この宇宙の将来2


ベック兄

(吉祥寺学び会、この宇宙の将来シリーズ、2011/04/12)

引用聖句:ヨハネの黙示録21章2節-3節
2私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
3もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、

マタイの福音書4:8-10
8今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
9言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
10イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

コリント人への手紙第I、15:28
28しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

この間も言いましたように、最近、昔に準備したメッセージが次々と出てきたんですね。今日のメッセージも、55年前に準備して、けれども使わなかったんです。
御言葉は時代と関係なし、いつも新しいものであり、そしてイエス様は、「天と地はいつか滅び去ります。わたしのことばは、永遠に残る。」と約束してくださいました。
この前の回で、この宇宙の将来はいったい何かという題名を持って考えてまいりました。

この宇宙の将来について、聖書は言っているのです。すなわち、「わたしは、この都の中には聖所を見なかった。」とあります。
聖所、宮はいつも礼拝する場所です。けれども宇宙の終わりは、聖所はなく、捧げられた動物ではなく、祭司たちではなく、いろいろな捧げ物ではなく、全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのであるとあります。
次の3つの事柄についてちょっと考えたいと思います。

第1番目全能者にして主なる神
第2番目小羊である主イエス様
第3番目呪われるべきものは、もはや何ひとつない

全能者にして主なる神と小羊は、結びつけられています。なぜなら、主なる神と小羊は聖所なのであるから、すなわち全能者にして主なる神と小羊は、この宇宙の礼拝の中心になるのです。
そして、小羊と呪われるべきものも結ばれているのです。いったいどうしてでしょうか。呪いがどうしてあるのでしょうか。
悪魔は、いと高き者のようになろう、自分は上へ昇りたい、自分の位を高くしようと言った時、一番高い天から追放されました。その時から、強固な戦いが始まりました。

悪魔は、神の呪いのもとに堕ちた。また悪魔に従う人間みんなが呪われた者になったのです。この呪いに対する主ご自身の逃れ道は、小羊である主イエス様です。
ガラテヤ人への手紙3章13節を見ると、次のように書かれています。

ガラテヤ人への手紙3:13
13キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」

と書いてあるからです。十字架につけられる者は、みな例外なく呪われた者である。イエス様の十字架によって、呪われるべき者は、もはや何ひとつないと言えるのです。
したがって、全能者にして主なる神と小羊とがその聖所なのです。
主なる神と小羊は、礼拝の中心となるのです。この礼拝は、ただのこの世にかかっているものではなく、この世に勝るものだという事実も、もうすでに見てきました。

すなわちこの礼拝は、血肉の問題ではなく霊的なものであるから。この宇宙の将来は、主なる神がすべてのものになって、すべてとなられる。
これは定められた事実ですけれども、私たちは、毎日の生活の最中に、どなたに礼拝するでしょう。「悪魔ですか、それともイエス様でしょうか。」という一番大切な質問に答えなければいけないのです。
これは実に恐るべき戦いを意味しています。

ところで、私たちは、喜びの声をあげて確信して、信仰によって、今日でさえも将来のことばを聴くことができるのです。
すなわち、「ほふられた小羊こそ、力と富と知恵と勢いと誉と栄光と賛美とを受けるにふさわしい。御座にいます方と小羊とに賛美と誉れと栄光と権力とが世々限りなくあるように。」
私たちは、今日この礼拝の関係している事柄について、ちょっと考えたいと思います。

まず、聖書と礼拝についてです。
ご存知のように聖書は、数え切れない多くの事柄について語っています。この多くの事柄の後ろに、ただ一つの問題があります。すなわち、礼拝という言葉に含まれています。
あらゆる事柄の終わりは、生けるまことの神に対する礼拝です。もし私たちは、今日の世界のあらゆる事業と試みを見ると、ちょうど反対のことを見るのです。すなわち、神ではなく、悪魔は礼拝されたものということを見るのです。

悪魔は、高き者になろうと考えた時、主なる神を拝もうと思わないで、かえって全人類は悪魔の礼拝者となるようにと努めています。
けれども、宇宙の将来は、全能者にして主なる神と小羊とがその聖所なのです。すなわち、全能者にして主なる神と小羊とが、礼拝の中心になることは確実です。
聖書は、何について語っているのでしょうか。最終的な目的は、いったい何なのでしょうか。その答えは、礼拝です。これを絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。

なぜならば、何と多くの人々は、ただ一つの真理をもって、この真理はお手の物になったでしょう。たとえばある人は、いつも救いについて考えて話します。
他のキリスト者は、一生懸命、聖書の預言について研究し、預言だけ大切であると考えています。また、聖書は、信じる者の奉仕について語っているのです。
けれども、どうかこれは全部じゃない。また、教会に対する偉大なる啓示は、何という大切なことでしょう。けれども、ある人々は、ただこれらの教会、新約聖書の教会について話すのです。

もし、私たちがただ一つの真理をもって、いつまでもこのことについて話すと、この結果は、制限と弱さを意味しているのです。
もちろん、救い、預言、奉仕、教会という真理は、大切ですけれども、しかし、最終的な目的を忘れることはいけません。
これらの事柄、これらの真理は、目的を達するために必要です。けれども、鎖のただ一つの輪を持っていることはいけないのです。
聖化、成長は大切です。教会の真理を見ることも大切ですけれども、これらの真理は、終わりを意味しているのではない。聖化と教会の目的は、生けるまことの神を拝むこと、礼拝することです。

聖書は、事実、数えられない多くの事柄について語っていますけれども、これらの事柄は、決して終わりではありません。終わりは、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるのです。すなわち、神に対する完全な、無制限な礼拝そのものであります。
出エジプト記20章に、いわゆる十戒について、詳しく書いてあります。もちろん十戒は、イスラエルの民に対する、主の掟でした。
貴方は、「私たちは、律法の時代に生きていない。私たちは、教会の時代すなわち恵みの時代に生きているのですから、このモーセによって示した十戒は、我々に当てはまらない。」と言うかもしれないけれども、決してそうではありません。

主なる神の示された掟は、主と同じように時間的ではなく、永遠にわたり有効なのです。申命記6章5節を見ると、皆さんよく聞いたことばです。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
ただ、主の存在を認めなさいではない。ただ、信じなさいなのではない。主を愛しなさいとあります。
どうでしょうか。このみことばは、ユダヤ人に対する掟だけでしょうか。過去の時代に対する掟だけでしょうか。

新約聖書に、「主なる貴方の神を愛し、ただ神にのみ仕えよ。」とありますが、旧約聖書は、「貴方は、わたしの他に何ものをも神としてはならない。貴方は、自分のために刻んだ像を作ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。」とあります。
私たちは、創世記からヨハネの黙示録までに、同じことについて読みます。
最終的な問題は、唯一の神の無制限の礼拝なのです。

結婚の掟はどうですか。毎日の生活に対する掟は、いかがでしょうか。聴覚、視覚障害者の掟はどうでしょう。百姓の仕事に対する掟もあるんです。すなわち、牛とロバとを組合わせて耕してはならないと聖書は言っているのです。
着物に対する掟もあります。羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならないとあります。2種類の寸法や目方、同じくびきの下に2種類の動物、着物においても2種類の材料はいけないと主は言われます。
これはいったいどういうことですか、何を意味しているのでしょうか。と言いますと、生けるまことの神は、あらゆる混合は、大嫌いです。混合の初めは悪魔です。

この事柄の後ろにただ一つの問題があります。すなわち、神の絶対的な完全な無制限な礼拝です。しかし混合があれば、これは不可能です。結婚に対しても、混合はいけないという主なる神の掟があるのです。結婚生活においての混合は、姦淫です。
イスラエルの民の歴史を見ると、この混合の呪いが解かります。イスラエルの民は、絶え間なく主なる神に対する姦淫して、偶像礼拝者になってしまいました。
聖書の中に出てくる、バラムは混合しているのです。

ヨハネの黙示録2:14
14しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。

生ける神を礼拝し、偶像を拝むことは、結局不品行です。このような混合があれば、生けるまことの神に対する、不正義な礼拝が不可能です。お解かりになったでしょう。聖霊によって見たでしょう。
すなわち、聖書の数え切れない多くの問題、多くの事柄の後ろに、いつもこの主に対する礼拝は問題です。
たとえば、旧約聖書の会見の幕屋について読むと解かります。この幕屋の材料、幕屋の器や物は、全部主なる神に示しているものでした。

また、宮の歴史を見ても解かります。祭司たちの歴史を見ても解かります。王国の歴史、預言者を学べば解かる。これらの事柄の後ろに、なるほど礼拝の問題があるという事実が解かります。
主なる神は、いったいどうしてサウロという王を捨てたのでしょうか。混合があったから。
サムエルという預言者は、サウロ王に、「それならば、私の耳に入るこの羊の声と私の聞く牛の声は、いったい何でしょうか。」と尋ねました。

その答えは、「人々が、アマレク人のところから引いてきたのです。」というものでしたが、民は、あなたの神主に捧げるために、羊と牛の最も良いものを残したのです。主なる神は、残してはいけないとはっきり言ったのに。
けれども、主なる神は混合を欲しくない。アマレク人は、主なる神の民の敵でした。ですから主は、決してこのような混合を受け入れることができなかったんです。したがって、サウロは、主から捨てられた者になってしまいました。
そして主は、それから神は、サウロを退けダビデを王とされたが、彼について証しをして、「わたしは、エッサイの子ダビデを見つけた。彼はわたしの心にかなった人である。わたしの思うところをことごとく実行してくれるのであるから。」と主は言われました。

どうしてでしょうか。どうしてダビデは、主の御心にかなった人で、主の思うところを実行してくれたのでしょうか。タビデは、心から生けるまことの神を礼拝したからです。
詩篇の大部分は、ダビデによって書かれたものですけれども、詩篇を読むと解かります。ダビデは、決して完全な男ではなかった。大きな罪を犯してしまった。
けれども彼は、決して混合をしなかったのです。主の思うところは、いつでもダビデも思うところでした。ダビデは、主に向かって、心を全うする者でした。ダビデは、礼拝者でした。

実にあらゆる聖書の事柄や真理の後ろに、礼拝の問題があります。聖書の課役を研究してみると解かります。安息の問題は、単なる掟でしょうか。それともこの後ろに礼拝の問題ではないでしょうか。
主なる神が、すべてのものであって、すべてとなられることは問題です。これを絶えず覚えるべきではないでしょうか。
もし誰かが、ただ一つの真理を持って、いつまでもこの事について話すと、この結果は、今話したように制限と弱さを意味します。残念ながらおもな向背の出発はこれなんです。

しばしば、聖書の真理ではなく、自分で作った教えです。聖書の真理は、終わりを意味していません。あらゆる真理の目的は、生けるまことの神を礼拝することのはずです。
けれども、何と多くの信者は、単なる掟を守ろうと努力し、彼らの生活にあって、主はすべてとなられることができないでしょう。
我々の生活において、主はすべてでありましょうか。他の事柄は全部、目的として主に対する礼拝なのでしょうか。

宇宙の将来は何でしょうか。全能者にして主と小羊とが、礼拝の中心になること、それなんです。
コリント人への手紙第II、4章4節のように悪魔は、この世の神です。今の我々の目に見える世界の支配者は、悪魔です。
もちろん主は許しているからです。

コリント人への手紙第II、4:4
4そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

もし私たちは、悪魔を拝まなければ地獄の激怒を感じるでしょ。悪魔は、貴方を殺そうと努めています。アベルという義人は、主のみに礼拝して、悪魔はすぐカインによって、この礼拝者を殺してしまいました。
疑いもなく私たちは、悪魔の攻撃の的です。私たちは、生けるまことの神を拝み、と同様に悪魔に仕える、これこそが悪魔の目的です。
毎日毎日、悪魔は私たちを誘惑しようと努力しています。そしてもし私たちは、主から離れて罪を犯したら、悪魔はすぐに私たちを告訴します。

しかしそればかりではなく、主に対しても悪いことを言うのです。すなわち「神は、本当の愛を持っていない。また神は、不忠実なものである。」などと言うのです。
苦しみと困難によって、悪魔は何としばしば、自分の目的を達したのでしょう。
覚えるべきことです。すなわち、あらゆる教えは問題ではなく、主なる神に対する礼拝が問題です。あらゆる聖書の教えや真理の後ろに、礼拝は問題です。キリスト者の生活とは、結局、礼拝生活であるべきなのではないでしょうか。

キリスト者の生活の始まりは、いわゆる救いです。詳しく言えば、義とされるのは、イエス様を信じる信仰によってです。
「私たちの義とされたことは、傷もしみもない、小羊のようなキリストの尊い血によったのである」とペテロの手紙第I、1章19節に書きしるされています。
傷もなく汚れもない、小羊のようなキリストの尊い血によったのですとあります。これこそが、私たちの救いの喜び、私たちの経験です。

けれども、これはいったい何を意味しているのでしょうか。と言いますと、悪魔は、私たちに対する権利の要求を全然持っていないのです。
旧約時代で、いかに罪人は神の御前に出ることができたのでしょうか。傷もしみもない羊を選び、そして罪人は、羊の頭に両手を置きました。こういうふうに自分の罪は、離され、また羊の清さは、罪人のものになったのです。
もちろんこれは、信仰の問題でした。生けるまことの神のみことばに対する信仰の問題でした。みことばを信じる信仰によって、罪人は、いのちと救いを自分のものとしました。

イエス様の救いの土台は、いったい何なのでしょうか。神は罪人の生活のすべての事において、第一のものとなり、またこういうふうに悪魔は、我々に対する権利と権利の要求を持っていないということです。
これこそが我々の救いの土台です。
御子イエス様によって、悪魔は権利の要求を持っていません。小羊によって、父なる神は満足されているのです。悪魔は、我々に対する力を少しも持っていないのです。これは、動くことのできない事実です。

けれども、悪魔は我々にいつも、「これは嘘だ。自分の生活を御覧なさい。」などと言うのです。
私たち一人ひとりは悪魔が攻撃している者です。そして何としばしば、私たちの弱さ、自分の罪、自分だけを見たことでしょう。
こういうふうに主は、すべてではなく、悪魔は権利の要求を持っていて、我々を訴えることができたのです。けれどもも、終わりは弱さではなく、主にある大いなる力であり、悲しみではなく、満ち溢れる喜びです。

私たち一人ひとりが、クリスチャン生活における一番小さいことでさえも、経験によって自分のものとしなければならない。ご存知のように、これは子供の遊びではありません。苦しみと困難によって、主が私たちを教育されます。
もちろん、あらゆる経験は問題ではなく、主なる神に対する礼拝が問題です。あらゆる経験の後ろに、礼拝は問題です。
私たちの経験は、終わりを意味していません。あらゆる経験の目的は、生けるまことの神を礼拝することのはずです。

苦しみと困難によって、私たちは、主をもっとよく知らなければいけないのです。
貴方は、「私はもうダメだ。自分の信仰は変になった。」などと言うかもしれないけれども、この教育の終わりに、貴方は主をもっとよく知ることができ、悪魔は貴方に対する権利の要求を失ってしまったということは明らかになります。
何としばしば、私たちは「ああ、悪魔は勝利を得た。」と考えたでしょう。けれども、主は忠実であって、終わりは、悪魔の勝利ではなく、主を拝むことです。信じる者の奉仕と礼拝について、考えるともちろん解かります。

旧約聖書を読むと、次の事実が解かります。すなわち、奉仕と礼拝は2つのものではなく、一つのことであるというのは解かります。
たとえば、出エジプト記7章16節に、「わたしの民を去らせ、彼らに、荒野でわたしに仕えさせよ。」とあります。そして、イスラエルの民は、主を礼拝するために、犠牲の動物を持って来なければなりませんでした。主を拝むことは奉仕でした。
どうでしょうかね。私たちの奉仕はいったい何なのでしょうか。主に対する礼拝でしょうか。貧乏人を助けたり、物を配ったり、訪問したりは、これは我々の奉仕でしょうか。このような奉仕をしながら、自己を高める。

悪魔を拝むことは可能なことです。したがって問題は、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるのです。
もちろんこれは、すでに定められた事実なんです。けれども、私たちは毎日の生活の最中に、「どなたに礼拝するでしょうか。悪魔ですか、それともイエス様でしょうか。」という一番大切な質問に答えなければいけないのです。
私たちは、主のためにいかほど奉仕するか、あるいはいかほど聖書を読み、祈ることは実に問題ではない。そうしたら大切なのは、いったい何なのでしょうか。主ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなるのはこれなんです。

我々の主に対する奉仕は、礼拝でしょうか。もしそうしたら私たちは、イエス様をもっとよく知ることができ、悪魔は、我々に対する権利の要求を失ってしまいます。奉仕と礼拝は、一つのことであるのを覚えるべきです。
いったいどうして私たちは、福音を述べ伝えるのでしょうか。ただ、人々が救われるように、そのためでしょうか。決してそうではない。
問題なのは、主なる神が礼拝の中心になるように。伝道する者は、終わりではない。この宇宙の終わりは、礼拝であり、そして他の事柄全部が礼拝にかかっているのです。

伝道の目的は、コロサイ人への手紙1章18節のように「主イエスご自身が、すべてのことにおいて、第一のものとなるように。」これこそが、伝道の目的です。
どうでしょうか、もし未信者が集会に参りますと、その人々は顔を伏せ、主なる神ご自身を拝み、「まことに主が、あなたがたの内にいる。」と認めざるを得ないのでしょうか。
もし、そうしなければ、我々の奉仕は、礼拝ではありません。

「主なる神が、あなたがたの内にいる」これが我々の奉仕の本質でしょか。我々の奉仕によって、主ご自身が、すべての事において、第一のものとなることができるのでしょうか。
これは、個人個人の生活、また共同的な生活の目的であるべきです。全国のあらゆる集会そのものは、終わりではない。
けれども、どこにおいても、イエス様の代表であるべきです。すべての集会によって、イエス様ご自身が、すべての事において、第一のものとなるように。未信者は、「まことに神が、あなたがたの内にいる。」という強い印象を受けなければいけません。

我々の交わりは、どうでしょうか。どうして、交わりは大切なのでしょうか。ただ良い気持ちを得るため、また一緒に喜ぶためなのでしょうか。
決してそうではありません。霊的な交わりは、悪魔の軍勢に対する、恐るべき力を意味しています。
したがって、悪魔は、いつの時代でも、この霊的な交わりを滅ぼそうと努めました。霊的な交わりによってのみ、未信者は「まことに神が、あなたがたの内にいる。」と認めざるを得ない。霊的な交わりは、決して理論や賛成することの問題ではありません。

霊的な交わりは、聖霊なる神の働きの結果です。この交わりは、悪魔は滅ぼすことができません。
問題が起こっても、苦しみと困難があっても、悪魔が攻撃しても、この霊的な交わりは確実です。
霊的な交わりは、実にイエス様に対する力強い証しです。すなわち本当の礼拝です。

どうですかね。一つのことを覚えましょう。すなわち、あらゆる出来事の後ろに、この礼拝の問題があります。
そして私たちは、いつもこれによって悪魔は喜ぶでしょうか、それともイエス様ご自身が、すべての事において第一のものとなるのでしょうか。
もし、悪魔はこれによって、自分の目的を達すると、私たちは、これを否定しなければならない。私たちは、毎日瞬間瞬間にこれを考えるべきです。

私たちは、何を得るかは問題ではない。イエス様が礼拝の中心になるかどうかが大切です。
宇宙の終わりは、全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのです。すなわち、礼拝の中心です。
その時、呪われるべきものは、もはや何一つない。主ご自身が、すべての事において第一のものとなるように、ひたすら祈りましょう。




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