バンクーバ喜びの集い


ベック兄

(バンクーバ喜びの集い、2004/03/21)

引用聖句:ピリピ人への手紙2章9節-11節
9それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

数えられない多くの人々は、イエス様を「助け手」として、「救い主」として知るようになり、けども主の支配をあまり望まない。これこそが悲劇的なのではないでしょうか。
礼拝とは、いったい何なのでしょうか。

先日、ある姉妹は、息子さんが学校の運動中に倒れ、天に召されました。
葬儀に出た人々は、みんな手紙をもらいました。その中でローマ人への手紙8章38節、39節を引用して、「私はこう確信しています。息子の死も、私の主キリスト・イエスにある神の愛から、私を引き離すことはできません。」という、非常にすばらしい証しが書かれていました。
葬儀の後で、姉妹も証ししてくださったのです。

「今まで私は、よくいろいろなことについて祈りました。『イエス様、ああしてもらいたい、こうしてもらいたい』
けど、今回こそ、そういう祈りをささげられなかったのです。なぜならば、主の思いとは何であるか、子どものために一番いいのは、何であるかさっぱり分からなかったから。
だから『癒してください』と祈れなかった。『よろしくお願いします。あなたは完全であり、あなたの導きも完全ですからお任せいたします。』」

イエス様を主として認めることとは、こういう態度をとることなのではないでしょうか。
イエス様は、自分のことについて次のように言われました。

ルカの福音書6:5
5「人の子は、安息日の主です。」

結局、「わたしは、主です。」、そしてペテロは使徒の働きの10章36節に、次のように証ししました。

使徒の働き10:36
36神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。

「イエス様は、すべての者の主です」とペテロは、証ししたのです。もう1箇所、コリント人への手紙第Iの8章6節に、パウロはコリントにいる兄弟姉妹に次のように書き送ったのであります。

コリント人への手紙第I、8:6
6私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。

パウロはここで、何回も「イエス様は、主。唯一の主である」と書き記したのであります。イエス様の支配こそが、満たされる秘訣です。これこそが使徒の働き、また使徒たちによって書かれた手紙の中心テーマです。
イエス様は、すべての者の主であられるから、初代教会は、生き生きとした証しでした。初代教会の人々の宣べ伝えたのは、「イエス様は、助け手だよ。救い主だよ。」よりも、「イエス様は、主である。」と彼らは宣べ伝えたのです。
だからこそ、彼らは満たされていたのです。変わらない喜び、まことの平安と生ける希望に満たされたのです。満たされる秘訣とは、結局、主の支配です。

ちょっと3つの点について、一緒に考えたいと思います。
第一番目、今日の悩みとはいったい何なのでしょうか。
第二番目、解決する方法とはいったい何なのでしょうか。
第三番目、主の御心とはいったい何なのでしょうか。

第一番目、今日の悩みとはいったい何なのでしょうか。今日の世界中の教会における大きな悩みは、少なくても迫害されていない信ずる者の悩みは、イエス様の満たしに欠けてるということです。
この満たしの欠乏を素直に認めて、「私は富んでる。私は豊かである。」という思いを捨てなくちゃならないなのではないでしょうか。

ヨハネは、ヨハネの黙示録の中で、高く引き上げられたイエス様は、ある教会、すなわちラオデキヤの教会の兄弟姉妹に、次のように言ったのです。

ヨハネの黙示録3:17
17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

結局、当時の信ずる者の思いと考えと、主であるイエス様の思いと考えとは、全く違いました。われわれ信ずる者の考えと異なり、主の仰せになることは全き真実です。

多くの人々は救われ、兄弟姉妹の群れに加えられますけど、ちょっとしたつまずき、それまで前へ進んでいた者が止まってしまい、前進することができなくなり、満たしにいたらない状態です。
それらの兄弟姉妹の霊的生活は、主の満たしに至っていない。これらの兄弟姉妹は、初めに経験した「救い」についてもちろん話しますし、けども主の新たなる恵みについて語ることをしない。前進が止まってしまってる場合、多くにおきます。

これらの兄弟姉妹は、主のあわれみによって、べつに努力することはしなかったけど、前へ進むこともできなくなっています。これは、大きな悲劇なのではないでしょうか。
結果として、周りの人々も相変わらず悩みますし、迷うようになります。

第二番目、解決する方法はいったい何なのでしょうか。
イエス様は、いったいどうして初代教会の兄弟姉妹を、あんなにご自身のかたちに造りかえることができたなのでしょうか。
なぜ、初代教会の兄弟姉妹は、あんなに霊的に内面的に進歩したなのでしょうか。
なぜ、初代教会は、あんな早く成長し、毎日信者が加えられたなのでしょうか。
また、いったいどうして最初の日、いわゆる教会の誕生日、五旬節に、3,000人もの人が加えられ、それからしばらくして5,000人もの男だけが加えられ導かれたなのでしょうか。
また、どうして短い間に、あの広い世界に福音が宣べ伝えられるようになったなのでしょうか。
どうして、初代教会には、霊的な光といのちが満ちあふれていたなのでしょうか。

その答えは、先ほどのみことばである、すなわち、「すべての者の主であるイエス様」、この言葉の中にあるのです。
初代教会の兄弟姉妹は、イエス様を助け手としてだけでなく、本当の意味での主として受け入れそして宣べ伝えたのです。イエス様のご支配を、自分たちのメッセージとして宣べ伝えたのです。
言葉だけじゃなくて、実際生活において彼らは、「イエス様は、すべての者の主である」ことを証ししたのです。イエス様のご支配こそが、満たしの秘密です。

けど、「満たし」とはいったい何なのでしょうか。聖書で使われてる満たしとは、完全な満足、そして絶えない涌き出ずる喜び、また限りない主にある平安を意味します。
「イエス様がわれわれの実際生活の主とならなければ、このような満たされた生活に入ることができない。」、こう言いますと、「それはもちろんそうだ。イエス様はすべての者の主である」と、誰でも言われるかもしれない。

信ずる者は、みなイエス様のご支配を信じてますけど、多くの場合信ずる者にとって、「イエス様は、すべての者の主である」という事柄は、抽象的な事実にすぎない場合が多いなのではないでしょうか。
新生した、新しく生まれ変わった兄弟姉妹の多くは、主のご支配を頭の中で信じていますけど、少数の信者は実際に、具体的にイエス様は支配したもう主であることを知り、かつ実践しています。

イエス様は、多くの信ずる者の内で、主となっていない。これが多くの悩みの原因です。また、あらゆる欠乏の原因でもあります。もしイエス様がわれわれの心の内を、全く支配しておられれば、私たちを支配する他のものは、何一つなくなるはずです。
われわれは、ありとあらゆる偶像から、全く縁を切ってるのでしょうか。多くの偶像の一つは、自分の意思、自分の思いであります。

結局、われわれの心の王座には、誰が座ってるなのでしょうか。誰が支配してるなのでしょうか。イエス様でしょうか。あるいは自分なのでしょうか。私たちの性質なのでしょうか。好き嫌いなのでしょうか。
イエス様が、われわれの心の内に王となっておられなければ、幸いなる、豊かな、主イエス様の提供されてる満足、喜び、平安と望みを、自分のものとすることは決してできません。

私たちは、本当にしばしば自分の考えを正しいものと判断し、自分の考え方だけが正しいとしてしまいます。「おのれが正しいのである」と、あんまり強く主張するので、主は、その人の主となることができないのです。
イエス様にお従いした弟子たちも、満たされる前は、イエス様に心の内で反感を持ち、口ごたえいたしました。その時の弟子たちの内では、イエス様が主となっていたのではなく、自分自身の意思、自分自身の感情、自分自身の考えだったのです。

これらの主の喜びに適わない、自分の意思、感情、考えが、十字架によって粉々に砕かれる時、その時、主が支配する道を大きく開いていてくださいます。
主なるイエス様が、われわれの内に全きご支配の権を取る時、初めてそこに、主イエスの豊かな満たしが訪れてまいります。
全聖書は、この事実をわれわれに証明しています。

そのうちの3つを、ちょっとだけ取り出してみたいと思います。
第一番目は、イスラエルの歴史です。
第二番目は、ペテロであり、
第三番目は、パウロであります。

第一番目、イスラエルの歴史。
イスラエルの歴史について、旧約聖書はたくさん言ってるのです。創世記の12章からマラキ書の終わりまで、結局、イスラエルの歴史についてだけ書かれています。

ある時、イスラエルの人々は奴隷になってしまったのです。選ばれた民でありながら、彼らは毎日毎日奴隷の生活をしなければならなかったのです。いつ解放されるかを知らず、絶望と苦しみの生活であり、行き先はただ死を待つのみであった。
あのエジプトから導かれたイスラエルの民は、荒野でさまよい続けましたが、その間、欠乏、不平、不満が絶えなかったのです。このようにして、イスラエルの民は40年間の間、荒野をさまよい続けました。

この間、主が支配者であることを知りながら、自分の意思が、また考えが支配しようとし、迷い続けて、ついに40年のうちにヨルダン川にやってきました。
このヨルダン川に来たときに、イスラエルの民の指導者であるヨシュアに、主の軍勢の将が現われたのです。

ヨシュア記5:13-15
13さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの見方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
14すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
15すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

靴を脱ぎ、主の御前にひれ伏したということは、主に自分の持ってる一切の支配をお任せするということを意味するのです。
この時から、イスラエルの民は、主が前からすでに備えてくださっていた「満たし」を経験するようになりました。主が支配すると、人間は満たされます。

また一方、旧約聖書の士師記を見ると、この時のイスラエルの民は、主の満たしを持っていなかったのです。士師記の時は、もうすでにイスラエルの民は確かにヨルダン川を渡って、約束の地カナンに入って来てからのことでしたのに、満たされていなかった。「満たし」を失ってしまったのです。
そこには、ただ政権と絶望と束縛と囚われがあるばかりでした。

けど、神の御心にかなった王様であるダビデは、イスラエルの民の王になったとき、再び「主の祝福」と「満たし」がイスラエルの民に訪れたのです。
どうしてでしょうか。神の御心にかなった王であるダビデは、すべての支配を主にお任せしたからです。主のご支配が、主の満たしにいたるカギのようなものです。

第二番目、ペテロ。
新約聖書にも同じことが見られます。使徒たちの内に、イエス様が主であられるまで、あの大きな働きをした人と言えども、敗北と弱さに負けていたのではないでしょうか。
天におられ、諸々の支配者であられるイエス様が、五旬節におよび、使徒たちの心のうちに王となり、支配者となったとき、使徒たちは満たされ、本当に心からなる喜びを持って「イエス様はすべての者の主である」と宣べ伝えるようになったのです。使徒たちは、イエス様を主として宣べ伝えたのです。

ちょっと、ペテロの生涯について考えるとはっきり分かります。イエス様がペテロの支配者となるまでには、大変な戦いがありました。
ご存知のようにペテロは3年間イエス様と一緒に生活しました。意味は、イエス様の愛を受け、イエス様の多くの奇跡を目のあたりに見て、イエス様はまことに約束された救い主であることを、彼はもちろん信じました。
けどペテロは、イエス様が囚われ、自分の身に危険がおよんだとき、彼は何と言ったなのでしょうか。イエス様を指して、「私は、あの人を知らない」と、一回だけじゃなくて、二回だけじゃなくて、三回も言ったのです。その時のペテロの心は暗やみでした。

その後、イエス様がペテロの心のうちに光となり、支配者となるまでに、もう多くのいろいろな戦いがありました。そのうちの一つの戦いが、おもに使徒の働きの10章に書かれています。
ペテロはある時祈りました。その時、異象を見たということが使徒の働き10章に書かれています。ペテロが祈っておりますと、天から大きな布に包まれて、いろいろな種類のきよくない汚れた動物が天からつり下ろされるのを見ました。
それだけではなく、天から声があり、「ペテロよ、これを食べなさい」ということでした。

ペテロは、「私はきよくないものを食べるわけにはいかない。」、天からの声に逆らいましたが、ペテロに与えられたこの幻は、一回だけじゃなくて、二回だけじゃなくて、三回も起こりました。
そして常に、包まれた動物が天に引き上げられた時、ペテロはやっぱり真剣に考えたんです。「いったいどういうことですか。旧約聖書の中で『汚れた動物は食べてはいかん』と書いてるのに、どうして、主は、『今、食べなさい』と言ってるの?」

ちょうどその時、ドアがノックされて、コルネリオというローマ人の召し使いが訪れて、「どうか、コルネリオの家に来てください。」と頼みました。そこでペテロは、きよくないとされている異邦人のもとに行くことになったわけですけど、その決心が固まるまでには、並々ならぬ戦いがあったわけです。
普通のユダヤ人は、当時ユダヤ人でない人々に挨拶しなかった。知らん顔したんです。ですから、異邦人の家に入るのは、もちろん絶対に許されていなかったのです。

ペテロは戦いに勝ち、主に全く従ってコルネリオの家に参りました。とくに、主の偉大なる栄光と祝福を経験することができたのです。使徒の働き10章33節に、すばらしい挨拶の言葉が書かれています。

使徒の働き10:33
33よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。

意味は、「私たちは聞く耳を持ってます。主のなさったことを聞かせて。」、人間のすべきことではない。
そして、ペテロに与えられたメッセージとは何であったかと言いますと、「キリストは全ての者の主である。」

人間的に考えれば、あの異邦人たちは旧約聖書を知らなかったし、どうして救い主が約束されたのか分からなかったし、ですからもう少し、イエス様の救いについて話したならよかったじゃないでしょうか。
けどもペテロは、人間的に考えれば的外れなことを話したのです。すなわち、「イエス・キリストはすべての者の主である。」、メッセージが終わらないうちに、主は奇跡を成してくださり、みんな聖霊に満たされたのです。

五旬節の時3,000人のユダヤ人だけ、聖霊に満たされたのです。結果として、彼らは前よりも傲慢になったかもしれない。「私たちこそ」と思った人は、非常に多かったんです。
けども、今度コルネリオの家で集まったみんなは、もちろんユダヤ人ではなかったのです。そして、彼らはみんな、いわゆる五旬節のことを経験するようになったのです。

もちろんペテロは、異邦人の家に来て、必ず後で攻撃されます。ヨハネも賛成しない、ヤコブも反対、どうしましょうか…。確かに、そういうふうになったんです。彼は攻撃の的になりました。けども彼の弁解よりも、証しとは11章17節に書かれています。
「どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」、「私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになった…」

それから、みんな、もう答えられなくなってしまった。結局、「主は、ユダヤ人の主だけではなく、すべての者の主である。」と彼らは認めざるを得なくなったのです。
私たちもペテロと同じように、新しく心の目を開き、「イエス様は、すべての者の主である。」ことを知るならば、その結果、主の豊かな満たしに与ることができると確信するものです。

第三番目、パウロ。
イスラエルの民だけではなく、ペテロだけではなく、パウロの経験も同じものでした。
パウロは、非常に早く内面的、霊的に成長した男でした。彼は、早く霊的に満たされた、主の器になったのです。いったいどうしてでしょうか。
パウロは、当時秀才が集まったガマリオの・・・

(テープ A面 → B面)

・・・パウロは、イエス様を信ずる者を迫害するために、ダマスコに向かって急いでる、その道すがら、主の光に照らされ回心してから数日の間、ダマスコの兄弟姉妹とともに過ごし、それから直ちにイエス様を紹介したのです。「救い主」としてではない。「すべての者の主」として紹介したのです。

なぜ、パウロはそのように、霊的に早く成長したのでしょうか。パウロは回心した時に祈ったのです。そしてその時、彼はイエス様を「救い主」と呼んだのではない。「主」と呼んだのです。
「主よ、あなたはどなたですか。」、すぐ後で、「主よ、私は、いったいどうしたらいいなのでしょうか。」
2回もパウロはイエス様を「主」と呼びました。初めからパウロにとって、イエス様は限りなく「主」でした。これが、満たされた、祝福された生活の秘訣であります。

使徒の働きを見ると、かの人たちは、イエス様を「救い主」として宣べ伝えなかったのです。いつも「王の王」として、「主」として宣べ伝えたのです。
なぜならば、使徒たちはイエス様の永遠からのご計画は、「イエス様がすべての者の主である」ということを知っていたからです。イエス様は、すべての者の主となられるために救い主となられたのです。

もし、全人類が悪魔の支配の下にあるならば、イエス様は支配者となることができません。ですから、イエス様は十字架にかかり、全人類を悪魔の支配から解き放ち、救い出し、そして支配者となられたのです。
「イエス様は、すべての者の主である。」、これが使徒たちの証しでした。もし、イエス様が主であるならば、救い主でもあるはずです。
イエス様は、私たちの生活において救い主であられるだけじゃなくて、主としてあがめられていなければいけないのです。

私たちは、新しく生まれ変わっただけじゃなくて、主を宣べ伝える器とならなければならない。だから使徒たちは、イエス様を「主」として宣べ伝えたのであり、それが父なる神の御心であると宣べ伝えたのです。
イエス様のご支配は、イエス様の豊かな満たしに至る秘訣です。

最後に、信者一人一人に対する主の御心とはいったい何なのでしょうか。主なる神の御心は、「私たちが救われることだけではなく、救われた後、御子イエス様によって完全に、生活が支配される」。
これが、主なる神のご目的です。主はどんな価を払っても、この目的を達しようとしておられます。

信ずる者である私たちの生涯には、偶然がありません。全てが導きです。私たちが「主は、すべての者の支配者である」ということを認めるまで、主は、いろいろな理解しがたい事柄を通して導いてくださいます。
主は、私たち信者を一人一人、個人的に、「ご自身がすべての者の主であられることを知らせる」、その目的に導いておられます。
主は、パウロの場合にそうされたように、私たちをも個人的に導いてくださいます。

パウロは回心した時、ともにいた者はみな、パウロと全く同じように地に倒れてしまったと書いてあります。けども主は、パウロを個人的にお取り扱いになりました。
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」と、パウロの母国語であるヘブライ語で、パウロ一人に、名指しでお語りになりました。使徒の働き26章14節を見ると、次のように書かれてます。

使徒の働き26:14
14私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。

私たちは、パウロと等しい経験は持っていないかもしれないけど、主は、私たち信者を個人的に導いておられます。
私たちの生活において、主が絶対的な支配者の権をお取りになることができるかどうかが問題です。多くの兄弟姉妹は、イエス様を、奴隷以上のものに取り扱っていないでしょうか。
彼らが悩みに沈んでいる場合、彼らはイエス様の助けを求めます。また弱っている時、彼らはイエス様から力を得たいと思っています。また、彼らが自分一人で、もはやできない時、イエス様に飛び込んでもらいたい、助けてもらいたい。イエス様は、彼らに仕えるべきなのである。けども、彼らはイエス様の支配を欲しくない。

聖書は、そのようなキリスト者を「肉のキリスト者」と呼んでいます。なぜなら「肉」すなわち「自己」が、支配を持ってるからです。
そこには、多くの心の悩みがないでしょうか。自分のための生活が、本当の信仰生活にとって障害となってることを、しばしば感じます。
もし、イエス様がわれわれの生活の主でなければ、私たちの人生は価値を持っていないということになります。悔い改め、イエス様を信じ、新しく生まれ変わることは、主のご目的の第一歩にすぎない。実に多くのキリスト者は、主のご目的であり、主の豊かな満たしを達していない。イエス様の支配に従う結果は、イエス様の豊かなる満たしであります。

主の目的とは、いったい何なのでしょうか。イエス様は何を願っているなのでしょうか。
私たちは「主の御心にかなった者となりたい」、その願いを持っているなのでしょうか。
イエス様が、われわれの心の内、心の王座に主としてあがめられ、限りなく支配をなしたもうその時初めて、主の御心を満足させるのです。

エペソ人への手紙1:23
23教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

主のご目的は、欠けたところのない完全なる満ちた主イエス様ですけど、天におられるイエス様は、救われた兄弟姉妹のかしらにすぎません。主は、完全なお方とはなり得ないはずです。ですから、私たち信ずる者が、主にとって、どんなに大切であるかがよく分かります。主のご支配は満たしのカギです。
けどここでは、「教会、すなわち信者たちの群れは、満たしである」とみことばは言ってます。ですから、主のご支配は教会の秘密、霊的成長の秘訣であるということになるわけです。

私たちは、今日パウロと同じように、ガラテヤ人への手紙2章20節に書かれてますけど、言うことができれば、すごいと思います。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

と。信仰によって、心からこのみことばを言い表すことができ、また喜んでこう言うことができるようにしましょう。これは、全く実際的な事柄です。決して宙に浮いた抽象的なものではない。
日常生活でいろいろなことが起こってきます。けど、何かをしようとする場合、自分でことを決心することができない。主とともに十字架につけられ、自分はもはや生きていないから、自分ができることは、「主よ、私には何もできません。どうしたらいいか、全く分かりません。ただ御心をなしてください。私のなすべきことを教えてください」と言えるだけです。

これこそが、イエス様のご支配です。もしそうなったら、私たちは一言も語らずに、主は、すべての者の主であることを証しすることができます。
そうなったらなら、私たちは自分の計画を遂行することをやめ、自分の目的を追い求めることをやめ、すべての兄弟姉妹とひとつになることができることを確信してます。
この一致は、またとりもなおさず、イエス・キリストがすべての者の主であるという証しになるのです。
そして、そういうふうに、初めてイエス様は御栄えをおとりになり、今読みましたエペソ人への手紙1章23節のように、満ち満ちたかたちになることができるようになります。

もし、私たちがパウロのように、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と言うことができるなら、これこそがまことの教会です。
イエス様は、すべての者の主です。

私たちの生活の支配を、今日新たに、意識的に、イエス様の御手にあげましょう。イエス様の意思を無条件に受け入れましょう。自分自身を、イエス様に100%無条件に、余すところなく明け渡しましょう。
そうすると、完全に満たされた生活、主イエス様の支配してる生活、実を結ぶ生活が与えられるのです。そうすれば、私たちもパウロのように告白するようになります。

ピリピ人への手紙3:8
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

私たちは、主の支配を受けるために、いろいろな辛いことを経験するようになります。最後に、パウロの証しを読んで終わります。
言うまでもなく、パウロと、パウロと一緒に主に仕えた人々とは、自分のことを忘れ、イエス様が中心になれば嬉しいと思ったに違いない。そうすると、人間的に考えれば問題がないはずです。全部スムーズに行くなのではないでしょうか。聖書の言ってることは違う!

コリント人への手紙第II、1:8-9
8兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
9ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

まだ、なっていなかったのです。ショックだったと思います。「苦しむことを通して、われわれはより頼んでいたと思っちゃったけど、本当は、まだでした」と認めざるを得なかったのです。
けどもそれだけでなく、彼らは確信を持って言えたのです。

コリント人への手紙第II、1:10
10ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

毎日、「イエス様、私はどうしたらいいなのでしょうか。もう自信がない。あなたが導いてくださらなければ、おしまい。
あなたに対する愛を、どういうふうに示したらいいなのでしょうか。どうかお教えになってください」。
この心構えがあれば、主は豊かに満たしてくださり、結果として用いていてくださるのです。




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