引用聖句:ヘブル人への手紙12章3節-11節
今朝の題名は、今読みました箇所の中の1文章だけですね。12章5節、「わが子よ。」 生ける主なる神が、どうしようもない人間に向かって、「わが子よ」と言います。人間は誰でも、人生において色々な問題あるいは悩みがあります。 そして多くの場合、そのような色々な問題に直面した時に、私たちはいかなる答えをも見出すことが出来ない場合があります。何と多くの人々は、山のような問題の前に、成すすべを知らないで悩んでいます。 私たちはしばしば、色々な状況の前に成すすべを知らないで、またどうしたらそこから逃れることができるのか、その逃れ道を見つけることもできない。なかば絶望的な状態に陥ってしまうというようなことが、実際にあるのではないでしょうか。 これは、かつてのヤコブという男の経験したことでした。創世記42章を見ると次のように書かれています。 創世記42:36
心からの叫び、「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」 ヤコブはそれまでの生涯においては、自分自身の意思や力に頼って行ったことがたくさんありました。 またヤコブは長い間、ずる賢さや卑劣さでもって、ただ自分、自分、自分の利益ばかりを考えていました。けど、そのような人を欺く者が欺かれたのです。 主は、罪を見過ごしにされない。これはヤコブが学ばなければならなかった厳しい教訓でした。「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」すなわち、言い換えれば、すべてのものが私に反対しているということです。 ヤコブの場合のように、すべてが失敗に終わりそうと思える時でさえ、何がなされるべきでありましょうか。いかなる態度がとられるべきでありましょうか。 まず最初に私たちが注意すべきことは、すべてのことが失敗に終わるということは、ただそのように見えるにすぎないということです。 ヤコブの場合もそうでした。なぜならば、ヨセフは確かに今はいないけど、いつかは必ず会える。シメオンも確かに、今はここにいないけど、いつか必ず会うことができるということです。 私たちは、人間的な見方をする場合、多くのものを正しく見ることができず、次のように言うでしょう。「すべてのものが、私に反対している、すべてのものが失敗に終わる」と、けど本当はその反対が真実です。 すなわち、これらの事柄は、我々に反対しているのではなく、我々のためであるとのことです。 けど、このことを私たちは、今はそのようなものとして認識することができないような性質のものですから、"隠された祝福"と言えるでしょう。 なぜ、私はこんなことを経験しなくちゃならないのでしょうか。なぜ、こんなことが私に降りかかってくるのでしょうか。このように苦しみながら、悩みながら、いくら自問自答しても何の解決をも見出せないようなことが、実際には数えきれないほどたくさんあります。 そこで、次に何故か、なんのためかという質問について、少し一緒に考えてみたいと思います。答えは3つです。 第1番目支配したもう主は、罪人が救われるためにそれらの多くの出来事を、起こるがままにさせておかれるのです。 第2番目支配したもう主は、信じる者が変えられるためにそれらの多くの事柄を、起こるがままにさせておかれるのです。 第3番目支配したもう主は、救われた者が、本当に主に仕える者として、用いられるために、それらの多くの出来事を、起こるがままにさせておかれるのです。 なぜか、どうしてか、何のためかと考えると、まず今話したように言えることは、支配したもう主は、罪人が救われるために、それらの多くの事柄を起こるがままにさせておかれます。 しかし大切なことは、人間が真理の認識に至ること、すなわちイエス様に出会うことです。 どれほど多くの人間が、暗中模索して、自分たちが真理を知らないのだということに気がつかないでいるのでしょうか。 ですから次のように言うことが、全く正当でしょう。人間は、救われる前に、ひとたび失われた状態になければならない。 すなわち人間は、主なる神が人間を救ってくださる前にまず、自分の失われた状態を認めなければなりません。 物質的なものが満ち溢れ、眼に見えるものに、がんじからめとなってしまっているため、多くの物や生ける神について深く考える時間がない、このことが現代の特徴なのではないでしょうか。 多くの人は、救い主を持つ必要性について、目が見えなくなっていますが、たとえそのことを認めざるをえなくなったとしても、依然として逃げようとするのです。 その方々は静かになって、人生の意味を考えたり、死後の世界を深く考えたりすることをしたがらないのです。 このことこそ、主が多くの不愉快なこと、困難なこと、理解することができないことを私たちにもたらすことの理由なのであります。 このような主の目的、主の導きの目的は、ご自身のもとに引き寄せること、また赦しと人生の内容を与えてくださることにほかならない。 そこで次に聖書の中から2つの実例、すなわち旧約聖書と新約聖書の中の2人の放蕩息子たちについて見てみましょうか。 第一は、当時の王様であるマナセという男について、聖書は次のように言っています。 歴代誌第II、33:2
すなわちマナセ王、 歴代誌第II、33:2、9
主は、マナセとその民に語られたが、彼らは聞こうともしなかった。そこで聞く耳がなかったから、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。 彼らは、マナセを鉤で捉え青銅の足かせにつないで、バビロンに、外国まで引いて行った。幸いにこれは終わりではなかった。しかし、悩みを身に受けた時、彼はその神、主に嘆願しその父祖の神の前に大いにへりくだった。 神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうしてマナセは、主こそ神であることを知った。体験的に知った。 この王様は、主のことばに聞き従おうとしなかったから、主はしかたがなくて、やむ終えず、多くの苦しみを通して、彼を導くしか方法がなかったんです。 それですから突然すべてのものが、失敗するように見えたんです。けどそれは決して偶然ではなく、その背後に主が立っておられ、すべてを御手の内におさめておられたのです。 歴代誌第II、33:11
そしてこれは、マナセの逃亡生活の終わりを意味しました。もう逃げられなくなってしまったのです。すべてが失敗しただけではなく、これは本当の終わりにほかなりませんでした。 けど、このような主の導きの目的は呪い、あるいは滅びではなく、永遠の救いにあずからせるために、心の目を開いてくださることでした。 しかし悩みを身に受けた時、初めてその神、主に嘆願し、その父祖の神の前におおいにへりくだった。おおいにへりくだることこそが、要求されています。 彼は神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。 考えられないことが起こったのです。すなわち多くの苦しみを通して、放蕩息子であるマナセ王は、このように考えられないほど、回復されました。 今度は、新約聖書の放蕩息子のことを考えてみましょうか。皆さん何回も何回も、ルカの福音書15章をお読みになったでしょう。 この新約聖書の放蕩息子は、自信に満ちて両親の家を去りました。「もう親時代遅れ。親と一緒にいると束縛される。おもしろくない。」、意識して彼は、自分が選んだ道へ行ったのです。 必ず注意されたと思うよ。けど、聞く耳がなければ、結局この放蕩息子は、何者からも束縛されず、自由に自分の人生を楽しもうと思ったのです。 自分自身の道を行きたいと思う者に対しては、主は、すきなようにさせます。たとえ、最初はすべてのことが望みどおり、うまくいくように見えたとしても、やがてすべてのことが失敗に向かう時がやってまいりました。 そしてその結果、突然すべてのものが自分に反対しているように思われるのです。 お金はまもなく使い果たして、それまで友達と思われた人たちからは、捨てられることになってしまいました。すべてのものが失敗してしまった。 ルカの福音書15:14
主のせいでした、 ルカの福音書15:15
ユダヤ人にとって、考えられない、いやな仕事です。 ルカの福音書15:16
けどもこの導きによって、すなわちこの深みへと導かれたことによって、彼は、ただ単に自分自身に立ち返っただけではなく、そのことによって父の住まいへ戻ることになり、まことに満ち足りた幸いな人生へ入ることができたのです。 多くの場合、人生の途上には、恐ろしくたくさんの困難が横たわっていますけど、主は常に1つの目的を持っておられます。 すなわち、私たち罪人を低くすること、あるいは破産させること、これが主のとられる方法であり、その限りにおいて、すべての者は、自分自身の助けとなるものを失い、心から悔い改めることにより、また主を信じることにより、主のみもとに行くことが可能となるのです。 使徒の働き2:37-38
なぜか、どうしてか、なんのためかと考えると今まで見てきたように、支配したもう主は、罪人が救われるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるのです。 主が、人間に正しい理解と悔い改めをさせるために、たしかに多くの事柄を失敗するがままにさせておかれることを見てきました。 次に、なぜか、あるいは何のためかという問いについて、もう少し考えてみましょう。答えは、前に話したように、3つです。 第1番目支配したもう主は、罪人が救われるためにそれらの多くの出来事を、起こるがままにさせておかれるのです。 第2番目の答えは、支配したもう主は、信じる者、もうすでに救われた人々が変えられるために、それらの多くの出来事を、起こるがままにさせておかれるのです。 けど、未信者だけではなく、信じる者もまた、いわゆる運命のなす業を経験するのです。信じる者もまた同じように、失望、落胆し、なぜこんなことが起こるのか、どうしても理解することができない場合に遭遇いたします。 なぜ主は、信じる者が厳しい試練にあうことを許されるのでしょうか。それは彼らの教育のためです。彼らの聖めのためです。また彼らが主の御姿に変えられるためです。それを証明するために、聖書から2箇所、ちょっと読みます。 ローマ人への手紙8:28
初代教会の人々は、確信したんです。だから祝福された。 ローマ人への手紙8:29
我々の人生の途中に横たわっているものすべて、また私たちの人生の中に入り込んでくるものすべては、主によって用いられており、したがって、無価値なもの、無目的なものは何1つありません。 大切なことは、私たちが新しく造り変えられること、主に似た者となるためである。この29節をとおして、はっきり知ることができます。 私たちの人生の中に、偶然というものは何1つありません。すべての背後に主が立っておられ、主がそれぞれの場合に応じて、適切な導きを成しておられます。すべてが益となる、このことを私たちは常に新たに覚えましょう。 良きことや最も良きことは、私たちが造り変えられることです。造り変えられること、主の御手によって練られることは、おもしろくないでしょう。痛みを伴うことがあります。 すなわちそれは、自らが砕かれることなしにはありえないからです。人はその時、失望、落胆し、力を失い、自暴自棄に陥りがちです。 けど、そのようなことは、自分の思い通りにならない時、目先のことしか考えない時に起こることです。 けど、この29節は絶えず覚えるべきです。なぜなら神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。 それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 主は御子、主イエス様の御姿に似た者となるようにあらかじめ定めておられるのです。主が目指しておられるご目的は、何とすばらしいものでしょうかね。この目的から常に目を離さないことは、考えられないほど大切です。 初めに兄弟が読みました箇所をもう1回読みましょうか。 この中で、「わが子よ。」、愛の表現そのものが出てきます。 ヘブル人への手紙12:3
イエス様から目を離すとおしまい、 ヘブル人への手紙12:4-11
「ある」、と書いてないのですね、 ヘブル人への手紙12:11
霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして懲らしめるのです。と、ここで書かれています。主はご自分に属する者を、限りなく愛してくださいますから、まさにそのために、我々を懲らしめ、教育なさるのです。 主の教育は、私たちが主の聖さにあずかるように、ご自信のみもとに引き寄せたく思っておられることです。私たちの主は、完全です。したがって主の導きも完全です。 おそらく私たちは、すべてを理解することができないでしょう。挫折してしまう危険に直面します。また自分自身を同情してしまうというような場合もあるのではないでしょうか。 どうして私は、こんなことを経験しなければならないのでしょうか。どうして次から次へとこんなことが、私に起こるのでしょうか。どうして私は、こんなにたくさんの困難や理解できないことを経験しなければならないのでしょうか。 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。 ここで大切なことは、そのときは、一時的に悲しく思われるものですけど、しかし後になると、それが結果的に幸いになるということです。 次に私たちは、次のことがらを覚えましょう。すなわち私たちは、主のための実験用ロボットなのではなく、主が常に最善のみを考えておられる、最愛の訓練だということです。 たとえ実際にすべてのことが失敗したとしても、私たちは、主によって愛されているということを知ることができます。まさに主の試練や懲らしめこそ、主の愛の証拠です。 私たちは今そのことを理解することができなくても、しかし後になるとそのことを主に感謝し、礼拝するでしょう。次のようなダビデの告白も覚えましょう。 詩篇119:67
なぜか、あるいは何のためかという問いについて、少し考えてまいりました。前に言いましたように、答えは、まず支配したもう主は、罪人が救われるために、それらの多くの出来事を思うがままにさせておかれる。 2番目、支配したもう主は、もうすでに救われた人々が変えられるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられるのです。 最後に、第3番目の答えですけど、支配したもう主は、救われた者たちが、本当に主に仕える者として、用いられるために、主の同労者となるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられるのです。 多くの信者は、実を結ばない木のようなものです。主は彼らを用いることがおできになりません。その原因は何でしょうか。彼らは、主なしでも何とかやれると考えているからです。 もちろん、これは知らず知らずやれると考えているのですけど、彼らは自分自身の力とのために一生懸命に何かをやりたいと思い、また、このことやあのことをしたいと主に願ったりするのですけど、結局彼らは、このことやあのことを自分がしたいために、主を利用しようとしてしまっているのです。 けど実際は、主が信じる者をお用いになりたいと思っておられるのであれ、ご自分の器として信者を用いたく思っておられるのです。 永遠に残る実を結ぶご奉仕は、主のための我々の努力ではなく、我々を通して主がなさる御業でなければなりません。 これこそ多くの者が我々に逆らっているように思われたり、主が我々を厳しく取り扱われなければならなかったり、私たちが砕かれなければならないことの原因です。 簡単に2つの例を考えてみましょうか。1つはペテロです。自信と独立心が、このペテロの特徴でした。彼は、自分自身の能力に自信を持っていました。ルカの福音書22章31節をちょっと見てみましょうか。 ルカの福音書22:31
主は、サタンにさがれと言わないで、あなたの願ったとおりでいいよ。許します。 ルカの福音書22:32
立ち直ることは、いつでも可能、 ルカの福音書22:33
すごいね。言えることは彼は色々のことがわかった。一番わからなかったのは、自分自身です。 ルカの福音書22:34
2〜3時間後、 ルカの福音書22:34
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。そしてわたしは、それに反対しません。 これはまことに厳しく、辛いことでしょうが、あなたが破産して、本当に自分自身に絶望するためには、どうしても必要なことです。ここで注意していただきたいことは、色々な人格と順番あるいは、文章です。 ここの聖句によると、悪魔、それからわたし、すなわちイエス様、そしてあなた、シモンペテロおよびあなたの兄弟たち、こういう順番になってます。主は、ペテロをとおして、彼の兄弟たちを強めようと思われましたけど、そのためにはペテロは砕かれることがどうしても必要でした。 そのために、悪魔がペテロを攻撃することになるのですが、けどその時でも、主は絶えずペテロのために祈ってくださいました。したがって悪魔は、自分がしたいことを何でもするということはできません。 私たちは完全に主の御手の中にいるのであり、それは永遠の安全を意味します。 それですから主は、悪魔とペテロの間にお立ちになっておられるのです。 ペテロは、本当にすべて失敗してしまいました。彼は最後の土壇場に立たされたのです。そこには、もはや一条の希望の光も差し込まず、すべての望みが消えうせた、まったく、絶望的な状態が支配しました。 けど、この訓練はどうしても必要でした。ペテロは、もはや自分の力により頼むことができなくなりました。それから初めて主は、ペテロをお用いになることができたのです。 その良い例が五旬節ですけど、その時ペテロは、ペテロをとおして3,000人以上の人々が救われた。使徒の働き2章をちょっと見てみましょうか。 使徒の働き2:14、37-41
すごいね。1日3,000人。考えられないけど本当なんです。けど、もっと信じられない奇跡は、3,000人救われてもペテロは傲慢にならなかった。自分の失敗を忘れられなかったからです。 2番目の実例はパウロです。パウロもペテロと同じように、深みを通って行きました。すなわち3日間、暗闇の中に生きたのです。 そのことは、後になってパウロは次のように証しました。 コリント人への手紙第II、3:5-6
私たちもみな、実を結ぶ秘訣を知っています。すなわち自分自身を否定して、自分に対して死ぬことです。 ヨハネの福音書12章24節を見ると、イエス様は次のようにいわれました。 ヨハネの福音書12:24
どこにも多くの重荷を持っている人、いかなる逃れ道をも見出せず、絶望的な状態になっている人がいます。どうして、私はこんなにたくさんの困難を経験しなければならないのでしょうか。どうして、私は失敗してしまうのでしょうか。 おそらくそれは、まだ救いの確信を持たず、イエス様こそ私のもの、かけがえのないものと言うことができないからではないでしょうか。 もしかすると、それはあなたの救い主が、あなたを御自分に似たものに造り変えようとしておられるからではないでしょうか。大切なのは、救われることだけじゃない。聖められることです。光の中に歩むことです。 あるいは、それはあなたが今までで、主を利用しようとしていた。 けど、今や主はあなたを主の御手の中で、御自分の器としてお用いになろうとしておられるのではないでしょうか。申命記の中で次のような箇所があります。 申命記8:15
道をふさぐ岩、すなわち障害物から、あるいは理解できない困難や私たちが感謝しなければならない心痛、すなわち心の痛み、これらのものから主は水を湧かせようとしておられるのです。 このような経験をとおして、私たちは主の御もとに行くのであり、このような経験をとおして私たちは、祝福されうるために祝され、またいのちを与えられるのです。 「生ける水は川となって、我々より出ずるべし。」と書いてあります。旧約時代に主は、御自信の民に向かって、次のように言わなければなりませんでした。 エレミヤ書2:13
主はいかに悩んだのか、創造できません。 エレミヤ書17:13
わが民、わが民は2つの罪を犯した。1つは、湧き水のいのちであるわたしを捨てたこと。第2は、水をためることのできない壊れた水ためを自分たちのために掘った。このようにして主は、悔い改めて立ち返ることを呼ばわりました。 イエス様を知らない人々は、悔い改めて、イエス様の御もとに立ち返らなければならない。救われるためです。イエス様を知るようになった人々は、主の内にとどまるため、また用いられる道具となるために、悔い改めて立ち返らなければなりません。 イエス様の内にとどまる者だけが、主と結びついているのであり、このいのちの泉の通りよき管となることによって、イエス様は、御自信をあらわすことがおできになるのです。 私は、鉄からはがねを造ることをよく知っています。すなわちそれは非常な高温によってのみ可能です。それと同じように、主は不十分な人間を満ち足りた人間となさるために、多くの困難や試練を用いなければならないことをみな解かります。 今のこの時の試練は、まさに死後の世界に至るための準備期間のようなものです。主は、何者も御手から失いません。主はとこしえにすべてを支配なさるお方です。 暗闇の夜にも、困難な涙の時にも主の御手は私たちを守ってくださいます。失望、落胆した心も慰められ、喜ぶことができます。なぜなら、主はとこしえに主であられるからです。 そして主は決して過ちを犯しません。私たちが理解できないことがたくさんあるとしても、主は我々にとって間違いなく必ず、最も益となることを考えていてくださるのです。 私たちは、1日のうちにも何回も、徹頭徹尾、主に信頼できるように祈るべきでしょう。 私たちは、主によって助けてもらったり、祝福してもらったりすることを主に願いますが、反対に主が私たちから、何かを要求され、ご自分の器として私たちを用いようとなさる時に私たちは、簡単に挫折してしまうのです。けども、みことばを与えられているから、ありがたい。 最後にみことばだけ読んで終わります。 ローマ人への手紙8:18
初代教会の兄弟姉妹は、そうしたんです。私たちはどうかな。 コリント人への手紙第II、4章8節から18節。パウロの正直な驚くべき証です。 コリント人への手紙第II、4:8-10、16-18
もう1箇所、非常に悩んでいた男の証です。 ハバクク書3:17
ヤコブは、「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。もう大変だよ」と言ったんです。ハバククは、違う態度をとった。 ハバクク書3:18-19
この態度をとることとは、人間はできるものじゃない。主があわれんでくださらなければ。 けどもイエス様は、昨日も今日も、いつまでも変わらないお方ですから、私たちは確かに幸せなのではないでしょうか。 |