引用聖句:ダニエル書6章20節
マルコの福音書8:35-36
パウロが福音を宣べ伝えたとき、いろいろな人が導かれ救われました。多くの人々は、パウロの喜びの種でした。早く成長したからです。 主にテサロニケにいる人々に向かって、パウロは言えたのです。よく知られている箇所です。 テサロニケ人への手紙第I、1:9
原語を見ると、仕えるようになりと書いてないんです。礼拝するようになった、となっているんです。 テサロニケ人への手紙第I、1:10
何も話さなくても、周りの人々はやっぱり考えるようになった。必ず、見て求めるようになり、見出した人もいっぱいいたに違いない。 彼らは、イエス様を信じ救われただけではなく、主に仕えるようになった。プラス・アルファ、再臨される主を待ち望むようになったとあります。 テサロニケの兄弟姉妹の場合は、そうだっただけではなく、昔からそうだった。 今日から少しだけ、ダニエルについて一緒に考えたいと思います。 今、読みました箇所の中で、「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」 ダニエルとは、どういう男であったかと言いますと、彼は、主に、生けるまことの神に仕えた男でした。最も大切なことではないでしょうか。 今、読んだマルコの福音書の箇所で、いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。 人はたとえ全世界、全世界の富はたいしたもんです、全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。得ても得にならなければ、幸せになれない名のではないでしょうか。 ダニエルとは、結局、生ける神に仕えた者でした。 二月前でしょうか、ずっとモーセについて考えてきました。テーマは、「我がしもべモーセ」でした。 もちろんダニエルについても同じことが言えます。主は、「我がしもべダニエル」と言うことができたのです。 ダニエルは主に仕えた。たまにではなく、いつも、主に仕えた男でした。 私たちは、どうのような状態にいるとき、最も素晴らしく主のご栄光を拝することができるのでしょうかね。 ダニエルのように、獅子の穴にいるとき、真っ暗な悪魔が勝利を握っているかのように思われるどん底に落ちたとき、一番素晴らしく主のご栄光を拝することができます。 主は、私たちを少しの妥協することなく、ひたすらに主に仕え、ダニエルのように奇跡を経験する人にしたいのであります。 よく知られている祈りへの呼びかけとは、エレミヤ書3章の33節です。 エレミヤ書33:3
呼ばなければ、もちろんダメ。 エレミヤ書33:3
ここでもね、複数形ではなく、単数形使っているから、ありがたい。 主は、一人ひとりの祈りを聞こうと思っています。 エレミヤ書33:3
初めに、ダニエルが生きていた頃の歴史的背景を、ちょっと見てみたいと思うんです。 ちょうどその頃は、それまで世界歴史の中心に位していたユダヤ人が不従順になり、聞く耳を持たなくなり、罪を犯し、不従順だったから主から身を離され、歴史の中心がユダヤ人から異邦人に移っていくという、非常に大切なときでした。 その時までは、やっぱりユダヤ人が中心でした。今度はユダヤ人でない国民、いわゆる異邦人が中心になるようになったのです。 異邦人の時は紀元前606年、バビロンの世界制覇によって始められました。バビロンの王様ネブカデネザルはイスラエルを占領し、イスラエルの人々を虜にして外国まで、バビロンに連れ帰りました。その中にダニエルも、青年であるダニエルもいたわけです。 このダニエルは、バビロンの王宮に取り上げられ、そこで教育を受け、ネブカデネザル王様に大切にして愛されたようです。特に、ネブカデネザルが見た二つの夢を解いたから、ダニエルは非常に高い政治的地位を与えられるようになったのです。 虜でありながら、有名人になったのです。 後ほど、ダニエルは壁に書かれた文字を解くことにより、バビロンの王の甥、ベルシャツァルにより取り上げられ、国の三番目の位に就かせられました。 けど面白いことに、このベルシャツァルによってダニエルが国の第三の司に就かされた夜、同じ晩、彼は殺されてしまいました。これは、もちろん不思議な主のみ摂理だったのです。 ダニエル書の5章29節、見るとわかりますね。 ダニエル書5:29-30
次の王となったダリヨスは、ダニエルを尊重して用いたわけなんですけども、もし、ダニエルがベルシャツァルによって国の第三の司に任命されていなかったなら、ただのユダヤ人として気にも留められなかったことでしょう。 ダリヨスは、ダニエルを用い国の最高の司に任命しました。ダニエルがそんなに用いられるならば、当然多くの人に妬まれる結果になりました。ダニエルを何とかして失脚させようとする人々がたくさん出てきました。 妬む人々は手段を選ばずダニエルを殺そうとしましたが、ダニエルにはには隙がありませんでした。彼は熱心に、真面目に怠ることなく務めを全うしたのです。 悪魔はダニエルに敵対する人々を用いて、計画を巡らしました。 「あのダニエルは、ユダヤ人だよ。彼は、唯一の神を拝し、我々の神を拝まない。彼は、宮や寺を訪ねない。偶像には見向きもしない。けど、彼は毎日、生きる神と言われる唯一の神を拝んでいる。彼を落とすために、一つの法律を設けよう。」と計画を立てました。 6章を見るとわかりますね。 ダニエル書6:6-9
けど、この法律に対してダニエルはどんな反応を示したなのでしょう。 不安に思ったでしょうか。「大変だ!大変だ!」と絶望したなのでしょうか。 10節ですね。 ダニエル書6:10
人間的に考えるならば、もうおしまい。もう逃げられない。終わり。もし、妥協しなければ。けど、このダニエルは神を礼拝した。心から感謝した。 ダニエルはもちろん、もう既に久しい間祈りの人でした。何を聞いても、知らせても、やっぱり祈ろうという態度を取りました。 生ける神は、自分の祈りに答えてくださる方であることを、何度も何度も体験しました。ですから、自分の身に危険が及ぶ計画を知った時、主にすべてをお委ねした。いくら心配しても、何もできない。 ペテロは、当時の信ずるものを励ますために、力づけるために書いたことがあります。 ペテロの手紙第I、5:7
神が心配してくださると、また自分で心配することとは愚かそのものです。全く意味のないことです。ダニエルは、思い煩いをすべて主に委ねました。 ダニエルを妬む人々は、ダニエルが主に祈ることを知っていたから、王以外のものを拝んではならないという定めを作ったわけなんです。 ダニエルが主のみ前に祈っているところを、すなわち、法律を破っているところを彼らは見つけました。ダニエルは、隠れた信者でいるよりは、死んだ方がマシだと考えていました。結局、彼は全然恐れを持っていなかったのです。 ダニエルは、身の危険を覚えて、自分の高い地位を捨てて逃げることもできたはずです。ダニエルは、窓を全部閉め押入れの中、誰も見ていないところで小さな声でこっそりと祈ることができたはずです。 けど、そうしませんでした。 彼は自分の命はどうでもいいと、自分の命をを軽く見ていたのでしょうか。決してそうでははない。彼は、自分の命を軽く見ていたのではありません。彼は、自分は決して、隠れた信者にはならない、と堅く心を決めたからです。 ダニエルは、獅子のような性格の持ち主でした。獅子よりも勇気を持っていたなのではないでしょうか。 窓を開けっ放し、諸手を挙げてエルサレムを見つめて祈るのは、ダニエルの習慣でした。どんなに敵が見ていても、それには目もくれず、ただ主に心を向けて祈るのは、彼の毎日やったことでした。 大胆にも、窓を開け放して祈るということは、ダニエルが一時的な衝動に駆られて、から元気からやったことではない。成熟しきった男が、よく静かに考えて決めたことでした。 ダニエルは、その頃70歳から80歳の間だったと思われます。共にバビロンに捕らわれてきた同胞にとって、彼は何という素晴らしい証だったなのでしょうか。 彼は公に祈り、公に証し、人の誉れを少しも望まなかったのです。したがって、全然恐れを持っていませんでした。 妬む人々は、祈るダニエルを見つけ、自分たちの定めた掟を破るといって、ダニエルを訴え出ました。彼らの思いはただ一つ、「あのユダヤ人を引きおろしてしまおう。」という思いです。 他の人々につき従い、多くの人々の中に混じって着いていくならば当たり障りがありません。けども、天の主のご支配を日々の生活に受け入れ、それを心から従おうとする者には誤解があり、迫害があります。 ダリヨス王はショック受けたと思います。何とかして、ダニエルを救いたいという気持ちがあったんです。ですから、王様の前に結局二つの道がありました。一つは、ダニエルを、獅子の穴に投げ込んで殺してしまうことであり、もう一つは、自分の定めた掟を破り、自分の命令を捨て、ダニエルを救う道です。 異邦の、生けるまことの神を知らない王ダリヨスは、仕方がなくて当然でしょう、自分のことを考え、ダニエルを獅子の中に投げ入れることを決めました。けどダニエルは、6章を見るとわかります。獅子に引き裂かれませんでした。天使がダニエルを守ったのです。 どのようにして守ったのか、聖書は言っていないからわかりません。ダニエルの体を豊かに包んで守ったか、天使は獅子の口を開けないようにしたのか、または獅子の目の前に火を置いて、獅子を恐れさせたのか、もちろんわかりません。 ただ一つわかるのは、その晩、ダニエルは獅子の穴の中で、ぐっすり寝たということです。もしかすると、獅子のたてがみを枕に寝たかもしれない。この晩、主の臨在が、ダニエルを荒れ狂う野獣から守りました。 これに引き換え、ダリヨス王は、まどろむこともできなかったのです。 ダニエル書6:18
気の毒な男ね。私たちも、ダニエルのように、真っ暗なときに落ち、危機にさらされ、試みられ、戦い苦しみもがく真っ暗な夜のような時を過ごしたことがあるかもしれない。また、今そのような所に陥っているかもしれない。 パウロとシラスのように真夜中、牢屋の中で主に賛美することができたら幸いです。そのときの二人は、主のために証し、奉仕し、また、主に対する信仰のゆえに捕らえられ、牢獄につながれ、体は血で染まっていたことと思います。 しかも、時は夜でした。真夜中ごろでした。どういうふうになるか、もちろんわからなかったのです。 ダニエルに戻りまして、ダリヨス王は、翌日の朝、まだ早い内に大急ぎで獅子の穴に行き、生きていたダニエルを引き出させました。 今まで、歴史的な事実だけを述べてきたんですけど、それでは私たちは、このできごとから何を汲み取ることができるなのでしょうか、について考えてみたいと思います。 初めにはっきり言えることは、幼い時から彼は、ダニエルは、自分を主にゆだねたということです。彼は主を信じただけではない。自分自身を主にゆだねました。もう一回6章の16節を読みます。 ダニエル書6:16
ダニエル書6:20
ダリヨス王様は、今までのダニエルをよく知っていましたので、ダニエルの神は、常にダニエルを守っていることを知っていました。また王様は、ダニエルが常に生ける神に仕えていたことも知っていたのです。 ダニエルは、幼いときから、主に心から仕えた者でした。いつも、主のみこころを尋ねたことをなしていたから、それは彼の性格となっていました。ダニエルは、若いときから主に仕えていました。彼の心には、幼いときから主を恐れる恐れに満ちていました。 ダニエルにとって、それは決して簡単ではなかったんです。彼の環境は異邦の国でした。イスラエルから連れて来られ、異邦の教育を受け、異邦の文学も、異邦のものを学びました、学ばなければならなかったのです。 けど、まことの神を恐れる恐れは、ダニエルから異邦のものと妥協することを避ける勇気と力を与えました。 王と同じ食べ物を食べなさい、と言われたことがあったんですけど、ダニエルは、偶像に捧げたから食べられない。絶対に食べられない、という態度を取ったんです。 王の食べ物はおいしいと思うよ。最高の材料を使ったものでしょう。毎日、陛下の食べる物もらうと、もう幸せじゃないでしょうか。必ずいいものでした。 けども、彼はいやです。結局、王の食べる物は、その前に偶像に捧げられてあったからです。だから、ダニエルはいやです、食べられない。 すなわち、彼は王に喜ばれようとは、一時だに思ったことがない。ただ主だけを喜ばせよう。主に仕えました。 私たちは、ダニエルが食べたり飲んだりすることは、そんなに大切なことではないじゃないかと思うかもしれないけど、ダニエルにとって、主の言葉を一つ残らず守るということは、かけがえのない大切なことでした。主を恐れる恐れから、彼は、主の言葉を破ることを恐れました。 主のみことばの中には、いわゆる外面的なことが確かにたくさん書かれていす。パウロの時代はそうだったが、今は時代が違うから、これは当てはまらないなどと、みことばを曲げて取るなら、大変です。 聖書は、神のことばです。永遠に変わらないみことばです。一つひとつの言葉は、主なる神の霊感によって書かれています。それを認め、また従順に従うならば、必ず祝福されます。主に対する全き服従には、素晴らしい豊かな恵みが伴うものです。 ダニエル書1章を見るとわかります。 ダニエル書1:15
ダニエル書1:20
倍だけじゃなくて、十倍。ダニエルはすべての若者よりも健康にまさり、他の博士より知恵と理解において十倍もまさっていたとありますが、これは主の御業であり、主の祝福でした。 ダニエルのできごとを見てきますと、私たちは、主に常に仕えるには、勇気が必要であることがわかります。 この勇気は、祈りによってのみ生まれます。主と一つになることによってのみ、勇気が出てきます。 知恵と理解力、主なる神の奥義を知る力も、祈りによってのみ生まれてくるのです。 呪法師、魔術師たちは、夢の解き明かしができなかったが、ダニエルはできた。祈ったから。祈りのうちに夢の解き明かしを教えられたからです。 常に、絶え間なく主に仕える者には、主の奥義が表されてきます。 ダニエルは、異邦の王の権威の前に、小さくなっていませんでした。平気で自分の仕える主の名を口にしています。 後に、国の司にまで引き上げられてもなお、主に仕え続けました。 ダニエルは、どんなに真っ暗なところに落ちても、また高く栄誉ある立場に立たされた時も、変わらずまことの神に仕え続けました。 ダニエルはまた、ある時、ネブガネザルが見た二つ目の夢を解き明かしたことがあります。この夢は、王様が動物のようになってしまうという恐ろしい夢でした。 ダニエルはこの時も、王を恐れないで、王様に恐ろしい夢の解き明かしをしました。「あなたは動物のようになり、気違いのようになる。」 ダニエルは、常に変わらず、王の恐ろしい夢の解き明かしをしたのです。ダニエルは、常に変わらず主にだけ従いました。 そのできごとの後、聖書にはしばらくの間ダニエルについて書いてありません。けどこの間にも、ダニエルは、ともに会われていた同胞の間で、よく証したに違いない。 ところが突然、奇妙な壁の文字を解き明かすために、前に話したようにベルシャツァルに呼び出されたのです。恐ろしい支配者の前にダニエルは勇気を持って出てきた。 ベルシャツァルは、ダニエルを殺そうと思えば、すぐにでもそうすることができました。この暴君の前でも、ダニエルは少しの恐れも持たないで、真理を包み隠さず伝えました。 ダニエル書5:25-28
ダニエルは、幼いときから、自分の生けるまことの神のみに仕えていこうと決めていました。ベツシャツァルの前にもその通りでした。世界の支配者は次々と変わっていきましたけど、ダニエルだけが、変わらなかったのです。 今日はこう、明日はそのようにと、環境によって行く先を変えるようなことは、ダニエルにはできなかったのです。 ダニエルは常に、主にだけ仕えたのです。主のご栄光を現していくことが、ダニエルの持っていた唯一つの目的でした。 ダニエルはダリヨス王の下で、まぁ、総理大臣を務めていました。しかし彼は、異邦の偶像礼拝を全然しなかったのです。妥協は霊的な死を意味する、と彼は固く信じていました。 高い地位についていながら、常に主に仕えるということは、そんなに簡単ではない。難しいことです。 何と多くの人々が高い地位を求め、また名誉のために、主から捨てられていたことでしょう。人気、栄誉、地位、富、これらは、悪魔の用いる最も鋭い試みの武器です。ダニエルは、これらには目もくれず、ただ主に仕えて、生けるまことの神に仕えていたしもべでした。 ダニエルから、もう一つのことを教えられることがあります。主に支配されている者は、友を自分のものとし、自分の環境を変えるために妥協するようなことは、決してしないということです。 何もない時に、主に従うことはそんなに難しくない。けど戦いが起こり、暗闇の中に入った時に、本当に自分が主に根ざして歩んでいるかどうかが明らかになってきます。 もし、ダニエルがこのまま続いてどこまでも主に従っていくなら、彼は王様の寵愛を失うばかりでなく、一番哀れな死に方をしなければならない羽目に立ち至りました。 主だけを礼拝するか、獅子の穴に投げ込まれるか、というところに立たされました。けどダニエルは、少しの妥協も見せませんでした。多くの迫害者に取り巻かれ、危険の真中にありながら、彼はまことの神、生ける神に祈り続けました。 私たちもこのような危機に出くわしたことがあるなのでしょうか。すなわち、あなたは主のみこころを知っていました。だから、主に従いました。 もし、妥協したなたら、その時あなたは、友を得、居心地の良い環境に入ることができたでしょうけど、あなたは妥協せず、主だけに従ったので、悩むようになりました。行く末が全然わからなくても、いつも、主に付き従っていく勇気を持っているなのでしょうか。 ダニエルのように、不安な良心を持っているよりも、むしろ貧しく、また誤解されていた方がいいと思っているなのでしょうか。 悪魔は、必ずダニエルを誘惑したに違いない。 「お前はねぇ、国の長官であり、しかもまことの神を礼拝している、だから今、お前が立場を失わないようになると、また、まことの礼拝するのも続けたいなら、掟で定められた30日間だけ、戸を閉めてそこで祈っていったらいいじゃないの。お前は、異邦の国には尊い主の証人だよ。少し妥協して、戸を閉めて祈り、神に礼拝すればいいなのではないか」と悪魔は囁いたでしょう。 多くの人々は、目的は手段を選ばずで、目的にさえ到達できれば、少しぐらい妥協しても方法はどうでもいいと考えます。 ダニエルは、そのようなことはしなかったのです。その結果がどうであろうと、主を恐れる恐れを持ち続けることが、ダニエルにとって最も大切だったのです。 私たちは、結果を見る必要はない。日々、主の声を聞き、それに従っていくことだけが、大切なのではないでしょうか。結果がどうあろうと、たとえ悪くても、主が責任を取ってくださるはずです。ダニエルは、絶えず主にだけ従っていました。ですから、結果を少しも恐れなかったのです。 お腹のすいている犬は、肉を見せると必ず跳んで来ます。そして、その人に従っていくでしょう。けど満腹した犬は見向きもしない。 多くの人は、目に見えるとことにしたがっていきます。少し何かが起こると、自分の立場を良くし楽にしようと妥協して、自分の考えで行動してしまいます。けど犬によっては、道が良くても悪くても、雨が降っても、槍が降っても、主人に従う犬がいます。 イエス様は、どんなことがあっても、主に従い仕える者だけを父なる神に言い表しておられるでしょう。私たちは、ボートを漕いでいる人みたいに、顔だけは神に向け、実際には、主に背を向け反対の方に走って言っているような状態にないなのでしょうか。 世界に一つの群れ、一つのクラブがあります。このクラブは、末の世になればなるほど、会員が増えていきます。このクラブに属する者の名は色々あります。 ある人の名は「二面相さん」、「二股膏薬君」、平安、平安と言っているが、実は平安のない「不安さん」、愛、愛と言って妥協しても、まことの愛だと言っている「偽善君」、二つの舌を持っている「二枚舌さん」、それから、時々しか主に仕えない怠け者の「不従順君」。 このような色々な名前の人々がこのクラブにいます。 もし、あなたが親しい友達を持っていて、その人を愛し、尊敬していたとします。けど、自分が苦しみに遭い、逆境に置かれ破産したとき、その友はあなたを見捨てたとします。 そのような時、あなたは、その友を許すことはできるかもしれないけれど、もうもう、充分です、交わりもほしくないなのではないでしょうか。 私たちも、その友のように順境の時は喜んで主に仕えるが、逆境になると、時々しか主に仕えない者ではないでしょうか。 今日、主が求めておられるのは、ダニエルのような者です。すなわち、常に主に仕え続ける者です。主を信じる者だけではなく、主に仕える仕え人です。 どんな試みが来ても、少しも動揺しないで、しっかりと立っているためには、何としても、ダニエルのような祈る人とならなければダメなのではないでしょうか。 祈りは、強い性質を与えてくれるものです。 |