引用聖句:ダニエル書2章28節-35節
今、28節に読まれましたように、主とは秘密をあらわすお方です。私たちも誇りを持って、喜びを持って、私たちの主は、何でも知っておられ、秘密をあらわすお方であると信ずることができ、賛美することができるなのではないかと思います。 この確信を持っていたのは、ダニエルとその三人の友達でした。 彼らは、真っ暗な恵まれない環境の中で、なお信仰を持って、この秘密をあらわす主をほめたたえたのです。 私たちの住んでいる世界とは、将来どうなっているなのでしょうかね。 私たちの信仰生活を確かなものとし、動かないようにしっかりと歩むには、世界の将来を知っておく必要があるなのではないでしょうか。 世界の将来を私たちに教えてくれる人は、いったいどなたでしょうか。星占いが教えてくれるなのでしょうか。または降神術者が教えてくれるなのでしょうか。それとも、どこかのいろいろな宗教が教えてくれるなのでしょうか。 ある人が、あの有名なアインシュタイン博士に聞いたらしい。第三次世界戦争はどのような戦争になるのでしょうかね。 尋ねたところ博士は、「第三次世界戦争のことは、まだよくわからないけれど、第四次世界戦争は、原始時代の戦争みたいに、人間は石を投げ合って戦うだろう。それは、次に起こる第三次世界戦争が、そんなにひどく、ほとんど世界を破滅に近づける可能性があるからだ。」と言ったそうです。 もちろん聖書を見ると、ヨハネの黙示録を見ると、その戦争で人類の三分の一が殺されます。想像できない。このようにいろいろ次の戦争のことを考えている人々がありますけれど、いったい誰が正確に将来を告げてくれるなのでしょうか。 私たちの将来、何が起こるか詳しく教えてくださるのは、もちろんまことの神ご自身です。 ですからここで、28節ですね、書かれています。 ダニエル書2:28
云々と。アモス書の中でもう一つの大切な箇所がありますけれど、3章の7節。 アモス書3:7
とあります。聖書は、神の命令どおり預言者たちによって書かれた物です。ご存知でしょう。 宗教はいっぱいあります。みんな違う教えをもっています。けど宗教の教えを見てもね、将来についての預言は一つもないんです。あっても、すぐおかしいとわかっちゃうからです。 聖書の半分は預言です。そして、今まで全部預言通りなったのは、もう不思議で不思議でしょうがない。だから聖書は、確かに人間によって書かれた物ですけど、神のことばです。 主はダニエル書2章を通して、将来何が起こるかをはっきり教えています。主はご自身が世界歴史の支配者であり、王を立て、王を廃するのもすべてご自身の御手の内にあることを教えるために、当時のネブカデネザル王様に一つの夢を見させました。 初めに王は、この夢を人間的な知恵で解き、将来を知ることができると思ったんですけど、それは決してできないことであることを、終わりに悟りました。 主が、ネブカデネザル王にこの夢を見させたのは、彼だけでなく、我々も世界の将来がどのようになっているか、はっきり知るために夢を与えてくださったのです。 聖書の預言は、将来世界に何が起こるかを告げております。主なる神に与えられた預言を学び、それが預言されてから数百年後、また千年も後に、その預言どおりに歴史が成就されていることを見て、主のみ前に膝をかがめて礼拝せざるを得ません。 ネブカデネザル王が見た夢は、紀元前600年から今日にいたるまでの四つの、いわゆる世界帝国について預言しています。 夢の中で一番初めに出てくるのが金の頭です。これは、当時の世界帝国バビロンを表しています。ね、2章の32節 ダニエル書2:32
云々とあります。そして37節、 ダニエル書2:37-38
次に夢の中で出てくるのは、銀の腕と胸です。これは次に続くメディアと、ペルシアの国を表しています。ね、32節 ダニエル書2:32
云々とあります。そして39節、 ダニエル書2:39
とあります。 三番目に夢の中に出てくるのが、青銅の腹とももです。これはギリシア帝国を表しています。 ダニエル書2:32
云々とあります、そして39節の後半、 ダニエル書2:39
そして最後に、鉄でできたすねを夢で見ました。これは統一されたローマ帝国を表しています。33節ですね。 ダニエル書2:33
ダニエル書2:40
紀元前476年に、ローマ帝国は、ドイツ、フランス、イタリア、イギリスその他多くの国に分裂しました。それ以来今日まで、この分かたれた国々は、粘土と鉄がよく混じらないように分裂したまま、また、対立したまま続いてきたんです。 けど最近、皆さんご存知のように、いわゆるEUができたのです。27の国々は一つになりました。 言えることとは、宗教が存在している限り平和になり得ません。最後に、結局宗教はみんな一つにしよう。今のローマの法王もそういう目的を持っているし、最近、大変迫害されるようになっているんです。 けども、目的とはそれなんです。みんな一つになる。けども結果は、反キリストが表れて、彼はすべての宗教を徹底的に否定するようになり、神だって、俺でです。俺を拝まないとおしまいです。今のヨーロッパの国々の努力の結果とは、そういうものになります。 ネブカデネザル王は、当時、自分の国とその勢力の強さをうかがい、この自分の国、バビロン帝国は永遠に滅びないで続くだろう、と彼は思ったんです。 独裁者はだいたいそうなんです。ドイツのヒトラーは約束したんです。私の国は千年間持つ。千年間!?。12年間で終わった。 バビロンの周りには、高さ100メートル、厚さ27メートル、地下11メートルの二重の塀で囲まれ、その周りは96キロ。今でもちょっと想像できない塀で囲まれたものです。想像つかないほど強い城壁で囲まれていました。 しかも城壁の間には深いお堀が掘られていて、水が満たされ、外敵から完全に守られるような仕組みになっていました。もう安全だ。 今、このバビロンの王様ネブカデネザルは、自分は世界の支配者ではなく、自分の上に、主の主、王の王がおられ、やがてバビロンの国は滅びるという夢を見ました。 事実はその通りになっていきました。ある夜、強大な塀の下を、突き抜けて流れているユーフラテス川の水が枯れ、ペルシアとメディアの軍隊が城壁の中に忍び込み、陥落するとは到底考えられなかったバビロンの町は滅ぼされ、聖書の預言は見事に成就したのです。 けど、この第二の世界帝国メディア、ペルシアもそんなに長くは続きませんでした。 ギリシアの有名なアレキサンドル大王が興り、メディア・ペルシアを5年の間に占領してしまい、ここでも聖書の預言は確実に成就したのであります。 このアレキサンドル大王によって打ち立てられたギリシア帝国も、預言の通りに、やがて滅んでいく運命にありました。鉄のように強大なローマ帝国が興り、間もなく全世界を支配するようになったのです。 ネブカデネザル王の見た夢の中には、やがて滅んでいく四つの世界帝国ばかりでなく、その後に永遠に続く国も入っていました。 人手によらず切り出された石が、像の足を打ち砕いたとき、像の全部が砕け、崩れ落ちたという夢も見ましたね。34節。 ダニエル書2:34-35
その実現についてヨハネの黙示録に書かれています。ちょっと見てみましょうか。 ヨハネの黙示録11:15-17
夢を考えていきますと、世界歴史は、だんだん良い方には向かっていってはいない。だんだん世界の状態は悪くなってきています。初めは金であり、終わりは粘土となり、やがて滅んでしまうことがよくわかります。 分裂して弱くなってしまいます。頭、胸、両手、両足、胴、みなバラバラになってしまいます。10本の足の指もバラバラになっていっています。 ヨハネの黙示録では、十の角について書かれています。これは、みな同じ意味です。17章ですね。 ヨハネの黙示録17:8
そして、12節、13節、 ヨハネの黙示録17:12-13
云々とあります。ダニエル書2章に書かれている人の手によらず切り出された石は、やがて雲に乗って来られ、ご自身の国を作られる主イエス様を表しているのです。 今の世界の情勢がだんだん良くなって、神の国になるとは聖書は言っていません。一回破壊され、上から新しい神の国が地上に置かれると聖書は言っています。7章ですね。 ダニエル書の7章を見ると次のように書き記されています。 ダニエル書7:13-14
イエス様は同じ事実について、話されました。 マタイの福音書24:30
とあります。世界が将来どうなっていくか、予言できる人間は誰もいません。また預言しても、それが実現しないのを恐れて、誰も預言するものはいません。ほかの宗教と名のつくどれを見ても、世界の将来を予言している宗教はない。 けどまことの神は、みことば、聖書を通して世界の将来をはっきりと預言されました。それまで聖書とまことの神を信ずることのできなかった多くの人々も、このダニエルの預言とその成就を聞かされ、砕かれ、イエス様の御前に悔い改め、信ずるようになった人々が、いっぱい居ます。 もちろん、私たちは、将来のことについてよりも、我々にとって大切なのは、ダニエルとその3人の友達が取った態度なのではないでしょうか。 ダニエルとその友達、それから今の時代の我々と比較するのは、本当に大切なのではないかと思います。 ダニエルとその友達とは、どういう人々であったかと言いますと、心からみことばを信じ、主に頼った人々でした。 ヘブル人への手紙の11章に、いわゆる信仰の人がたくさん書かれていますが、その中にダニエルと3人の友達の名前は記されていませんけど、33節、34節を見ると、ダニエルとその友達も、信仰の人の書、ヘブル人への手紙11章に含まれていることがわかります。 ヘブル人への手紙11:33-34
とあります。ダニエル書で一番言わんとしていることは、「暗闇の中での信仰」なのではないかと思います。私たちは今、もうすぐイエス様がおいでになろうとしている、末の世に、最暗黒の世に生きていることは疑いようのない事実です。 ですから、私たちの生きているこの世は、ダニエルの生きた頃に比べることができると思います。 霊的な原則は、どの時代においても同じです。御霊がお働きになって、私たちがダニエルとその友達と同じ信仰の人となることができたら、本当に幸いです。 多くの人は、世界はだんだん良くなるなのでしょうか、まただんだん悪くなっていくなのでしょうかと考えます。その両方だ、と言えるでしょう。 良いところは段々良くなり、悪いところは大変な速さで悪くなるなのではないかと思います。 イエス様は、ご自分の教会を立て上げるために働いておられ、ご自分に属する人を完全なものとするために、いろいろな苦しみ、いろいろな悲しみ、いろいろな困難を通して、練り、聖め、ご自分の形に似せようとされています。これはだんだん良くなる面です。 これと反対に、サタンから来るものはますます悪くなる一方です。主なる神のみこころは、ご自身に属するもの、主の恵みによってみ救いに与るようになった者に傾け、尽くされています。 ダニエル書7章の中を見ると、この中に、聖人ということばが6回も出てきて、主なる神が、どんなに自分に属する者を思っておられるかが書かれています。 良いところは、ますます良くなり、全きに向かっています。救われたものは成長し、神の国は成熟していきます。 悪いものも、ますます悪くなり、悪の完成に向かっていきます。悪い面も、良い面も、すべての出来事の中心に、イエス様の体なる教会があります。 もちろん、私たちは教会という言葉をあまり使いたくない。なぜならば、教会とは一つの建物だと思っているし、あるいは、一つの団体だと思っているからです。 聖書の中に出てくる教会とは、人間の造ったものではない。イエス様に属するものです。 イエス様は頭であり、この頭の体こそが教会と言われています。 悪い面も、良い面も、あらゆる出来事は、主のものとなった者が、イエス様の御形に似る助けをしているのです。主のご栄光と主のご目的は、すべて体なる教会に任せられています。 全天、全地、地獄までは、救われた者が御子イエス様に変えられる助けをしているのです。 ちょっと、2、3の実例を見てみましょうか。サムエル記第Iの1章の10節、サムエルの母であるハンナについて書かれています。1章の10節、まぁ、短い文章です。 サムエル記第I、1:10
サムエルの母ハンナが、非常に悩んでいました。確かに彼女は苦しんだですけど、諦めなかったのです。 彼女はすべてを主にゆだね、祈りました。これこそ勝利の秘訣です。 主の御許に行くものは、捨てられることがありません。その人は、主の偉大な解放をを経験します。 一人のやもめの息子が亡くなりました。彼女がいかに苦しんだか想像できます。彼女は、エリシャという預言者のところへ行って、自分の悩みを打ち明けました。隠そうとしなかった。 エリシャは、この苦しみ、悩んでいるやもめを、もはや見ていることができないほどでした。その時、預言者はいろいろな慰めの言葉を かけようとはしなかったのです。 列王記第II、4:33
その結果、主は死んだ子供を生き返らせ、栄光をあらわしてくださいました。私たちが苦しい状態に置かれ、試練に遭うとき、祈ることこそ勝利の秘訣です。 イザヤ書の37章の中で、ヒゼキヤ王について書かれていますけども、彼は五つの驚くべき手紙、ひどい手紙を受け取りました。 けど彼は、そのことを怒ったり、不満を言ったりしなかったのです。また、その手紙を公に見せたり、愚痴を言ったりしませんでした。王は、何をしたのでしょうか。 イザヤ書37:14
主に至る戸はいつも開かれています。主は私たちが、我々の問題と悩みをもって主の御許に行き、主に信頼することを待っておられます。 主は奇跡を行う神です。主にとって不可能なことは一つもありません。 主に非常に忠実に仕えたダニエルは、絶望的な状態に置かれたことがありました。彼の敵対者たちは王に懇願し、一ヶ月以内に王ではなく、神に願い求める者はみなライオン、獅子の穴に投げ込まれるべきであるという、変えることのできない法律を発令するように迫りました。 ダニエルはそのときに、何をしたなのでしょうか。ダニエルは怒って、王のところに行ったなのでしょうか。ダニエルは敵の卑劣なやり方に対して、怒ったなのでしょうか。ダニエルは、大勢の友達を呼び集め、逃れ道を求めたなのでしょうか。 そのうちの何一つ、彼はしなかった。先週読みました箇所、6章ですね。 ダニエル書6:10
感謝した。ダニエルは、法律によって許されていないことをしたわけですが、その時彼は、主にに叫び、祈り、すべてを主に委ねたのです。 ダニエルは、意識的にすべての事柄を主の前に申し述べました。彼は、主が必ず御業をなしてくださると確信していたのです。このような信頼は、決して決して失望させられません。 不可能と思われたことが起こったんです。すなわち、獅子はダニエルに敢えて触れようとはしなかったのです。信じられないようなことだったですけど、本当だったのです。 我々の主は生きておられます。主は、主に避けどころを求める人たちの人生において、主が全能者であられることをあらわしてくださいます。 使徒の働きの16章を見ても、似ていることが書いてあります。無実の罪で牢獄に入れられたパウロとシラスも、同じ態度を取りました。 彼らは鞭打たれ、凶悪犯罪者のように取り扱われましたけど、彼らは決して反抗的な態度を取らなかったのです。 また彼らは、なぜ、主はそんなことを許しておられるのか、私たちは主にだけ仕えているのに、許しがたい暴挙ではないかとは言いませんでした。25節ですね。 使徒の働き16:25
一番暗いとき、 使徒の働き16:25
いた、とあります。彼らは、なぜそのように導かれたのか、理解できませんでした。けど主は、決して間違いをなさらない。このような導きも、我々にとって最善の益となるに違いないということを知っていたのです。 ですから彼らは、祈りつつ賛美の歌を歌うことができたのです。 イスラエルの民は本来、主のみ栄をあらわし、主の権威を証していなければならない人々だったはずですけれども、ダニエルの時代のイスラエルの民は、それからおおよそかけ離れた状態におちていました。 当時のイスラエルの民は、主のご支配を証するどころか、敵の手に渡り、囚われの身となって、外国まで、バビロンに移されていました。 かつてのイスラエルの民は、主に従順であったとき、世界歴史の中心に位し、ほかの民々はみな、イスラエルの神の前に、膝をかがめたものでした。 けど、ダニエルの頃のイスラエルの民は、力がなく、喜びがなく、権威もありませんでした。憐れにも捕らわれ、バビロンに移されていました。 主の支配からはずされたイスラエルの民は、この世の国、バビロンによらなければ食べることも、着ることも、住むこともできない捕らわれの身となってしまいました。 今日においても、同じではないでしょうか。すなわち、主によって救われた人々とは、国々の中で、権威を持っているなのでしょうか。 主のご支配が、我々の真中に鮮やかにあらわれているなのでしょうか。 私たちは、悪魔の憎しみを感ずるなのでしょうか。戦っているなのでしょうか。 エペソ人への手紙6章の12節。言うまでもなく、イエス様に出会って、イエス様によって救われた人々にパウロは、もちろん彼らの成長のために書いたのです。 エペソ人への手紙6:12
信ずる者の戦い エペソ人への手紙6:12
すなわち目に見える世界 エペソ人への手紙6:12
我々の戦いとは、悪霊、悪魔です。決して人間ではない。3章10節。 エペソ人への手紙3:10
イエス様の体なる教会を通して エペソ人への手紙3:10
る云々とあります。 今日の教会の証しは弱くなっています。ゼロに近いものになってしまっています。教会を通し、主の支配があらわれるよりも、教会は、この目に見える世界によって支配されていないなのではないでしょうか。 私たちが御霊によって、妥協することのない、主のご支配の下にある証し人となることができれば、本当に幸いです。 初代教会の証しとは、どういうものだったでしょうか。 ローマ人への手紙1章16節を見ると、次のように書かれています。パウロがローマにいる兄弟姉妹に書いたものです。 ローマ人への手紙1:16
もちろん、福音とは、一つの教えじゃない。イエス様です。 ローマ人への手紙1:16
そうなるためには、まず主のみこころが我々の心となっていなければなりません。 ダニエルとその友達は、主のみこころを自分の心としていた人々でした。かかる人々は今の時代において、一番必要としている人々です。 これらの人々は、主との交わりをなくした人々と、主との間を結ぶ帯のような役目をしています。これらの人々は日々、上から、主の新しい力をいただいている人々です。 ダニエルとその友達は、本当にはっきりとした態度を取ったんです。 当時、主から離れ、霊的に貧しくなり、落ちてしまったイスラエルの民のために、どこにも妥協することなく、常にとりなし続けたのです。 眠っているイスラエルの民、信ずる者と、主とを結ぶ帯の役目をしていたわけです。ダニエルとその友達のような人々を、主は、今日も、探し求めてられるし、必要とします。 ダニエル書を読むと、ダニエルとその友達は、同胞、イスラエルの民が、霊的に貧しくなり、ダメになっていることをよく知っていた人々でした。 けども彼らはそれだけではなく、みことば、聖書もよく知っていたのです。彼らは聖書を良く学んだから、みこころをよくわきまえたのです。そして、主のみこころを成就するために、自らを主に捧げました。 彼らは聖書を、本当に開いた心で読んだのです。多くのキリスト者は、みことばを読んでも、人格が変えられていきません。みことばは、お客様のように出たり入ったりしています。 ダニエルとその友達の場合は、まったく違いました。みことばが、彼らの心のうちに主人となり、彼らを支配し、彼らは、みことばによって主のみこころのままに変えられていきました。 彼らは、主のみこころを知るや、少しも妥協することがなく、主のみこころをなし得るために祈りを捧げたのです。 その結果が何だったでしょうか。どのようになろうと彼らは恐れなかったのです。火の炉も、獅子の穴も、彼らは、問題ではなかったのです。 各時代にあたって、主はかかる人々を捜し求めておられます。彼らは、主のご目的に心の目が開かれた人々でした。そして彼らは、眠っている信者と主との間を取り持つとりなし人となったのです。 聖書の真理をただ学び、ただ聞き、ただ宣べ伝えるだけでは何もなりません。聖書の真理が、もう私たちから切り離すことのできない我々の命となっていなければならない。歴代誌第IIの16章、非常に、覚えるべきことばです。 歴代誌第II、16:9
主は、働こう、祝福しよう、用いようと望んでおられます。けども、主を第一にしようとしなければ、主は何にもできません。 私たちは、聖徒たちに対する主のみこころを知っているなのでしょうか。また、この主のみこころに沿って、みこころのままに造り替えられて行っているなのでしょうか。 今話したように、主のみこころが我々の心にならないと、主は私たちを用いられ得ない。ですから、次の大切な点は、同じ主のみこころを行っていく人々、すなわち主の支配を受けている証し人は、悪魔の攻撃の真っ只中に置かれているということです。 ダニエルとその友達は、どんな具合に攻められたでしょう。彼らの証しに対する報いは、決して生易しいものではありませんでした。妬みと憎しみと死が、彼らを襲ってきました。 けど彼らは、少しの動揺も見せず、堅く立って動かされず、次々とやってきた戦いを、戦いに勝利者として、勝ち進んでいたのです。 この、ダニエル書1章から6章までに書かれている六つの戦いについて、来週一緒に考えてみたいと思います。 |