キリストとともに


ベック兄

(レトロテープ聞き取り)

引用聖句:コロサイ人への手紙2章12節
12あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

マタイの福音書28:18-20
18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

今日は洗礼式が行われますが、その前にいつものように洗礼の意味について一緒に考えてみたいと思います。
洗礼について。洗礼とは何かその意味をわきまえ、正しい立場をとることが大切だと思います。聖書の中で洗礼という言葉が、全然出てこないなのは面白いだと思います。
いつもギリシャ語の言葉使われています。バプテスマ、これ決して日本語の言葉じゃないんです。どうしてバプテスマという言葉使われてるかわからないかも。私はわかりません。一つの逃れ道じゃないかと思うんです。
ある人々はそれは滴礼を意味してるし、他の人々は幼児洗礼を意味してますし、他の人々は浸礼を意味してると言うんですけども、私たちが言ってる洗礼、すなわちバプテスマは、原語ではバプトと言って、バプトと言う言葉の意味はもぐって出るという意味を持ってます。
洗礼を受ける、すなわちもぐるということは全部、水で濡れつくされるだけではなく、完全に見えなくなるということを意味してます。

もちろん聖書の中で、真の救いの経験と水の洗礼、はっきり区別されています。ちょっとローマ人への手紙から一ヶ所お読み致したいと思います。この中でバプテスマという言葉は何回も、何回も出てきます
けどもこのバプテスマという言葉の意味は、もちろん決して水の洗礼のことを意味してるんじゃないんです。本当の救いの経験を表す言葉でありますが、すなわち真の洗礼を意味することです。
真の洗礼は救いを経験することです。水の洗礼は、その体験したことの証しにすぎません。ちょっと長いんですけども、ちょっと1節からお読み致したいと思います。

ローマ人への手紙6:1-11
1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
8もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
9キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
11このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

とあります。ここで言ってるバプテスマは、先ほど述べた意味で使われています。すなわちもぐるということは主とともに死に、再び水から上がるということは主とともによみがえらされたことを意味してます。
すなわち新約聖書の中には、いつも救いの経験という真の洗礼と、水の中にもぐって上がる二通りの洗礼が書かれています。
水の洗礼は個人的な体験の証しです。自分の信仰をあらわす一つの手段であります。水の洗礼は、単なる儀式ではなくイエス様を救い主として受け入れ、救われたという証しです。
水の洗礼は私たちがイエス様とともに死に葬られ、かつともによみがえらされたということを証しの手段でありますか、方法であります。

このローマ人への手紙6章3節から5節までに、イエス様の十字架、イエス様の墓、イエス様のよみがえりについて書き記されています。ですからこの3つのことについて、すなわちイエス様の十字架、イエス様の墓、イエス様のよみがえりについて、ちょっとだけ考えてみたいと思います。
イエス様は死の川、ヨルダン川に入られた、われわれの代わりに死なれたのであり、水に入ることはこれを象徴するものであります。
それからイエス様は死なれてから3日間葬られたんです。見えなくなってしまったんです。洗礼を受ける人は水の中に入って瞬間的だけですけど見えなくなる、それから上がることはイエス様の復活を象徴するものであります。
他の言葉で言いますならば、イエス様の十字架はこの世からの分離を意味します。

2番目は、墓、イエス様の墓は古い生活の終わりを意味してます。
そして第3番目は、よみがえりは新しい生活のはじまりを意味してます。この3つの点について、ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。

十字架はこの世からの分離を意味します。もちろん誰でもわかりますが、今の目に見える世界は決して神の国ではありません。
この世には2つの世界と2つの群れがあります。どういうふうに2つに分けられたかと言いますと、イエス様の十字架によって、イエス様の十字架によって、2つの国、2つの世界に分けられてしまったんです。
すなわちイエス様の十字架は、神の全人類に対する裁きを意味してます。十字架は決して飾りものではありません。神の裁きをあらわすものです。すなわち神は言われます「堕落した罪深い人類はどうすることもできません。私は、この人類を捨て、十字架につけて、消し去ろう。」と。
人間がどんなに高い道徳的な生活を送っていても、また反対にそうでなくても、すべての人々は何らの差別なく神から離れた者であり、迷える羊のようなものであると聖書は言ってるんです。

すなわち人間は、罪を犯すから罪人なのではなく、罪人として生まれたから罪人であると聖書は言ってます。生まれながらにして人間は罪人であり、罪の支払う報酬は死である。このみことばは、全人類は死に渡されなければいけないという神の御心を表しています。けどもここで福音が入ります。すなわち御子イエス様は聖い、聖なる咎のない、罪の知らないお方でありましたが、このどうすることもできない人類の罪を一身に背負って身代わりに死なれることをよしとされました。
イエス様はみにくい全人類の罪を背負って、十字架の上で身代わりの死を遂げられたから、主なる神はその罪に目を向けていることができませんでしたから、御顔を背けられたんです。そこで、イエス様は十字架の上で、「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのか。」と叫ばれたんです。

神から離れるという恐るべき裁きののろいが、われわれの代わりにイエス様の上に負わされました。イエス様が亡くなられたあのとき、天の窓はとじられていました。開かれませんでした、あのやさしい父の御声は聞こえませんでした。これがわが愛する子、わが心に適う者になりという御声はイエス様の耳に響いて参りませんでした。
なぜなら、イエス様はそのとき罪深い人類の身代わりとなり、罪そのもの罪の固まりにされたから、父なる神は御顔を背けられたのであります。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」このイエス様の叫びに対する義なる神の沈黙は、結局罪深い堕落した人類を私は見捨てる、喜ばない、受け入れない、死に渡すと神の御心を表してるんです。
主なる神が滅び行く全人類を御子イエス様のうちにおきたもうたと聖書は言ってます。人類をイエス様のうちにおきたもうたと言うことは、もちろん人間の頭では理解できませんが、けど実際に行なわれた驚くべき奇跡です。

コリント人への手紙第I、1:30
30あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。

と書いてあります。すなわち父なる神は、全人類を御子イエス様のうちにおきたもうた、これは主なる神のなしたみ業であるとあります。ですから主なる神が御子イエス様を十字架の上でお見捨てになったとき、神はあなたをも裁かれたんです。

主なる神は言われます、堕落した罪深い人類はどうすることもできません。私はこれを捨て十字架につけて消し去ろうと、主なる神はこのように言われましたが、それに対するわれわれの答えはいかがなものでしょうか。

私たちは洗礼によって神にお答えします。洗礼を受けることにより、主なる神の判断を素直に受け入れたことを表すのです。自分は恐るべき罪人であり、駄目なものであることを洗礼によって告白するんです。
どうでしょうか、私たちは神の判断を素直に受け入れたことがあるのでしょうか?自分は恐るべき罪人であり、駄目なものであることをみとめたことがあるのでしょうか?
もしある人がイエス様の死が自分の身代りの死であったということを認め主に感謝するなら、その人はその瞬間に生まれ変わり、新しいいのちを受け、違った世界の住民となります。

続いて第2番目になりますが、イエス様の墓についてちょっとだけ考えたいと思いますが、イエス様の墓は何を意味してるかといいますと、すなわち古い生活の終わりを意味してるんです。
墓はすべての終わりを意味してます。墓は堕落した人類の終わりを意味してるんです。これは主なる神が決して、決して堕落した人類に満足されないということを意味してます。
この主なる神のこの世に対する、この目に見える世界に対する判断、また自分に対する判断を素直に認め受け入れた人が洗礼を受けます。ですから結局洗礼を受ける人は、主とともに死んでしまったから、自分は墓に入るにふさわしいものであるということを認め、自分は2000年前にイエス様とともに十字架につけられて死んでしまったという事実を、今になって証しするわけです。
人間はいったい何時、墓に葬られるのでありましょうか?生きてるときでしょうか、それとも死んでからでしょうか?

ある教会は死ぬためだと言うんです。すなわち今の組織されたキリスト教の大部分の教会は、洗礼を受けることによって救われると言うんです。聖書はまったく違うこと言ってるんです。
結局彼らは死ぬために葬られると言うんです。決してそうではありません。もうすでに死んでしまったから、結局葬られるようになります。もうすでに自分はイエス様とともに死に、ともに葬られたということを心の目で見た人は救われた人であり、違った世界の住民です。
今日洗礼を受けて水に入るとき、あなたは2000年前にイエス様にとともに死にあずかるバプテスマを受けたから、今日水のバプテスマを受けるわけです。すなわち主なる神は全人類をイエス様の中におかれたから、イエス様は死なれたとき全人類は死んでしまったと聖書は言ってるんです。
今日受けるバプテスマは、結局2000年前に受けた、あずかった死のバプテスマを公に証しするわけです。真の洗礼の日は決して今日じゃないんです。私たちはイエス様にあって、イエス様とともに十字架につけられたあの2000年前のことです。今日は洗礼の日ではなく、洗礼をもうすでに受けた洗礼を証しする日にすぎません。

だからよく言われます。すなわち洗礼は葬式であるということです。葬式というものは普通、もちろん悲しい出来事ですけども、キリスト者の間では、この葬式は喜ばしいお祝いです。
洗礼を受ける人は、「私は、私の全ての罪を取り除いた、イエス様の血潮を感謝致します。」、と告白してます。また、「私は罪を取り除かれたばかりではなく、私自身をも取り除かれた。私はイエス様とともに十字架につけられた。」、と証ししてます。ですから洗礼はあなたの終わりを、あなたの終局を意味してます。パウロのようにいうことができれば、本当に幸いだと思うんです。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

イエス様の十字架と、イエス様の墓とイエス様のよみがえりは、全人類の十字架と墓とよみがえりだったんです。私たちはこの永遠に変わることのできない歴史的な事実を、信仰によってはじめて自分のものとすることができます。洗礼はこの個人的な体験の証しです。
今日洗礼を受ける兄弟姉妹は、十字架によってこの世と分離され、このように死んでるのです。そして自分はこの世にもう関心がない、興味がないと言った状態にあるはずです。
また今日洗礼を受ける兄弟姉妹は、墓によって古い人に終わりを告げず、妬みやおのれを高くする自尊心も終りを告げたことを知ることができます。それから自分はもうすでにイエス様にあって死にあずかりバプテスマを受けてるから、水のバプテスマを受けるのであるということを認めてる兄弟姉妹です。

そして3番目に、今日洗礼を受ける兄弟姉妹はイエス様のよみがえりにより、ともによみがえらされて新しい人につくり変えられたということを認めている方々です。
まったき新しい人なのは、その人ではなくその人のうちに住みたもうイエス様です。ですから洗礼を受ける兄弟姉妹に、どうしても覚えてていただきたいなのは、今からクリスチャンが新生活しようという考えを捨ててもらいたい。どうせできないからです。
多くの信者たちは、「イエス様を信じます、いまからもっと立派にならなくちゃならない。」、と考えるんですけれども、神の目的は全然違います。私たちは立派になることじゃなくて、弱いみじめな私、立派なるイエス様に頼ることこそが主の目的なのです。主のめざす目標であります。

私はみじめであり、弱いものであり、けどもイエス様はすばらしい、だからイエス様に頼り頼みますという態度取ること、取り続けることこそがもっとも大切なんです。
洗礼によって、あなたは心の中で信じていることを外にあらわし証しするんです。水から上がり洗礼が終わった後、あなたは私の汚い、けがれた、嫌な見るに耐えない古き人が主とともに死に、今や新しいいのちに生きることができた、主を褒めよう心から主を賛美し、主に感謝することができます。

洗礼を受ける人々は、兄弟姉妹はこの態度を取るべきです。すなわち私は上から聖霊によって新しく生まれ変わったものです。自分はこの世に属さない、この世の者ではない、自分の国籍は天にあります。この世では自分は宿り人にすぎません。
そして苦しみや悩みは、天の御国に対する望郷の思いをかりたてるばかりです。この世とまったく違っているということがわれわれの証しであります。

イエス様はヨハネの福音書の中で、「もし、あなたがた、この世の者であったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世の者ではなく、かえって、私が世から、あなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」と書いてあります。

もうすでに洗礼を受けた兄弟姉妹は何をお考えでしょうか。
洗礼はもうすでに遠い昔のことだ、洗礼は信仰生活のはじまりだった、と考えることはよくないと思うんです。絶えず、かつて洗礼によって証しした事実を記憶に留めておかなければいけません。
この世に対して、死んでいないままで生活している、洗礼を受けた兄弟姉妹がたくさんいると思います。人から誉れを受けることを喜び、古き人の享楽的な生活を喜んでる兄弟姉妹もいると思います。そして聖霊の導きに対して無知でいる兄弟姉妹もおられるでありましょう。
このような兄弟姉妹に問うてみたいんです。すなわちあなたは真の洗礼をお受けになったのでありましょうか?あなたが受けられた洗礼はあなたにとって何を意味してたのでありましょうか?
あなたは、イエス様の死はあなたのための死であり、あなたが生きるのは、ただイエス様のために生きるのであるということを心の目でご覧になったことがあるのでありましょうか?

もしあなたが主と真の交わりを持っておらず、主なる神があなたを喜んでおられるという自覚をもっていならいなら、それからまた聖霊の臨在と力を知り、罪と古き人に打ち勝つことを知らないなら、主があなたの心の目を洗礼の真の意味に開いてくださるように願う者です。
もし心の目が開かれるなら、パウロと同じようにいうことができます。前に引用したガラテヤ人への手紙2章の言葉です。
このように「私はキリストとともに、十字架につけられました。生きてるのは、もはや私ではない、キリストが私のうちに生きておられるのです。この十字架につけられた、この世は私に対して死に、私もこの世に対して死んでしまったのである。それはキリストが父の栄光によって死人の中からよみがえらされたように、私たちも、また新しいいのちに生きるためである。」、と。

他のクリスチャンとともに生活することは、なかなか簡単なことではありません。一人の人が相手の人の生れつきの性質を考え、それが目につき、あの点、この点と弱い点を見つけます。そして一緒に生活することができないと言います。
もちろんその人は救われた神の子であり、自分と同じく聖霊をうちに宿している人です。それはわかります。
一方相手も自分の弱い点を見て、よく知ってることでありましょう。けども、もしこの生れつきのままなる点を探し合うなら、悪魔はそれに乗じてきます。そしてイエス様のご栄光を傷つけるといった結果になります。
私たちはそうでなくて、違った土台の上に、違った尺度の上に立って物事を測らなければいけません。それはキリストの上に立つことです。
私たちは兄弟姉妹の弱点に目を留めますか、それから目を離し、兄弟姉妹のうちに住みたもうイエス様にだけ、

(テープ A面 → B面)

・・・けど、私たちは兄弟姉妹のうちに住みたもうイエス様に対してだけは、失望しないで信頼したいものです。
イエス様は奇跡を行なうことができ、また行なおうとしておられることを信じましょう。こうすることも、洗礼の中に含まれている大切なことの一つです。
もし主がこのことに心の目を開いてくださるならば、それは本当に素晴らしい祝福であります。

最後に結びとして、いつも記憶に留めておくみことばとして、コリント人への手紙第I、1章をお読み致したいと思いますが、

コリント人への手紙第I、1:30-31
30しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
31まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。

ここでは、誇る者は主によって誇れと書いてあります。
今日洗礼を受ける兄弟姉妹は、自らを誇る理由を少しも持っていないと思うんです。誰も主に差し出す、よきものを持ち合わせていないはずです。やがて栄えある主の御前に立たされる時には、自らのうちにはもとより何一つよきものを持っていなかったということをはっきりさせられます。
なぜ私たちはイエス様を信ずるようになったのでありましょうか。私たちは他の人より増しだったからでしょうか。それとも新しく生まれ変わるのに一生懸命、自らの力で努力したなのでありましょうか。
決してそうではありません。主なる神が計り知れないあわれみのゆえに、世の初めから私たちをキリストのうちにおいてくださったから、救われてキリスト者になることができたんです。
けども自分も求め、自分も信じたのだと言うかも知れません。そうでしょうか?父なる神が聞いてくださらなければ、求むることもできなかったはずです。信仰の導き手であられるイエス様なくして、信仰すら持てなかったはずです。
私たちが信じて救われたのは、私たちの業ではありません。主なる神のあわれみだけです。重い病人がいて手術をし、全快したらそれは患者の手柄じゃないんです。手術した医者の手柄です。
これとまた同じように、罪人が悔い改め、回心したのは、決して罪人の手柄ではありません。神の手柄です。

聖書の言ってる信仰と悔い改めとは、いったい何なのでありましょうか?
前にも言いましたように、たとえば今ここでもうすぐ陥落しそうな要塞があります。敵軍はその要塞を取り巻いています。要塞の人々の兵糧はなくなりました。弾薬も尽きました。
このとき要塞の人がやる一番よいことは、白い旗を揚げて降参することです。この降参した人が回心した人です。悔い改めとは白い旗を揚げて降参することであり、信仰は自分の要塞をもっと強いものに空け渡すことです。
お腹がペコペコの乞食が金持ちのところへ行き、手を差し出してパン一切れをもらいます。それは決して英雄的な行いじゃないんです。同じように主イエス様の血潮を信じる信仰は、英雄的な行いではなく、溺れる者が投げられた綱をつかむようなものです。溺れる者が綱をつかむというのがただ一つの逃れ道であり、その他のことはできません。

もしあなたが短い間に信仰が成長し、たくさんの人々をイエス様のみもとに導き、ご奉仕ができても、またパウロのように「私は戦いを立派に戦い抜き、走るべき行程を走り尽くし、信仰を守り通した。いまや義の冠が私を待ってるばかりである。」と言うことができても、自ら誇るところは何もないはずです。
天国へ行って冠をかぶってる人を見るなら、この冠は私の熱心と誠実と努力の報いだ。また愛と奉仕の報いだと自ら誇ってる人は一人もいません。

ヨハネの黙示録には次のように天国の様子が書かれています。

ヨハネの黙示録4:10-11
10二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
11「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

と。あなたがイエス様の御姿に変えられていっても、それはあなたの努力の結果ではありません。それは主のみわざです。
イエス様はすべての者のすべて、すべてのことにおいて第一のものとなるために、私たちの知恵となり、犠牲、贖い、愛、忍耐、謙遜、柔和となってくださいました。
誇る者は主を誇れ、そのようになりたいものです。主を誇りましょう。

他の人が私たちを見たら、何事があったかと怪しむばかりに主を誇りましょう。他の人が私たちのうちに主を見出し、いぶかる時、私たちはパウロのように、「しかし、私には私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられるのです。」と喜んで証ししたいものです。

主が私たちの心の目を開き、イエス様とともに死んでしまったという真の洗礼の意味を悟らせてくだされば本当に幸いと思うんです。
もしそれがわかるならば、新しく力強く生涯に踏み切ることができます。

ローマ人への手紙6:4
4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

また、コリント人への手紙第IIに次のように書いてあります。

コリント人への手紙第II、5:15
15また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

パウロが回心した時に、「主よ。私は何をしたらいいのでしょうか?」と尋ねましたが、今日洗礼を受ける兄弟姉妹も、パウロと同じような態度を取っていただきたい、取り続けていただきたいんです。
自分の思いや自分の願いを大切にしないで、ただ主が何を望んでおられるかを大切にしてください。また自分勝手な目標を捨てて、聖霊の目的、すなわちイエス様の栄光をあらわすという、このことを心に留めていただきたいんです。
そしてまた、あなたがたの日常生活の歩みは、イエス様に対する愛のあらわれとなっていただきたいんです。




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