引用聖句:マタイの福音書4章8節-10節
コリント人への手紙第I、15:28
ヨハネの黙示録21:22-23、22:3-4
この間、本当の意味での喜びの集いがありました。430人見えましたし、そしてだいたい30人、ゆっくり交わることができ、やっぱりイエス様に従いたい、そういうことになったから、非常にありがたい。 主ご自身が、ご自分の教会を建てるという証拠なのではないかと思います。 いつも言います。けれども、私たちは、ただ救われるために救われたのではなく、我々によって、生けるまことの主なる神を満足させるべきであると聖書ははっきり言っています。 パウロは、どうしてエペソ人への手紙を書いたかと言いますと、もちろん彼らにとってどうしても必要だったからです。 エペソ人への手紙4:13
今日から、ちょっと3回にわたって、「この宇宙の将来」というテーマについて、一緒に考えてみたいと思います。 多くの人々は、たしかに拠り所なしに失望してしまっています。けれども私たちが、主を知るようになった者として、主の御心は何なのでしょうか。 この宇宙の将来は、いったいどういうものになるのでしょうか。世界的王国の戦いの終わりは、いったい何なのでしょうか。この質問に対する答えを知らなければならない。前に読んでもらいました箇所とは、結局、答えが含まれているでしょうね。 マタイの福音書4:10
とあります。 コリント人への手紙第I、15:28
ヨハネの黙示録21:22、22:3
この宇宙の将来は、何なのでしょうか。聖書は言っていますね。「私は、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とがその聖所なのである。」とあります。これこそが、この宇宙の将来であります。 すなわち、霊的歴史の終わりは、全能者にして主なる神と小羊とがその聖所なのであります。 今朝、ちょっと3つの事柄について簡単に一緒に考えたいと思います。 第1番目、全能者にして主なる神 第2番目、小羊である主イエス様 第3番目、呪われるべきものは、もはや何ひとつない 全能者にして主なる神と小羊である主イエス様は、すなわち結びつけられていますが、けれども小羊である主イエス様と、呪われるべきものはもはや何ひとつないとも結びつけられていますが、すなわち小羊と呪われるべきものと言いますと、全能者にして主なる神と小羊は、聖所なのです。 これは礼拝を、まことの礼拝を意味しています。この宇宙の将来、世界的帝国の戦いの終わりは、礼拝です。けれども、どうしてここで、小羊と呪われるべきものは、結ばれているのでしょうか。 もし全能者にして主なる神は、あらゆる礼拝の中心でなければ、呪いがくるのです。この呪いに対する主なる神の答えは小羊です。だから小羊と呪われるべきものは、結びついています。 この宇宙の終わりは、聖所ではなく、捧げられた小羊たちではなく、祭司たちではなく、色々な捧げ物ではなく、全能者にして主なる神と小羊とがその聖所なのです。 そして「神が、すべてのものにあって、すべてとなられるためである」と聖書は、はっきり書いてあります。 宇宙の将来は礼拝であり、そして他のことがら全部が礼拝にかかっているのです。この礼拝は、ただのこの世にかかっているものではなく、この世に勝るものであると覚えるべきです。 エゼキエル書の28章2節から5節まで、また11節から17節までと19節、またイザヤ書の14章12節から19節まで読むと解かります。 エゼキエル書28:2-5、28:11-17
イザヤ書14:12-19
それからダニエルという預言者は、3週間一生懸命祈った時、天の使いがいらっしゃって、ダニエルに言ったのです。 ダニエル書10:12-14
みことばを見ると、ダニエルの祈りは答えられました。けれどもこの祈りを答えるために、天の使いが来ました。けれども、ペルシャの君すなわち悪の霊の君は強く反対して、21日の間戦ったんです。 この戦いは、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いでした。 また、ヨブという人の生活を観察すると、同じ事実を見ることができるのです。ヨブの戦いは、実に血肉に対するものではなく、もろもろの権威、支配と天上にいる悪魔の霊に対する戦いでした。 またイエス様が聖霊に満ちて前進した時、すぐに闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊、悪魔に対する戦いが始まりました。悪魔は、初めにイエス様のからだによって、攻撃したのです。 「もし、あなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。」、その時イエス様は40日間何も食べていなかった。断食したのです。お腹がすいていたのは当然です。 それから、悪魔はイエス様の魂を試みました。けれども、これも空しい努力でした。 最後にイエス様の霊に対する攻撃でした。実にこれは悪魔の目的だったんです。 悪魔は、イエス様に「もし、あなたがひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものをみなあなたにあげましょう。」ひれ伏してわたしを拝むなら、結局礼拝が問題でした。霊を持って礼拝することは、問題なんです。 悪魔は、いつの時代でも、からだと魂によって、人の霊を攻撃したのです。もし、あなたがひれ伏してわたしを拝むなら、これは問題なんです。パウロの言葉をよく覚えるでしょう。 エペソ人への手紙6:12
信じる者、主の恵みによって救われた者、 エペソ人への手紙6:12
目に見えるもの、もちろん人間、 エペソ人への手紙6:12
礼拝は霊的なものなのです。礼拝は、ただのこの世に属しているものではなく、この世に勝るものだという事実を知るべきなのではないかと思います。 主なる神は、霊であるから、礼拝する者も霊とまことをもって礼拝すべきです。 父は、このような礼拝する者たちを求めておられると、イエス様ははっきり言われました。 聖書の言っていることばは、覚えるべきです。「私は、この都の中には聖所を見なかった。全能にして主なる神と小羊とが、その聖所なのです。」、これこそがこの宇宙の将来です。 すなわち、霊的歴史の終わりは、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるのであるということです。 パウロもコリント人への手紙第Iに同じことを書いたのです。 コリント人への手紙第I、15:28
ここでも、子たる身分という真理が含まれています。私たちは、どうして子供と息子の区別について、そんなに考えるのでしょうか。それは、主がすべてのものにあってすべてとなられるためである。主に対する礼拝が問題であるからです。 成人した神の息子、娘によってのみ、主なる神が、徹頭徹尾、この宇宙の礼拝を持っているのです。 もちろん神が、すべてのものにあってすべてとなられるのであるという真理は、今も事実です。 けれども、実際的に主なる神が、我々の内に、また私たちの内にすべてとなられません。けれども、成熟した息子、娘たちによって、主にこの宇宙の礼拝になるのです。これこそが、今の戦いの原因です。 この戦いは、いったいいつ頃初めましたでしょうか。悪魔はいと高き者のようになろう、自分は上へ昇りたい、自分の位を高くしようと言った時、一番高い天から追放されました。その時から強行な戦いが始まったのです。 人間が、どなたに礼拝するでしょうか。悪魔でしょうか、それとも主イエス様でしょうか。これこそが、この世の戦いの問題です。 私たちは、これはたいしたものじゃないと考えるかもしれない。私たちは、主なる神を礼拝するからです。これは本当でしょうか。私たちは、すべてをもって実に心から主を礼拝するのでしょうか。 ヨブ記を読むと、この礼拝の問題は恐るべき戦いでした。悪魔はいろいろな質問、疑問や不安によって、ヨブの礼拝を得ようと努めました。成功したでしょうか。ヨブは、悪魔を礼拝したのでしょうか。それとも主なる神にのみ礼拝したのでしょうか。 ヨブ記1章22節に、主の判断が書かれています。 ヨブ記1:22
もし私たちがヨブ記を読むと、しばしば、「ああ、ヨブは神に対して、悪いことを言った。これは正しくない。」などとは言うでしょう。 けれども主は、「すべてのことにおいてヨブは罪を犯さず。」と言っておられます。 ヨブの友達、大変信心深い友達は、とても良い事柄を話したんですが、主は彼らに対して何と言ったのでしょう。 ヨブ記42:7
私たちの大きな困難の中で、話した言葉は大切ではなく、苦しみのうちに感じた疑問や不安も大切なのではなく、問題なのは、私たちは、礼拝をもって主を信じること、信頼すること、礼拝することです。 これこそ、闇の世の主権者、また天上にある悪の霊に対する戦いです。 私たちが、ひれ伏して悪魔を拝むことは、悪魔の望みであり、主なる神が、すべてのものにあって、すべてをなさることは主のご目的です。これは、この宇宙の霊的な歴史の初めから問題でした。 どなたが礼拝の中心になるか、悪魔か、それとも生けるまことの神かのどちらかです。けれども、礼拝とはいったい何なのでしょうか。賛美歌を歌うことですかね。祈ることでしょうか。礼拝式を行うことでしょうか。 決してそうではない。毎日の生活の最中に起こるのです。もし私たちがこれを今やると、主が満足されるのでしょうか。あるいは、悪魔が喜ぶのでしょうか。 もし、私はこの問題を解決しなければ、神に栄光があるのでしょうか。それとも悪魔が勝利を得るのでしょうか。もし、2人の信者が、一致しなければどうでしょうか。悪魔は、これによって勝利を得るでしょうか。必ず勝利を得るのです、あなたは。 この2人の信者が、一致するように努力しなければいけません。そしてこの2人が1つになると、これこそ礼拝なんです。そしたら、初めて生けるまことの神が、すべてのものにあってすべてとなられるのです。礼拝とは何かと解かるでしょ。 礼拝は、主があなたにあって、すべてとなられることです。そして、この宇宙の将来は、主なる神がすべてのものにあって、すべてとなられるのです。 覚えるべきなのは、我々の生活はこの宇宙の将来に対して、とっても大切です。だから無意味なこと、いわゆる小さいことがない。 毎日の生活のいわゆる小さな事柄が、全部一番大切なことに、すなわち主に対する礼拝にかかっています。 我々の礼拝の中心は、生けるまことの神でしょうか。徹頭徹尾、主なのでしょうか。これは我々の心の態度であるべきです。この礼拝の問題は、恐るべき戦いです。 もし、私たちは今日、「全生涯を主に捧げ、私たちのためではなく、主だけが満足され、栄光をお受けになるように」と決心するとすぐ、悪魔の激怒を感じるのです。恐るべき戦いが始まるのです。 私たちは、必ず戦いの内に悪魔の声を聞いたでしょう。すなわち、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものをみなあなたに上げましょう。」、残念ながら、これらの悪魔から提供したものを欲しかった人々がいます。 「この姉妹が失敗した。あの兄弟、全然集会に来ない。」とこのような事実は、小さな無意味な事柄ではありません。悪魔は勝利を得たのです。そして私たち皆が妨げられています。 けれども、私たちがあえて次のように言いたいのではないかと思います。「いえ、私たちは悪魔を拝みたくない。生けるまことの神だけに栄光あれと、ほふられた小羊こそは、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美とを受けるにふさわしい。御座にいます方と小羊とに賛美と誉れと栄光と権力とが、世々限りなくあるように」とあえて言いましょう。これは、我々の使命です。 私たちは、この建物の中で主の御声を聞くにしろ、学校で勉強にしろ、事務所で働いている、あるいは家の仕事をすることによって、ほふられた小羊こそは、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしいになるでしょうか。 たとえば、賛美歌を歌うことについて考えると解かります。私たちは、いったいどうして賛美するのでしょうか。集会が始まるためでしょうか。何番を歌って集会を始めましょう。 どうして私たちは歌うのでしょうか。歌うこととは、我々のプログラムの中で、ただ一つのポイントなのでしょうか。 そのかわりに、悪魔を攻撃するために、また臨在しておられる生けるまことの神を礼拝するために歌うのでしょうか。 これを考えると、私たちはいろいろな歌を歌わないでしょう。けれども、霊をもって、主を礼拝すべきです。歌うことは、生けるまことの神を拝むことのはずです。 聖餐式を行うことも礼拝であるはずです。私たちの毎日の生活のいわゆる小さな無意味な事柄も、礼拝であるはずです。 未信者の毎日の生活は、悪魔を拝むことを意味しています。これに対して、この悪魔の力と軍勢に対する主ご自身を礼拝することのはずです。 ほふられた小羊こそは、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしいになるでしょうか。まことの礼拝こそが、最も大切です。 集会の時だけではなく、ひとり一人の毎日の生活は、主を礼拝することのはずです。 この宇宙の将来は、何でしょうか。「私たちは、この都の中には、聖所を見なかった。」と書いてあります。どうでしょうか。聖所がなければ、これは大変なことじゃないでしょうか。 いえそうではありません。なぜなら、「全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。」と書いてありますから。 すなわち、霊的歴史の終わりは、全能者にして主なる神と小羊とが礼拝の中心になるのです。 また他の言葉で言えば、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるのです。けれども、いかにしてこれが可能なのでしょうか。 「万物が主に従う時には、御子自身もまた万物を従わせたその方に従うようになる。それは神が、すべてのものにあって、すべてとなられるためである。」と聖書は言っています。 息子である主イエス様によって、十字架によって、小羊によって、悪魔に打ち勝つことによって、生けるまことの神が、礼拝の中心になるのです。だから書いてあります。 ヨハネの黙示録5:12-13
全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。生けるまことの神と小羊は、礼拝の中心になるのです。物ではなく、主なる神が、すべてのものにあってすべてとなられるのです。 十字架によって、尊い血によって、主なる神がすべてとなられるのです。 全体の要点は、真に主の足元にひれ伏した生涯である。主は、我々の心の内に、どれほどの余地を持っているかが問題なんです。 主が、我々のためにいかほどの価値があるのでしょうか。主が、我々にとって真に尊いお方であれば、あまりに良いというものは一つもありません。あまり高いというものも一つもありません。 私たちのあらゆるものが、それが最も深く、最もすばらしくあっても、主に対して捧げます。 イエス様は、我々の愛を待ち望んでおられます。イエス様は、我々の愛を持つために死なれました。そしてイエス様は、我々の愛を求め続けられます。 イエス様は、シモンペテロに言いました。「ヨハネの子シモンよ。あなたは、この人たちが愛するように、わたしを愛するか。」、ペテロは言った。「主よ。そうです。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」 また、もう一度言われた。「ヨハネの子シモンよ。わたしを愛するか。」、彼は主イエスに言った。「主よ。そうです。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」 主イエスは3度目い言われた。「ヨハネの子シモンよ。わたしを愛するか。」、ペテロは「わたしを愛するか。」とイエス様が、3度も言われたので、心を痛めてイエス様に言ったんです。 「主よ。あなたはすべてをご存知です。わたしがあなたを愛していることは、お解かりになっています。」、同じようにイエス様は、我々に聞いておられます。「わたしを愛するか。」 これは一番大切なことです。私たちがイエス様に、「私はあなたを愛している。」と言うことができた時は、地獄のすべての鬼は逃げ去ります。 私たちは、ただ救われるために救われたのではなく、私たちによって主なる神が礼拝の中心になるように、これこそ我々の生活の使命なのです。礼拝は、主なる神が、私たちにあって、すべてとなられることなのです。 悪魔はこれを知っているのです。だから彼は、何とかして私たちをダメにしよう、私たちを滅ぼそう、私たちが失敗するように努めています。 私たちは多分、自分のクリスチャン生活の意味を解かっていないかもしれない。けれども悪魔はこれをよく知っていますから、異性、お金、自分の名誉によって、我々を偉大なる使命から引き退けようと努力しています。 私たちがひれ伏して悪魔を拝むことは、悪魔の望みであり、主なる神がすべてのものにあって、すべてとなられることは、主の目的です。どなたが礼拝の中心になるのでしょう。悪魔か、それとも生けるまことの神か、これは恐るべき戦いを意味しています。 ただ、いわゆるキリスト教に入った人々はこの戦いを経験しないでしょう。また、大勢が礼拝式に参加することも問題ではないのです。 けれども、もし私たちが新しく創られた、新しく生まれ変わった者であるならば、聖霊の持ち主になると、必ず悪魔の力と激怒を感じるようになります。なぜならば、聖霊は礼拝の霊だからです。聖霊の力によって、神がすべてのものにあって、すべてとなられるのです。 けれども、これは「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」と聖書は言っています。絶えず覚えるべきです。 すなわち、私たちはただ救われたのではなく、我々によって、主なる神がすべてのものにあって、すべてとなられることです。前に読みました箇所をもう一回読んで終わります。 「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」 「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」とあえて言いましょう。 |