引用聖句:ダニエル書7章9節-14節
ダニエル書7:21-27
テサロニケ人への手紙第II、1:5
人間は色々なことで悩みますし、苦しみます。だから、一番多く聞かれることなのは、「どうして?」「なぜ?」。 今、最後に読んでもらいました箇所とは、その、少なくとも、信ずる者のための答えなのではないでしょうか。 テサロニケ人への手紙第II、1:5
信ずる者 テサロニケ人への手紙第II、1:5
必要である。 今日まで、ダニエル書を通して、主はどんなに暗い環境、暗い世にあっても、信仰をもって主を証しする人々を探しておられることを、一緒に学んできました。 けど主に従って、ダニエルとその友達は、いったいどうして、なぜ、あんなにも妬まれ、嘲られ、圧迫され、誤解されたなのでしょうか。 ダニエル書1章から6章までの間には、非常に激しい戦いが書かれています。この戦いは、決して生易しい戦いではありませんでした。この戦いには、悪霊や天使のかしらも加わっていました。今日においても同じです。 地上における戦いは、天上における戦いでもあります。悪の霊の軍勢はいつも、信ずる者を攻撃して狙っています。それと共に、私たちを守る天使も、いつも私たちを守っていてくれます。 ヘブル人への手紙の12章1節、よく読む箇所ですけど、次のように書かれています。 ヘブル人への手紙12:1
走ることは大切ですけども、もっと大切なのは走り続けることです。 新約聖書の手紙とは、どうして書かれたなのでしょうか。もちろん、イエス様を紹介するためですけども、目的は、信ずる者の成長のために書かれています。どうして救われたのか、主は何のために用いようと望んでおられるかについてです。 主にエペソ人への手紙の中心なるテーマとはもちろん、イエス様の体なる教会です。 エペソ人への手紙3:10
明後日じゃない。再来年でもない。今、 エペソ人への手紙3:10
主に属する兄弟姉妹を通して、 エペソ人への手紙3:10
とあります。 そして当然ですけど、戦いについて6章の12節に書かれています。 エペソ人への手紙6:12
すなわち、人間に対する、目に見える世界 エペソ人への手紙6:12
とあります。私たちも、ダニエルやダニエルの友達のように、この世と妥協せず、主に従おうとすると、彼らと同じように激しい攻撃に遭わされるに違いない。何倍も熱くした火の炉の苦しみ、また獅子の穴に投げ込まれるといった死の谷の陰を歩まされるでしょう。 信ずる者の多くは、人に言い表せない、隠れている苦しみや問題をがあります。なぜ、このような問題や苦しみがあるなのでしょうか。 みことばの答えは、今、話したように、テサロニケ人への手紙第II、1章5節に書かれているように、神の国にふさわしい者とするため、とあります。 使徒たちはもちろん、同じ事実をいつも強調しました。 使徒の働きの14章の22節を見ると次のように書かれています。236ページです。 使徒の働き14:22
ほかの道がない。 今話したように、ダニエル書1章から6章までの、あの激しい戦いが何故必要だったか。7章を見るとわかります。7章の13節、14節をもう一回読みます。 ダニエル書7:13-14
とあります。ここで、「見よ。人の子のようなものに主権と光栄と国とを与えられる。」と書いてありますが、ここで言っている、人の子のようなものとは、言うまでもなく主イエス様です。 イエス様の御国のご支配は、永遠から永遠に続いています。イエス様はマタイの福音書の中で、よくこの国について話されました。24章の30節を見ると次のように書かれています。 マタイの福音書24:30
これはもちろん空中再臨ではなく、空中再臨の後のイエス様の公の再臨を意味しているのです。 マタイの福音書26:63-64
イエス様は、こういうふうに証した結果として、あいつは悪霊に憑かれている、殺しましょうということになったのです。 ヨハネの黙示録11章15節見ると、次のように書かれています。 ヨハネの黙示録11:15
もちろんこれは、将来に対する預言のことばです。 なぜ、我々の毎日の生活には、そんなに隠された悩みや苦しみがあるなのでしょうかね。それは、イエス様のご支配が、全宇宙にあらわれるためです。主のみこころにかなう者が永遠に残り、みこころにかなわない者は、苦しみの炉によって精錬されるためです。 今まで、私たちが通らせられた悩みや病の苦しみ、理解できなかった導きの意味が、わかるはずです。ダニエルは言ったのです。 ダニエル書7:13-14
主が全宇宙を支配なさることが問題であるばかりでなく、我々も主と共に支配しているかどうかが問題です。 私たちも主と共に支配するということは、主が我々を召して、そうさせようとしておられることです。 ですから、このダニエル書7章の27節に書かれていますね。 ダニエル書7:27
信ずる者 ダニエル書7:27
聖徒に与えられるとあります。 ダニエル書7:27
とあります。また、 ダニエル書7:22
ここに、2回「聖徒」「聖徒たち」という表現が出てきます。 将来にもいろいろなことが起こるでしょう。戦いがあり、悩みも、苦しみも起こるでしょう。それはみな、私たちが、主の御国にふさわしい者となるために起こるのです。 主イエス様と共に支配するのにふさわしい者となるためです。これは、私たちがどんな悩みの中にあっても、喜ぶことのできる大きな望みです。 将来、私たちを待ち望んでいるものはいったい何でしょうか。我々を待ち望んでいるものは、不確かなものではない。不安と滅びでもない。主と共に支配するという素晴らしい事実が、我々を待っているのです。 けど、どういう人々が、主に召された召しを全うするなのでしょうか。また、どういう人々が、主と共に支配するようになるなのでしょう。 ダニエル書7章に「人の子」イエス様が、永遠の主権と権威を持ち、ご自身に属する聖徒たちと共に、その御国を支配することが書かれています。 そして、ダニエル書1章から6章までには、この永遠の御国を主と共に支配するにふさわしい人々は、どんな人々であるかが書かれています。 私たちも、主と共に永遠の御国を支配するものになりたいなのではないでしょうか。 前に考えたんですけど、ダニエル書1章には、聖さについて書かれています。もう一回、1章8節を読みます。 ダニエル書1:8
とあります。ダニエルは汚れたものを、すなわち偶像に捧げられたものを食べて、自分を汚すまいと心に思い定めたと書いてあります。 ダニエルは、律法的な命令からそうしたのではありません。御霊に教えられてそうしたのです。ダニエルは万難を排して、主に従っていこうと心に思い定めたのです。 私たちの心もそのように決心しているなのでしょうか。私たちは、人を恐れず、ひたすらに主に従っていこうと心に思い定めたなのでしょうか。 もし、そのようにまったく主に従おうと思い定めますと、御霊は、我々の心の深くに、何が良いか悪いか、何がきよいかきよくないか、また、何が妥協であるか妥協でないかを、必ず教えてくださいます。 霊がきよいということは、最も根本的なことです。ですから主は、一番最初にこのダニエル書1章で、霊の聖さについて述べておられます。 このダニエル書1章を、あまり注意しないで通読しますと、これはあんまり深い問題ではない、表面的な、またダニエルのまったく個人的な問題だととられるかもしれない。21節を見ますと、 ダニエル書1:21
と書かれています。これは、王は次々と変わっていったんですけど、ダニエルは変わらずに仕え続けたことをあらわしています。 どうしてでしょうか。 それは、ダニエルが聖さを保ち、節制に努め、妥協せずに証しをし続けたからです。誤解や迫害や憎しみが数限りなくダニエルを襲いましたけど、王が変わってもダニエルは堅く立ち続けました。 なぜ多くの信ずる者は、喜びを持って信仰生活を始めたのに、途中まで行って、みことばを読み、祈りをすることの喜びを失ってしまい、霊的に後退してしまうなのでしょうか。 主に対する心の態度が、定めていなかったからです。何があっても主に従い、主に仕えていこうという決意がなかったからです。 霊の聖さを持つことは、誰にも可能です。必要だけではなく、可能です。ダニエルは、それを自分のものとしました。1章の9節。 ダニエル書1:9
もちろん、祈りの答えとして。 ダニエル書1:14
ダニエル書1:16
とあります。たぶんダニエルは、自分は果たしてこの世にあって、少しの妥協もなく、聖さを保っていけるだろうかという疑問を持ったことでしょう。 ほかの人々は、世と妥協して、見せ掛けだけの祝福に満足しているのに、なぜダニエルだけが妥協せず、聖さを保っていくことができたなのでしょうか。 その当時の世界の支配者に逆らって立つことは、おそらく不可能なことでした。もし、そのようなことをすれば、それこそ命に関わることでした。ダニエルは誰がなんと言おうと、主に従おうと決意を固めていたのです。 だから、要領よく、うまい具合に世を渡るなどということは、できなかったのです。このように、身も心も捧げて、委ねきったダニエルを主は見放さなかったのです。もちろん、守っていてくさったのです。 ダニエルは、異邦の宮殿で主に仕えて、しかも聖さを保って生きることを身をもって体験しました。 あなたが、今もっている悩みや苦しみが、どんなものであろうと、今、主にすべてを委ねて従おうと、ダニエルのように決心し、一歩を踏み出すなら、驚くべき主の祝福を経験するに違いない。 この世の汚れに染まずに、身を聖く保つには、主に従順に従う以外に方法がありません。霊の聖さを持つことは最も大切です。それから、霊の聖さを持つことは、誰にも可能です。 もう一つ、霊の聖さは、恵みをもたらします。 ダニエルは、バビロンに捕らわれていながら、汚れに染まなかったばかりでなく、ほかの者よりすぐれた者と書かれていますね。1章の15節。 ダニエル書1:15
ダニエル書1:20
考えられない奇跡です。信仰をもって従順に従っていきますと、驚くべき祝福が伴います。 主にすべてを捧げ、世と妥協せず、歩むものは決して悔いることがありません。 私たちも、ダニエルのように、主に従い、限りない主の恵みに預かる者になりたいなのではないでしょうか。 主のみこころを知ろうと思うものは、節制して、霊の聖さを保たれなければならない。多くの人々は、自分の知っている人々を思い、自分の愛する、また尊敬する人々の心を思って、主にすべてを捧げることをしないので、主のみこころがわからないままです。 これは、多くの信ずる者が、主のみこころを知ることのできない原因です。 ダニエルは、結果がどうであろうと、どこまでも主に従っていこうと決心したのです。 パウロは、かつてのコリントにいる兄弟姉妹に次のように書いたことがあります。 コリント人への手紙第II、7:1
イザヤは主に向かって、次のように叫ばざるを得なかったのです。「ああ、私はもうダメだ。私は汚れたものです。」と。 汚れとは、自らの力と聖霊の力が混じりあっている状態です。聖さとは、完全に聖霊の支配の下に入ることです。 私たちは、「私は汚れたものです。主よ、私から離れてください。」と言わないではいられない状態ではないでしょうか。私たちは、主が「わざわいなるかな。」と自らの状態を見て、叫びましたことがあるなのでしょうか。そこまで、進んでいるなのでしょうか。 そのイザヤ書の証しを、ちょっと読みましょうか。6章の1節から。 イザヤ書6:1
私は主を見た。 イザヤ書6:1-8
主と共に永遠の国を支配する人々は、今まで述べてきましたように、まず、霊の聖さをもっていなければならない。 二番目に、見分ける力が必要です。主の支配する世界と、悪魔の支配する世界があります。これは主に属し、これは悪魔に属すると見分ける力を持つ必要があります。 この二つの世界の真中に立って妥協するとき、霊的ないのちがなくなり、力がなくなります。 残念ながら多くの信ずる者は、二つの国を見分ける力がなく、力を失くしてしまっています。 一つの実例は、ペテロかも知れない。マタイの福音書16章の23節を見ると、次のように書かれていますね。 マタイの福音書16:23
愛するペテロ、弟子に言われた。 マタイの福音書16:23
もしイエス様が、今おいでになったなら、このように言わなければならない信ずる者が、なんとたくさんいるなのではないでしょうか。 この区別は、二つの世界を見分ける力は、どんなに頭で考えても、議論しても、私たちのうちに生まれてこない。これはただ、祈りのうちに与えられる力です。 祈りの人であるダニエルは、初めて、主の秘密を解くことができ、ダニエルの鋭い感覚の源はこの祈りにあったのです。ダニエル書に戻りまして、2章の47節を見ると次のように書かれています。 ダニエル書2:47
王様は、それを認めざるを得なかったのです。 主は秘密をあらわされるお方です。主はご自身の秘密を、しかし、ただ祈りの人だけに教えてくださいます。 我々にも、この世と教会、主の体なる教会を区別する力があるなのでしょうか。 主の教会は、地に着ける異邦的な一つの制度ではありません。イエス様のからだなる教会は、まったく天に属するものです。 私たちは、人の名誉がもてはやされ、人間的な判断が尊ばれているこの世の支配から、まったく救い出されているなのでしょうか。 かつてのパウロは、人間に認められたい、尊敬されたい気持ちでいっぱいでしたけど、イエス様に出会ってから、彼はまったく変わり、違う態度を取りました。よく引用するガラテヤ人への手紙1章10節は、彼の証しです。 ガラテヤ人への手紙1:10
救われていても、用いられ得ない。私たちは、この二つの世界の力を見分ける力が必要です。それなくして、イエス様と共に永遠の御国を治めることは、あり得ない。 日々の生活において、主にまったく従順に従い、どんな小さなことがらにおいても従っていくなら、この霊的に鋭い感覚が養われていきます。 エペソ人への手紙の5章10節に、一文章だけですけど、次のように書いています。 エペソ人への手紙5:10
コロサイ人への手紙1章9節から、パウロは、確かに主の恵みによって救われた人々に書きました。 コロサイ人への手紙1:9-10
こういうふうにパウロは、もうすでに救われた人々に祈り、戦い続けたのです。 今見ましたように、ダニエル書1章には、聖きの大切さについて書かれています。2章には、見分ける力の必要性について書いてありますが、3章には、霊的な判別力を持った人々が、どんな人であるかが書かれています。 その人は真実な人です。主に真実を傾けて、充分に従う人に、この素晴らしい真実という賜物が与えられます。 ダニエルとその友達は、自分たちが、今住んでいるバビロンの国は、必ず滅んでいってしまう。しかし、自分たちが仕えている主の国は、永遠に留まるということを知っていて、確信しました。見分ける力があったからです。 だから彼らは、永遠なる主だけを慕い、真実を尽くしてこの主に従ったのです。 彼らは、二つの力を見分ける力をもっていましたから、自由な人々でした。不安、心配から解放された人々でした。 彼らが目指していたのは、永遠に続く主の国だけでした。ですからどんなことが起ころうと、真実を尽くして主に従っていきました。その結果は、いろいろな試みにも遭うことがあった。 ある時は、火の炉に投げ入れられ、ある時には、獅子の穴に投げ入れられるという激しい試練に遭いました。 ダニエルの友達は、間違いなく、ダニエルを指導者として仰いでいました。1章では、ダニエルは身を汚さないように、王の食べ物を食べないように、友達のために話したのです。彼は、彼らの代表者のような者でした。 2章では、やはりダニエルが友達に夢の解き明かしを教えていました。けど、3章を見ると3人の友は、ダニエルなしに火の炉に入らなければならなかったのです。 3人は、きっと寂しかったに違いない。一人ひとりが、個人的に主に忠実に従っていくようになるためには、この試みが必要だったでしょう。 ダニエルの友達は、激しい試みの中でどうだったなのでしょう。少しも動揺しなかったのです。3章の18節ですね。 ダニエル書3:18
3人は激しい試みの中で、どうだったでしょう。少しも動揺しませんでした。たとえ火に焼かれようとも、主に真実を尽くして、従っていったのです。 なぜ3人がこれができたなのでしょうか。彼らは、この世のものはみな虚しく、神の国のみ永遠に続くことをよく知っていたからです。 私たちも、滅びるものと、永遠に留まるものを見分ける力をもっているなら、ただ上のものだけを求めるはずです。ピリピ人への手紙の中で、パウロはこの事実について、次のように判断しました。 ピリピ人への手紙3:12-14
罪の赦しを得るためではない、主の恵みに与るためではない、栄冠を得るために、私は一心に走っている。イエス様によって捕らえられた者として。 ダニエルの友達が通された試みは、ちょっと考えられないほどの激しい試みでした。 3章を見るとバビロンの総督、長官はじめ偉い人々、全部、全国民が偶像を拝み、拝むときにあらゆる楽器を使ったことがわかります。この世のものは一つになって、主なる神にに背いていることがわかります。 今日においても同じです。総督や長官など偉い人の意見に従い、それにへつらって、賛成すると言った人々ばかりでした。ただ主のみを仰ぎ見、主のみこころを断固として行う人は、あまりいないなのではないでしょうか。 悪魔は、ダニエルの友達を、初めから火の炉に投げ入れようとは、思っていたのではないでしょう。初めは、ただ3人の友をこの世に妥協させようと思っただけに過ぎなかったのです。 もし、彼らがこの世の霊に妥協するなら、自分の勝利であることを悪魔は、充分心得ていたからです。火の炉は、3人を霊的に殺してしまおうとする悪魔の最後の試みでした。 悪魔は全イスラエルの民に対して、その目的をほとんど達していました。イスラエルの民は、ほとんど霊的に死んでしまっていたのです。彼らはただ形式的に偶像を拝み、それで心を安んじていたのです。 けど、ダニエルとその友達は、あくまで主に忠実に従い、悪魔がどんなに力をもって攻撃しても大丈夫だ、という主にある勝利を経験したのです。 私たちも、悪魔はこれから、いろいろな方法を持って、何とかして、この世の霊に従わせようとして、攻撃してくるでしょうけれど、それに耐えて、主に忠実に従っていきたいものです。 ペテロも、そういう気持ちでいっぱいだったから、当時の信ずる者に次のように書きました。ペテロの手紙第Iの4章12節です。 ペテロの手紙第I、4:12-13
この箇所を見るとわかりますが、すなわち初代教会の兄弟姉妹にとって激しい試みは、決して珍しいものではありませんでした。簡単にこの世のやり方に妥協し、この世の流行を追い、この世の名声を追うキリスト者を、イエス様は慰撫からの思いをもって見ておられます。 妥協していきますと、主のために苦しむことが少なくなる。けど、主と共に支配する者とは問題です。もう一回、テサロニケ人への手紙第II、1章5節を読みます。 テサロニケ人への手紙第II、1:5
とあります。主の臨在を失い、そればかりでなく将来、我々の上に与えられる驚くべき主のご栄光を取り逃がすならば、本当に悲劇です。 もう一箇所読んで終わります。歴代誌第IIの16章9節。 歴代誌第II、16:9
私たちはこのような者なのでしょうか。 |