引用聖句:イザヤ書6章1節-8節
マタイの福音書28:18-20
先週と先々週、私は初めに同じみことばを引用しました。歴代誌第IIの16章の9節です。 歴代誌第II、16:9
主は用いられる器を必死になって探しておられます。今読みましたイザヤという預言者の取った態度を取る人々を探しておられます。「主よ。私はここにいます。私をお遣わしになってください。」 彼は確かに自分の罪深さ、みじめさを感じました。けれども主は聖めてくださった、赦してくださったことを確信したとき本当に、「主よ。お遣わしになってください。」と心から言えたのです。 そういう人々こそが今日も探し求められます。そして今、兄弟のお読みになりました二番目の個所は、19節です。 マタイの福音書28:19
人々を弟子としなさい。弟子とは主に従う者です。「わたしについて来なさい。」、これこそが今日の主の呼びかけなのではないでしょうか。 イエス様は弟子たちを呼ばれました。マルコの福音書の中でこのことについて一番細かく書いています。ちょっと3ヶ所読みます。 マルコの福音書1:16-20
マルコの福音書2:13-17
もう一ヶ所、 マルコの福音書3:13-15
とあります。新約聖書を読むと、イエス様の呼びかけについて多くのことを知ることができます。 イエス様はどうして呼んでおられるのでしょうか。いうまでもなく救いにあずかるためです。神の子となるためです。 マルコの福音書全体が言わんとしていることは、イエス様を遣わされた父のしもべとして特徴づけられることです。 これに対して初めての福音書であるマタイの福音書では、王の王としてのイエス様が特徴づけられています。 ルカの福音書ではイエス様は人間として紹介されています。そして最後のヨハネの福音書ではイエス様は永遠なる神でありながら、神の御子として遣わされたことについて書き記されています。 けれども今読みましたマルコの福音書においては、初めに述べられたとおりイエス様は、父のしもべとしてのイエス様が同労者を、弟子たちを探し求められることが描かれています。 イエス様の同労者でありまた弟子とは、イエス様とともに奉仕する備えのできている人のことを言います。 そしてここのマルコの福音書では、イエス様が弟子たちに呼びかけて言われることがはっきりと描き出されています。呼びかけておられるお方とはもちろんイエス様です。 ここで記されている文章の動詞を見るとわかるように、イエス様はいつもまず初めに行動なさり、率先して行動を起こされる方であることがわかります。 3章の13節で、イエス様はご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたとあります。また今読みました1章の16節、19節、2章14節に何回も同じことばが出てきます。すなわち、イエス様はご覧になったのです。 それから1章の17節と20節、また2章の14節にイエス様がお呼びになったと3回も書き記されています。 イエス様はザアカイやサウロの名前をお呼びになったように、弟子たちに対しても決まった名前をお呼びになられました。このことは非常に重要な意味をもっています。なぜならばイエス様と私、イエス様とあなたというふうに、イエス様との一対一の関係こそ非常に大切な関係であるからです。 また人間がイエス様を選んだのではない。主イエス様が人間をお選びになって、その中にはいって関わりをもってくださったからです。 今日でも人間の力によっては、また人間の決定によっては救われることはあり得ません。イエス様がわれわれの心の目を開いてくださり、自分の本当の姿とイエス様によって完成された救いとを明らかに示してくださるのです。 イエス様の呼びかけとは、一番知られている呼びかけとはマタイの福音書11章の28節でしょう。 マタイの福音書11:28
もちろん精神的に疲れた人。 マタイの福音書11:28
どうしようもない者のために、助けを求めている人のために、絶望している人のために、イエス様はおられます。悔い改めと信仰を通してイエス様の現実の救いが明らかになります。 けれども悔い改めと信仰は決して人間からやって来るものではなく、正に上から与えられる賜物です。それですから信ずる者とはこの贈り物を喜んで受け取った人々であると言えます。 私たちはもうすでにこの賜物を受けたのでしょうか。それともまだ受けていないのでしょうか。 人生にとって一番必要なのはいったい何なのでしょう。一番大切なことはもちろん救われることです。聖書は神の子となることです。 多くの人々は人間はみな神の子ですと言いますけれど、それは嘘です。みな神の被造物です。 神の被造物である、わがままのかたまりである人間は、神の子になることこそがまことの救いです。 そのために何が必要なのでしょうか。第一に、自分が救われなければならないという必要を知ることです。 第二に、自分の努力は全くむなしいということを認めることです。すなわち自分も他人も決して自分自身を救うことはできないということです。すべて人間的な努力は見込みなく、望みなきものです。 聖書が言っている救いとは罪の問題の解決です。人間のわがままのゆえに主なる神の怒りのもとにある人間は、主との平和をもち、債務は支払われ、罪は赦され、永遠のいのちをもつと聖書は言っています。けれどもこれは人間や宗教によってではなく、主イエス様によってのみ与えられます。 なぜならばイエス様は人間の罪に対する神のさばきの的になられ、ご自身の聖く尊い血によって債務を支払い、罪を赦してくださる方であるからです。 この真理の事実を心で受け入れ信ずる者は、主なる神の平和、罪の赦し、永遠のいのちをもつことができるのです。 すべての人間は自分の力で罪の問題を解決することができないため、どうしても主イエス様を必要とします。 「主よ。私は今罪人としてあなたのみもとにまいります。あなたが私の罪の問題を解決してくださり、私を贖ってくださったことを心から感謝します。」、このようにイエス様に向かって祈る人は、本当に幸いです。 もう一回まとめましょうか。創造主なるまことの神の子どもとなるためには2つのことが必要です。 第一は、主の言われることを認めることです。第二は、主を受け入れることです。 けれども主なる神は何と言っているのでしょうか。主は絶対にいやされない罪の病、それは全く改善の望みがないとはっきり言っておられます。けれどもイエス様はわれわれの身代わりとなり、代わりに犠牲になったのです。そしてイエス様が成してくださったことは本当に十分です。 そして第二は今話したように、イエス様を救いとして受け入れることです。 ヨハネの黙示録の中で、 ヨハネの黙示録22:17
価なしに、 ヨハネの黙示録22:17
普通ただで貰うものは大した価値がないものでしょう。 罪の赦し、永遠のいのちとは考えられないすばらしいものです。金で代えられないものであるから、ただで提供されています。 ここでいのちの水とは、イエス様による救いの贈り物にほかなりません。 ここに、ほしい者は受けるがよいと記されていますが、ほしがっている者は本当に自分のものにすることができるのです。欲すれば受けるに違いない。けれどほしいと思わなければ将来は真っ暗闇です。 イエス様は永遠のいのちを与えるために決して強制するようなことはなさいません。ほしい者は受けると約束されています。受ける者はもつのです。その人は生きる唯一のまことの神との平和を得、罪の赦しを受け、主なる子どもとされ喜びをもち、永遠のいのちをもつことができるのです。 イエス様は呼んでおられます。「おいで。わたしのところに。」 けれども前に話したように、新約聖書の中でイエス様の呼びかけとは救いの提供だけではない。「わたしの弟子になりなさい。わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」とイエス様は当時弟子たちに言われただけではなく、この主の呼びかけとは今日われわれにも当てはまる呼びかけであり、すばらしい約束ではないでしょうか。 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」、私たちは救われるために救われたのではない。主に仕えるため、用いられる器となるために救われたのです。 救われていることは、まだ救われていない人々をも救いたいという思いをもつことです。まだ救われていない人々も救いたいという切なる思いが欠けている場合には、その人の信仰は疑わしいものです。 主イエス様は救いを受け入れるように、重荷を下ろしてあげようと呼びかけておられたあとで、ご自分に仕えるようにとも呼びかけておられるのです。 けれどもイエス様に仕えるということとはいったい何なのでしょうか。それはあれこれ行なうということではなくて、イエス様に従って行くこととは結局、まずイエス様の近くにいることではないでしょうか。 イエス様について行くとは自分自身を否定すること、ある意味で自分自身を捨てることを意味しているのです。マタイの福音書の16章を見ると次のように書かれています。 マタイの福音書16:24
来たくなければ結構です。思うなら、 マタイの福音書16:24-25
いのちを救おうと思う者は、それを失うと記されていますけれど、原語を見ると「いのち」と書いていないのです。「たましい」と書いてあるのです。自分のたましいを救おうと思うということは、自分勝手な道を歩んで行くことを意味します。 いわゆる、人間に与えられているたましいとは決して悪いものではない。人間に与えられているたましいの働きは、まず第一に考えることです。二番目に感ずることです。第三に欲することです。 したがって自分自身を否定するということは、自分の考えや感情、あるいは意思を支配させないことです。 それに対してたましいを失うということは、自分自身の意思を心の座から下ろして、主イエス様をそこに置いて第一の座に着けることです。これがなければ決してイエス様に従って行くことはできません。 イエス様について行くこととは、自分自身を否定すること、自分自身を捨てることだけではなく、聖書はもっと強いことばを使っているのです。 自分自身を憎むことを意味しているのです。ルカの福音書の14章を見てみましょうか。 ルカの福音書14:26-27
もちろんこれは救いと関係のないことです。自分を捨てなくても救われたいと思う人は救われます。悔い改めれば罪の赦しを得ることができますし、イエス様のものとなる。 ここで問題なのは実を結ぶか、実を結ばないか。主に用いられるか、用いられないかということです。 自分を憎むこととは、自分自身に対して信用をおかないということがどうしても必要です。 自信に満ちた態度がダメにならないと、主に従うことはできません。イエス様なしには一歩も進むことができないというふうにならなければならない。本当の意味でイエス様しかこの態度を取らなかったのではないでしょうか。 イエス様の証しとは驚くべき証しです。イエス様は何と言われたかと言いますと、「わたしは自分の力だけではどうすることもできません。父が語ってくださらばければ、父が行動してくださらなければわたしは何もできない。」、罪を知らないイエス様でさえも、こういうふうに告白してくださったのです。 イエス様の思いだけを大切にしないと妨げになります。けれど自分自身を信用しないどころが、自分自身を憎まなければ、わたしに従うことはできないとここでイエス様ははっきり言われたのです。 いったいどうして聖書は「憎む」というような非常に厳しいことばを使っているのでしょうか。パウロの答えは明確です。 ローマ人への手紙7:18
どうして知るようになってしまったか。結局、私はいくら努力しても、頑張っても、いわゆるクリスチャンらしい生活を送ろうと思っても、あらゆる努力の結果は失敗です。私の肉のうちに善が住んでいない。そうすると悪しかない。私は罪を犯すことしかできない者ですと彼は言ったのです。 イザヤ書の55章8節を見ると、主の考えとイスラエルの民、主の恵みによって救われた人々の考えとは全く違うとあります。 イザヤ書55:8-9
ちょっとだけ違ったらわかるけれど、ダメ。全然ダメ。 ペテロのことを考えるとわかります。ちょっとマタイの福音書の16章を見てみましょうか。 マタイの福音書16:21-23
(テープ A面 → B面) ・・・ペテロにイエス様は、「下がれ。サタン。」と言われたのです。 ペテロがイエス様を信じていたにも関わらず、イエス様から十字架を取り除こうとしたときに、「サタンよ。引き下がれ。」と言われたのです。 なぜそんなことになったのでしょうか。そのときペテロは、本当の意味での弟子ではなかったからです。 ペテロの目的と動機は、確かに悪くはなかったのですけれど、彼が人間的に考え、人間的に行動をしたから、イエス様は「サタンよ。」と厳しいことばを発せられたのです。 「すべてのことにおいてわたしの思いではなく、主のみむねが行なわれますように。」という思いをもって行動しなければならない。自分の思いを捨て、主のみこころだけを大切にすることがどうしても必要です。 マタイの福音書の26章39節と42節を見ると次のように書かれています。 マタイの福音書26:39、42
イエス様の弟子となる、イエス様に従うこととは毎日自分の意思、自分の思いとを主に明け渡すことです。 「自分のおもいではなく、みこころだけがなるように。」という態度を取る者は、本当の意味での弟子であり、実を結ぶ者であります。 前の個所によると結局、自分自身を憎むということについてだけではなく、自分の家族をも憎まなくてはならないと確かに書かれています。 自分の家族を憎むということは、本当に自分の家族を無視して、全く顧みないということをもちろん意味しているのではない。 当たり前のことですが、私たちはひとつの問題について考えると、聖書から適当に一ヶ所選んで、こう書いてあるからではないかという態度を取ることは非常に危ないことです。 何でも聖書を通して自分勝手に解釈することができる。何があっても聖書全体は何と言っているかと思うべきです。 いうまでもなく主は人間一人ひとりの救いよりも、全家族の救いを心から願っておられます。そうすると家族を憎むこととはいったい何なのでしょうか。テモテへの手紙第Iの5章の8節。パウロが愛弟子であるテモテに書いた大切なことばです。 テモテへの手紙第I、5:8
このことばと前のことばとは一見したところ全く正反対のことを言っているように見えるかもしれない。 聖書ははっきりと、私たちが家族を大切にし、尊敬しなければならないと言っています。けれどそれと同時に私たちは人間に対してよりも、主に対してより忠実に従うべきであると聖書ははっきり言っているのです。 主、また主のみことばを第一の座に着ける者は、必ず家族を大切にしています。けれど家族を第一の座に着ける者は、結局主をのけ者にするのです。イエス様は次のように言われました。 マタイの福音書10:34-38
その人が救われないのではない。それは全く別です。けれども用いられる器、わたしの従う弟子になることができません。家族が救われることを望む者は、一度家族を捨てるべきであると聖書は言っています。 甘い態度と妥協によっては救いが成就しません。もしあなたが家族の救いを真剣に望むならば、100%主のがわに立たなければならない。すなわちイエス様に従うということは、自分自身、および家族を否定し、憎み、主イエス様を第一にすることになります。 妥協のない態度を取ると、主はあふれるばかりの祝福を与えてくださり、家族も約束どおりに導かれ、救われるようになります。 あるときひとりの刑務所の責任者は、刑務所に入っている人々の前にひざまづいて聞いたのです。「先生がた。私は救われるためにどうしましょうか。」 彼は自分は救われていないことがわかった。彼はそのとき、おそらく自分のことしか考えていなかった。「私は。」「家族は。」と考えていなかったでしょう。 けれども答えはすばらしい答えでした。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」、このみことばを初めて信じたのは彼でしょう。2、3時間以内、家族みんな悔い改めて、イエス様を信じ受け入れて、与えられた救いを証しするために水のバプテスマを受けたのです。 イエス様はできる。多くの人々は子どもか、主人か、あきらめている人々はいっぱいいます。これは罪です。何でもできるイエス様が約束したから。だから祈り続けましょう。 多くの人々は祈ります。けれど祈り続ける人は少ないのではないでしょうか。 本当に聖書の中でもっともすばらしい約束のひとつでしょう。「主イエスを信じなさい。」 「イエス様を理解しなさい。」ではない。イエス様のことを理解している人間はいない。ただ信じなさい。みことばに頼りなさい。そうするとまことの救いが与えられるようになり、だれでもが人間をとる漁師になります。 |