十字架につけられた救い主イエス様


ベック兄

(吉祥寺学び会、2012/07/03)

引用聖句:コリント人への手紙第I、1章23節-24節
23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

コリント人への手紙第I、2:2
2なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

ガラテヤ人への手紙6:14
14しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

今読んでくださった内容は、十字架につけられた救い主であるイエス様です。マタイの福音書の中で1章21節ですけれど、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」、イエス様とは罪から救うお方です。
このイエス様に出会ったパウロは、決心しました。「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した。」と言ったのであります。
最も大切なのは、それなのではないでしょうか。

今日、私たちが周囲を見ると、人類には何か正常でないものが、恐ろしい予感とともに感じられるのではないでしょうか。すなわち、国々の悩みが我々にそれを物語っています。例えば、解決のできない経済問題、訴訟問題、精神病院、刑務所、家庭における困難な問題がそれです。これは、正常ではありません。
私たちが、個々の人に会う時、これと同じことを知ります。すなわち、個々の人々も正常ではない。情欲、憎しみ、腹立ち、不純、嘘、利己心、これらのものが人間を醜くしています。
けれど、正常でないのは他の人々だけなのでしょうか。もし自分が、よく考える時、心の中に自分も正常でないということに気づくでしょう。そして自分は、この正常でないことを他の人々に隠したいのであり、自分にも隠したいのです。

ですから、一人でいることができず、静かに話すこともせず、テレビやラジオや付き合い、それから気晴らしを好むのです。けれど、黙ることのない声が絶えず響いてきて、「それは正常でない」と私たちを打ちます。
何が正常でないのでしょうか。我々の生活と全人類の常識はずれは、何のためなのでしょうか。それには沢山の説明がなされています。すなわち、「経済恐慌のせいだ、文化や芸術のせいだ、他のせいだ」などといろいろあります。
このように示されるいろいろな解決を持ってしては、私たちには少しも解決とはならず、前進できないのです。我々に権利をもって何が正常でないかを言うことができるのは、天と地の創造主である主なる神だけです。主なる神が、世界と人間を造られたので、主のみが、何が聖所でないかを知っておられるのです。

主なる神は、我々にはっきりと明確に言います。

箴言14:34
34正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。

今日の世界は、主なる神が計画された世界ではない。今日の人間は、主なる神がご計画になった状態ではありません。主なる神が、天と地を造られた時、主の欺かれない神聖な判断は、天と地を見て、非常に良いとされたのでした。すなわち、すべてが正常でした。
今日は、何とその反対のことでしょう。主のことばは、今日の人類を判断して、ローマ人への手紙3章12節です。「善を行なう人はいない。ひとりもいない。」とあります。
内容的には同じことばですけれど、2,600年前イザヤの書いた箇所です。

イザヤ書1:5-6
5あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
6足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

私たちは、心からそれは正しい、本当のことだと認めなければならないのではないでしょうか。
今我々が、人類を眺める時、誰かがすばらしい完成された絵にインクをぶちまけ、すべてがダメになったように思われるのであり、またすばらしい交響曲の真っ只中に、すべてを壊し、めちゃくちゃにするひどい音を入れるかのように、そんな状態に思われるのです。
完成された主なる神のものであったこの世は、どうして今日の悩みと苦しみと罪の世界になったのでしょうか。誰のせいでしょうか。この質問に対しても、主なる神のことばである聖書は、我々にただ一つの正しい明確な答えを与えています。

ローマ人への手紙5:12
12そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

第1の人、すなわちアダムは主なる神を捨て、悪魔に手を差し伸べたのです。アダムは神から離れ、悪魔の味方になったのです。この悪魔は、人をしっかりと押さえて離さず、人に権力を持っているのです。
悪魔は、人間に要求する権利を持っています。なぜなら人間は、勝手にこの要求権を悪魔に与えたのだから。そしてすべての人間は、今や生まれつき神から離れ、悪魔の魔力の内に住んでいるのです。神とのいのちの繋がりは、断ち切られています。
潜水夫が担いでいる酸素吸入器の連結が切れれば、潜水夫は呼吸することができなくなると同様に、人間の性質もまた、主なる神との繋がりが切れると、呼吸することができなくなるのです。ですから非常に多くのことがもはや正常ではなくなっています。

人間はもはや主なる神を知らず、人間はもはや主なる神の御心を行なわず、人間はもはや主なる神との交わりを持っていないのです。これはすべてのことを明らかにしています。
人々は、計画や仕事や決定をみな自分で行ない、気ままに行動し、もはや主なる神に尋ねることをしません。けれど人間は、一つの呼吸すら主なる神なしでは行なうことがはきない。主なる神なしに生活するということは、個々の人々、家庭および国々の最も恐ろしい罪です。
もし、主なる神が実際に生きておられる永遠の神であり、私たち造られた者すべての上にある主であるならば、そして御手のうちに私たちが逃れ得ない者であるならば、将来はどうなるのでしょう。

すべての人間は、偉大な創造主なる神があるということを、生まれつき知っています。その神は、石に住んでいると思う人もいるし、また木に住んでいると思う人もいます。また神はいないと言う人もいますけれど、無神論者の憎しみが神がいるという、最も強い証明となっています。
なぜなら、何もないものを憎む必要はないし、何もないものに反対する必要がないからです。
主なる神はおられます。このことは、人間はみな知っています。

イザヤ書44:6
6イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。

この神は、天と地の創り主です。このただ一つの神に対して、私たち人間は債務を持っています。そのことも人間は知っています。もしも、この神聖なる生きておられる全能なる神に、私たちが敵対するなら、私たちは滅ぼされます。ローマ人への手紙6章23節「罪から来る報酬は死です。」とあります。
神は、ただ一人です。けれど非常に多くの偶像があります。たとえば、この国は800万の偶像がある国として世界に知られています。
私たちは、イザヤ書に書かれた者に似ていないでしょうか。非常に面白い箇所です。

イザヤ書44:12-20
12鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
13木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。
14彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。
15それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
16その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
17その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。
18彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。
19彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。
20灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。

何と多くが、木の端くれの前にひれ伏すのではないでしょうか。我々の拠り所は、何なのでしょうか。主なる神から離れることは、永遠の滅亡という刑罰と科せられることです。すなわち、罪を犯した魂は、必ず死ぬ。
エゼキエル書18章に書いてあります。「罪を犯した魂は死ぬ。」、この刑罰は、背負われなければなりません。これは私たちの人間的正義感にも言えることでしょう。
泥棒が自分の罪を告白したら、それで充分でしょうか。もし、彼が後悔したらそれで充分でしょうか。そうではない。彼は刑罰を受けなければなりません。刑罰を済ませて初めて彼は、自由の身となります。裁判官の同情や愛情や理解が、彼を救うのではなく、刑罰を済ませることのみが、彼を救うのです。

主なる神の義は、死の判決の執行なしには、罪を赦すことはできません。罪人は死ななければなりません。けれど主なる神の愛は、罪人が死ぬことを欲せず、神の愛は、罪人を救いたいのです。
けれど、主なる神の義と主なる神の愛は、どんなにしてお互いに一つになることができるのでしょうか。主なる神の愛は、世界が始まる前、すなわち人間に罪が入り込む前に、その答えを見いだしました。すなわちイエス様が、父なる神の答えです。
父なる神ご自身は、一人子なる神であるイエス様に刑罰を背負わせたのです。それは罪人が自由の身になり、生きるためです。これは救いの驚くべき秘密です。

ローマ人への手紙8:32
32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

罪のない主イエス様は、人類のための代表者です。父なる神により、イエス様はこの世の罪を受けました。どんな重荷なのでしょうか。一人の人間の債務は、いかにその者を押さえつけることでしょう。
一つの街たとえば東京の人間の罪の債務は、何と恐ろしく重いことでしょう。また一つの民族、あるいは全人類の罪の債務も同様です。世界のこの債務の中には、強盗の罪、神を失っている人々の恐怖、押し込めてしまった人間の不純などがあります。
聖なる神の御子が、すべてご自身の上に背負われました。生まれたすべての人間は、イエス様の死の原因です。すなわちイエス様は、数百万の人々のために、死を背負われました。イエス様は、すべての人のためにお亡くなりになりました。

イエス様の上には、自分の罪ももちろん置かれているのです。イエス様は、人間がたぶん少しも知らないで過ごす、すべての罪を自分の重荷として担ってくださったのです。
預言者イザヤはすばらしい言葉をつかって、イエス様における主なる神の愛の奇跡を描写しています。よく知られている箇所です。

イザヤ書53:4-5
4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちは、聖いそして聖なる主イエス様が、人類の罪を背負い、神を退けた刑罰をお受けになったということを、少ししか予感することができません。
イエス様が次のようなことばを十字架で叫ばれた時が、イエス様の最も苦しい時でした。すなわち、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」、と叫ばれた時です。これはイエス様が、父なる神から見捨てられることを恐れ、おののいた瞬間でした。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という十字架の質問は、罪人だけが答えることができます。なぜなら罪人は、自分の刑罰をイエス様が私たちのために背負われたということを知っているからです。

いのちの君である主イエス様は、確かに十字架で死なれました。主の確かなしるしは、すなわちもし血が流される時、いのちはなくなるという所にのみあります。
ですからイエス様の血潮は、流されねばならなかったのです。

レビ記17:11
11なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

与えられたいのちのしるしは、十字架ではなく血潮です。ですから私たちは、十字架によってではなく、イエス様の血によって罪の赦しを得たのです。血潮は、執行された死刑のしるしであり、執行された裁判のしるしです。
ですから、主なる神のみことばは、我々に非常にはっきりと次のように言っています。ヘブル人への手紙9章22節「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」
そしてヨハネは次のように言ったのです。「御子イエスの血は、すべての罪から私たちを清めます。」、ヨハネの手紙第I、1章7節ですね。

イエス様の血潮の中には、どんな力があるのでしょう。この血潮は、地上と天において、今まで罪が全然なかったかのように、その罪をぬぐい去ることのできるただ一つの力です。この血潮は、主なる神でさえ見ることができないほど、きれいに罪をぬぐい去る驚くべき力を持っています。
イエス様は、罪の大きな債務のために、その支払いとしてご自身の血を与えられました。ですから、イエス様だけが次のように言うことができたのです。「あなたの罪は赦された。」と言うことができたのです。
債務を支払った者だけが罪から解き放たれるのです。イエス様の血は、すべての罪を覆うことができるのです。あなたが、いかに深く罪の中に落ち込んだとしても、またその傷がいかにただれても、いかにその罪が醜くても、あなたはイエス様の血によって癒され、全く新しい人間になることができます。

イザヤ書1章18節、多くの人々が、大好きになったことばの一つです。主のあらゆる人間に対する呼びかけです。

イザヤ書1:18
18「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

イザヤ書43:25
25わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

イザヤ書44:22
22わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

イエス様は、ご自身の血を流されました。ですから主の恵みは、罪の赦しを私たちに与えているのです。

マタイの福音書26:28
28これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

「わたしの血」それはあなたのために流されたのです。あなたは、イエス様にどう答えたらいいでしょうか。イエス様は、あなたの罪を背負われました。イエス様の血は、あなたのために流されたのです。
あなたは、今までにそのことをイエス様に感謝したことがあるでしょうか。イエス様はすべてを成し遂げられました。イエス様の贈り物は、条件つきではありません。あなたは、その贈り物を受け取るという、ただ一つのことができるだけです。「受け取りなさい。信じなさい。」
しかし、ある人は言うでしょう。「私は、初めに私の全生活を整えなければならないのではないでしょうか。初めにすべてを再び良くしなければならないのでしょうか。」、もしあなたが、このようなことを出来るならば、あなたは救い主なんて必要ない。罪の赦しはタダです。本当に条件は一つもありません。

けれども主なる神より罪の赦しを得た者、そして主なる神と会う聖なる時を体験した者、また恐ろしい重荷から解き放たれたということを経験した人が、他の人にそれを告白しないではいられなくなり、自分の生活を整えざるを得なくなり、そして罪を償おうをするのです。
けれど、これらすべては、罪の赦しの条件ではなく、結果です。私たちはみな、罪の赦しの確信を持っているのでしょうか。もしそうでないなら、今イエス様の前に静まりなさい。イエス様は、あなたに今すぐ罪の赦しをお与えになるのです。
そしてあなたは、イエス様に「主イエス様よ。あなたが私のために死んでくださり、私の罪をお赦しくださいましたことを感謝いたします。」と言いなさい。

あなたの罪を負う者としてのイエス様の血を、あなたが受け取るのを妨げているのは何でしょう。
あなたはイエス様の血潮を理解することができないでしょうか。
あなたがイエス様の血を理解することが必要なのではなく、あなたは生きている神のみことばを信じることが必要です。

イエス様の血は、罪を贖うことができます。この事実がイエス様のことばを保障しています。それで充分です。
たくさんの言葉を私たちは理解していません。それでも私たちはそれを信じます。たとえば、電気とは何ですか。いのちとはなんでしょうか。私たちは、理解することができない。それともあなたは、最初、感じ、経験してそれから信じたいともでも言うのでしょうか。もしそうしたら、あなたの感情の上に立った信仰は、海の波のように揺れ動いて静まらないでしょう。
もし船を動かないようにするためには、いかりを甲板の上に投げ入れたのではダメ。いかりを船の外の岩の底に投げればなりません。

その岩の底は、しかしながら我々の経験ではない。神のみことばです。
あなたは、この結果を恐れるでしょうか。もしもあなたが、イエス様の手から罪の赦しを受け取るならば、あなたはイエス様に疑問を持つことになります。そして他の人々は何を言うでしょうか。
あなたがもしも、イエス様に従って行くなら、あなたの生活は、みな変わるに違いない。それを不安に思うのでしょうか。けれどもしあなたが、恵みを逃がしたなら、あなたの死の時、いったい誰があなたを助けることができるのでしょうか。

今あなたが、あざけり侮られることを恐れているその人たちのうちの誰かが、あなたの罪の債務を支払ってくれるのでしょうか。もしもあなたが、罪の不安に苦しめられている時、それらの人々があなたに「それは、お前のせいだ。」としか言えないのではないでしょうか。
あなたは今、人々を恐れ、そのためにその後で永遠に後悔しなければならないのなら、それは全く馬鹿げたことです。
あるいは、あなたが意識して、またよく考えた上で「いや私はそう思わない。私は一人で生きていける。自分はイエス様の血潮を必要ない。」と言うならば、それは身の毛もよだつような答えです。

もしそうすれば、あなたはいつか燃えるような目を持ち、その腹立ちは恐ろしい、また地獄に滅ぼす力を持っておられる真の神の前に立つでしょう。あなたはその時、自分の債務を自分自身でどうして払おうというのでしょうか。
イエス様の救い以外に真の救いはありません。
イエス様の血を受け取らなかった者は、永遠に滅ぼされます。十字架につけられたイエス様による救いを知っていながら、それを認めない者は、永遠に滅ぼされます。

救いの道は、ただ一つです。イエス様は次のように言われています。「わたしは道である。誰でもわたしによらないでは父のみもとに来ることはできません。」
私たちはどうしてイエス様を信じるようになったのでしょうか。もちろん説明がない。主はあわれんでくださったからです。
イエス様は、本当にあわれんでくださるお方であり、このイエス様を信じる者は、全部このイエス様にゆだねられる者は、決して決して失望させられません。




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