今日、私たちがまたここに来られたことを感謝します。 次のような詩があります。 「何が起きようとも、わが心よ静まれ。 神があなたを祝福したいと思っておられる。 今日も、神の一日である。 新しい朝に夕に、あなたは神のもとで安らぎ、見守られている。」 この詩のような体験をさせていただけるのは、大変な特権です。 私の発病は突然でした。すべてが全く予期せぬ出来事であり、突然起こりました。 そのとき、いつものように予定が非常に詰まっていました。連日、一日につき2から3カ所で家庭集会があり、その間に交わりもたくさん予定されていました。 少なくとも月曜日だけは休みにしようと思っていても、たくさんの葬儀が入りました。主は、私たちが健康である限りペースを落とすことを望まれないようです。 しかし発病によりストップがかけられました。さあ、どうしたらいいでしょうか。予定がぎっしり立てられていました。数ヶ月前から結婚式を行う約束をしていましたし、各地方の喜びの集いも計画されていました。 今年に入って3回入院をして、ついに自宅療養になり、できるだけ人との接触を避けるように言われました。化学療法の副作用で、免疫力が大変下がっていたからです。 そこで明らかになったことは、私も時には病気になってもいいということでした。 もちろん、幾度となくこの病気の目的について考えを巡らせました。入院した時には、しばしば次のように考えました。 「私が入院しているのは病気のためではなく、医師や看護士に主イエス様を証しするためである。」と。 蒔かれた多くの種が発芽し実を結びますように、ともにお祈りください。 病気になることは、ひとつの危機にも成り得ますが、いずれにしても休息をもたらし、心の浄化と成熟のための時間であり、心のふるさとへの道標を求める時間でもあります。 フランス人の数学者であり哲学者でもあるパスカルは次のように祈りました。 「主よ、あなたのみこころのままに行ってください。 私は、健康も病気も、命も死もあなた様に願いません。 私の健康と病気、またいのちと死も、あなた様のご栄光と私の救いのためにご支配くださいますように。 私にとって何が益であるか、あなた様だけがご存知です。 あなた様が主であられますから、みこころを行ってください。 与えて下さり、取り去ってください。 私はひとつのことだけを知っています。 あなた様についていくことが最善であることを。 私にとって、あなた様を侮蔑することは損となります。 私にとって、健康か病気か、富か貧困か、そのどちらが益となるのかわかりません。 この世のこと、すべてについてもわかりません。 この決定は人間や御使いの力を超えたものです。 私にとって、何が益で何が損であるか、私には隠されています。 あなた様の秘密なのです。私は、それを解明しようとは思いません。」 ある集会において祝福された奉仕をされたある兄弟は、次のような詩を書きました。 「山々の神よ、谷々の神よ、深淵の神よ、天の神よ。 あなた様のお導きは、決して間違っていません。 すべてのことを正しく司られます。 小さき者の神よ、弱き者の神よ、無に等しい者の神よ。 あなた様は悩みの中でも歌えるように助けてくださり、私たちが神の子供であることを知らせてくださいます。 不安の谷間で失望している者に新しい朝を知らせてくださり、足りないものは何もありません。 力と権威の神よ。私の力が無くなり何もできなくなったとき、あなた様の御手が私を支えてくださいます。 永遠の神よ、あなた様は、そのとき、私をあなた様のところに引き上げてくださいます。 私はあなた様を喜びをもって賛美します。私の歩みは祝福されるでしょう。」 私たちの母である、姉妹会の創設者は次のように言われたことがあります。 「地上で私たちの前に置かれている日々を思うとき、慰めと喜びがあります。 主の恵みと守りの豊かさを喜び、いつも確信する事ができます。」 長年、私たちが心にかけてきたことは、信仰に導かれた兄弟姉妹の霊的な成長です。私たち無しに成長できるかということでした。私たちは、いてもいなくても良い存在であるべきなのです。 そして今回の病気を通して、つまりスイッチが切られた状況の中で示されたことは、私たち無しでも大丈夫ということでした。 兄弟姉妹方が以前よりも積極的に関わってくださり、以前よりも多く祈られるようになり、すべては予定通り進められました。喜びの集いや家庭集会、洗礼の証し、結婚式、そして葬儀も。 私たちは改めてわかりました。兄弟姉妹が互いに必要とし、愛し合うところには、未信者の方も求めて来られるということを。 主が頭として、権威として、認められ望まれるところでは、主に属する人々を主が用いられます。 あなたが何をなすべきなのか、どのように、またいつなすべきなのかを主に尋ねてください。それは私、あるいは私たちの奉仕を、主が助けてくださるからということではありません。すべては主のなさることだからです。 私たちが仕えさせていただけるのは、ただ主の恵みによるのです。なぜなら、主は私たち無しでもお出来になるから。 私たちが新しく見せていただいたのは、主イエス様が、私たちと全く異なっておられるということです。 弟子達も、当時そのことを体験させられました。主イエス様を理解できなかったのです。カナの婚礼で、マリヤはただ言いました。「ぶどう酒がありません」と。イエス様の答えは、 ヨハネの福音書2:4
つまり、あなたの思いと私の思いは異なるのですとおっしゃいました。 度々弟子達は次のように認識せざるを得ませんでした。「イエス様の考えは異なっていて、自分たちには理解し、分かることができない。」と。 私たちが如何に多くの間違いをしているかが分かれば、幸いです。 主イエス様は言われます。「あなたと私では考えが異なります。あきらめて、あなたの計画を手放しなさい。あなたから出るものはすべて的はずれで、わたしがしようとすることの邪魔になります。」 主イエス様と私たちの間には、いつも違いがあります。イエス様だけが父なる神のみこころにかなっています。 イエス様が私たちの中を御姿で占領されるときに初めて、まったく私たちと異なるお方、主が私たちを用いることがお出来になります。 私が何を考えようとも、それは大切ではありません。私の考えは主の邪魔になります。主イエス様と私には何ひとつ共通するものがありません。 この対立は、どこまでも一致することはありません。主の前に、引けを取らないものは何一つありません。 自分の努力はすべて的はずれです。徹底的に自分に絶望した者だけが、霊的に先に進めるのです。 この世は、うそ、偽り、欺瞞に満ちています。人間のもっとも内的な性質は、偽るものです。しかしイエス様は真実そのものです。 他の人が何を考え、何を言うのか、それは重要ではありません。人間の中に真実はありません。理性や意志、また感情は真実ではありません。 サウロは信者を迫害しながら、神に仕えていると確信していました。私の中におられるキリストは、私自身と全く違うのです。私が肉的あるい霊的にどうであれ、それはどうでもいいことであり、内住されるイエス様はまったく違っておられるのです。 私がどういう者かではなく、主がどういうお方であられるか。私たちの意見は簡単に変わります。しかし、内住されるイエス様はお変わりになちません。主イエス様は私と全く違うお方ですから。 私はイエス様の中に安らぎ、すべてをイエス様にお任せします。主の中に留まりなさい。主の中には休息、平安、自由、守りと安全があります。それらをキリストが私たちに与えられました。すべてを私たちは持っているのです。 主が、私たちにとってすべてとなるべきです。信じる者は自分自身の中には何も求めず、ただ主にすがりつくのみです。 私たちの主はいつも悲しみ、悩み、苦しみを通してのみご自身を啓示されます。ですから、私たちはには悩みが必要であり、主は悩みを送ってくださるのです。 使徒たちは教養や方法、規則などについて論じ合ったことはありません。主イエス様のことを告げ知らせ、絶望的な状況に置かれたのです。脱出の道を見出せず、主に叫びました。すると主は改めてご自身を現されました。 脱出のない、どん底を経験すること無しには、新しい啓示は得られません。助けを与えてくれるのは、律法や教養えはなく、イエス様の新しい啓示なのです。主の中にのみ、光といのちがあります。 御霊で満たされた主は、ご自分の考えを否定されました。「わたしはどうでもよい。父よ、あなた様は何を望まれますか。わたしは何を語り、何をなすべきでしょうか。わたしの思いではなく、わたしの判断ではなく、あなた様の判断、みこころがなりますように。」 イエス様の生涯は、完全に父の支配の下にありました。イエス様は目立たない存在でいたかったのです。 十字架の意味するところは、自分の意見も十字架に付けることです。日々自分の思いや感情は、十字架の下に持っていかねばなりません。主が、頭として決定権をお持ちです。 次のような疑問が浮上します。 ・ 私たちに対しての「処分権」が主にあるのですか? ・ 主は、思い通りに私たちを取り扱っているのですか? 主は、ご自身のご栄光で満たすことのできる器を求めておられます。私たち自身が死ぬ必要があります。死んで、「自分で生きる」ことを止め、「主無しで生きる」ことを止めるのです。そうすれば開かれた天を体験できるでしょう。 しかしその前に、私たちの中には堕落しかないことを認めなければなりません。「何と哀れな者、失われたもの」とイザヤは証言しました。自分に死ぬことが、私に起こりえる最善のことです。 いかなる苦しみがあろうとも、すべてを御手から受け取るのです。 主が、私たちをすべての苦しみや圧迫から解放されるのは、私たちにとって必ずしも気持ちが良いことではありません。パウロに対してサタンの使いを送り、こぶしで殴らせたのは主でした。それはパウロが高慢にならないためでした。 死ぬことによってイエス様のいのちが見えてきます。主にとっては、父のみこころだけが決定的でした。 サタンから、また肉の兄弟から、そして弟子たちから提言されたことがありますが、1秒たりとも耳をお傾けにはなりませんでした。父のみこころだけが決め手となりました。 御霊は、私たちからすべての自主性、すべての思いを取り除きたいのです。その上で、すべての責任を負いたいと思っておられます。 イエス様はご自分では何もできないと証言されました。 「私の語る言葉も自分から語っているのではない。私のしていることも、わたしでなく、私の中におられる父がそうされているのです。」と。 私たちは主を愛しているとしても、自分自身の道をも愛してはいないでしょうか。自分の道が妨げられることを嫌います。ですから、主が違う道に導かれると失望するのではないでしょうか。 私たちは何かを手にしたい、どこかに辿り着きたいと思う者です。しかし私たちとまったく異なった方であられる主に似た者とならなければなりません。 主イエス様がすべてにおいて第一となられるべきです。主に依存することが許されており、それによって主の満たしにあずかることができるのです。 満たしは主の中にしかありません。内住するイエス様は、とにかく私たちとは違います。ですから、私たちは自分自身を否定することによってのみ、満たしを体験できるのです。 私たちは、自分の人生はすべてうまく行っていると自負している可能性があります。しかし突然行き詰まり、間違った道を走ってきたと認めざるを得なくなることがあります。それは、主を見上げ、主の導きを祈り求めることを第一としてこなかったからです。 ダビデには、良いと思われる考えがありました。「主は、契約の箱をエルレムに取り戻したいと思われている。さあ、行こう。」、神様が何を目的にされているのか、主に尋ねることもせず、運ぶ車を作りました。 歴代誌第I、13:9、12-13
ウザは死に、契約の箱はエルサレムではなく、オベデ・エドムの家にまず運ばれることになりました。 私たちにも良いと思われる考えがあるかもしれません。しかしそれが主のみこころであるか、私たちの思いであるかを、主に尋ねなければなりません。主とともに歩んでいるかどうかが大切なのです。 神の霊が働いている中には、あふれるいのちがあり、主がどこにおられ、どのように働こうとされているのか、また私たちに何を要求しておられるのかがわかります。何が起きようとも主のもとにいつも身を避け、血潮の覆いに身をおくことが許されています。 主は、私たちが自分をゼロの状態に置いたときにご自身を啓示されます。 5000人の人のためにパンを買うことは不可能でした。ある人は38年間の病気で、助かる望みは皆無、すべては絶望でした。生まれつきの盲人は、何かを見たことが一度もありませんでした。ラザロは4日間も墓にはいっていました。 このように、人間的な助けが不可能になったときだけ、主は介入されたのです。 イエス様は、ご自分の栄光のために役立つならば介入して下さいます。私たちのすることには何も価値はありません。 主の御目的は私たちの中に、また私たちを通して、主がご栄光を受けられることです。私たちに何が起きようとも、どうでもいいのです。 自分の力により頼むではなく、主のみこころを尋ね求めるならば、主は必ず働いてくださいます。 |