備えあれば憂いなし


ベック兄

(吉祥寺学び会、2012/09/25)

引用聖句:ローマ人への手紙8章1節
1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

ローマ人への手紙8:38-39
38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

ピリピ人への手紙1:20-21
20それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
21私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

今読んできてくださった箇所とは、パウロの個人的な告白でもあり、彼の喜びの源でした。すなわち、いつになるかわからないけど、近いうちに殺されるかもしれない。
ピリピ人への手紙は、刑務所で中で書かれた手紙です。ですから出られるかどうか、殺されるかどうか全くわからなかったけど、彼は何の心配も恐れもなかった。
行く先は決まっている。

この間の土曜日でしたか、御代田で8人の兄弟姉妹のための記念会納骨式だったんです。いつも後で、残されている家族の中からどなたか証ししてくださいます。結論は、イエス様はすごい。イエス様は変わらない喜びを平安を与えるお方であるというものです。
あるドイツの出版社の息子は、テレビ局の人々に聞かれたことがあります。「ちょっと失礼なんですけど、あなたにとって最も大きなショックとは何でしょうかね。ガンになったと宣告された時ですか、全財産を急に失くすことでしょうか。あるいは、一生涯車椅子で生活することなのでしょうか。」と聞かれたんです。
息子の答えは「もし、神様がおられれば、それこそ考えられないほど恐ろしいことです。」と。主がおられれば、もちろん死は終わりではない。そうすると、必ず死後裁きを受けることになるからですと。結局、天国か地獄かのどちらかです。

確かに地獄すなわち永久的に光が見えないこと、平安なし喜びなし希望なしで存在することとは、考えられないほど苦しいことでしょう。天国について、聖書は言っています。「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」確かに夢の世界です。想像できない世界です。
初代教会の人々とは、もちろん迫害されていました。けど、殺されても行き先は決まっている。天国だと確信したのです。
結論は、今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものです。「また、天国で会いましょう。」

こういう生ける希望また確信を持たない人は、本当にかわいそう。行く先は真っ暗闇であるからです。我々の目的とは、天国でなければすべては面白くない。空しい。なぜならば心満たすものはないからです。
イエス様は、確かに天国の栄光についてよりも、地獄の恐ろしさについて話されました。
何十年前だったかわからないけど、一人の兄弟は、自分の葬儀のために、めったにないけど、小冊子を作っちゃったんです。そして初めの文章は、「本日は、私の昇天式にお集まりくださいまして、本当にありがとうございます。」希望に満たされていたからです。
彼はもちろん奥さんを亡くしましたし、それがきっかけになったんです。奥さんは39歳、末期のガンになって、一度見舞いに行こうと思って、その日もちろん2人に初めて会いましたが、けど2人ともその日悔い改めて、イエス様を信じるようになっちゃったんです。もう奇跡です。

別の時また見舞いに行った時、死にそうな姉妹は兄弟に何と言ったかと言いますと、「病気になったのは良かったね、お父さん。」、兄弟の答えは「あなたのお陰です。」
その意味は、「もし病気にならなかったら、救いを求めようとしなかったし、救い主に出会わなかったにちがいない。そうすると、真の喜びなし、本当の平安なし、生ける希望なし、存在しなければならなかったにちがいない。だから病気になったのは良かった。永遠のものを得たからです。」と。
この兄弟は、奥様が召されてから1年後、記念会らしいものを持つようになりました。その時彼の文章は本当にすばらしい文章でした。「もし、聖書を知らなかったなら、苦しみや悲しみにさいなまれ、運命を呪ったことでしょう。イエス様を信じて姉妹は死の恐怖から解放され、私も生き様が変わりました。今は再び天国で姉妹と巡り会える喜びと、主の御心と愛に感謝の気持ちです。」と言うことができたのです。

もう32年前ですか、家の娘リンデも病気になり、末期のガンだったんです。医者は一度手術したらと思って、開けるとすぐまた閉めたんです。もう終わり。もう何をやってもダメ。けど、娘は別にショックを受けなかったんです。不思議でした。
自分の健康や自分の幸せは別に、彼女にとって問題ではなかったのです。「ただイエス様だけが栄光をお受けになれば、私はありがたい、嬉しい」と。
ドイツで一人の方が尋ねたんです。質問しました。「あの子がそんなに喜んで死ぬことができたのは、いったいどういうこと。彼女がそんなにも、この世から離れ、目に見えるものに関心を持たないで、目に見えないものに関心を持ったのは、いったいどういうこと。」

リンデは書いたんです。「人格者とは、死を直視することのできる人です。」、ある人は、死後の問題は死んだ時に初めてわかるものだ。この世で生きている間は、そんな問題に煩わされない方がいいと確かに考えています。けど、そのような考え方について、私たちはいったいどのように思うのでしょうか。
確かに、死についての人間の考え方は、いろいろ違います。一般に死について、何か話そうとすると、だいたいの人々は、いやな顔をして拒む人が少なくない。
太陽の王様と呼ばれた、有名なフランスのルイ14世は、葬式の列が通るのを見た時すぐ、命令したんです。「カーテンを閉めろ」結局、死について考えたくなかった。彼は、自分が望むものはもちろん全部持っていたんです。名誉も地位も財産も、あらゆる物を手に入れた有名な王様でしたけど、彼が一番嫌ったもものは死だったんです。

ドイツの偉大なる詩人だったでしょう。ヴォルフガング・フォン・ゲーテという男は、やっぱり死について考えたくなかった。死を嫌ったため、非常に親しい人の葬式でさえも出席しなかったんです。
多くの人々は、いろいろのことについて計画的に考え、その計画に従って行動しようとしますけど、死に対しても同じように考えようとすると、メチャクチャになってしまいます。何の計画も立てられなくなってしまいます。そして生きている限りは、できるだけ楽しみたいという強い願いを捨てきることが出来ない。
しかし、悪魔は、そのような人々にささやきかけ、死のことについて深刻に考えることを止めさせたり、あるいは目をくらませて、享楽的な生活へと誘惑したり、絶えず悪のわなに引き込もうとするのです。しかし、実際問題として事実は、上に述べたことは違った結果を示しています。

前の警察の報告だったんですけど、毎日この国で一時間ごとに、少なくても24人の人々が交通事故で死んでしまう。おそらく、それは20何年前の報告だったんですけど、今は増えているのではないでしょうか。
第1と第2世界大戦の2度にわたる世界戦争では、8,000万人の人々が殺されてしまいました。この国で、毎年少なくても3万5千人以上の社会人が命を捨てて死にます。残された家族の悩みまた苦しみとは、いかなるものなのでしょうか。
死とは、否定することのできない事実です。死について、真剣に考えようとしない者は、愚かであると言わざるを得ません。

たとえば、ボルネオという所で、珍しい儀式ですかね、習慣があります。どういうものかと言いますと、それは結婚式の時に、新郎と新婦の間に死んだ人の頭蓋骨を置くという風習です。その意味するところは、人生で最も幸福な時、死を忘れないようにということであると言われています。
冷静な人は誰でも、死がすべての終わりを意味するのではないということを認めざるを得ません。主なる神によって造られた人間の人生の目的が、死によってピリオドを打たれるとは、どうしても考えられないからです。
働いている人は必ず、何らかの目的を持っていることは間違いない。もし大工さんが、無計画に目的もなく家を建てるようなことがあったとしたなら、それこそ全く意味のないことです。仕立て屋さんが布を裁断して洋服を作る場合、必ずはっきりとした目的を持っていることは言うまでもない。意味がなく、目的がなく、計画がなければ、誰も働くことができません。

従って、全能なる主が、人間を創造された時に、はっきりとした一つの目的を持っておられたことは明らかです。
主なる神は、決して人間の死、人間の滅びを望んでおられません。主は、人間が生きることを望んでおられます。従って、私たちは死ぬことについて考える時には、死そのものだけを思い出すのではなく、死後に来るものに注意を向けなければならないのではないでしょうか。
いろいろな点についてちょっと考えたいと思います。

第1番目、我々の数10年間の人生というものは、それですべてが満たされるためには、あんまりにも短かすぎるということです
現在私たちの世界では、一番長生きしたとしてもせいぜい120歳ぐらいが限界です。けど、100歳まで生き長らえた人の数は、そんなに多くないのではないでしょうか。私たちは、この問題について真剣に真面目に考えるならば、聖書の言っていることが正しいと認めなければなりません。
すなわち、「あなたがたは、しばらくの間あらわれて、たちまち消えていく霧にすぎない。」と聖書は言っています。

私たちは、100年前にどこにいたでしょう。そして100年後には、いったいどこにいるのでしょうか。私たちの全人生が、あまりにも短すぎるために、死後の世界があるのではないかという考えが、自ずから出てくることも当然と言えるでしょう。
この問いに対してもちろん聖書だけが、はっきり別の世界があると言っています。
なぜならば、人間の人生は、あんまりにも短すぎてそこには本当の意味がなく、死んでから初めて本当の世界が始まるからです。

第2番目、主なる神ご自身が、人の心に永遠を思う思いをさずけられたと聖書は言っています。
人間は、主なる神の形に似せて造られました。そして主なる神が、その人間に永遠とは何か、完全とは何か理解する力をお与えになりました。人間は、決して過ぎ行くはかないものや不完全なものによっては、心が満たされません。
人間は、心から愛し、心から愛されることを望んでいます。それですから、この世の人間的な愛に、何回も失望するのです。

芸術家は、情熱を持って完全なものを作ろうとしますけど、しばしば自分の作ったものを破壊してしまう。どうしてであるかと言いますと、自分の作ったものといえども、決して完全なものではないからです。
青年は、将来に対して無限の希望を持ち、それが永遠に続くかのように思うでしょう。けれどもそれに対して、老人はそれほど夢多き将来を考えることがありません。
若者にとって、一年といえども非常に充実した意味のある長い一年のように思います。しかし、老人は過ぎ行く一年が、非常に短くはかないものであるということを、体験から知っているのです。

人間の欲望は、新しいものが次から次へと与えられても、決して満足していないのです。それは悲劇であると言わざるを得ない。次から次へと移り変わる新しい流行を必死に思い求めても、そのことが幸せをもたらすとは言えない。
実業家は、日夜金儲けのために努力します。独裁者は、自分の国を支配するに留まらず、やがては世界を支配しようと無限に欲望を高めています。
いわゆる仕事の鬼は、仕事だけを大切にして、他のことは何も考えないように一生懸命に苦労しますが、結局、何のために生きているのか解からなくなってしまい、息が詰まってしまうのです。

確かに人間的に見ると、仕事が成功し、金持ちになり、病気もせず、非常に幸福そうに見える人であっても、常に満たされない思いが心にあるため、主なる神の目から見ると、決して幸福ではありません。
主なる神の御心は、我々人間が永遠のいのちを持つことに他ならない。
それですから、主なる神以外に、我々の心を満たしてくださる方はこの世にいないのです。

ヨハネの福音書の4章を見ると、5人の夫を持つ姦淫の女の方が描かれています。疑いもなく彼女は、幸福になりたいという願いを持っていました。しかし、彼女の切なる思いは決して満たされなかったのです。
けれどイエス様は彼女に、「しかし、わたしが与える水を飲む者は、誰でも決して渇くことがない。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」、彼女は、イエス様に「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
有名なアウグスティンという男は、昔、「私たちが、主なる神のもとで憩うまでは平安がない」と告白したのであります。

もう一つの点、もしも死後の世界がなかったならば、この世は全く意味のないことでしょう。
永遠なるものから初めて我々の人生が意味あるものとなるのです。
もしもすべてが死でもって終わるとすれば、生きている時のあらゆる努力は、いかなる価値を持っているのでしょうか。

世界一の有名な王様とは、間違いなくソロモンという王でした。彼は、「この世のものは全部空しい、空の空である」と告白したのです。
けれど、彼はもちろんご存知のように、名誉を持っていましたし、知恵も財産も欲しいものは全部持っていたんです。しかし彼は、すべては大したものじゃない、空しいと告白せざるを得なかったのです。
この世で永久に価値を持続するものは何一つない。私たちが生きている時に持っているものは、すべて死と同時に私たちから離れてしまいます。

唯物主義者は、次のように言うでしょう。「私たちは、飲み食いしようではないか。明日もわからぬ命なのだから。」、けどこの哲学は、憤慨と絶望の表現であると言えましょう。
なぜならば、若くて金もあり、時間も充分にある者が飲み食いすることは、難しくないかもしれませんが、歳とって金もなくなった時には、ただ病と死だけが待つようなことになるでしょう。
死後の問題を本当に解決することができないなら、まさに自殺するか、気が狂うようになるかいずれにしろ、悲惨な道だけしか残されていません。けども自殺は、決してこの問題を正しく解決するものではなく、それから逃避することを意味することの他何ものでもない。

第4番目、この世の正義と言えども、決して我々を心の底から満たしてくれるものはありません。なぜならば、正義と言えどもこの世においては、我々の完全な正義に対する熱望を満たしてくれないからです。
この世における多くの不義は、必ずしも正しく裁かれているとは限りません。
また反対に、この世で正しく生きている人々が、それ相当の報酬を与えられているかというと、必ずしもそうとは限りません。むしろ真理のために迫害されたり、殺されたりした人さえいるのです。

もしも死によって、すべての終止符を打つならば、人生は全く意味のないことです。確かに死んでわかることとは、誰にとっても等しく悲しいことでしょう。けど、それにもかかわらず、死んでから再び愛する者と会うことができるという確信を持つことができるということは、深く考えさせられることなのではないでしょうか。
愛する者との死の別れは、一時的なものにすぎない。必ず再開できるという確信を持つことは、イエス様を信じる者にとって、最後の慰めまた喜びでもあります。
もちろんその時に、顔と顔を合わせて合間見えることができ、イエス様に似た者となることこそ、主のご計画に他なりません。

ただ単に人間が永遠の存在として造られ、完全なものを追い求めて行くために造られただけではなく、主ご自身のために造られたのだということを忘れてはなりません。すなわち、初めての人間であるアダムの罪により、主なる神から離れてしまった人間は、どうしても神との生き生きとした交わりを回復しなければ、本当の意味で生きていくことができません。
救われた者が、永遠にイエス様との交わりの中で、時を過ごすことができるという確信を持つことができるとは、何というすばらしいことでしょう。
あらゆる宗教は、あの世のことについてはっきりしたことを言わない。単なる想像にもとずいて抽象的なことを言っているにすぎない。けど聖書は、信じる者にとっても未信者にとっても、死後の世界があることをはっきりと言っています。

聖書によると、アブラハム、イサク、ヤコブがすなわち4千年前に生きた人々が、今もなお生き続けていると聖書は、はっきり言っています。死んだけど生きているとイエス様は言いました。これこそ考えられないことですけど、そうです。
救いを得る道とは、もちろん簡単です。へりくだればOK。「あわれんでください。お赦しになってください。」、この態度をとる者は、経験します。すなわち主は、決して捨てません。
救われている人々、また救われていない人々も死後も生き続けるゆえに、終わりはない。主なる神によって、救われた人々は永遠のいのちを持ち続けることは明らかです。つまり死後、救われた人々は永遠のいのちを持って、主なる神と共にいるようになり、結構です。頭を下げたくない。悔い改めたくない人々は、苦しみと苦悩の中に滅びなければならないと聖書は言っています。

これらの事を解かり易く要約すると、次のように言えるのではないでしょうか。
第1、人間は生まれた時、魂が与えられ、そのために永遠に存在する権利を与えられます。
第2、そのような人間が、罪を悔い改めて、救い主を信じ受け入れれば、信仰によって新しく生まれ変わるときに永遠のいのちを与えられます。
第3、そのような人は、復活の時に不滅のからだを与えられます。

確かに未信者と言えども永遠に存在するわけですけど、新しく生まれ変わらないかぎり、本当のいのちをすなわち永遠のいのちを持つことができません。
本当のいのちは、イエス様との交わりの中にあって始めて存在するのです。
有名なヨハネの福音書17章3節を見るとイエス様は、次のように言われました。

ヨハネの福音書17:3
3その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

主を知ることとは、永遠のいのちを持つことです。
ヨハネの手紙第Iの5章20節。非常に短い大切な箇所です。エホバの証人たちは、必死になってこの節を絶対に引用しません。何を書いているかと言いますと、イエス・キリストは真実な神であり、永遠のいのちである。

ヨハネの手紙第I、5:20
20しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

まことの神を信じない未信者は、この世でも本当のいのちを持っていない。ただ存在しているだけ。すなわち主なる神との平和を知らないから、本当の意味で満たされていません。
前に話した有名なヴォルフガング・フォン・ゲーテという男は、彼の全生涯において、24時間本当の幸福だったことはなかったと言ったのです。
何故人間はそのような満たされない状態にあるのでしょうか。その原因は、まさに人間の心に本当の平和と平安がないということです。

人間は、死後裁きを受けるため、人間は平安がないと聖書は言っています。
イエス様は、主なる神との贖いをしてくださいました。イエス様は、主なる神に対する敵対関係を無にしてくださったのです。我々人間は、主なる神から離れている、罪あるいは、債務は、イエス様の尊い犠牲によって完全に取り去っていただいたのです。
まことの平和は、イエス様を信じることによって与えられるものです。イエス様を信じる者は、主なる神との平和、また贖いを持っているし、安心してすべてを任すことができるのです。

有名な音楽家であるバッハという男は、多くの名作を残しました。その中でもはっきりと歌っているように、心から死を待ち望んでいる、つまり生きているこの世よりも、死んだ後に来る世界のすばらしさを、信仰の目で見ることができた彼は、死を賛美せざるを得なかったのです。
信者といえども罪人である以上、本来は未信者と同じように黄泉の国へ行かなければならない運命に定められていましたが、ひとり子なる主イエス様の十字架によって、罪が贖われ、罪から解放されたために、永遠のいのちを持つことができたのです。そのために信じる者は、もはや死を恐れる必要はない。
前に読んだ箇所をもう一回読んで終わりましょうか。

ローマ人への手紙8:1
1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

ローマ人への手紙8:38-39
38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

その意味で、死は信じる者にとって、信仰によりイエス様に近づくための橋渡しの役割を果たすと言えましょう。
したがって、信じる者は死を恐れる必要を全然持たないわけです。だからパウロは、前に読んでもらいましたピリピ人への手紙1章20節から言うことができたね。

ピリピ人への手紙1:20-21
20それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
21私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

主の恵みによって救われた人々にとって、死ぬことはイエス様と共になることを意味しますから益です。
パウロは、死ぬことと生きることと、どちらが良いか考えた時に、死ぬことを選んだんです。けれど、パウロは多くの人々のために、奉仕をしなければならない必要を感じたため、さらに生き続けることを決心しました。
その問題がなく、パウロ一人だけのことであったならば、おそらく死ぬことを選び、死ぬことを喜んだに違いない。

軽井沢に小さい外人墓地があります。次のような聖句の刻まれた墓があります。これを見た時、本当にうれしかった。何を書いているかと言いますと、「この世を去って、キリストと共にいる方が、はるかにすばらしい。」
誰の墓かわかりません。けども、こういう考え方を持つこととは、すごいなのではないでしょうか。
イエス様を信じる者にとっては、信じない人々がすべてがいだくような、死の恐ろしさが全然ありません。

昔の話なんですけど、ドイツのヒットラーという男は、ユダヤ人をみな殺すことを思っただけじゃなくて、皆に約束したんです。成功しなかったんですけど、600万人の人々を彼は殺すように命令しました。
その当時、オランダでテンブームという家族がおりました。この家族は、多くのユダヤ人を匿いました。彼らによって、多くの人が殺されないで、逃げることができたんです。けれどある時、ドイツの秘密警察であるゲシュタポが、それを見つけ出しました。全員、強制収用所に送ってしまったんです。
一人を除いて皆、殺されてしまいました。けれどもその時、彼女の父親は、家を去るにあたって、大喜びで集った人々に言いました。「一番すばらしいことが、これから始まる。」この言葉の意味は、彼らの出発が恐ろしい死の旅ではなく、イエス様と共になるための最後の喜びと感謝の旅に出かけるという意味です。

将来与えられる栄光を見て、イエス様のものとなった人々は、いかなる艱難の時も、イエス様を喜ぶことができるのです。なぜならば、将来に対して、何の不安も持っていないから。
私たちは、将来のことをもちろん知ることができません。けれど、いのちの君であるイエス様を知っているのです。したがって、将来に対するすべての問題が答えらるのではないでしょうか。
イエス様ご自身が、我々の将来です。あらゆる不安と心配は、イエス様によって、慰められるのです。

イエス様は、ご自分を信頼する者を、必ず目的地まで導かれるのであります。それですから私たちは、喜ぶことができ、誇ることができ、感謝することができるのです。
ダビデのごとく、詩篇23篇の中で次のように書かれています。

詩篇23:1、4
1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

この態度をとる者は、本当に幸せです。




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