引用聖句:ルカの福音書8章39節
ヨハネの福音書1:41-42
ヨハネの福音書4:53
使徒の働き10:33
使徒の働き16:15
使徒の働き16:31-34
今日の題名は、「仕えるために救われた」 救われるために救われたのではなく、主に仕えるためです。そして、主に仕えることとは、いうまでもなく主イエス様を紹介することです。 人を納得させようと思っても、もちろん無理です。けども、福音だけが宣べ伝えられれば、備えられたたましいはかならず、導かれます。 あなたの家族、親戚、知り合いの人々も本物のイエス様のことを聞くべきである。これは信ずる者に与えられている責任です。義務よりも、特権です。 この島根で、どうして集会をもつようになったかと言いますと、島根県出身の人々が、東京で導かれちゃったから。 もし私たちは昔、茨城県にずっといたならば、確かに那珂湊の大洗で二つの教会を建てたし、あちこち家庭集会をもつようになったんですけども、たぶん続いて今日まで向こうにいたならば、水戸の近辺で色々な家庭集会できたかもしれない。 けども、幸いに主の導きは違ったんです。東京に行かされることによって。大嫌いでしたよ。家内にいつも言ったんです。「どこで住んでもいいよ。田舎大好き!東京だけ大嫌い。」、けど東京になっちゃった。 今は、もし東京だけだったら、人数は十分ですけども、やっぱりそれは良くない! どうして北海道から沖縄まで集会をもつようになったかと言いますと、東京で導かれた人々は、やっぱり自分の家族のこと、親戚のことに対して、重荷を感ずるようになったからです。 「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」、もちろん現代人は、家族だって血のつながりをもつものでしょうと考えますけど、聖書の言ってることは違う。結局、自分の知り合いの人々。初代教会の八割ぐらいは遠縁でした。もちろん血のつながりがなかったんです。けども主から見ると、みな家族でした。 一緒に住む人々、自分の下で働く人々とはみんな家族だったんです。 そしてもし主人は、三百、四百人の人々が急に導かれ、救われたならば、考えられない結果だったに違いない。今まで主人は、「おい!これをやれ。あれをやれ。」と言って、今度はね、「実は、今晩ちょっといい話があります。来られませんか?」と聞いて、もうびっくりしたんです。 今まで一回も挨拶しかことがないし、命令しただけで、今度頼まれることとは、一体どういうこと。そういうふうに、もう多くの人々は導かれたのです。家族とは、やっぱりわれわれの知り合いの人々です。 昔、学校へ行った同級生です。もちろん、親戚みなそうです。こういう人々のために責任をもつようになればやっぱり違う。ですが、引用箇所の中で、いつも、「家」という表現が出て来たんですね。 家というのは、もちろん建物じゃないよ。家族なんです。親戚です。 ルカの福音書8:39
間違いなく多くの人々は、彼の証しをとおして導かれたわけです。結局あの町の人々は、イエス様と関係もちたくないという態度取ったんです。飼っていた豚の群れは、死んじゃったからです。このイエス・キリストとは、害を与えるものになると思ってたんです。 悪霊に憑かれた人は、解放されても解放されなくても、関係ないよ。私たちは儲けなくちゃいけないと、彼らは思ったから、イエス様に頼んだんです。 「お願いします。あなたとは関係もちたくない。」、イエス様は従ったんです。 イエス様は無理なことをなさいません。「聞く耳がなければ、結構。」、そしてこの、悪霊に憑かれ、解放された男は、イエス様の代表者として残ったんです。彼はイエス様の話したことを宣べ伝えたよりも、イエス様が何をなさったかを証したのです。 また、次の箇所、 ヨハネの福音書1:41-42
このシモン・ペテロの兄弟であるアンデレは、どうして生まれたなのでしょうか。どうして主に出会ったなのでしょうか。 もしかすると、ペテロを導くためだけで、彼は、私は見つけたからもうそれでいいと考えなかった。やっぱり悩んでるペテロを導こうと望んだのです。 ヨハネの福音書4:53
結局、家族みんな導かれ、救われたのです。 ルデアという女性は、導かれたとき、彼女ももちろん喜びで満たされて、イエス様のことを紹介したに違いない。ですから聖書は言っています。彼女もまた、その家族もバプテスマを受けた。自分の与えられた信仰をおおやけにした、とあります。 そして使徒の働きの16章31節のところですね。 使徒の働きの16:31-34
結局神は、人間一人一人の幸せよりも、家族、全家族の救いを望んでおられます。そのために主は、どうしようもない私たちのような者を、用いようと望んでおられます。 自分だったらもちろん何もできない。例えば、姉妹たちの使う道具、例えば、台所の包丁ですか?もちろんそのものは高かったかもしれないけれど、自分で何も出来ないと、握られるようになれば用いられます。主の道具となるのはそういうもんなんです。 われわれはもうダメよ!いくら頑張っても何にもなりませんけど、私は主のために生きたい。主に用いてもらいたいと心から望めば、主は必ず奇蹟をなしてくださる。私たちははしたがって、用いられるためにどういう態度を取るべきなのでしょうか。答えはヨシュア記の24章に書かれています。みんなよく知られている箇所なんですけども、 ヨシュア記24:14-15
ヨシュア記24:23-24
ヨシュアだけではなく、ヨシュアの家族も、はっきりとした態度を取った結果として、イスラエルの民全体が影響を受けるようになり、神に向けて主に仕えると、心から決心するようになったのです。この言葉を読むと、われわれの目の前には、イスラエルの民族の歴史が浮かんでくるでしょう。 今から約4,000年前に、生きるまことの神は、ひとりの名もない男に、アブラハムに現われたのです。これがイスラエルの始まりです。 ステパノは、イスラエルの歴史について、一番うまく、すべてをまとめて話したことがあります。石で殺される前に、使徒の働き7章2節で、「栄光の神がアブラハムに現われた。」、非常に短い文章です。 けどもこれこそが、神によって選ばれたイスラエル民族の始まりです。栄光の神がアブラハムに現われた。アブラハムはこの主、栄光の主に従って、カナンの地、今のイスラエルへと導かれたのです。 使徒の働き7:2
この地イスラエルは、ユダヤ人に与えられてるものです。4,000年前に。 今日、多くの国の人々が、このイスラエルという地全体を支配しようと思い、イスラエル人を全滅しようとしておりますけど、主のお約束によれば、ユダヤ人がこの地を所有することになる。 今、ユダヤ人は不信徒のように、せっかく取った土地を少しずつ買い取る。これは御心じゃない。将来のイスラエルの土地とは、ずっと大きくなるようになります。 アブラハムは4,000年前に、すでにこの地に入っていたのです。然るに、彼の子孫たちは、その後しばらくの間に、430年ですけど、離れたんです。 まずヨセフという男が、エジプトに売られました。考えられない。他人によってではなく、自分の兄弟によって売られたんです。そのとき一番上のお兄さんは、ちょっと待ってってー。こうしてもねー、あんまり意味のないことじゃないの?金にはならないだろう。売っちゃいましょうよ。 彼は奴隷として売られるようになったのです。大した金にならなかったかもしれないけども、ひどいなのではないでしょうか。 けども、全部主の許してくださったことだったのです。あとで、父親や子ども、ヨセフの兄弟たちもみんなエジプトへ下るようになり、そして結局養われたし、大きくなったし、一時的奴隷状態になったんですけども、主の恵みによって彼らは、モーセによってエジプトの支配下から解放され、主に仕えるようになったのです。 確かに彼らは、40年の間荒野でまよい続けました。けども40年の間に、荒野の中で養われたのです。そしてあとで、ヨシュアの手によって、彼らを再び、約束の地カナンへ導かれるようになったのです。 このイスラエルの歴史そのものは、歴史の上に現われなかった一度だけの歴史なのではないでしょうか。 例えば日本人は、アメリカ行くと、段々アメリカ人になっちゃう。アメリカの国籍を取るようになり、もう、孫も日本語を一言葉も話せなくなっちゃう。大体みんなそう。 ユダヤ人はどこの国へ行っても、ユダヤ人はユダヤ人です。決して、その国のものにはならない。不思議です。主の守りでもあるし、主の導きです。 イスラエルの歴史は、歴史の歴史の、まあ歴史の奇蹟そのものであります。 昔、あるドイツの王さまは、自分の将軍、主を知る将軍に向かって言ったんです。 「俺は無神論者だよ。あんた、神がいると言うの?証明してくれ。」、「王さま、ユダヤ人こそがその証拠である。」と答えたそうです。もちろんそうです。 ドイツのヒットラーは、ユダヤ人みんな、ひとり残らず殺すつもりだった。あまり成功しなかった。三分の一しか、六百万人しか殺さなかったのです。でも、考えられないほどひどい。 けども、主もそれを許しちゃったんです。どうして? (テープ A面 → B面) でもユダヤ人は、自分の国をもつようになったんです。考えられない奇蹟です。 歴史家たちは今日、いくら勉強しても、どうしてこういうふうになったか、どうして可能であったか、まったく分からないと言うんです。主のなさったみわざです。 聖書の中ではっきり、イスラエルは自分の国をもつようになると預言されているからです。 主は、まずアブラハムに姿を現わされました。でもその後の子孫は、主以外の神々に仕える、偶像礼拝者になってしまったのです。 イスラエルの人々は、この生きるまことの神を体験的によく知りながらも、常にこの主に対して鈍くなり、また、無関心になる危険をもっていたのです。そしてヨシュアは、百歳を超える老人になりました。 けど、このヨシュアの心の中には、主に対しての深い関心がありました。彼は自分の死を前にして、イスラエルの人々に警告を与え、この生ける唯一のまことの神に忠実であれと、彼らを諭したのです。彼は、イスラエルの人々にこのように言ったのです。 ヨシュア記24:14
また、次のように言いました。 ヨシュア記24:15
どうしてヨシュアはこのように言ったのでしょうか。主を知るようになったからです。主を知らなければ、主に仕えられないよ。主のすばらしさを知るようになったものは、もう、心から主のために生きたい、主に仕えたいと望むようになります。 「いやー、大変だ。主に仕えなくちゃいけない。」、そういうことじゃない。 喜んで、自発的にできなければ、もう主も欲しくないよ。ヨシュアは本当に心から私は主を知るようになったから、体験したからこそ、私は主のためにだけ生きたいと、心から望んだのです。 ヨシュアは、どういうふうに主を知るようになったか、はっきり分かりませんけども、ご存知のように、彼は単なる召し使いにすぎなかったんです。モーセの召し使いでした。いつもついていたんです。モーセの言われたとおりしたのです。 そしてそのとき彼は、結局何を分かったかと言いますと、このモーセの信ずる方とはすごい・・・。この主は、モーセと顔と顔とを合わせて、友が友と話すように話されたのです。そういうことを、ヨシュアはみんな経験したのです。 いわゆる、モーセの十戒が与えられたとき、二人ともは40日間ホレブの山にいました。二人にとって考えられない経験でした。そのときもちろん、ヨシュアは確信した。主しかない! 主の近くにいると、もう重荷から解放されます。主が近くにおられるともう、喜ぶことができる。前向き生活を送ることができると、彼も確信するようになったのです。 もちろんヨシュアという男は、たぶん性質的に、モーセとまったく正反対の性質をもっていたなのではないでしょうか。モーセは頑固な男でした。あるとき、聖徒のためと彼は思っちゃったんです。エジプト人を殺しちゃったんです。そういう男でした。 もう自分の気持ちを抑えられない。そのあとで彼は40年間、荒野で羊を牧する者になってしまったのです。 結果は、モーセは、世界一の柔和な人になったんです。人殺しであるモーセは、完全に変えられたのです。 ヨシュアとはそういう頑固な人じゃなくて、かえって、気の小さい人だったんじゃないでしょうか。「もう無理よ。できません。笑い話じゃないか。」、そういう気持ちをもっていた人だったでしょう。 ですからモーセはよく、「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、私が彼らに誓った地に導かなければならないのだ。わたしがあなたとともにいる。」、何回も何回も同じ言葉が出ています。 ヨシュア記の1章9節見ると分かります。我々一人一人のためにも与えられてる呼びかけなのではないでしょうか。 ヨシュア記1:9
結局彼は自信がなかった。「無理よ、できません。200万人の人導くなんて、もう想像できない。」、けども主は、「心配する必要はない。」、どうして? あなたはどこにでも、わたしはついて来る。あなたとともにいる。何でもできるお方がついて行けば、ともにおられればもう、確かに心配する必要はない。ヨシュアは何を経験したかといいますと、主はみことばをもって強めてくださいます。主は必要なとき、必要なもの与えてくださる。だから、心配する必要はない! 結果として、このヨシュアは結局証しするようになったのです。主を体験したからです。 彼は多くのすばらしいことばを言ったことがあります。例えば、 ヨシュア記22:5
ヨシュア記23:11
気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。 イエス様は、高く引き上げられたお方として、エペソにいる兄弟姉妹に次のように言われたのです。わたしはもう、あなたがたといっしょにいることはできない。あなたがたの側に立つことができない。始めの愛から落ちてしまったからです。 今日の集いとは、どういう集いかな〜。始めの愛から落ちてしまった者たちの集いなのではないでしょうか。 どなたか、「私は落ちてない。」と言える人がいますかね〜。よっぽど恵まれていないと言えないなのではないでしょうか。 けどもそれと関係なし、今日の集いも喜びの集いです。どうして?悔い改められるからです。これこそ恵みです! どういうことがあっても、悔い改められるから、喜び、望み、希望があります。もっとも大切なのは、主を愛すること。だから、ヨシュアは、「あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。」と言ったのです。 「主とはすごい。すばらしい。主に信頼すると、決して失望させられない。」とヨシュアは確信したから、新たなる決意をしたのです。すなわち、「私と私の家とは、主に仕える。」 この新しい決意とは、ヨシュアが何年も前になした決意です。すなわち、私はもう自分のために生きたくない。苦しくなる。寂しくなる。私は主のために生きたい。主に用いられれば、嬉しい。 今度の決意とは、結局同じものでした。ヨシュアは、ヨシュアの切なる願いは、主をよりよく知りたいというものでした。彼はそのとき、百歳を超えた老人でした。けど、ヨシュアには、主のほかに仕えるものは何もない。ほかのもの大切にすると、やっぱり不幸になる、心は満たされないと彼は確信したのであります。 ガラテヤ人への手紙4:8
もう、みじめな状態ではないでしょうか。神でない神々の奴隷であるのは、もうみじめで、かわいそうすぎなのではないでしょうか。けども、このガラテヤ地方の人々は、主のみことばをとおして、生活の目的をもつようになり、生ける望みをもつようになったのです。 彼らは人生の敗北者として、どうしようもないわがままな者として、イエス様のみもとに導かれ、赦された、受け入れられたと知るようになり、そして結果として主に仕えたいと思うようになったのです。 ヨシュアの告白の中には、私が主に仕えたいという意味だけじゃなくて、私の家も、家族も、知り合いの人々も、主に仕える。そこで私たちの願いは、自分たちが主に仕えるだけじゃなくて、家族のみなさんも、親戚、知り合いの人々も一緒に主を知り、主に仕えるようになってもらいたい。 そういう気持ちをもつべきなのではないでしょうか。 結局、ヨシュアのような態度取る者は、必ず用いられます。 もちろん、主によって用いられたモーセは、同じ態度取ったんです。結果として彼は、大いに祝福され、用いられたから、これはヨシュアにとっても、やっぱり一つの励ましになったなのではないでしょうか。 モーセは、人間的に考えれば、まったく考えられない決意をしたのです。聖書は何と言ってるかといいますと、彼は苦しむことを選んだ。 考えてくださいよ。苦しむこと選ぶ人は、ちょっとおかしいじゃないですか?彼は本当は、滅び行くべき者でした。殺されるべき者でした。けども親は、殺してはいかん。殺されたら嫌。何ヶ月間、隠しちゃったんです。最後に隠しきれなくなってしまって、ナイル川の海辺で隠しちゃったんです。 奇跡的に、当時の王である娘に見つけられて、あんまり可愛い子だったから、彼女はもちろん、イスラエル人の子であると知りながら、自分で育てると決心したんです。どういうことであったか分からない。 ほかの子ども、やっぱりいなかったようですから、だから彼は、皇太子として大きくなって、当時、あとでエジプトの王、世界を支配する者になるべきだったんです。いうまでもなく、最高の教育受けた者で、やっぱり能力のある、知識ある人でしたけど、あるとき彼は全部捨てたんです。 苦しむことを選んだと聖書は言ってます。 ヘブル人への手紙11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。 普通の人は苦しみたくない。悩みたくない。問題に入りたくない。楽な道選ぶ。けどもモーセは、逆のことしたんです。どうして?答えは、 ヘブル人への手紙11:26
ヘブル人への手紙の中でまだ、イエスから目を離さないでいなさい。どうして?結局、ペッチャンコにならないため。 モーセは、どういうふうにイエス様を知るようになったか、もちろん分かりません。イエス様は1,500年あとでこの地上に来られたからです。けども聖書はそう言ってるから間違いない。もしそうでなければモーセはこのような態度取ることできなかったはずです。 栄光の神がアブラハムに現われただけではなく、栄光の神こそが、イエス・キリストをとおしてモーセにも現われたのです。彼は、全部を捨てた結果は何であったかといいますと、200万人のイスラエルの民は、エジプトの奴隷下から解放された。「いやー。良かった。」と彼は何回も思ったに違いない。 けども、そのいわゆる特別に選ばれた民の人々だけではなく、異邦人たちもよくこの態度取ったのです。聖書から見ると、二種類の人間しかないんですね。 主によって選ばれたイスラエルという民。それから、異邦人たち。ほかの国々ではみな異邦人、まことの神を知らない人々と呼ばれています。聖書だってイスラエルに与えられ宝物です。 主によって遣わされた預言者たちとは、神のみことばを贈る者たちとは、イスラエル人しかなかったのです。けども、異邦人も結局同じように、やっぱり生けるまことの神に出会う可能性があります。主は区別なし。へりくだれば受け入れてくださるからです。 ルツ記1:15-16
すごい証なのではないでしょうか。ヨシュアの考えと、モーセの考えとピッタリです。 確かにあの家族とは、大いに悩んだ家族でした。彼らの実家とはどこであったかと言いますと、ベツレヘムでした。イエス様のお生まれになったベツレヘムという町でした。ベツレヘムという町の名前は、「パンの家」、結局、「食べるものはいっぱいある、富んだ町だ。」、そういう意味なんです。 けども、飢饉が起こり、そしてあの家族の主人は、やっぱりここで食べられないから、外国行きましょうよ。 もちろん、主に祈らないで、自分勝手に動いたんです。主に祈ったならば、主は、わたしにとって不可能なことはないと言ったでしょう。けども彼らは現実だけを見て、変な方向に行ってしまったのです。 外国へ行ってから、食べ物もいっぱいあったんですけども、精神的にやっぱり悩むようになったのです。まず、あのうちの主人は亡くなったんです。 息子さんたち二人いまして、外国だったから、結局、この外国の女性と一緒になって結婚したんです。未信者と結婚したんですよ。そうすると祝福がないはずです。 二人の息子も死んだんです。結局ナオミとお嫁さんたち二人が残って、そのときあのナオミという姑は、考えるようになった。何をしたんだろう。祈らないで行動してしまったのが良くなかった。けど、終わりじゃない。今から! 聖書の喜びの訪れとはそれなんです。過去はどうであれ、関係ないよ。今から。そして彼女は決心したんです。帰ろう! 一人の嫁は、「はい。あなた帰ってもいいよ。私は残る。」、どうしてであるかといいますと、彼女は結局、導かれ、救われなかったのです。心開こうとしなかったのです。上からの光に照らされても、悔い改めようとしなかったのです。ですから彼女は、結局自分の国で戻っただけではなく、自分の民とその神ところへ帰ったのです。結局、偶像礼拝者でした。 ルツだけ違う。ルツは、「あなたを捨て、...」、嫁と姑の話でしょう?ときどき、姑と嫁の間にとんでもない話になるんですけど、これを見るともう嬉しくなっちゃう。すごいね。 「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように私にしむけないで。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。もう離れられない。主は私の唯一のよりどころです。」 結局彼女は、ボアズと結婚するようになり、彼はダビデのお祖父さんだっただったかな、お祖父さんだったんですね。結局異邦人はその中に入るようになったのは、やっぱりすごい恵みそのものです。 なぜならば、このルツは、「私は主に仕える!」と決心したからです。列王記第IIの5章の17節ですけども、また別の異邦人が出て来ます。 結局、新約時代だけではなく、旧約時代も、求めるものは本物を得るようになったのです。 ナアマン将軍の話です。彼は自分の国で有名人でした。けども彼はらい病にかかったのです。けども彼は、らい病からいやされただけじゃなくて、イスラエルの神、すなわち、まことの神を知るようになったのです。 だから彼はここで、将軍はと言ってない。 列王記第II、5:17
やっぱり、主のために仕えたいと思う人は、大いに祝福されます。 今度は詩篇の73篇を見ると、アサフという作者の、結局同じ決意について書かれてます。 詩篇73:25
アサフにとって主はすべてでした。この主を体験した人は、だれでもが主に仕えたいと望むようになります。強制されるからじゃない。主は決して強制しません。 イエス様はよく、「わたしに従いたいと思えば、どうぞ。従いたくなければ、結構。」 今度は、マルコの福音書の10章。ちょっと違う実例なんです。主を大事にしようとしなかった男と、みじめさについての箇所です。 マルコの福音書10:21
意味は、心から愛して、 マルコの福音書10:21-22
財産を持つこととは別に悪くない。けどもそれによって縛られれば、大変です。彼は悲しみながら立ち去ったと書いてありますけども、彼よりも悲しんだのは、イエス様じゃないでしょうか。 もちろんイエス様は、彼の金、欲しくなかったよ。人間の金を欲しい神はいないよ。必要ないからです。 ヨハネの福音書6章を見ると、イエス様に従っていた弟子の多くが、結局つまづいて離れてしまった、と書いてあります。イエス様は自分の十字架について話されたからです。結局、自分自身を否定しなければ、わたしに従うことはできない。それは彼らにとって面白くなかったから、 そのときイエス様は弟子たちに、「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」、ペテロは、「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。」、行く所がないよ。 「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」、結局、イエス様から離れたら、もう真っ暗闇です。孤独です。 決断されることとは、大切です。 昔のモーセは、もちろんイスラエルの民、特別に選ばれた民、主を知るようになった民に次のように言ったことがあります。「だれでも主につく者は、私のところに。」 エリヤも、もちろんイスラエルの民に、次のように言ったのです。「あなたがたはいつまでどっちつかずによろめいているのか。もし主が神であればそれに従い、もしバアルが神であればそれに従え。」 結局彼らは、決断しなければならなかったのです。イエス様の時代のピラトという男も、このような決断への招きを抱えました。 マタイの福音書27:17
バラバかイエスか。罪か罪の赦しか。生か死か。このような決断は、われわれにも迫られている決断です。 モーセは、次のように叫んだことがあります。 申命記31:19
いのちであるイエス様を選ぶこと。主のために生きたい。主のために仕えることこそが、最高の幸せなのではないでしょうか。 |