引用聖句:エペソ人への手紙1章7節
コロサイ人への手紙1:14
ヘブル人への手紙9:14
このあたりに来るとなつかしいです。50年前、9年間、この大洗でイエス様を伝えました。田舎大好きでした。 でも東京に、あちこちに多くの地にイエス様を伝えるようになりました。 さて、ある兄弟は、「わたしは、なかなか悔い改めができなくて聖霊を悲しませています。」と手紙をくださいました。 でも、それがわかればすばらしいのではないでしょうか。今日の題名は、「人間の罪と主イエス様の血の大切さ」 「血」は、聖書の中によく出てくる中心テーマです。人間の血も大切です。 アメリカのはじめての大統領ワシントンは、1732年に生まれ67歳でなくなりました。彼は1799年に亡くなりました。 彼はひどく喉をおかされました。お医者さんはミスしました。健康な体でも死にそうな手当てをしました。 当時よくされたように、医者は大統領の病気を治すのに何リットルも血をワシントンから取ってしまったのです。いまでは、あり得ませんけど、当時はこのような治療が平気で行われていました。 けどもワシントンの時代でも本当は許されなかったのです。大統領がなくなったとき、ベッドのそばにはみことばが置かれていたのです。 レビ記17:11
聖書はおそらく血液学の教科書をのぞいて、ほかのどんな本よりも、血の重要性について多く語っています。 無知と迷信のために、単純明解な神様のみことばを信じなかったために犠牲になった命は数えられない。 結局、命は血の中にあると言うみことばを信じたなら、血を取ることによって解決しない。問題の解決にならない悪くなる一方であると誰でもわかるはずです。 聖書では、内面的な生活や、主なる神との永遠の関係とにからんで血の重要性を説いています。 この場合、大切なのは、もちろん我々の血ではなくて、われわれのために流された主イエス様の血です。 確かに多くの人々には信じがたいことですが、血は聖書の主題です。聖書には初めから終わりまで、何百回も血のことが述べられています。すなわち、血を流さないで、罪の赦しはあり得ない。 多くの宗教はいろいろなことを教えるのです。なかなか良いことも教えています。だだいたい聖書からどろうぼうされています。 けども、「十字架はどこですか?流された血について何を言っているのですか?」と聞くといっぺんにわかる。 人間は、ひとつの教えを信じる混むことによって救われ得ない。 神のみことばである聖書は、我々に理論や教えを伝えようとしているのではありまん。事実そのものを伝えようとしています。 そして、聖書の中で、最も大切な事実とはイエス様の流された血です。 ペテロの手紙第Iの1章18節、19節。もうみなさん暗記してる言葉でしょう。 ペテロの手紙第I、1:18-19
イエス様の血は尊いものであるから、流された血は大いに愛されていることを意味しています。 考えられないほど、愛されている証拠です。考えられないほど愛されている証拠とは、イエス様の流された血です。 イエス様の流された血は、単なる教えよりも、唯一の救いの道です。 ヨハネの手紙第I、1:7
唯一の良いニュースはそれだけじゃないでしょうか。新聞を見ても、TVを見ても良いニュースはひとつもない。やーたいへんだ。いったい、どういうことか。 良いニュースとは、御子イエスの血は、すべての罪、過去の罪だけじゃなくて、現在の罪も将来の罪も、意識している罪だけじゃなくて、無意識に犯した罪も清めます。すべては、すべてです。 いわゆるイスラム教とは、何を教えているかと言うと、神は子供を持っていません。 でももし、イエス・キリストが、神の子でないなら、救いの道はない。イエス様は、私は道そおものです。真理そのものですと、命そのものですと、自分自身を示してくださいました。 いわゆる統一協会の原理講論の中で、血と言う言葉は一回も出てきません。偽者です。なぜなら、人間の代わりに、罪の無い者が死ななければ、罪の赦しは在り得ないのです。 わたしたちは聖書の事実を頭の中に蓄える知識として知るだけではなく、体験的に知らなければならない。 我々の今の時代は、暗黒の時代なのではないでしょうか。だから、日々を生活するためには、岩のように堅い、しっかりした土台が必要です。 この土台とは、いま話したようにこの土台とは、生活の中に浸みこんだ知識、聖書の中に書かれている主の永遠に変わらない事実。そして聖書の中心は、今話したようにイエス様の流された血潮です。 すべての宗教の中心は、人間は何を信ずべきか、人間は何をやるべきか、それだけなんです。 聖書の中心とは、ちっぽけな人間が何を信じ、何をやるべきかなのではない。イエス・キリストの死です。 父なる神は、我々の永遠の幸せのために、ほかの道がなかったのです。自分自身を犠牲にしたのです。 創造主が被造物の犠牲になることは考えられない。イエス様の血が流されたとあります。イエス様の血こそが考えられないほど大切です。 どうして大切かと言うと、罪滅ぼしのために必要であったからです。 ローマ人への手紙の中でパウロは人間の罪について多くのことを言っています。 ローマ人への手紙3:23-26
ローマ人への手紙5:8-9
「キリストの血によって義と認められたわたし」と言える人は幸いなのではないでしょうか。 もちろん主なる神も、人間も、悪魔も、罪の事実を認めています。罪の働きは3つです。 第一番、主なる神に対して、へだての壁ができたのです。罪とは、人間のよくない行いよりも、主と人間の間の壁なのです。 第二番、自分に対して、良心の呵責が重荷となったのです。 第三番、悪魔に対して訴えの根拠になってしまいました。 この3つをみていきます。 まず1番目、主なる神に対してへだての壁ができたのです。 すなわち最初の人であるアダムは、主なる神に対して不従順であったために主なる神と人間との間にひとつのい壁ができてしまった。不義が、人と神との間を隔てたとあります。 イザヤ書59:2
したがって、主なる神は全人類はことごとく罪の下にあると言っています。 同じことがローマ人への手紙の中で何回も強調されています。3章をみてみましょう。パウロは詩篇からあちこちの箇所を引用しました。 ローマ人への手紙3:9-12
罪によって、主なる神に対して隔ての壁ができてしまった。それだけではなく第二番目、自分に対して、良心の呵責が重荷となったのです。 罪を犯し、主なる神との間に隔てができたために、人間には良心の呵責が生じるようになりました。 主なる神の霊、聖霊なる神が人の心に働くとき、全人類はことごとく罪の下にあることを悟り、自分は罪をおかしたと認めざると得ない。 いわゆる放蕩息子の告白は次のようなものでした。 立って、父の所に言ってこう言おう、「お父さん、わたしは天に対して罪を犯し、またあなたに対して罪を犯しました。」 罪の働きの第三番目をみてましょう。悪魔に対して訴えの根拠になってしまいました。 わたしたちは、良品の呵責を持っていますが、悪魔はそれに付け込み、「人間よ、お前は罪を犯した。もうダメだよ。」と言います。 悪魔は人殺しと呼ばれていますし、めちゃくちゃにするものと呼ばれています。悪魔の、もうひとつの名まえは訴えるものです。 ヨハネの黙示録12:10
そこまでまだ行ってないよ。将来に対する預言です。空中再臨の後で行われることです。結局、悪魔は眠くならないようです。日夜と書いてあるから。 一番、熱心な祈り人とは悪魔じゃないかなあ。イエス様を別にして。 イエス様もあんまり眠くならない。いっつも私たちのためにとりなしていてくださる。 悪魔は、毎日ずっと、まことの神の近くにいることが許されているのです。それも不思議なんです。 日夜、、信じる者を訴えるのです。未信者は別に訴えなくても良い。悪魔には未信者は危ない人ではないから。今の瞬間でも言うでしょう。「見て、見て。あの大洗に集まってる連中。あれはたいしたことないね。神様のことより、自分の事大切にしてるものね。」 我々の弁護士はイエス様なんです。だから安心です。 悪魔は、ここで訴える者と呼ばれています。悪魔の訴えを解決することが大切なのではないでしょうか?けどいったいどうしたら、話した3つの問題、そのものを解決することができるのでしょうか? 人間のあらゆる困難、苦しみに対する答えはいつもひとつです。主イエス様の代わりの死です。イエス様の流された血です。 結局、あらゆる問題は、イエス様の十字架の犠牲によって解決済みなのです。 すなわち、主なる神と人との間を隔ている壁は、イエス様の血によって取り除かれたのです。 主なる神と人間との交わりができるようになりました。それから、イエス様の十字架の血をよく知るなら、わたしたちの良心の呵責は消えてなくなる。 「主は、赦した。」、「主は忘れた。」と確信することができるからです。 また私達が、イエス様の十字架の血の価値をしっかりと知ると悪魔の訴えは効き目がなくなります。 このようにして、イエス様が十字架で流された血は無限に価値があるものです。 父なる神に対して、我々の良心の呵責に対して、悪魔の訴えに対して、十二分の効果を持っているのです。 私達が、イエス様をよりよく知りたい。霊的に信仰を成長したいと思えば、どうしてもイエス様の血の限りない力を知る必要があります。 イエス様が十字架に、おかかりになり、流された血の絶大な価値を知らなければならない。この知識なしにイエス様に、お従いすることはできない。ですからこの3つのことを、もうちょっと詳しく考えてみたいと思います。 A:イエス様の血の働きとは、どういうものなのでしょうか? まず第一に隔ての壁の破棄。主なる神との交わりが可能になった。 第二に、罪の赦しが提供されている。結果として、喜びと平安と、希望に満たされます。 第三に、十字架の犠牲こそが悪魔に対する勝利を意味しています。 まず第一に、隔ての壁がなくなった。主なる神との交わりが可能になった事実について考えてみたいと思います。 イエス様の流された血は、まず、父なる神ご自身のために流されたと聖書は強調しています。 確かに、イエス様の血は、私たちの贖いのために流されたに違いない。私達が主なる神に近づくために流されたのはもちろんです。聖書もはっきり言っていることです。 私達が、聖なる神に裁かれないようになるために、流された血が大切です。 罪の赦し、宗教、教え、道徳的に良い行いによっては、得られません。ただ、イエス様の流された血の事実によってのみなされます。 けど、イエス様の流された血は、本当は、父なる神のために流された。われわれ人間のためではない。聖書も強調しています。 もし、私達がイエス様の血潮の価値を知ろうとすれば、知ろうと思えばまず、主なる神ご自身がイエス様の血潮をどのように考えておられるかを知らなければならない。 もし、私達が父なる神がイエス様の血をどのように考えているかを理解していないなら、イエス様の血潮が我々にどんな意味があるかもわからないのです。 御霊が、主なる神は御子イエス様の血をどのように考えているかを教えてくださるときに、はじめて私達は、主の血の尊さを知ることができるのです。 旧約聖書を見ると、贖いの血という言葉が100回以上出てきます。非常に大切です。 けども、いわゆる贖いの血は、父なる神のためにあると、どこでも何回も言われているのです。 旧約聖書の一番大切にされた日は、贖罪の日と呼ばれた日でした。きょうは時間がないのですけど、家で、レビ記の16章をお読みになると、この贖罪の日がどう言うものであったかがわかります。 この日には、すべての民は幕屋の近くに集まり、自分たちの罪の身代わりの子羊を殺し、大祭司は、その血を、主なる神の臨在されている至聖所に携えていき、その血を七度、降り注いだと書かれています。 この日には、やっぱりイスラエルの民にとって、考えられないほど大切でした。 その日、犠牲の子羊は幕屋の前で、民がみんな見ている前で殺されました。その血を至聖所に携えることができるのは大祭司だけでした。毎年一回だけ。 大祭司は、民の罪を贖うために血を携えて、主の御前に出ました。この大祭司は言うまでもなく主イエス様の雛形です。 ヘブル人への手紙を読むと次のように説明されています。 ヘブルへ人の手紙9:11-12
大祭司がひとりで主なる神の臨在しておられる至聖所に行ったのと同じように、我々の救いを与えるお方であるイエス様も、ひとりで十字架にかかられ血を流され、三日目によみがえり、天の父なる神のみもとに贖いの血を携えて行かれました。 父なる神は、その血を見て満足されたと聖書は言っています。これを見ましても、血は、まず父なる神のためである事がわかります。 もう一箇所、 出エジプト記12:13
エジプトを出るに当たりイスラエルの民は皆、傷の無い子羊を殺し、その血を家の柱と鴨居に塗らなければならなかったのです。 そして、主はその血を見て、わたしはその家に災いを下さずその家を通り過ぎると約束してくださたのです。 イスラエルの民が、入り口の見える所に血を塗ったと書いてあります。結局、主なる神がその血を見られるようにしなければならなかったのです。 人たちはその血を見なかったのです。家の中で、羊の肉を食べたからです。 人々にはその血は見える必用はなかったのです。主なる神のためだったから。 この出エジプトに際して、イスラエルの民が殺した傷のない子羊は、言うまでもなく主イエス様の雛形です。 主なる神は聖であられ、義であられますから、罪ある人間を贖うために罪のない者を罪とする必要があったのです。 血を流すことは、結局命を与えることです。血を流すことがなければ、みこみがない。 ヘブル人への手紙9:22
命は血にあるからです。 主イエス様が命を捨て血を流されたとき、父なる神はその御心を満足されました。 私は、血を見るなら災いを下さずに通り過ぎよう。意味は、私は私の子、主イエスの血を見るなら満足すると父なる神は約束したのです。これこそが、私達が知らなければならない、永遠に変わらない事実です。 私達は、イエス様を信じて救われる前には、良心が曇って死んだようなものでしたけども、今、イエス様を信ずる者として、イエス様に不従順な時、罪として、我々の良心に敏感に響いてきます。 そのような時に、私達が自分だけを見つめ、イエス様の血の価値を忘れてしまい、がっかりしてしまいます。 私達の罪は、イエス様の十字架よりも大きいように考えてしまいます。 私達はどうして、そんなふうになってしまうのでしょうか。 私達は、何かこの身に感じ、その感じ方によって、イエス様の血の価値を判断したいのです。これは、たいへんな誤りです。 血潮をまず、主なる神のために流されました。 イエス様の血は、父なる神にとって、どんなに全き価値を持っているかを知る必要があります。 私達の感じることは、どうでも良い。決して、大切ではありません。主の御言葉こそ、食べるべき、信じることが大切です。 私達はイエス様の血の価値を、信じなければならない。前に読みました箇所の中で、 ペテロの手紙第I、1:18-19
主なる神が、御子イエス様の血は、人間のすべての罪を取り除くのに十分であると言われたから、私達は主なる神と人間とを隔ててきた罪の壁が全く、取り除かれていることを信じることができるのです。 父なる神は聖であり、義であります。その主なる神が、血はすべての罪を覆うために十分であると言っておられます。 イエス様の流された血の働きとは、今話したように、罪の壁の廃棄についてどうしても必要です。すなわち、イエス様の流された血とは、結局、父なる神について、考えられないほど大切です。 第二番目に、イエス様の流された血の働きとは、罪の赦しを確信できるのです。イエス様の血と我々が主なる神の臨在の中に入ることの関係について、ちょっと考えたいと思います。 我々が血の価値についてよく知るなら、我々の良心の呵責は消えてなくなるのです。 父なる神は、イエス様の血を心から満足された。この主イエス様の血は我々にも十分であるはずです。だからヘブル人への手紙の著者は、次のように書いたのです。 ヘブル人への手紙10:22
この言葉は、何を意味しているのでありましょうか? 今までは、主なる神と人間を隔てていた罪という壁がありました。だから絶えず良心の呵責に苦しんだのですけど、今や、主イエス様の犠牲の血が流され、この罪の壁は取り除かれ、贖われ、良心の呵責は消え去ったのです。 もし、私達がこの永遠に変わらない事実の上に立つと、我々の良心の呵責は跡形もなく消えてしまいます。喜んで主に近づくことができるのです。非常に大切な事実だと思います。 私達は祈るとき、何を土台にしているのでしょうか?イエス様の血なのでしょうか。それとも他のものなのでしょうか? 私達は清きが必要であり、イエス様の血潮をくぐってはじめて父の御前に近づくことができると考えているのでしょうか? それとも、「今日は一日おだやかに過ごした。主のために何かした。満足だあ。」、こういう所から祈り心が湧いてきてそのような気持ちで、気分を土台で祈るのでしょうか? もし気分を土台に祈るなら、それは絶望への第一歩です。なぜなら、気分の良い日は、そんなにないのではないでしょうか? 良心の平和は気分の上になりたつものではありません。ただ、流された主イエス様の血を受け入れる時に、良心の平安が与えられます。 このことを知ることは、本当に大切です。 ヘブル人への手紙10:19
はばからずして、喜んで近づくことができる。 またあるときは、「今日は注意深かった、一日信仰的な生活を送った。いつもより多く祈り、いつもより多く聖書を読み、主の御前で黙想の時を長く持った。だから喜んで主の御前に近づくことができる。」と思う人がいるかもしれない。 またこんなこともあるでしょう。「朝ごはんのとき、うちの者とごたごたで面白くないことがあり、イエス様との関係が何か思わしくないように思い、従って今日はよく祈ることができない。」ということがあるかもしれない。 私達は何を理由にとって、何を盾に主に近づこうとするのでしょうか? 定まりのない、揺れ動く感情をもとにして主に近づこうとするのでしょうか。あるいは岩のように動かない土台。すなわち、イエス様は私たちの罪のために血を流され、父はそれを心から受け入れ満足してくださったという事実に基づいて、近づくのでしょうか? 私達は、いくらむきになって真剣に祈っても、主は、聞き入れてくださいません。ただイエス様の血をくぐって近づく時にのみ、主は聞いてくださるのです。 イエス様の血は永遠にその力を失いません。だから私達は、いつもはばからずして喜びをもって、主の御前に近づくことができるのです。 私達が何かやったからじゃなくて、ただイエス様の血によって近づくことができるのです。 たとえ、私達が、一昨日、昨日、今日、、どんなに素晴らしい経験をしたとしても、それを元に主に近づくことはできなし、ただ、流されたイエス様の血をくぐってのみ、主の御前に出ることができる。 「昨日も良かった、今日も良かった。」という気分によっては主に近づくことができません。ただ、イエス様の贖いの血によって近づく事ができます。 私達は、イエス様を受け入れたとき、イエス様の血を信じたとき、主と自分の間の隔ての壁は取り除かれました。 イエス様の血潮によって、全く取り除かれました。 エペソ人への手紙2:13
けど、イエス様を信じる今も、ただひとつの理由をもって、すなわち、イエス様の血の故に父なる神に近づくことができるのです。 へブル人への手紙10:2
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