富山喜びの集い


ベック兄

(富山喜びの集い、2000/07/09)

引用聖句:詩篇139篇23節-24節
23神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

司会の兄弟がお祈りを忘れてしまって、まあ、いい実例を示してもらったねえ。人間は結局そういうものなんです。
一番大切なことを大切にしないこと、知ら〜ん顔して忘れること、みな同じですよ。司会の兄弟だけじゃないよ。

よっぽどの問題がなければやっぱり駄目なんです。妻である姉妹はやっぱり祈りの人になったと思います。結局何にもできなければ祈るしかないでしょう?
ですからやっぱりこういうふうに、残念かもしれない、僕経験してないけど、完全に寝たきりになり何もできなくなることとは一番辛いかもしれないけど、その時こそやっぱり主をよりよく知ることができるなのではないかと思います。

昨日の記念会で、ある兄弟が言いましたように、先週4人の兄弟は召されたんです。僕と同じ歳の人々です。けどもみんな希望をもって召されたから非常に感謝です。もちろん周りの人々にとっても喜びです。亡くしちゃったんじゃなくって、「もう先にゴールインした!」
未信者が死ぬと時々、「旅に出かける」と言われちゃう。われわれは「ゴールインした」、と言いますからやっぱり全然違うのではないでしょうか。

先週また一人の知り合いの人をちょっと思い出したのです。何年前に知るようになったんですけども、そして彼は天に召されて...
彼についてハンガリーでひとつの本が出たんですけども、吉祥寺集会の兄弟姉妹の献金でもって出た本なんです。必ず祝福になったと思います。
その後でリンデの本もハンガリー語で出たんですけども。今度ドイツへ帰ったときラウスノウセという人からひとつの小包貰ったんです。彼は輝いたし、
私は、「何?」、ともちろん聞かなかった。はっきり分かったんです。聞く必要はなかった。
リンデのポーランド語の本だったんですね。出たんです!そして今現在ドイツのウルンでロシア語でも印刷されてるんです。8つの言葉で出たのは、ほんとに不思議で不思議でしょうがない。

このハンガリーの兄弟とは、本当にもう素晴らしい兄弟だったんです。一度ハンガリーで生まれ、けどドイツで育てられるようになり、本当に苦労した人だったんです。本当はユダヤ人だったんです。
けども彼は19歳のとき、福音を聞いてイエス様を信じ受け入れたんです。親であるユダヤ人たちはそれを我慢できなかったから、彼は追放されてしまった。結局、縁が切られるようになった。19歳の青年にとって辛い、おもしろくない。
けどもイエス様の側に立つと、絶対に後悔しない。結局彼は何があっても妥協しなかったんです。それから彼はユダヤ人であったから、ドイツのアドルフ・ヒットラーによってユダヤ人として憎まれるようになり、捕まえられるようになり、7回も強制収容所に投げ込まれてしまったのです。
どうして死ななかったのか、まったくわからない。やっぱり人間的に考えればおもしろくない人生だった。

それから彼はずっと病気でした。いろいろな病気を持つようになったのです。
18歳のときオートバイ事故で腎臓を駄目にしてしまったのです。腎臓をひとつ取り出さなければならなかったとのことだったんです。
40歳になったとき、残りの腎臓を2回手術しなければならなかったんです。それから彼は非常に重い糖尿病にかかりました。それだけじゃなくて腸の手術をも受けなければならなかったんです。
糖尿病がひどかったため、足を切断しなければならなかったんです。それだけじゃない。肺結核にもなってしまったし、最後に残りの足も切断したのです。だるまになってしまった。
それにもかかわらず、もちろん一人で歩くことができないし、何にもできないけどもいろいろな人々は彼を運んで、至るところ行ってイエス様のことを紹介したのです。やっぱりゆっくりできなかった。せっかく救われたから、イエス様のこと紹介したい。最後の手術の後、彼は次のように日記に書いたんです。

『私は手術が成功して私がまだ生きてるという事実が分かった時、ある程度までショックであったことを認めざるを得ない。
というのは私が主のみもとに召されることがゆるされるであろう、ということだけを期待していたからです。その時私はひとつの歌を思い出さざるを得ませんでした。

むこうぎしにはなやみがない
むこうぎしにはよろこびだけがまってる
むこうぎしにはもはやなげきもかなしみもない
むこうぎしには主がまっておられるのだ

私は両足を失った。しかし主は私に翼を与えてくださった。私はわしのように翼をかってのぼることができる。私の限られた状態を超えていくことができる。
私はちりの中にうずまる必要はない。上から見るとすべてがまったく別のように見えるのだ。
最近主は私の手からすべてを奪いとりました。私は今まで病床にあるときでさえ、いつも非常に積極的でした。
今はすることすべてが非常に少なくなってしまいました。私の召されるときが目前に迫ってきたようです。
私はたくさん美しい天国の歌を考えています。そしてそれを小声で歌い、心からアーメンと言うのです。早く、主イエスのもとに行くことができれば、と願いつつ。

もう少し辛抱して、疲れた旅人は心のふるさとに帰ることがゆるされます。
私は今まで回り道や横道をたくさん通ってきました。私にはまだ多くのものが欠けており不完全です。そしてなんとしばしば自分の権利を主張しようとしたのです。
しかし今は私は次のように言うことができます。私は主の御前に持ってくるものは何もない。主よあなただけが、私のすべてのものです。』

こういう心構えを持つこととは、普通の人間にとってちょっと考えられない。イエス様が生きている証拠にすぎません。人間だってそういうものではないからです。

ヨハネの福音書3:3
3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

マタイの福音書18:3
3あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。

結局主の救いのために要求されてるのは正直になること、素直になることだけです。主の救いを知らなければ、人生とはほんとうに喜びのないものであり、的外れです。
幸せとはいったい何なのでしょうか?ある人は結婚だと考えてます。はたしてそうでしょうかねえ。ある人々は確信を持って離婚だと確信しています。けどもそれもひとつの逃げ道にすぎません。

一昨日でしたかね、家庭集会があったんですね。今日も来ておられる夫婦なんですけども、結局奥さんは4ヶ月前から実家へ帰って別居になったんです。けども一昨日ご主人もみえましたし、ご主人も祈るようになったんです。
あの夫婦のためについて祈ってください。4ヶ月別居だってたいしたことじゃない。ここで他の夫婦もいますよ。離婚して、そして一年後また籍を入れて一緒になっちゃった。幸せの夫婦になったでしょう?主はすごい。

結局、人間だっていっくら努力しても、がんばっても駄目なんです。主を仰ぎ見るとやっぱり人間は小さなものになります。それからやっぱり叫ぶようになります。
「私の考えてることは正しくないかもしれないから、もう何もわかりません。あわれんでください。導いてください。」
この態度とると、主はおおいに恵んでくださいます。人間にとって大切なのは、主を知ること、それだけなんです。

ですから、主は生きておられる。主は私をも愛してくださる。愛し続けてくださる。主は私の過ち、わがままをゆるしてくださっただけじゃなくって、忘れられた。私は主を知ることによって、永遠のいのちを得た。もうすでに死からいのちに移されたと言える人こそが、幸せなのではないでしょうか。
けども、さらに主に用いられる必要があります。そうしないとね、司会の兄弟のように祈ることでさえも忘れちゃう。ごめんなさい。僕も同じです。ほんとに人間は駄目なんです。

聖書の個所でいい個所がありますよ。全部いいんですけども、今朝読んだ個所は詩篇の72篇の12節です。非常にすばらしい、助けになる言葉です。

詩篇72:12
12これは、彼が、助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者を救い出すからです。

結局叫び求める者、貧しい者、助ける人のない悩む者こそが求められています。そういう人々こそが主を仰ぎ見るようになり、主を知るようになり、おおいに喜ぶようになります。
けども人間とは結局、生まれつき駄目であり、残念で死ぬまで駄目です。確かに多くの人は言います。
「人間そのものはねえ、あんまり悪くない。人間の中に実はねえ、なかなかいいものがある。
環境だけ悪い。相手の人は悪い。向こうの人々が悪い。本人はそんなに悪くない。環境だけ良くすればなんとかなる。」

これは人間的な考え方で、そうじゃないかと考える人は多いけど、聖書によると間違った考え方です。将来そのために1000年王国が与えられます。1000年王国のとき悪魔が縛られています。悪魔は人間を攻撃することができない。
環境は「完全」に近い環境です。けども1000年後、悪魔はまた自由になったとき結局人間そのものは全然変わっていないことになります。結局環境じゃない。人間そのものは問題なんです。
もうすでに創世記の中で書かれています。

創世記8:21
21人の心の思い計ることは、初めから悪である

証拠は私の孫です。かわいいでしょ。彼女の初めて話した言葉は、「ありがとう」ではない。「すみません」でもない。「いやです」
教えたつもりじゃないけど、人間の心はそういうものです。

エレミヤ書17:9
9人の心は何よりも陰険で、それは直らない。

一番はっきりした言葉とはイエス様の言葉でしょう。
マルコの福音書の7章。ある人は、「未信者はひどい。信じる者はちょっとましです。」、と確かに考えます。イエス様はそう思わなかったようです。
イエス様の言われた言葉です。イエス様は真理そのものです。人間の心をご存知であります。

マルコの福音書7:21
21内側から、すなわち、人

人とは、人間そのものです。未信者だけでなく、信者も含まれています。

マルコの福音書7:21-23
21人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
22姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
23これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

これこそが人間がだれでも心の中に抱いてる思いであると、イエス様ははっきり言われたのです。パウロも同じようなことを違う言葉で書き記したのです。彼は自分の意見を聞きいれない民に、旧約聖書の個所だけ引用して次のように書いたのです。

ローマ人への手紙3:10-18
10「義人はいない。ひとりもいない。
11悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
12すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
13「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
14「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
15「彼らの足は血を流すのに速く、
16彼らの道には破壊と悲惨がある。
17また、彼らは平和の道を知らない。」
18「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

神に対する恐れがなければおしまい。もう希望がない。主をおそれることは知恵のはじめ、であるからです。
主なる神は、どういう人々を捜し求めておられるかといいますと、結局主をおそれる人々です。心を砕かれた人々です。みことばにおののく者であると聖書は言ってます。今の世とまったく違うなのではないでしょうか。
今求められている人々とは、もちろんいわゆる優秀な人々です。金持ちです。権力者たちです。頭のいい人たちです。主の考えとは全く違う。
主をおそれることとは、祝福される秘訣そのものです。結局人間の心は直らないものです。

ルカの福音書18:9
9自分を義人

正しいものだと、

ルカの福音書18:9
9義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、

当時のいわゆる宗教家たち、聖書学者たちに対しては、

ルカの福音書18:9-10
9イエスはこのようなたとえを話された。
10「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

パリサイ人たちとは、当時一番素晴らしい教育を受けた人々で、尊敬された人々だったのです。
取税人たちとは、見下された者でした。敵国ローマ帝国のために税金を集めたからです。もちろん間違った方法でも取ったし、自分のポケットへ入れたし、結局取税人たちとはもうひっどい人々だったんです。変な目で見られても、友達がいなくても、金があればそれでいいだろう。
現代人と非常に似ています。当時の取税人たちはそういう者でした。

ルカの福音書18:11
11パリサイ人は、

あの立派な人格者、聖書の内容をよく知って、信じ込んだ男は立って心の中でこんな祈りをした。祈りではなかったよ。けど彼はこれは祈りだと思いこんでしまったんです。

ルカの福音書18:11
11立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。

「神よ。」と言うともうおしまい。後で何が続いても駄目。

ルカの福音書18:11
11神よ。私

結局大切なのは、「私」、

ルカの福音書18:11-13
11私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。

「神よ。」ではなく、

ルカの福音書18:13
13こんな罪人の私をあわれんでください。』

今度、イエス様の判断が出てきます。

ルカの福音書18:14
14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

聖書の言わんとしていることはそれです。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は取税人のように「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」という態度とる者は高くされる。
意味は、救われる、義と認められ主のものとなります。結局このパリサイ人のように、このように考えてる人々は、主なる神を偽り者とする者に他ならない。パリサイ人は祈ったよりも何かしゃべっちゃったんです。
けど彼は、姦淫や貪欲な心が自分にはないものと思い信じ込んでいたのです。

このように心の目が見えなくなっているのは、何という悲劇なのでしょうか。かかる人々はどんなに努力しても、あるいは周りの人々の救いのために祈っても、あのパリサイ人のように毎週2回断食しても、10分の1を献金したとしても何にもなりません。
普通の教会でよく10分の1を献金しないとけしからんと、言われてます。新約聖書の中で10分の1という表現はここだけ出てきます。この10分の1を献金した人は、駄目だとイエス様は言われたのです。

普通の信者ではない、特別に選ばれ、祝福されたパウロという人は告白したのです。われ、悩むる人かな。自らの内には、何の良いところもない。私は本当にみじめな人間です。
イエス様を信ずるようになったパウロは、こういうふうに告白したのです。結局自分の心はもう駄目、と彼ははっきり分かったのです。
再び生かされる道とはいったい何なのでしょうか?絶えず生かされる秘訣とはいったい何なのでしょうか?
すでに聖霊の宮となってる信者でありながら、さらに解放される必要があるということはある意味でちょっと悲しいことです。生まれ変わったけど、眠ってる兄弟姉妹は目を覚まし、新しくされなければならない。これはどうしても必要な、また現にある動かすことのできない事実です。
普通の健康なキリスト者の生活とはいったいどういうものなのでしょうか。パウロはガラテヤ人への手紙2章20節に書いたのです。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる

もしこのような状態なら、イエス様はいつも信ずる者の心のうちに生きて働いていますから、新しくされる必要はない。
毎日続いて霊的に目覚めさせられてる人々は、本当に幸せです。けどもそのために必要なのは、まず自分のもの足りなさを覚えることです。
私たちは魂の深くにイエス様との深いまことの交わりを持ちたく願っているでしょうか。私たちは自らのうちに足りないところがあることを感じてるなのでしょうか。
いずれにしても、私たちは主とのまことの交わりを持ってるか持っていないかは大切です。ですから私たちは霊的な健康人なのでしょうか。もし意識していない隠れた罪を持っていても、その罪は意識している罪と同じように、主と私たちの間を隔てるものです。

私たちも不満足を覚えてるなのでしょうか。もし霊的なもの足りなさを覚えているなら、次に2番目になりますけど、罪を明るみに出す備えができていると言えます。
前に読まれた個所の中で、ダビデは本当に心から祈ったんです。「どうか私を試し、私を試みてください。」
私たちもこういう祈りになってるなのでしょうか。この備えができていない人はみじめ・・・

(テープ A面 → B面)

もし病気になったら医者のところへ行って、「先生お願いします。私をみてください、何とかしてください。」と言うでしょう。心のうちに足りなさを覚えながら主のみもとに行くべきです。「どうか、私を試してください。」、とこの態度とらないこととは罪です。
医者に病気を診てもらうとき、着物を脱がなければ駄目なのと同じように、新たなる祝福を得るために私たちは主の御前にすべてを明るみに出し、はだかにならなければならない。
医者は着物を脱がせるだけではありません。皮を切り、肉を切って悪いところを取り出します。主も私たちに同じお取り扱いをなさるお方です。

今、主が私たちをご覧になるとき、あなたはもう備えができてると言えるでしょうか。または、あなたはあなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、はだかの者であることに気がついていないと言うのでしょうか。
私たちが自らの罪を明るみに出す備えをし、主に試みていただく備えができると、自らがどんなに罪深い者であるかが表れて来ます。

あるところに財産家がいました。けどもこの財産家の悩みの種とは自分の子どもでした。放蕩息子でした。親にとって考えられない苦しみとなり、悩みでした。母親は息子を心配するあまり、心を痛めて早く死んでしまったのです。
やがて息子は愛し続けてくれた父親のもとを去って、家を出てしまったのです。それから何年かたった後、息子は父親が死んだ知らせを受けました。息子は葬式に行けば、大きな財産の内、いくらかでも貰えるだろうと思って、仕方がなくて帰りました。
そこには親戚の人々が並び、息子を見るとあんまりいい顔をしませんでしたが、やがて父親の遺言を読み始めました。それには、初めから自分のその放蕩者の息子のことに触れ、それまで息子がやったいろいろなことを書き並べ、母親も息子を心配する余り死んだことが書かれていました。
それを聞くうちに息子は自分が悪いことを聞くに耐えず、その場を立って出てしまいました。家の中にいる人々は続けて遺言を読み続けましたが、終わりの方に何と書いてあったでしょう。
「もし、この遺言を息子が悔い改めた気持ちで最後まで聞くことができたら、愛してる息子のことだから私の残した全財産を与える。」、と書かれていたということです。
息子は最後まで遺言を聞かずに席を外してしまったから、財産は親戚の者に分け与えられたんです。

もし私たちが、自らの真相は、イエス様が前に読みましたマルコの福音書の7章でおっしゃっておられる姿と同じだということを認めないなら、私たちは新たなる祝福を得ることができません。考えられない宝を逃がしてしまうことになります。

再び生かされる道とはいったい何なのでしょうか。自らは足りない様を認めること。第2番目は、主の御前に自らをはだかにすることです。
第3番目、新たなる祝福を得るために必要なのは、自らの心の内に罪を認めることがどうしても必要です。

パリサイ人は自分の罪が覆い隠され、外に表れなければ神は喜んでくださるであろうと思ったんです。けど主の考えはもちろん違います。
サムエル記の中で、人間は外の形を見ますが、主は心の深みまで見通すお方である、と書かれています。主の御前に、情欲を抱く者は姦淫を犯すことになる、人を憎む者は殺人罪を犯したことになる、とはっきり書かれています。
私たちはすでに自らがパリサイ人な心を持ってることを認めたなのでしょうか。私たちの一人ひとりの心は、あたかも駄目なものであります。
主の目から見ると、心の中には高ぶりがあります。情欲があります。汚れがあります。吝嗇があります。怒りもあるし、復讐心もあるし、怠惰もあるでしょうし、わがままもあるし、妬みもあるし、短気もあるし、恐れもあります。
もし私たちが、イエス様が言われたマルコの福音書7章の罪を御前に認めたら、主は私たちを今度はその告白に導いておられます。

「主よ。私は駄目です。わがままです。罪を犯すことしかできないものです。」、これこそが取税人の告白でした。
主の御前に、私は貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ですと、光に照らされて告白したことがあるなのでしょうか。もしこれを告白することができたら、その人は砕かれた魂を持った人と言えるでしょう。
このように砕かれた人は、もしだれかが人間の魂の深くには良いところもある、などと聞くと、それはサタンからのものであるとすぐ分かります。
また砕かれた人は、信者が持ってる自我は主の御前に、私たちの考え得る最悪の考えと同じ罪であると知るようになります。

ここまで来ますと、第5番目になります。罪を捨てることができる段階に至ります。
多くの信者は、「私は罪人です。汚れた者です。信仰の弱い者です。」、と言いますけど、同じ状態に留まったままです。罪を認め告白しますけど、それをすっきりと断ち切れません。これは主の働きの妨げになります。主は祝福したいけど、お手上げなんです。できません。
これを考えると、私たちが担ってる負債は何と大きいものでしょうか。

取税人のささげられた祈りはすばらしかった。彼はもちろん聖書の内容をあまり知らなかったでしょう。めちゃくちゃな生活を送った男だった。けど彼のささげられた祈りとは御心にかなう祈りでした。
「神さま。罪人の私をおゆるしください。」、彼はこういうふうに祈ったとき、きっと宮の祭司はいけにえをささげていたに違いない。いけにえをささげたこととは、結局いけにえの血が注がれなければならなかったのです。
流される子羊の血を見ながら取税人は祈ったでしょう。ただ血によってのみ救いがまっとうされ、血によってのみ新たな祝福が与えられるのです。私たちはイエス様の血潮を心から受け入れ、これに感謝をささげたいものなのではないでしょうか。

パウロはエペソにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。

エペソ人への手紙5:13
13けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。

それから、

エペソ人への手紙5:14
14明らかにされたものはみな、光だからです。

考えて。明らかにされた罪はもう罪じゃないんです。人間は考えられない、想像することができない。聖書はそう言ってるから、まちがいなくそうです。
もし私たちがだんだん、汚れ果てた自らの真相を主の光によって教えられ、主の血潮を受け入れ、きよめられていくなら私たちには暗いところがなく、すべてが光となるはずです。
われわれの生活を支配する支配者は今日まで誰だったでしょうか。主の霊でしょうか。それとも悪しき霊なのでしょうか。悪魔はただ暗いところを支配します。ですから私たちのすべてを明るみに持ち出しましょう。そうすればまことの喜びがおとずれます。

人間の心は、信ずる者の心もそうなんですけども、悪魔の仕事場で、マルコの福音書7章のように悪しき思いが出てくるなのでしょうか。
あるいはわれわれの心とは、悪魔の仕事場よりも聖霊の宮なのでしょうか。

コリント人への手紙第Iの中で、パウロは1度イエス様に出会って、救いにあずかるようになった人々に書いたのです。彼らは救われただけで、成長しなかったから彼はほんとに悩みました。だからこのような言葉を書いたのです。

コリント人への手紙第I、19-20
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

今ここで2つの内1つを選ばなければならない。自らのまことのありさまを主の光に照らしていただかず、このまま祝福のない日々を送っていくか、またはすべてを主の御前に言い表わし、自らを貪欲な者、不正な者、姦淫する者、どうしようもない者として認め、告白し、新たなる祝福にあずかるかのどちらかです。
最後に2〜3箇所読んで、終わります。

詩篇85:6
6あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。

ホセア書10:12
12あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。

エレミヤ書3:22
22背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。

それから、

哀歌3:40-42
40私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。
41私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。
42「私たちはそむいて逆らいました。

そして、

ホセア書6:1-3
1「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。
2主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。
3私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」

もう1箇所、

イザヤ書44:3
3わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。

とあります。以上、そこまで。




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