罪人の友


ベック兄

(吉祥寺学び会、2013/01/15)

引用聖句:ルカの福音書7章24節-35節
24ヨハネの使いが帰ってから、イエスは群衆に、ヨハネについて話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
25でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。
26でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。
27その人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。
28あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。
29ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。
30これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。
31では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。
32市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』
33というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』とあなたがたは言うし、
34人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。
35だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」

今の読んでもらいました箇所は、本当にすばらしい箇所なのではないでしょうか。イエス様の敵は、いつもイエス様を罪人の仲間だと呼びました。もちろんその通りです。すばらしい真理なのではないでしょうか。
今の34節もう一回読みます。

ルカの福音書7:34
34人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。

ルカの福音書7:39
39イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。

ルカの福音書19:7
7これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言って

喜んだのではなく、

ルカの福音書19:7
7つぶやいた。

他の似ている箇所はいっぱいあります。

ヨハネの福音書8:11
11彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕

イエス様は、裁こうとはしなかったのです。

ヨハネの福音書15:13
13人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

パウロもローマ人への手紙の中で、

ローマ人への手紙5:8
8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

パウロも何回も証ししました。けども彼の証しの中心は、いつも同じようなものです。「キリストは、罪人を救うためにこの世に来られたということばは真であり、そのまま受け入れるに値するものです。私は、その罪人のかしらです。」
イエス様は、罪人の友であると聖書は強調しています。この主イエス様は、全人類の罪を己が身に引き受けるために、罪人と一つになられました。
もし私たちが、罪人であると認めるならば、私たちはイエス様の友です。

イエス様は何というすばらしい友でありましょうか。罪人のためにのみ、すばらしい福音があります。
主なる神が、ご自分について仰ったことを認めるべきです。そうしたら、イエス様を友として迎えることができます。
主なる神は、すべての人は罪人であると言っておられます。もし私たちがそれを認めるならば、その時主は我々の友となります。

私の出た神学校の創設者は、非常に頭のいい男でした。けど死ぬ寸前、妻に大喜びで「私は一つの詩を作った。」と言ったのです。この方は本当に頭がいい人で、7ヶ国語を流暢に話すことができたんです。
けども彼の作った詩は、とっても簡単な詩でした。奥さんはもちろんいぶかって、どんな種類の詩なのだろうかと言いました。その詩は確かに簡単なものです。
次のようなものです。
「主イエスは、私を友と呼んだ。私を友と呼んだ。主イエスは、私のためにゴルゴタで亡くなられた。イエスは私を友と呼んだ。」

この詩は、確かに大変簡単ですけど、このように言える人は、最も幸福な者なのではないでしょうか。この方は、死の前に、死の直前に「私は、イエス様を見、主イエスの声を聞きます。主イエスの血潮による罪の贖いは、栄光の冠です。」と言いました。
イエス様は、もうすでに私たち一人ひとりの友となっているのでしょうか。イエス様は、どんな友なのでしょうか。
まずイエス様は、辛抱強い友です。パウロは、イエス様の忍耐を体験しました。パウロ自身のことばを読みましょうか。

テモテへの手紙第I、1:15-16
15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
16しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

とパウロは、もちろん感謝しながら喜んで言えたのです。
パウロは、イエス様の忍耐を褒め称えました。彼は、罪人のみがイエス様の忍耐を経験することができる、また罪人どうしようもない人間のみが、主の忍耐を経験することができると書いたのです。
パウロは、信者のために祈り、テサロニケ人への手紙第IIに書いたのです。

テサロニケ人への手紙第II、3:5
5どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。

私たちは、イエス様の再臨を待ち望んでいます。
しかし、なぜイエス様は今までお出でにならなかったのでしょうか。答えはペテロの手紙第IIに書いてあります。

ペテロの手紙第II、3:9
9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

主はどうしてまだ来ていないか。すべての人が導かれ救われるために待っておられます。
イエス様は、父、母、親戚、知り合いの人々を救いたいために、今日まで、まだお出でにならなかったのです。

イエス様は、忍耐強い友です。私たちは、しばしば忍耐強くなくなります。私たちが愛している人に対してさえそうなのではないでしょうか。
他の人々は、我々に対して忍耐を持っていないかもしれない。イエス様は、決して焦ったことはありません。いつも忍耐強くあられますから、私たちがどんな心の状態で、イエス様の前に出ようとかまわない。
イエス様の釘を打たれた御手は、いつも涙をさそいます。イエス様は、私たちに対していつも忍耐強くあられました。そして私たちは、イエス様の忍耐を考える時に、より忍耐強くあることが出来ます。イエス様は、忍耐強いお方です。

2番目、イエス様は、力強い友であられます。
多くの友を持つということは大切ではないでしょう。けど誰が友であるかということは、考えられないほど大切です。イエス様は、私たちが考えているより以上の力強いお方です。イエス様は、我々に約束されたことを、必ず与えることのできるお方です。イエス様は、我々にお与えになったものを守ることがお出来になります。
イエス様にとって、不可能なことはない。完全に救うことができると、ヘブル書の著者は書いたのです。イエス様は、我々の代弁者でもあります。また我々の代表者でもあられます。イエス様は、何という力強い友でありましょうか。イエス様が地上におられた時、ご自分でその力を証明されました。

イエス様は、盲人の目をあけました。イエス様は、悪霊に話し、悪霊は逃げました。イエス様は、死んだ人を呼び再び生かされました。イエス様は、海と風に命じ、静められました。最も偉大な行ないをイエス様は、小羊として完成されました。
イエス様の流された血は、今日、なお同じ力を持っておられます。罪人を聖なる神と和解させる力を持っておられます。私たちは、聖なる神のもとへ出入りすることを許されています。これは最も偉大な奇跡なのではないでしょうか。
救いは、最も偉大な奇跡です。悪魔の奴隷が、神の子となるのです。イエス様は、我々の債務を一蹴になさいました。ですからイエス様は、我々を救う力をお持ちになります。

イエス様の恵みは、ただ自分の債務を認めた人のためにのみあります。ただ罪人のためにのみ、イエス様は友なのです。イエス様は、罪人の友と呼ばれています。
浮き袋は、ただ溺れている人のために必要なだけです。イエス様は、罪人のためにだけ必要です。イエス様は、救う力を持っておられるお方です。
イエス様は、よく悩んでいる人々に言いました。「あなたの罪は赦された。」その人々は、肉体の病気が治ったらありがたいと思ったんですけど、肉体の病気よりやっぱり良心の呵責の問題の解決がなくちゃいけない。

死につつある強盗は、イエス様に「私を覚えてください。」と言いました。聖なる神の一人子である主イエス様は、今日も罪人に「おまえは、わたしと共に天国にいるようになる。」と言われました。何というすばらしい罪人の友なのでしょうか。
イエス様は、罪深い女に「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」と言われました。イエス様は、騙しとって金持ちになったザアカイに「今日、あなたの家に泊まるから。」と言われました。また「今日、救いがこの家に来た。」と言われました。
姦淫の場で捕まえられた女がいました。人々は、彼女を石で打ち殺そうとしました。人々は彼女を軽蔑しました。彼女が罪深い女だったから。イエス様は何と言ったかといいますと、「わたしはあなたを罰しない。」

ヨハネの福音書15:13
13人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

そしてローマ人への手紙5章8節にパウロは、ローマにいる兄弟姉妹に、書いたのです。

ローマ人への手紙5:8
8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

イエス様は、罪人のために亡くなられました。イエス様は、私たちが罪人であった時に亡くなられたのです。何という幸せなのでしょうか。
パウロの証しをちょっと聞きましょうか。

テモテへの手紙第I、1:15-16
15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
16しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

昭和14年から20年までの第2次世界大戦は、私たちがそれを信じようが信じまいが、歴史的な事実です。今から数百年前、ナポレオンという人物が生きていました。これもまた、信じようが信じまいが、歴史的な事実です。
今より2,000年前に、イエス様がゴルゴタの丘の上で亡くなられたことも、もちろん私たちが信じようが信じまいが、動かすことのできない厳然たる歴史的な事実です。
イエス様は、私たち一人ひとりのために亡くなられました。言うまでもなく、イエス様の死とは、決して殉教者の死ではなかったのです。人間の受けるべき天罰でした。イエス様は、我々の罪のために、亡くなられたのです。私たちは、イエス様を十字架につけた罪人の友として、心の目で見たことがあるのでしょうか。

イエス様は、我々のためにご自身のいのちを与えられました。イエス様は、釈放権を払われましたから、私たちはもはや罪の奴隷ではない。イエス様は、罪人である我々のために亡くなられました。ですから私たちはもはや、自由と平安のないままでいる必要はないのです。
罪人の友、主イエス様は、救う力を解放する力を持っておられます。それを信じる者は、主イエス様を友として持っている人です。
私たちが、イエス様の救いを信じるならば、その救いの確信すなわち罪の赦しの確信を持つことができます。この確信を持っていなければ、それを延ばし延ばしにしてはいけません。

今日でもイエス様に祈って感謝したらいいと思います。「イエス様、あなたが罪人である私のために、十字架にお架かりになり、その血潮によって罪を赦してくださったこと、またあなたが私の友であることを感謝します。」とこのように感謝したら幸いです。
イエス様は、救う力を持っています。イエス様は、助ける力を持っておられます。イエス様は、我々のあらゆる問い、あらゆる問題に対して答えを与えることが出来ます。
イエス様は、人間一人ひとりを導く力を持っています。実際力強いお方です。

3番目、主イエス様は、実際におられるお方です。
長い間、祈りに祈って30分もしてから、イエス様はおられると気づくのは、もちろん良くないことです。イエス様は、信じる者の内におられます。我々の内におられる主イエス様は、栄光の望みであると聖書は言っています。
私たちは、イエス様と一つになっています。イエス様の肢体です。

イエス様は、我々と一つになっています。私たちは、イエス様の後ろを追う必要はありません。イエス様は、ここにおられるということを安心して信じることができます。
イエス様は、「わたしはあなたを見放さず、捨てることもない。」とはっきり約束しておられました。また「わたしは、世の終わりまであなたがたと共にいる。」と約束したのです。
これはイエス様の約束です。そしてイエス様は嘘つきではありません。イエス様は、我々を永遠に変わらない愛を持って、愛しておられるお方です。

イエス様は、我々をご自身の血で贖われ、ご自分のいのちをお与えになりましたから、イエス様は私たちを一人ぼっちにさせることはない。私たちは、決して一人でいることはありません。イエス様がそこにおられるからです。
私たちによって、何としばしば他のものがイエス様より現実的であることでしょう。母親は、その子を捨てることもしましょうが、イエス様は決して捨てないと聖書は、はっきり言っているのです。
もし私たちがいつも、主イエス様の御心にかなった生活を送るならば、いつも慰められていることができます。イエス様は実際におられるお方です。

昔大部分の人々は、ドイツの宗教改革者であるルターを異端者として訴えました。大部分の異端者は、火あぶりの刑に処せられました。ルターの友達はルターに「君はどうするの。」と言いますと、ルターは「私は、本当に楽しく慰められている。主イエスは実際おられるお方です。実際におられる友であり、私は主イエス様の御手の内にあるのですから。」と答えました。
私たちは、決して一人ぼっちではありません。それを固く信じましょう。たとえ悪魔が、我々に逆らっても、また私たちが何も感じなくても、イエス様はここにおられるのです。そして決して捨てないと言われました。
イエス様は、辛抱強い友だけではなく、また私たちの力強い友であるばかりではなく、実際におられる友であります。

それだけではなく、4番目、我々の尊い友であられます。
イエス様は、信じる者にとって、尊い存在です。イエス様は、我々にとって本当に尊い存在なのでしょうか。
イエス様は、我々を救い、我々を愛し、我々の側におられます。イエス様は、我々にとって尊い存在であるべきです。私たちは心から「私はイエス様を愛します。」と言えるのでしょうか。

私たちはイエス様を知っているのでしょうか。イエス様を知ることとは、主イエス様を愛することです。私たちが主イエス様を知れば知るほど、当然ですけど主を愛します。
私たちは、他の何ものよりも増してイエス様との交わりを望む、願うのでしょうか。私たちにとって、イエス様のご臨在は他の富よりも大切なのでしょうか。
もしもイエス様が、我々の友であるならば、他のことは何もかまわなくていいのです。もしも私たちが、イエス様のご臨在の内にあるなら、私たちがどこで何を働いていようと全くかまいません。イエス様は、尊い友です。イエス様は、この地上における最も美しい人でした。イエス様のからだは罪を知らなかったのです。

イエス様は、父なる神の心にかなったお方でした。イエス様は、父なる神の本質の姿そのものでした。子供がイエス様を追いかけ、多くの人々がイエス様について来ました。イエス様は尊い友です。もしイエス様を見るならば、あらゆる飢え渇いている者の心は満たされます。なぜイエス様は、我々にとって尊いのでしょうか。
イエス様は、天国の栄光を捨てて、この地上に来られたから、肉の姿をとられ己を空しくして僕のかたちをとられたから尊いのです。イエス様は、その愛と十字架のゆえに、我々にとって尊いお方です。イエス様は、再び来られ、イエス様がどんなお方か、再び見られるから尊いです。
イエス様は、本当に尊い友です。私たちは、イエス様を友として受け入れたことがあるのでしょうか。イエス様のお約束が本当であるかを、私たちは信じているのでしょうか。

イエス様は、罪人の友です。イエス様は、私たち一人ひとりにとって、今日、尊い存在なのでしょうか。もし自分にとって、イエス様が価値あるものでないならば、イエス様は自分の心を開く、その結果自分は今日、イエス様を尊いお方として知ることができます。
もしイエス様が、自分にとって尊い存在であるならば、自分を通して他の人々にも尊い存在となるに違いない。
イエス様は、他の人に救いの道を示すために、自分をお救いになったのです。イエス様は「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。またわたしについて来なさい。」と言われただけではなく、「わたしはあなたを、人をとる漁師にしてあげよう。」と仰いました。

イエス様が、我々の友となる前に私たちは、イエス様を受け入れなければならない。
イエス様は、罪人の友です。もし私たちが、イエス様を辛抱強い友、力強い友、そして実際におられる友、また尊い友として認め得るならば本当に幸いと思います。




戻る