引用箇所:ダニエル書1章1節-21節
先週始まったテーマについて、今日も続けたいと思います。すなわち、ダニエルについて一緒に考えたいと思います。 ダニエルとは、いったいどういう男だったでしょうか。異邦人である王様は言ったのです。 ダニエル書6:20
ダニエルとは、偶像ではなく、生ける神を信じただけではなく、たまに仕えたのではなく、いつも仕えていた人でした。 そしてダニエル書を通してはっきりとわかることとは、彼はどういう状況に置かれても、主に仕えた男でした。主のために生きたいと、切に望んでいた男でした。 問題は、私たちもどのような状態にいるとき、本当に主に仕えることができるなのでしょうか。ダニエルのように、獅子の穴にいるとき、結局、もう真っ暗な、悪魔が勝利を握っているかのように思われるとき、主をよりよく知ることこそが、主の導きの目的です。 ダニエルの一番の特徴なるものは、祈りだったでしょう。 主の呼びかけとは、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答える。」そして「、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」 これこそがエレミヤに与えられた約束でしたけども、ダニエルもこのエレミヤに与えられた約束をもちろん知っていただけではなく、自分のものにしました。 ダニエルとはどういう人だったか。答えは祈りの人でした。生けるまことの神は、自分の祈りを聞いてくださるということを、彼は何回も何回も経験しました。 ですから、自分の身に危険を及ぼす計画を知った時、彼は心配しないですべてを主にゆだねることができたのです。 ペテロも、やっぱりこういう態度を取るべきだと考えたから、当時の迫害された兄弟姉妹に書き送ったのです。 ペテロの手紙第I、5:7
もし、生けるまことの神が心配してくだされば、自分でまた心配することとは、おかしいなのではないでしょうか。ダニエルは、思い煩いをすべて主にゆだねました。 ダニエルを妬む人々は、ダニエルが主に祈ることを知っていたから、王以外のものを拝んではならないという、ずるい定めを作ったわけです。 ダニエルが主のみ前に祈っているところを、すなわち彼らの作った法律を破っているところを、彼らは見つけました。ダニエルという男は、隠れた信者でいるよりは、死んだ方がマシだと思ったのです。 何があっても妥協しません。ダニエルは、全然恐れを持っていなかったのです。主を恐れたからです。 彼は身の危険を覚えて、自分の高い地位を捨てて逃げようと思ったならばできたはずです。窓を全部閉めて、押入れの中で、誰も見ていないところで、声を出さなくても心の中で祈ることが、しようと思えばできたんです。そうすれば、捕まえられなかったし、問題にならなかった。 けどダニエルは、この態度を取ると、主は喜ばないと思ったからそうしなかったのです。結局、彼は獅子のような性格の持ち主だったと言ってもいいし、獅子より勇気を持っていました。 窓を開けっぱなし、もろ手を挙げてエルサレムを見つめて祈るのは、彼の習慣だったんです。毎日、毎日、そうしたのです。そうしないと主は喜ぶことができないし、働くことができないし、自分の大いなるみ業を明らかにすることができないとわかったからです。 大胆に窓を開け放して祈るということは、ダニエルが一時的な衝動に駆られた空元気からやったことではなかったのです。 彼はその時、少なくとも七十何歳だったんです。救われたばかりの青年ではなかったのです。だから、よく考えた成熟しきった男の判断でした。 ともにバビロンに捕らわれていた同胞にとっては、何という素晴らしい証しであったのでしょう。ダニエルは公に祈り、公に証し、人の誉れを少しも望まなかったのです。結局、主を恐れたからです。 今の全世界の雰囲気は、丁度逆です。主を恐れる恐れはない。オバマ大統領の最近言っていることは、子供おろしてもいいよ。いったいどういう話?戦争してはいかんけども、子供、殺してもいい。同じじゃないですか。 大変な速さで今の世界はおかしくなる。意味は、主は近い。大いに喜びましょ。 ダニエルの取る態度を通して、私たちは何を倣うことができ、何を汲み取ることができるなのでしょうか。 ダニエルは、やっぱり若いときから自分を主にゆだねたんです。私は主のものです。私は主のために生きたい、と彼は心から思ったんです。 どうしであるかと言いますと、もちろん、主を体験的に知るようになったからです。主は生きておられます。祈りを聞いてくださる、とわかったからです。若いときから主に仕えたのは、ダニエルでした。 どうして主に仕えたかと言いますと、主を恐れたからです。ダニエルにとって、それは決して簡単ではなかったんです。環境は、もちろん異邦の国でしたし、イスラエルから連れて来られ、異邦の教育を受けなくちゃならなかったし、文学もみんな異邦のものでした。 けど、まことの神を恐れる恐れは、ダニエルから異邦のものと妥協することを、避ける勇気と力を与えました。主を恐れる恐れから、彼は主のことばを破ることを恐れたのです。 結局聖書は、みことばは神のことばですと、彼は確信しました。一つひとつのことばは、主の霊感によって書かれています。それを認め、また従順に従うならば、大いに祝福されます。 主に対する全き服従には、素晴らしい豊かな恵みが伴います。 今、読まれましたダニエル書1章の15節、もう一回お読みいたします。 ダニエル書1:15
とあります。これこそが祝福だったのです。多くの人は、目的は手段を選ばずで、目的にさえ到達できれば少しくらい妥協しても、方法はどうでもいいなのではないかと考えています。ダニエルは、そのようなことをしませんでした。 その結果がどうであろうと、主を恐れる恐れを持ち続けることこそが大切だと、彼は確信したのです。もちろん私たちは、結果を見る必要がない。日々、主の声を聞き、それに従っていくことだけが大切です。 結果がどうであろうと、たとえ悪くても、主が責任を取ってくださるはずです。 ダニエルは、絶えず主にだけ従いました。ですから結果を少しも恐れなかったのです。私たちも、やっぱり主に頼ると、主に仕えると、確かにいろいろな面白くないことが次々とでてきますけど、主にゆだねることができるから、必ず主は恵んでくださるに違いない。 このダニエルの取る態度を通して、また何を教えられるかと言いますと、命を懸けてすべてを捧げる、仕えていく価値のある主が、ダニエルの主だけではなく、我々の主でもあります。 ダニエルは、そんなに深く心から主を崇めていましたので、主を裏切るよりは、獅子の穴に投げ込まれた方がマシだと思いました。 これから見ますと、ダニエルは、主は常に仕え、自分の命を捧げても惜しくない、尊い方と思って、信じて仕えていたダニエルの心がよくわかる。彼の願いは、絶えず主との交わりを持ち、一つになっていることでした。 我々にとっても、主は、命を捧げても悔いのないほど価値あるお方となっているなのでしょうか。 主を知るようになった兄弟姉妹は、次のように証しします。「私たちが罪人であったとき、主は、まず私たちを愛してくださいました。大いなる恵により、我々の罪を赦されました。主は、私たちを絶望の穴から、堅い岩の上に救い出してくださいました。」 しもべとなり、私を救った主は、私たちが地上で生きるわすかな時も、あらゆる試みから守ってくださると約束しておられます。 私たちもこの主のために残るわずかなときを、常に仕えい生きたいと思います。 イエス様は、我々にとってどのような価値があるなのでしょうか。ホセア書の中で、次のようなことばが書き記されています。 ホセア書5:12
と主は、イスラエルの民に、言わざるを得なかったのです。 イエス様が我々の命となっているかどうかが、問題です。 私たちは、ダニエルのようにひたすらに主を愛し、主に仕えようと思っているでしょうか。あるいは私たちは、自分の名誉や立場を考え、妥協をして、うまく通り抜けようとするのでしょうか。それとも、ひたすら主に仕えようとしているなのでしょうか。もし、主の御名のゆえに苦しみに会うなら、それを喜びとするなのでしょうか。 主に絶えず仕えることは、私たちの喜びであり、心から言い表すのを、主は待っておられます。 ダニエルの神は、ダニエルを獅子の穴から救い得る神であるということがわかります。 ダニエル書6:19-20
ダニエルの神は、今日でもなお、私たちを獅子の穴から救うことができるなのでしょうかと、疑っている人もいるかもしれない。 目に見える獅子は、あんまり我々を襲わないでしょう。けど、目に見えない悪魔は、ほえたける獅子のように我々を取り巻く、襲ってきます。 ダニエルが一緒に寝た獅子は、張子の獅子ではなかった。生きている猛獣でした。 私たちが話している、この私たちを取り巻く悪魔の攻撃、試み、戦いは、架空のものではありません。恐るべき現実です。 もし、主が我々を守ってくださらなかったなら、ダニエルは、獅子に噛み裂かれて死んでしまったでしょう。 同じように、主が我々を守ってくださらなければ、私たちは恐るべき悪霊の攻撃に遭い、絶望し、間違った方向に導かれていくことでしょう。 ダビデの体験は、どうだったなのでしょうか。 彼は、詩篇の57篇を見ると次のように、告白しています。一つの証しでもあります。 詩篇57:4
詩篇57:7
ダビデ王は憎しみのただ中、むさぼり食らう獅子の中に横たえられました。けど、ついに7節のように、勝利の叫びを上げることができた。 たぶんあなたにとって、あなたの家族は獅子の穴のようかもしれません。あなたはうちにいると、イエス様の名のゆえに、一致と平和がなく、居にくいかもしれない。どうしてでしょうか。 イエス様の答えは、マタイの福音書10章に書かれています。 マタイの福音書10:34-39
主を第一にすると、損しない。 たぶん職場は、獅子の穴のようかもしれない。ダニエルのように、妥協せず常に職場にあっても、主に仕えていくなら本当に幸いです。 もし悪魔が、このダニエル書6章20節のように、あなたに囁いてきたらどう答えましょう。すなわち、あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子の穴から救い出うことができるか。 次のように答えるべきです。「はい、主は、できる。主は、救うことができるだけではなく、救いたいのです。たとえ、主は獅子の穴から救い出されなくても、栄光のかなたに引き上げてくださる。」と。 終わりにもう少しほかの獅子の穴について考えましょうか。その一つは、ヘブル人への手紙の11章を見ると、次のように書かれています。かつての主を第一にする人々についての箇所です。 ヘブル人への手紙11:33-39
それにしても、妥協せず、主を第一にしてみことばにだけ頼ったのです。今読んだ箇所を見ると、今まで主の名のゆえに殺された多くの何千という人々について書かれています。 彼らの経験したのは、まさに獅子の穴そのものでした。彼らは、拷問の苦しみに甘んじ、少しの妥協もせず、常に主に仕えていきました。 これらの人々に、この前に読みましたダニエル書6章20節に尋ねると、何と答えるなのでしょうか。彼らは喜んで、ローマ人への手紙8章37節のように答えるに違いない。すなわち、 ローマ人への手紙8:37
病気も一つの獅子の穴なのではないでしょうか。多くの主に在る兄弟姉妹は、病に倒れ、数週間、数ヶ月、数年間と床の上に寝たきりで、よくなる望みのない闘病生活を続けています。 これらの人々は、この世の望みは、結局何もない。そういう人々とは、本当にもう寂しくて孤独ですけど、主はそれらの兄弟姉妹の喜びであり、また拠り所となっています。 これらの兄弟姉妹に、ダニエル書6章20節と尋ねると、何と答えるなのでしょうか。彼らは必ず、ダビデのように答えるでしょう。詩篇の103篇ですか。1節からのように答えるに違いない。 詩篇103:1-5
もう一つの穴があります。すなわち、死という獅子の穴です。何と多くの主を信ずるものが、もうすでにこの穴を通っていったことでしょう。 死を克服したイエス様を知るようになり、彼らが死ぬ寸前、その枕辺に立ってその心をうかがうなら、何と答えるなのでしょうか。 必ず、コリント人への手紙第I、15章54節のことばでもって言えるでしょう。 コリント人への手紙第I、15:54-57
私のひいおばあさんが死ぬとき、その部屋は真っ暗でした。けども死ぬ寸前、ひいお祖母ちゃんの顔は昼の日のように明るくなり、主の栄光を見ると言って死にました。私の母は、その素晴らしい死に際を見て打たれ、イエス様を信ずるようになりました。 多くの人々は、スイスのベアテンブルグまで行きましたし、ベアテンブルグの神学校の校長先生が、召されるときも、素晴らしい情景でした。 召されるとき、「私は、主の声を聞くことができる。主が見える。罪の赦しは栄光の冠だ。」と言って、息を引き取っていかれました。 やがてイエス様が来られる時、すべての御名のゆえに殺された人々、病で死んだ兄弟姉妹、迫害されて死んだ信ずる者は、みんな獅子の穴から引き上げられ、甦らされ、主の御許で、大いに喜ぶようになります。 コリント人への手紙第I、15:51-52
同じ内容の箇所は、テサロニケ人への手紙第Iの4章、いわゆる空中再臨の箇所です。 テサロニケ人への手紙第I、4:13
先に死んだ、 テサロニケ人への手紙第I、4:13-18
ダニエルのように、常に主にだけ仕えたいと望む者は、豊かに祝福されます。 ダニエルの特徴は、幼子のような信仰、定まった心、目の前に一つのはっきりとした目標を持っていたことです。 少しも妥協することをしないダニエルの証しは、素晴らしい影響を周囲に及ぼしたでしょう。 異邦人の王様でさえも告白したのです。ダニエルの神と言って、結局主をほめたたえました。王は、自らダニエルの神を知りたいという飢え渇きをもったばかりではない、全国に、全世界に詔を書き送って、ダニエルの神を恐れるように命令したのです。 ダニエル書6章の25節を見ると、次のように書かれています。簡単な提案ではなく、はっきりとした命令でした。 ダニエル書6:25-27
ダニエルを妬んで、迫害した人々が皆、穴に投げ入れられるようになりました。その人たちだけじゃなくて、妻も子も噛み裂かれて死んだと聖書は言っています。 もし今日、私たちが新しく主にすべてを捧げ、特に私たちの意志を主に捧げて仕えるならば、我々の家族も、周囲の人々も、救いに入るようになるに違いない。 だから、心から主にだけ仕える者になりましょう。 |