引用聖句:使徒の働き16章6節-34節
今、兄弟は祈りの中で、「真実なるお方はあなたです。」、25年間お坊さんとして働いた方がこういうふうに言うのは、やっぱり奇跡なのではないでしょうか。 人間は皆真実ではない、真実なるお方とはイエス様しかない。だから私たちは喜ぶことができるのです。 集会の前に、一人の姉妹はちょっと悲しそうな顔で、泣きながら言ったんです。「笑えなくなった〜」、今からは多分笑えるようになるのじゃないか、と思うんです。問題は解決されたからじゃない、主は真実なるお方であるからです。主の愛は条件付の愛じゃないからです。どういうことがあっても主は愛し続けます。 土曜日も日曜日も、御代田でまあ二つの結婚式があり、結婚とはある意味ではゴールインしたことかも知れない。けども、まだ結婚したとしても天国じゃないでしょう。やっぱりふたりで、今から走らなければならないし、もしかすると喜べなくなる可能性もあるのではないでしょうか。 なぜならば、大部分の問題は家庭内の問題であるからです。家族の人で、みんな主にあって大いに喜べば、外の問題は大した問題じゃない。 昨日はある兄弟の葬儀だったんです。彼本当の意味でゴールインした。結婚してゴールインしたようでも、まだまだ、今からです。 兄弟は本当の意味でゴールインした。「天国です。」 ダビデは、あなたの御前に喜びが満ちてると言ったのです。この天国で味わう喜びとは、「消えないきえない、変わらない喜び」です。 けど信ずる者は、喜べなくなる可能性十分あります。 ダビデという大王は、詩篇の51篇の中で、「主よ。救いの喜びをかえしてください。」と祈ったんです。どうして祈ったか?結局なくしちゃったからです。彼は喜べなくなってしまったんです! 今、兄弟がお読みしました個所の中で、刑務所の中の監視たちは自殺しようと思ったんです。けども読み続けると、彼らは家族そろって多いに喜ぶようになったのです。考えられない変化です。 何時間かの間で、自殺しようとした人は家族皆で一つになって、主にあって大いに喜ぶようになりました。聖書の中で、ただ喜んだらどう?と提案しているのではない。もちろんいつも喜べとも書いてない。それは無理な話だからです。 「主にあって。」 結局、主を仰ぎ見て、主のなさった御わざについて考えて喜びなさい。 喜ぶしかないんです。イエス様の犠牲について、イエス様の変わらない愛について、もううれしくなります。希望が湧いてきます。 今も今日のテーマは?と聞かれたんですけど、テーマは「捕らえられた者として走りましょう。」 走り続けましょうというテーマです。 別のテーマを付けようと思えば、イエス様を知るようになってからの持つべき心構え。このことについてパウロは、ローマの刑務所の中で次のように書いたのです。 私たちも、いろいろな人々からEーメールをもらいますけど、このピりピの人々とはこの手紙をもらった時、やっぱり考えるようになったと思う。心から祈るようになったに違いない。 ピりピ人への手紙3:12
パウロは、私は勉強して理解したから、イエス様を受け入れ信じるようになったと言ってないんです。この考え方は宗教的です。 聖書的な考え方は違う。イエスキリストが私を捕えてしまった。求めようとしなかったなのに、救えわれたいと思っていなかったなのに、イエス様は私を 捕えた。私はイエス様のものになった。 捕らえられた者として、パウロはピリピにいる兄弟姉妹に書き記したのです。 ピりピ人への手紙3:13-14
もう必死になってパウロは走るようになりました。 ピりピ人への手紙3:15
パウロは、あなたがたと議論したくない、私によって納得したとしても大したものじゃない。神が、必ず明らかにしてくださるのです。 ピりピ人への手紙3:16-21
信ずる者の思いと考えと、主の思いと考えとは違います。イザヤは当時の信ずる者に書いたのです。 イザヤ書55:8-9
と。結局、自分の考えてることと、主の考えていることとは似てるじゃないかと考えますけど、違う。全然違う。だから人間は悩むようになりますし、喜びもなくなっちゃう。 絶えず、絶えざる喜びを得る秘訣とは一体何なのでしょうか。真実なるイエス様を仰ぎ見ることです。 ヘブル人への手紙の12章、これも良く知られてる個所だけど、毎日読んでもよいのではないかと思います。 へブル人への手紙12:1-2
主から目を離さないでいなさい! へブル人への手紙12:3
結局、イエス様のことを考えなさい。どうして?それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。 自分を見ると、置かれている環境を見ると、誰でもが疲れます。落ち込むようになります。喜ぶことができなくなってしまいます。 何十年か前だったんですけど、フィンランドのヘルシンキでオリンピックが開かれた時のことです。ある女性は馬術の金メダルをとり優勝しました。 けどあのご婦人は、健康人ではなくからだの不自由な人だったんです。小さい時、体の小児麻痺で手足を思うように使えなかったけど、自分のからだを打ち叩いて服従させ、馬術を習ったんです。 オリンピックの時点でも、自分で馬に乗ることができず、他者の手を借りて乗るような状態でした。けど見事に優勝しました。 ちょっと考えられないことなのではないでしょうか。もちろん単なる金メダルのためでしょう?と、ある人は思うかも知れない。 パウロは、永遠の冠を目指し走るべきであると言ったのです。私たちも、永遠なる冠を目指し、この婦人のように目標を目指し、力を尽くして戦ってるなのでしょうか? コリント人への手紙第I、9:25
朽ちるものと朽ちないものとは、言葉で言い表わせないほどの違いのものです。パウロは、ピりピにいる兄弟姉妹に対して書き送ったのです。 ピリピ人への手紙3:17、13-14
ここでパウロが話しかけているピりピの教会について、ちょっと考えたいと思います。だから司会をされた兄弟は、使徒の働きの個所を読んでくださったのです。 あのピりピの教会とは、一体どのようにできたなのでしょうか。使徒の働きとは、いわゆる教会史です。初代教会はどういう風にできたのか。主によっていかに導かれたのか。そういう歴史の本です。 この使徒の働きの中で、詳しく書かれてるんですけど、パウロは、第一伝道旅行はシラスという兄弟同労者といっしょに出かけたんです。けども急に三人になっちゃったんです。 途中でパウロとシラスに、テモテという若者が加えられました。おそらく福音を聞いて、悔い改めて、イエス様を信じて、イエス様に従いたい、いっしょに行かせてと、必死に頼んで、いっしょに行くようになったのです。 三人は、行く先々でイエス様は生きておられる、イエス様はすべての者の主であることを宣べ伝えました。結局大切なのは、勝利者なるイエス様を紹介することなのではないなのでしょうか。 「あなたはああすべきだ。こうすべきだ。」と言うよりも、「主は生きておられる。」と宣べ伝えるべきなのではないでしょうか。 三人は喜びもあったでしょうし、悲しみもあったでしょう。主のみことばを述べ伝えてるところ、人々は二つの群れに分かたれていきます。ひとつは、主のみことばに素直に聞き従い、主の祝福にあずかる人々であり、もう一つの群れは主のみことばに従わず、滅びに向う人々です。 パウロとシラスとテモテが伝道してるうち、彼らは突然主から違う命令を受けたのです。これ以上伝道の手を広げないようにとの命令でした。今まで彼らの経験したことのない不思議な経験でした。もう一回戻りましょうか、 使徒の働き16:6
みことばを語ることを聖霊に禁じられたこと。ちょっと考えられないけどそうなんです。 使徒の働き16:6-7
結局ダメ。イエス様の栄光を現すために遣わされた御霊は、ダメと言ったのです。三人は、それまでビテニヤの地方に伝道の手を伸ばし、小アジヤ全体に福音を広めようと計画していたんです。 そしてこの計画を祝福してくださいと、三人は心を一つにして祈りました。祈り続けました。このような3人に対して主は、「私の心はそこにない、私の思いとあなたがたの思いとは残念でした、違う。」、全然違うとお知らせになったんです。 良く知られてるエレミヤ書の29章の11節に次のようにな言葉があります。非常にみんな宣べ伝える言葉です。 エレミヤ書29:11
私はよく知ってると言える人間はいないと思います。過去のこでもはっきり覚えてないし、今朝のことでさえもはっきり覚えてないかもしれないし、ましてや千年あとは何もわからないよ。主は、「わたしは全部よく知ってる。」 エレミヤ書29:11
すばらしい言葉です。 人間はよく、「損をした。わざわい。」と考えるんです。しかし主は違う、わたしの計画とはそういうものではない。あなたがたは今理解できないでしょうし、大いに悩むでしょうけど、振りかえって見るとどうしても必要だった、主の愛の現われであったとわかるようになります。 結局、主のみわざはうしろへ退いていくものではありません。主はいつも積極的な道を開いてくださいます。一つの道がふさがれれば、さらによい道を用意してくださるのです。 パウロとシラスとテモテの三人は、自分たちの計画が御心でないことを教えられた時、主の御前に黙して静まっていたとき、主は新しい道を示されたのです。もう一回使徒の働きにもどりまして、 使徒の働き16:9
パウロがこのまぼろしを見たとき私たちは直ちに理解できなかったかもしてない。主よちょっと待っててもらいます。ちょっと考えます。そういう気持ちはなかったんです。 結局、主が御心を明かにすると、もう自分で判断すべきではない。そのとき必要なのは従順に従うことです。 パウロたちも、ただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。主が示された場所は、今までのアジヤと違ってヨーロッパでした。 そればかりではない、主が示された場所は、後に非常に祝福を受けた場所になったのです。 そこで救われた最初の人は、前に読みましたように紫布の商人であるルデアという婦人でした。彼女は、神の民に族する者でユダヤ人でした。 二番目は、占いをする女奴隷。彼女はギリシャ人でした。それから監獄の獄吏とその家族でした。その獄吏はもちろんローマ人でした。 ヨーロッパで打建てられた最初の兄弟姉妹は、ユダヤ人とローマ人とギリシャ人とで成り立っていたのです。主のからだなる教会は世界的であり、そこには国民の間に差別が全くありません。 主のからだなる教会は、天的であり地的ではありません。主のからだなる教会は、御霊に支配されているべきであり、人間の組織によって支配されてよいものではありません。 パウロの手のよって打建てられていた、数多くの教会の中で、このピりピの信ずる者の群れは一番よい教会でした。この教会はパウロの喜びでした。 ピりピ人への手紙1:3-5
パウロは、4節で、「すべて」、そして「いつも」という言葉を使うことができたのです。あなたがた大部分のためと書いてないんです。すべてはすべてです。そして、たまにとも書いてないんですね。いつも。 あの、ピリピにいる兄弟姉妹は、主を第一にした人々だったんです。「私たちはもうどうでもいい、イエス様が中心になってもらいたい。」、そういう気持ちでいっぱいだったのです。 結局彼らは、主にあった時だけに燃えていただけではなく、やっぱり変わらなかったんです。最初の日から今日まで。 パウロは、彼らについて考えた時本当に喜ぶことができた。パウロは、後になってみて、あの小アジヤ全体に福音を宣べ伝える自分の計画を捨てて、御霊の声に聞き従ったことをどんなに喜び、主に感謝したかわかりません。 私たちの思いではなく御心だけがなるようにと、三人ともは決心したから従ったんです。理解できなかったんです。先のこと全くわからなかったんです。 パウロが自分の計画に従っていたなら、彼はどんなに大きな損失を招いていたかわかりません。 私たちの中で、自分で持っている計画に対して道が閉ざされているように思う方々もいるかもしれない。イエス様はそのような人々に、ご自分の計画を示そうと望んでおられます。 ピりピ人への手紙を読んでいきますと、パウロのピりピの兄弟姉妹に対する愛がにじみ出ています。彼はピリピ人との深い心の交わりをもっていました。パウロは自分の胸のうちを全部ピリピにいる兄弟姉妹に打ち明けることができたんです。すばらしいぃ。 パウロに愛されるピりピの信ずるものの群れに、パウロの手紙が届きました。「手紙きたよ〜!。」 ピりピの兄弟姉妹は、いっしょにこの手紙を開いて読みますと、パウロの決心のことが3章に書かれています。 当時はもちろん章に分かれていなかった。節もなかったよ。私たちが手紙を書きますと、1章、2章と書けないでしょう。あとでね適当につけられてしまったんです。 時々変につけられてるよ。本当は章全部なのに分かれてたりしますよ。人間のやったことですから、天国では章には分かれてないと思うよ。 結局みんな読むことはできなかったんです。けども読みことができる人を呼んで、第3章になった時、「ええ!何て言ってるの。もう一回読んで。」、と頼んだ人いたかも知れない。 ピりピ人への手紙3:17、13-14
「走りましょう。」、これはパウロの勧めだったのです。 これを読んだピりピの信者たちも、パウロと同じ決意を新たにかためたに違いない。 パウロは驚くべき霊的なものでした。それにもかかわらず、パウロはもう良いだろうと思わないで、彼は前のものに向って進み、目標目指して一心に走ってると書いたのです。 そしてピリピにいる兄弟姉妹も、前に言いましたように、パウロの目から見ましても模範的な信者でした。けどパウロはそれに満足しないで、「私に習うものとなってほしい。」と呼びかけているんです。 パウロは霊的な人であり、ピりピの人々も模範的な人々でした。それにもかかわらず「前のものを求めよう!」と言うのですから、私たちもこれに深く心をとどめる必要があるなのではないでしょうか。 私たちが、あんまり気にも留めないで見過ごしている主の備え、また与えたい報いは何なのでしょうか。からだを伸ばし、目標を目指して進み行く時、備えられてる報いとは何なのでしょうか。 報いが何なのであるか考える前に、ちょっとだけ、報いは何で「ないか」と考えるべきなのではないでしょうか。 パウロの目指した報いとは、いわゆる救いではなかった。当たり前です。パウロはもうすでに救いの確信をいただいているのであり、もうすでに永遠の命を持っているのであり、もう行く先は天国だと確信したのです。 言うまでもなく、理性でもってつかめなかった。気持ちもついてこなかった。理解できない、説明できないけど、彼は確信したのです。この確信の土台とは、やっぱり「みことば」だったのです。 聖書はこういう風に言ってる。聖書はなんと言ってるか。聖書に基づいて云々とパウロは、何回も何回も言ったのです。 たとえば、あのピりピの刑務所の中で、ピりピ人への手紙1章21節23節、4章18節を見ると、彼はもちろん救いに預かっていたことは明かです。 ピりピ人への手紙1:21
パウロは、自分の肉体が滅びると天の住みかに帰り、主イエス様とともに生きることができることを、本当に楽しみにしてました。 ピりピ人への手紙1:23
パウロは、自分自身のことは少しも考えなかったんです。自分のすべては主にあることをよく知ってたからです。 ピりピ人への手紙4:18
と、満ち足りたパウロの心が表されている言葉なのではないでしょうか。 このパウロにしてしかも、目標目指して神の勝利を得よう努めてるのは不思議なことなのではないでしょうか。進む前にここで考えるべきなのは、私たちはもうすでに永遠のいのちをもってるなのでしょうか?イエス様に個人的にお会いしてるなのでしょうか? 主のみことばは、イエス様を持つものは永遠の命をもち、イエス様を持たないものは永遠のいのちをもっていないとはっきり言っています。 聖書の中で、イエス様はいわゆる山上の垂訓のなかで、救いの道を教えておられます。すなわち、この世には二つの門がある。一つの門は広く、もう一つの門は狭い。 またこの世には二つの道がある。一つの道は広く、もう一つの道は狭い。 またこの世には二つの群れがある。一つの群れにはたくさんの人が群れ、もう一つの群れには少しの人しかいない。 またこの世には二つの目標がある。一つは永遠の滅びであり、もう一つは永遠のいのちである。 このように、イエス様はこの世の人々を二つに分けておられます。 主は、私たちの心の深みまでご存知です。主が私たちを見られると同じ目をもって、私たちも自分自身を見ることができたら幸いです。私たちの心の目を開いて、自らを顧みるとき、主の御前に自分は恐るべき罪人であることがわかるはずです。 パウロは、旧約聖書の詩篇からあちこちみことばを引用して次のように書いたのです。 ローマ人への手紙3:10-18
主が全地を見られるとき、何をお考えであり、どのように見られるのでしょうか。どういう人々を捜し求めておられるのでしょうか。 今の世界が求めているのは、もちろん頭の良い人々であり、優秀な人々であり、魅力的な人々であり、金を持つものであり、権力を持つ人々なのではないでしょうか。 けども主は、こういう人々に対して知らん顔をする。主の求めておられるのは、心を砕かれ、みことばにおののき主を恐れている人々です。 砕かれている心を持たない人は祝福されません。みことばにおののかない者は決して導かれえません。主を恐れない人は、何があっても惨めでさびしくて孤独です。 ローマ人への手紙3:18
そうしたらおしまい。悲劇的です。 アブラハムとは完全ではなかったんですけども、彼は主を恐れた男でした。結果とは、「私はちり灰にすぎません。」と言うものでした。 ちり灰とは、役に立たない捨てるべきです。これはアブラハムの思っていたことでした。 ヨブは、「私は自らを恨み、ちりの中に悔い改めます。」と言ったのであります。 詩篇の作者であるアサフは、73篇の中で「私は愚かで悟りがない。あなたに対しては獣のようであって」と告白せざるをえなかったのです。 イザヤは、「わざわいなるかな、私は滅びるばかりだ。私はくちびるの汚れた者です。」と告白したのです。 主の道具になった、主に大いに用いられたペテロは。「主よ。お願い。私から離れて、私は罪深い者であるから。」と叫んだのです。 今日、どういう人が捜し求められているのでしょうか。イザヤの答えは、 イザヤ書66:2
主を恐れる兄弟姉妹は、へりくだって心砕かれた人々です。そしてまた、光によって自分の惨めさと虚しさを知るようになった兄弟姉妹です。ピリピにいる兄弟姉妹はそう言う人々だったのです。 けどもパウロは、「OKよ。安心してる。」とは言わなかったのです。「捕らえられた者としてこそ走りましょうよ。」と、彼は書き記したのであります。 |