべてのもののうちに満たしておられる完全なる主イエスの姿が描かれています。 イエス様はすべてのうちにご自身のからだなる教会に満ちんとし、それを満たすと願っておられるお方です。 教会はイエス様の満たしです。すなわちイエス様を完全に知るには、ほかの兄弟姉妹とともにする生活が考えられないほど大切です。 ですからパウロはエペソ人への手紙3章の18節に強調したのです。すなわち、すべての聖徒とともに。ある特定の聖徒たちとともじゃない。すべての聖徒たちと。 このイエス様を完全に知るには、ほかの信者とともにする生活が本当に大切です。すべての聖徒とともにいなければ、主は本当の意味で用いられ得ないのです。 私たち、主イエスの恵みによって救われたひとりひとりが、もっとイエス様を知りたいと願っていることは確かです。けど一人ではそれがどうしてもできないということをよく知っているのでしょうか。 あなたは自分一人で主を知りたく願っておられるのでしょうか。もしそうなら、あなたは一人で何とかしようともがいていることになり、まことの心の成長を遂げることができない結果になるでしょう。 もちろんこう言ってきて誤解を招くかもしれない。個人的に主は導き、霊性を正めてくださいます。一人で聖書を読み、静かに黙想する時ももちろん大切です。けどそのときほかの兄弟姉妹にも考えが及ばなければならないということです。 主イエス様はひとりひとりを見られるとともに、主はからだなる教会を見ておられます。 私たち救われた兄弟姉妹の群れはもっとともに主を知り、ともに祝福にあずかるように祈りたいものなのではないでしょうか。 私たちは主を知れば知るほど、主についてほとんど知っていないということを告白せざるを得ません。 もしおのれの成長、進歩だけを考え、ほかの兄弟姉妹に考えが及ばないなら、すでに自分は得ているという自己満足のところに追い込まれてしまいます。 ほかの兄弟姉妹とともにする生活の結果は、主をほんの少ししかまだ知っていないというところに私たちを置きます。 イエス様の変わらない呼びかけとは、マタイの福音書11章29節です。 マタイの福音書11:29
(テープ A面 → B面) ・・・そして前に読んだ個所の内容は同じでしょう。 エペソ人への手紙4:2-3
と。これを考えてみると、主を知ることと謙遜、柔和には深い関係があることを知るのです。 ところが私たちはほかの信者との交わりなくして、柔和と謙遜を持ち給うイエス様を知ることができません。もしあなたがひとりぼっちで生活するなら、柔和と謙遜の尺度がなくなります。 私たちは何と高ぶった者でしょう。私たちは心の底から高ぶる者であり、驕れる者であり、謙遜そうに見える人は往々にして高ぶる人です。 それではいったいどうしたら謙遜になることができるでしょうか。傲慢を治す薬があるのでしょうか。あります。それは兄弟姉妹と共にする生活です。 しかし集会に来て、隣に座ってお話を聞く。それはほかの信者と共にする生活ではありません。共にする生活とは、信ずる者お互いがその喜びと悲しみを共にする生活を言います。また同じ目的を目指す生活を言います。 救われた兄弟姉妹の群れはお互いの霊的成長の場所、証しの場所、共に戦う場所、また共に満たされる場所です。 もしそれが心からわかれば幸いです。 これが具体的な現われとして自分の興味、自分の願い、自分の目的を否定することを意味しています。これは、言うことは簡単ですけれど、実際になるとおのれが頭をもたげ、またもや不幸になってしまうといった具合に、なかなか難しいことです。 おのれの生まれながらの性質、古き人、おのれの考え、おのれの目的、これらは信者の交わりにとって邪魔です。 逆に信者の交わりはこれら、古き性質、おのれの考えや目的にとって恐るべきものです。天主にいるイエス様を知ること。地上にいる兄弟姉妹の内に宿っておられる主イエス様を知ることはまったく同じことです。 銘々の兄弟姉妹の内に、主イエス様を見ておられるのでしょうか。ほかの兄弟姉妹と共々に、主イエス様をよりよく知ろうと、私たちは望んでいるのでしょうか。 遠く離れていて、相反することは極めて簡単でしょう。けど共に生活して、お互いに愛することは極めて難しいことです。 何か自分が役割を演じたいというような古い性質はまったく打ち砕かれなければいけない。そうなるためには信ずる者と共に生活することこそが大切です。 私たちは今、主を追い求め始めました。パウロは、「私はまだまだだよ。けども何があっても主をよりよく知りたい。」と心から望んだのです。 最後の結果として、前に読みましたエペソ人への手紙3章の21節であります。「教会により、またキリスト・イエスによって、栄光が、世々に限りなく、あるように。」ということです。 私たちひとりひとりではなく、イエス様に栄光があるように。 主の目から見るとからだなる教会は、あの信者、この信者という複数ではないのでして、ただ一つの人格者、主イエス様御一方です。 イエス様だけが父のみこころにかなうお方であり、私たちはイエス様のからだの一部としてのみ、主のみこころにかなう者となることができるわけです。 旧約聖書を見ると、聖なる神がその宮に満ちたとき、そこにとどまり得た人間はいなかったのです。みんな宮から離れ、逃げゆかなければいけませんでした。 もし聖霊の宮で、すなわち兄弟姉妹の群れで何か役割を演じようと試みるなら、その人は動きは取れなくなってしまいます。 まことの教会は多くの人々ではなく、ただひとりの御方、主イエス様ご自身であり、私たちはその主体の一部分に過ぎません。まことの教会におけるご奉仕も、これとまったく同じです。 イエス様は信者たちの絶対的な支配者です。ですからイエス様が指導して、伝道者とし、あるいは面倒を見る、ともに悩む者、主イエス様だけを示す者たちをお立てになるのです。 なぜある人々は福音を公に宣べ伝える者となり、別の人は日曜学校で主イエス様のことを話すのでしょうか。 それは神学校を卒業したからなのではない。また生まれながらにして能力があるからではない。イエス様によって捕えられた主のしもべ、また自分の全き無能力を深く知り、日々御霊に導かれる人がそれなのです。 自分がまったくダメな破産者であり、おのれの動機と考えを憎むことを心から知り、信者の交わりのうちに自分が見えなくなることを、そして栄光が主イエスにのみ帰せられることを喜ぶことのできる人は本当に幸いです。 イエス様がご自身の栄光のために私たちをそこまで導くことができれば本当に幸いです。 |