引用聖句:コリント人への手紙第II、4章16節-18節
ヘブル人への手紙11:33-34
昔、神学校の時、校長先生は大きな声で言ったんです。覚えてもらいたい。「あなたがたは、悪魔の憎しみを感じなければ、あなたがたの信仰はゼロ以下。」 ダニエルとその友達は、もちろん悪魔の憎しみを感ずるようになりました。初代教会の人々は、今読んでもらいましたように、何があっても私たちは元気を失いません。どういう状況に置かれていても、私たちは元気です。 どうしてであるかと言いますと、私たちは目に見えるものによらないで、信仰によって歩んでいる。結局、目に見えないイエス様に頼っているから安心です。 真っ暗な、恵まれない環境で、なお信仰を持って証ししたダニエル、またその友達について考えるのは、非常に大切なのではないかと思います。 今読んでもらいましたヘブル人への手紙の中で、いわゆる信仰の人々について、意味は徹頭徹尾主に頼った人々について書かれています。33節ですね。 ヘブル人への手紙11:33
意味は、目に見えない方に頼ることによって、 ヘブル人への手紙11:33-34
弱い者なのに、とあります。弱い人だけが主に頼るんじゃないでしょうか。考えられない多くの人は、弱いというんですけども、本当はそう思っていない。なぜならば、相変わらず自分の力、知恵に頼っているからです。 ダニエルとその友達とは、わかったんです。私たちは弱い。主に頼らなければ、主に守られなければおしまいだと。 ダニエル書の言わんとしていることは、結局、暗闇の中の信仰の大切さのことなのではないでしょうか。 私たちは、今すぐイエス様がおいでになろうとしている末の世に、最悪の世に生きていることは疑いもない事実です。 国々の報告によって違う。日本のニュースを見ると、今から大丈夫?そういうこと誰も言っていないよ。比較的に正直だよ。大変だ、この問題も出てきた、この問題も出てきた、大変だ。 アメリカは違う。アメリカは、もう今から大丈夫。一つの国民がそういうふうに盲にされるのは、もう不思議で不思議でしょうがない。 結局、今の世界は大変な速さでおかしくなる。けども、暗闇の中で主に信頼すると、結局、生ける希望を持つことができるようになります。 私たちの生きているこの世は、ダニエルとその友達の生きた頃に比べることができることとは、大切じゃないでしょうか。なぜなら霊的な、いわゆる原則はどの時代においてもまったく同じです。 主の霊がお働きになって、私たちがダニエルやその友達と同じ信仰の人、すなわち、主に頼る人となることができたら、本当に幸せなのではないかと思います。 主に非常に忠実に仕えたダニエルは、絶望的な状態に置かれたときがありました。彼の敵対者たちは、王様に頼んだんです。よく考えた願いでした。一ヶ月以内に、王様ではなく、神に願い求める者は、みなライオン、獅子の穴に投げ込まれるべきである、という変えることのできない法律を発令するように迫りました。 ダニエルはその時、どういう態度を取ったなのでしょうか。早く親しい交わりを持った王様のところへ急いだなのでしょうか。敵の卑劣なやり方に対して、不平不満を抱いたなのでしょうか。あるいは、大勢の友達を呼び集めて、逃れ道を求めたなのでしょうか。 違う。そのようなものをしようとしなかったのです。前に読みましたダニエル書6章の10節ですね。 ページになります。 ダニエル書6:10
がっかりして泣きながら帰ったなのではない。祈るため。 ダニエル書6:10
感謝した。不思議な男ね。目に見える現実よりも、主を仰ぎ見ることは大切だとわかったからです。結局彼は、法律によって許されていないことをしてしまったんです。 その時彼は主に叫び、祈り、すべてを主にゆだねることができたから、恐れから解放され、主をほめたたえることができた、感謝することができたのです。 彼は意識的にすべての事柄を主に申し述べました。主が必ずみ業をなしてくださることを確信したのです。 このような信頼は、決して失望させられません。不可能と思われたことが起こった。獅子は、ダニエルにあえて触れようとはしなかった。信じられないけれど、本当なんです。 私たちは、主は生きておられると毎日体験すべきなのではないでしょうか。ダニエルはそれを確信したのです。主は全部知っておられるだけではなく、主は生きておられるお方だけではなく、主にとって不可能なことはないと。 主は、主に避け所を求める人たちの人生において、主が全能者であられることを、間違いなくあらわしていてくださるのです。 私たちが、御霊によって妥協することのない、主のご支配の下にある証し人となることができたら、本当に幸せです。 ローマ人への手紙1章16節を見ると、次のように書かれています。パウロの証しです。 ローマ人への手紙1:16
もちろん福音とは一つの教えではない。福音とはイエス様ご自身です。我々は、一つの教えを宣べ伝えるべきではない。イエス様を紹介すれば、それで充分です。福音は神の力です。救いを得させる神の力です。 ダニエルとその友達は結局、この態度を取りました。彼らは主のみこころを自分の心にしたのです。かかる人々は、今日も必要なのではないでしょうか。 これらの人々は、主との交わりをなくした人々を、主との間を結ぶ帯のような役目をしているのです。これらの人々は、上から主の新しい力をいただいている人々です。 ダニエルとその友達は当時、結局、主から離れ、霊的に貧しくなり、落ちてしまったイスラエルの民のために、どこにも妥協することなく、常にとりなし続けました。眠っているイスラエルの民、信ずる者と、主とを結ぶ帯の役目をしていたわけです。 ダニエルとその友達のような人々を、主は今日も探し求めておられるなのではないかと思います。なぜならば、どうしても必要であるからです。 このダニエル書を読むと、ダニエルとその友達は同胞、イスラエルの民が霊的に貧しくなり、ダメになっていることをよく知っていた人々でした。けども彼らは、自分の考えていることよりも、大切なのはみことばは何と言っているか、とういう確信を持っていたのです。 彼らはよく当時の旧約聖書を読みました。結果として、主のみこころをわかるようになったのです。そして、主のみこころを成就するために、自らを主に捧げました。 私たちは確かに弱い。何もできない。けども、あなたのみこころだけが、我々を通してなるようにと、祈り続けたのです。 彼らは聖書に頼りました。聖書とは、彼らにとって主のみことばでした。けど、頭の知識を得るために、彼らは聖書を読んだのではない。主の思いを知るため。また、主の思いが彼らのうちに宿り、彼らはみことばによって、変えられたのです。 多くの信ずる者は、みことばを読んでも人格が変えられない。みことばがお客様のように出たり入ったりしています。ダニエルとその友達の場合はまったく違いました。 彼らは、みことばに頼ることによって変えられたのです。みことばが彼らの心の内に、主人となり彼らを支配し、彼らはみことばによって主のみこころのままに変えられていきました。 彼らはみこころを知るや、少しも妥協することなく、主のみこころを成し遂げるために祈りを捧げました。その結果は、いったい何だったでしょうか。彼らは何が起こっても、どのようになろうと恐れませんでした。火の炉も、獅子の穴も、彼らは、問題ではなかったのです。 各時代にあたって、主はかかる人々を探し求めておられます。彼らは、主のご目的に心の目が開かれた人たちでした。そして彼らは、眠っている信者と主との間を取り持つ、とりなし人となったのです。 聖書の真理をただ学び、ただ聞き、ただ宣べ伝えるだけでは何もならない。聖書の真理が、もう我々から切り離すことのできない、我々の命となっていなければならないなのではないでしょうか。 主のみこころを行っている人々、すなわち主の支配を受けている証し人は、確かに、悪魔の攻撃の真っ只中に置かれているということです。 ダニエルとその友達は、どんな具合に攻められたでしょう。 彼らの証しに対する報いは、決して生易しいものではなかったんです。妬みと憎しみと死が、彼らを襲ってきました。けど、彼らは少しの動揺も見せず、堅く立って動かず、次々とやってきた、戦いに勝利者として、勝ち進んでいったのです。 このダニエル書を見ると、六つの戦いについて書き記されています。ダニエル書1章から6章まで、六つの戦いについて書かれています。 1章に出てくる戦いは、どういうものであったかと言いますと、異邦の習慣や放縦に対する主なる神の節制の戦いです。 主の側につくダニエルとその友達は、異邦の若者より健康に勝り、知恵も十倍勝り、異邦の習慣と放縦に対して勝ちました。 考えられないことです。1章の15節 ダニエル書1:15
ダニエル書1:20
倍だけじゃなくて、3倍だけじゃなくて、10倍。ちょっと考えられないことです。 2章に出てくる戦いは、異邦の迷信と魔術に対する主の知恵の戦いです。異邦の博士、魔術師たちは、自分たちの無力さを告白し、ダニエルは、全能なる主の力により、勝ちました。主を賛美したのであります。 ダニエル書2:20-23
ありえないことが、事実になりました。 ダニエル書2:47
大変な戦いでした。ダニエルとその友達は、自分の弱さ、無力さを感じました。だから、主に頼ることによって奇跡を経験した。前よりも主を知るようになり、主を礼拝せざるを得なくなったのです。 3番目の戦いは3章に出てきます。この戦いは、偶像礼拝とまことの礼拝の間の戦いです。 異邦の王でさえ、次のように告白せざるを得ない状況になってしまいました。3章の27節から。 ダニエル書3:27-28
結局、自分の命令にそむき ダニエル書3:28-29
今まで、神と関係ない男、当時の世界を治めた男は、命令しました。すなわち、 ダニエル書3:29
どうして王様は、こういうふうに福音を宣べ伝える者になったかと言いますと、哀れにちっぽけな虜になった人々は、妥協しなかったからです。信頼したからです。 4番目の戦いは、異邦の王の傲慢に対する主の支配の戦いでした。 異邦の王は気が狂い、主の御手によってそれが癒されたとき、次のように告白するようになりました。これもすごい証しです。ダニエル書4章34節からですね。 ダニエル書4:34-37
高ぶった、高ぶって歩む者をへりくだった者にされる。これは、この王様の自分の経験でした。 主を知るようになったから、主をほめたたえたのです。考えられない奇跡です。 5番目の戦いは、主の宮の物を掠め奪う主を侮る者に対する主を恐れる者との戦いです。王ベルシャツァルは、壁に書かれた文字の意味を知り、驚いて、けどその晩死んでしまいました。 ダニエル書5:1-2
主に捧げられたものだったんです、 ダニエル書5:2-4
ダニエル書5:22
心を低くしようとしない人は、わざわいです。 ダニエル書5:23
讃えようとしなかったのです。 ダニエル書5:30
たとあります 6章にある6番目の戦いは、悪意に対する主の守りの戦いでした。 この6章は、一番よく知られている箇所です。獅子の口は主の力により閉ざされ、ダニエルは救われた。 ダニエル書6:26-27
これらの戦いは、血肉、すなわち人間に対する戦いではありませんでした。ダニエルとその友達は祈りました。主の助けを、主の導きを、主の守りを求めたのです。祈ると、主は必ず答えてくださいます。 ダニエルが祈りを始めたとき、空中を司る悪の霊が、ダニエルの祈りを潰してしまおうとして、ダニエルの祈りを妨げたのです。 ちょっと10章を見てみましょうか。 ダニエル書10:13
3週間、 ダニエル書10:13
いたとあります。 ダニエル書10:20
云々とあります。 これはもちろん、悪霊との戦いでした。けどダニエルの祈りは、地獄でさえ地獄だけでなく、天国にも届きました。 天は、天使の長ミカエルを送りダニエルを助け、勝利を与えました。 主のご目的が成就されないように、吉祥寺の上にも、激しい悪霊の働きがあるに違いない。 この恐ろしい悪霊の働きを身近に感ずるこの頃、この恐るべき現実を見つめ、主の前に立ち続け、祈り続け、やがて天の窓が開かれ、奇跡を見るまで、祈りたいものなのではないでしょうか。 もし主のみ栄えをこの目で拝し、主ご自身が、ご自分の教会を立て上げられるようにと望む者は、どんなに、何倍も熱くされた試みの炉に投げ入れられても驚きません。獅子の穴に投げ込まれても、驚きません。 けども主の助けを求める者は、主の偉大さを経験することができます。主の支配を受けた証し人は、主のみこころを自分の心とした人々、悪魔の攻撃の真っ只中に置かれている人々、この世より選び分かたれた人々です。 この世より選び分かたれた人々は、主の支配を受ける証し人です。 前に読みました1章8節を見ると、ダニエルとその友達は、王の食物を食べることによって自分を汚すまいと心に思い定めました。 王様にこのように申し述べ、王の機嫌を損ねてまで王の食べ物を食べないということは、極めて要領の悪い、駆け引きの下手なやり方なのではないでしょうか。その食べ物は、食べなれていないからと言って、言い訳もできたはずです。 何故ダニエルとその友達は、そのように心に思い定め、王に申し述べたかと言いますと、彼らは少し妥協しても、自分の証しの力が、薄れてしまうことをよく知っていて、それを恐れたからです。 もし彼らがこの世と妥協して、世人と同じに見られたいと思うなら、全能なる神が、自らを支配しておられるという証しの力が、すぐになくなってしまうことは明らかです。 結局ダニエルとその友達は妥協せず、主の道を歩むなら主のみ栄が現れていく、もし妥協するなら、み栄えは決してあらわれないということを、彼らは良く知っていたのです。 結果はどうでしょう。主は、ダニエルとその友達に、素晴らしい自身の力をお示しになりました。 ダニエルとその友達は、人の憎しみ、悪魔の憎しみに、打ち勝ち、輝かしい勝利をおさめたのです。 多くの人は世と妥協して優柔不断になり、証しの力をなくしてしまっています。この世と妥協してしまった信者を通して、主がご自身のみ栄をあらわすはずはありません。 ダニエルの時代の主に選ばれた民、イスラエルは、この世に例えられる異邦の国、バビロンに魂を売ってしまいました。 けど、ダニエルとその友達はそうしなかったのです。彼らはパウロと同じように、ガラテヤ人への手紙6章の14節のごとく言っています。 ガラテヤ人への手紙6:14
ダニエルとその友達は、絶えず主のご愛、ご支配のうちに留まり続けましたので、主の栄光は彼らを通してあらわれていったのです。 妥協せず、常に主に仕える彼らはほかの人々に勝ること、十倍ということが明らかになりました。 世より選ばれ、きよめ分かたれるということは、主と一つになり、主の恵みと力を絶えず経験する結果をもたらします。この世と妥協して、魂をどっちつかずにしてしまう者には、証しの力がなくなります。主は新しく、みたてまつることができなくなります。 妥協したキリスト者は、言い訳にパウロの言葉を自分勝手に解釈しています。すなわち、「弱い人には、弱い人になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。何とかして幾人かを救うためである。」 けど、パウロは決して妥協しなかったのです。妥協するよりも死んだ方がいいと彼は思ったのです。 この世に妥協し、軟弱な生活に慣れてしまっているキリスト者は、一つの魂も獲得することはできません。妥協は呪われます。不義と不法は、祝福を締め出します。 ダニエルの時代も、今の時代も同じでしょう。どの時代でも、悪魔が目指していることは、キリスト者を妥協させ、罪に引きずり込み、霊の力をなくし、証しの力を失くそうとすることです。 ダニエルとその友達は、汚れから身を避けました。悪魔は、自分が彼らの心を脅かすことができないことを知ると、今度は外から攻撃してきます。彼らを火の炉に投げ入れました。 主は今日、体なる教会に対する主のみこころをわきまえ知り、悪魔の攻撃が激しくとも、妥協せず、自らを捧げきる人々を求めておられます。これらの人々は、いつも主の臨在を覚え、その祈りはいつも聞き届けられます。 どんなに悪魔の攻撃に遭っても、ダニエルは勇敢に証しし続けました。主は彼に伴っておられたからです。 もし私たちが、主の全きご支配の内に自ら身を委ね、主のご栄光のみ目指して歩むなら、ダニエルの神は、我々と共に歩んでくださるに 違いない。 パウロの証しは本当に素晴らしい証しです。もう一回読みます。 ガラテヤ人への手紙6:14
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