分れ道に立っている私たち


ベック兄

(御代田喜びの集い、2000/08/06)

引用聖句:歴代誌第II、16章9節
9主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」

今朝の礼拝の時、兄弟たちはいろいろな、すばらしいみことばを読んでくださったんです。その時思ったのは、礼拝終わったらみんな帰ってもいいんじゃないか。聖書のみことばは喜びを、慰めを、力を与えるものであるからです。
今朝のテーマは「分かれ道に立ってる私たち」であります。

ある兄弟は今朝、次のような個所を読んでくださったのです。「マリヤはよい方を選んだ」
彼女はある分かれ道に立たされていたのです。その時彼女はよい方を選んだのです。またパウロも、同じような分かれ道に立たされていたなのではないかと思います。
また別の兄弟はピリピ人への手紙からお読みになったのです。「私は後ろのものを忘れ、目標めざして一心になって走ってる」
結局どうしたらいいか、と彼は思ったんです。けども、何があっても後ろ向き生活したくない、後ろのものを忘れ、目標めざして走ってる。
昨日も話したように、沖縄の集会所に入ると、昔の集会所に掛かっていたみことばがあるんです。「主イエスから目を離さないでいなさい」
結局、われわれの立たされている分かれ道とはそういうものなのではないでしょうか。自分を見たり、見える現実見たりするか、あるいは目に見える世界から目をそらし、主だけを仰ぎ見るかのどちらかではないでしょうか。

もう一人の兄弟が今朝お読みになった個所は、「主は私たちを御子のご支配にうつされた」、と書かれています。どうですかねえ、私たちはほんとにイエス様のご支配にうつされてるなのでしょうか?あるいはただ救われてるなのでしょうか?
全然違います。救われていても、やっぱり私、私、私と考えようと思えばできます。あるいはどうしたらいいかわからない、お導きになってくださいという態度とることもできるのではないでしょうか。

聖書見るとやっぱりいつも、2種類の信者について書き記されています。ある信者とは使徒たちにとって喜びの種になったのです。他の信者は使徒たちにとって悩みの種になりました。
パウロはよく手紙の中で、「私は悩んでいます。私は苦しんでいます。どうしたらいいかわかりません。」、と正直に書いたのです。
他の人々についてパウロは、「私はいつも、あなたがたすべてのために感謝してる」。テサロニケの人々とはパウロにとって喜びの種でした。ガラテヤ地方にいる信者たちとは、パウロにとってとんでもない悩みの種だったのです。もちろんコリントにいる人々もそうだったのです。

2種類の信者がいます。すなわちイエス様のために生きたい人々もいるし、イエス様のため、イエス様の喜びの種になりたい、イエス様喜ばせたい、と心から望んでる人もいます。
他の人々は、救われたからいいじゃないかと。現実問題として、この心構えはどういうふうに現われてるかと言いますと、ある人々はイエス様の再臨を心から待ち望んでいます。
他の人々、「まあ、いつになるかわからないからいいじゃないか」、そういう人々はイエス様を本当の意味で愛していないし、主との交わりをもっていない。

ダビデは確かに完全ではなかった。とんでもない失敗をしてしまったのですけども、これと関係なく彼は御心にかなう者になったのです。いったいどうしてでしょうか。
彼は必ず毎日繰り返し繰り返し同じ祈りをささげたのです。すなわち「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心を試してください。」
結局自分の考えてることが正しいかどうかわからないでしょう?主が教えてくださらなければ、導いてくださらなければもうおしまいです。それを考えるとやっぱり小さくなります。

われわれは、どうしてこの集いを「喜びの集い」と呼んでるかといいますと、悔い改められるからです。悔い改めたくない兄弟姉妹は、もうおしまいなのではないでしょうか。
確かに「まことの救いを得るために、悔い改めて、信じなさい。」、と書かれています。意味は、悔い改めてからゆるされた、受け入れられたことを感謝しなさい。
そして夕べ洗礼を受けた11人の兄弟姉妹も、結局悔い改める恵みを与えられたのです。結果として彼らはイエス様を信ずるようになりました。すなわち一人一人は、いかなる尽力も努力も、主と人間の間の隔ての壁を取り除くことができない。罪ほろぼしのために何をやっても無駄、と彼らは分かるようになった結果として、破産して、イエス様を信じ、全部イエス様にすべてをあけわたしたのです。
「イエス様の血潮によって自分が贖われ、私たちは神の子となったぁ。もう安心して将来に向かうことができる。裁かれることは決してない。」、と彼らは思うようになったのです。
そしてどうして洗礼を受けたかと言いますと、結局イエス様はそうしなさいと言われたからです。受ければ、イエス様喜べばよし。そういう心構えを持つようになったのです。
結局「イエス様、喜ばせたい。」、私たちはイエス様に出会った時みんなそういう気持ちでいっぱいだったなのではないでしょうか。

今日みえているある兄弟は、一度変わったこと言ったことがあるんです。「実はねえ、私にとって恐ろしいものが3つあったんです。まず警察。2番目、税務署。3番目、聖書。」
聖書はほんとに恐ろしいものじゃないよ。警察だって。税務署だってごまかそうと思えば何とかできえます。聖書だったら、ちょっと大変なのではないでしょうか。いくら隠そうと思っても無理なんです。
ですから多くの人々はもう本当に走ってるのです。車椅子の中かもしれないけど、走ってるんです。追うものがないのに。結局、全部明らかになればどうしよう、という気持ちを持ってるんです。

イエス様を知るようになった人々とは結局そういうもの、心配から解放され、「イエス様はすごい。今からイエス様のために生きたい。」と、みな心から望んでいるのです。
けどもそういう気持ちを持ち続けることができれば、ありがたい。けど現実問題として、違うなのではないでしょうか。確かにイエス様に出会った人々と、イエス様を知らない人々の区別とはそういうものなのではないでしょうか。
イエス様を知るようになった人々は、必ず「イエス様、喜ばせたい。」という気持ちでいっぱいなんです。できるかどうか別です。
イエス様知らない人は、もちろんイエス様喜ばせたい気持ち、もちろん全然ないんです。イエス様知らないから。けども主は、前に司会の兄弟が読みました箇所によりますと、イエス様は確かに御心にかなう人々を捜し求めておられます。

主のあらゆる人間に対する判断とは、確かにおもしろくない。エレミヤ書の中で「人の心は何よりも陰険で、それはなおらない。」、決まり。なおらない。
あらゆる宗教は、「なんとかなる。努力すればなんとかなる。」と言いますけど、聖書は「なおらない。」
けど同じ聖書は、このどうしようもない人間は、御心にかなうものになるべきである、主イエス様に似た者にならなければならない、とはっきり言っとるのです。
けど私たちはどうやって光そのもの、少しも暗い所をご存知ないお方に喜んでいただけることができるなのでしょうか。無理なのではないのでしょうか。
主は絶対聖なるお方です。けど、なんと多くの嘘と不純はわれわれのうちにあるなのではないでしょうか。
主は愛そのものです。けど、なんと多くの自己追求と自己中心がわれわれうちにあるなのではないでしょうか。

確かに主は救いの代価を払ってくださいました。イエス様に出会った人々は、もう安心して前向き生活することができるのです。けども主は、救われたからOKと思っていない。救われた人々とは主に用いられるべきです。
主が喜んでくださるのは、もちろん決して人間ではない。多くの人々、いい子にならなくちゃいけない。宗教の言わんとしていることは全部そうなんです。いい子は天国、悪い子は地獄。
けど、だれもいい子になりえません。御心にかなうお方とは、イエス様しかない。ですからイエス様と結びついてれば、OK。

「わたしから離れたら、あなたがたは何にもすることができない。」、とイエス様ははっきり言われたのです。誰でも暗記している言葉です。
けど、本気になって信ずる人は少ないなのではないでしょうか。信ずる人々は毎日何回も、「イエス様お願い。どうしたらいいかわからない。私の思ってることが正しいかもわからない。おまかせいたします。導いてください。」、という態度とるにちがいない。
結局、自分の努力ではなく、内におられるイエス様こそが勝利の秘訣です。実を結ぶ秘訣そのものであります。

いったいどうすれば、主に喜ばれることができるなのでしょうか。それは私たちが主に信頼し、主と共に歩むことによってです。
それは日々、主に信頼してお従いすることを意味してるのです。エノクという名前の意味は「主にささげられた者」です。もちろん自分の金じゃなくて、自分の力ではなくて、時間ではなくて、自分の意思です。
私たちはみんな頑固そのものなのではないでしょうか。自分勝手に動くものなのではないでしょうか。
結局、御子イエス様の支配に移されてることとは、私の思いではなく御心だけがなるように、ということを意味してるのです。ですから私たちは一つの分かれ道に立たされているのです。すなわち聖書をみると、私たちが何のために生きたいと思うかについて、3つの可能性があると書かれています。

第1番目の可能性は、自分自身を喜ばせる生き方です。だれでも十分に経験したなのではないでしょうか。
第2番目、人間を喜ばせる生き方です。これの方がましですけれど、ほんとはできません。
第3番目、主を喜ばせる生き方です。

自分自身を喜ばせる生き方はどういうものであるか、自分の過去について、もしかすると現在について、考えてももうわかります。十分過ぎるなのではないでしょうか。
多くの人々の特徴は、自分だけのことを考えるということです。だから結婚生活や家庭生活がうまくいかない。
今日の午後、また結婚式があるんです。こないだ言ったんですね。「結婚式の時黒いネクタイをつけた方がいいじゃないか。葬儀の時白いネクタイをつけたい。」、本当にそう思ってるんです。
結局、自分、自分、自分、を考えればうまくいきません。人間は本当に恐ろしいものです。ね、愛されれば、大切にされれば愛します。そうでなければ嫌です。われわれの生まれつきの性質はそういうものなのではないでしょうか。

後で納骨式があるんです。やっぱりいつも喜びの集いです。先に召された人、ゴールインしたからです。
今日の結婚する人々はまだゴールインしていない。戦いの始まり。だから、結婚する人々はほんとにやっぱり全集会の祈りを必要とします。お互いに愛し合ってるそれだけだったら十分じゃない。
自分のことばかり考えると結局駄目なんです。けど人間はそれしかできないじゃないでしょうか。

詩篇の作者は、一つのイエス様に対する預言の言葉ですけど、なんと書いたかといいますと、「私は人間ではなく、虫です。」
虫は抵抗することができない。イエス様の態度とはそういうものでした。イエス様がほんとに自分自身を喜ばせなかった、ただ一人です。
イエス様は、「わたしは、心からへりくだった者です。」、人間は絶対に言えません。「わたしは低くなりたい。無視されても結構。捨てられても結構。殺されてもよろしい。」、とイエス様は言われ続けたのです。
私たちも主を信じながら、主に仕えながら、自分自身を喜ばせ、自分が中心になりたいと思い、自分自身の願望を追及することはもちろん可能です。毎日、「教えてください。明らかにしてください。」、と祈らないと、知らないうちにそういうふうになります。

言いたいのは、われわれの最大の敵は自分自身です、自分自身の自我そのものであります。
イエス様は自分自身を喜ばせなかった、と聖書はいってます。すなわちイエス様は自分自身のことを全く忘れ、誤解されたり、そしられたりすることをよしとされたのです。そればかりじゃなくてイエス様は、われわれのわがままのゆえに全人類の過ち、罪の代わりに罰せられてもいいと決心してくださったのです。
イエス様の経験なさった苦しみを、誰も経験することができない。地獄の地獄だったのではないでしょうか。
十字架につけられたイエス様は、「永遠なる神」、よりも「愛されてる御子」よりも、「罪のかたまり」とされてしまった。祈っても応えがない。イエス様はそれだけ、心配して恐れたのです。
肉体の痛みだってもうかまわない。けども父から離れればもう考えられない。「人間を救うために他の道があれば、お願い。」、イエス様の気持ちとはそういうものだった。けどもイエス様の出した結論とは、「わたしは大切ではない。わたしの思いではなく、御心だけがなるように。」
イエス様は自分のこと忘れた。自分自身のことを考えようとしなかったのです。喜んで犠牲をはらったよりも、犠牲になられたのです。

第2番目の可能性は、人間を喜ばする生き方です。
パウロは断固としてそれだけ、欲しくないという態度をとったのです。ガラテヤ人への手紙をちょっと見てみましょうか。パウロは次のように思ったし、決心したのであります。すなわち「私は結局人間を喜ばせようと思っても、何にもならない。」、と彼ははっきり確信したのです。
ガラテヤ人への手紙の中で彼は次のように告白したのであります。

ガラテヤ人への手紙1:10
10いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

彼も、一つの分かれ道に立たされていたのです。エペソ人への手紙の中で、彼は同じ態度を次の言葉で言い著わしたのです。

エペソ人への手紙6:6-7
6人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、
7人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。

と書き記されているのであります。人間を喜ばせようとする者は、もちろん知らないうちに人間の奴隷になります。内面的に不自由になり、大変神経を使ったりします。結果として必ず不幸になります。結局できないからです。
主を恐るることのない人は、主の与えようと思ってる心の支えをもちろん持っていないし、結局自分のことばっかり考えるし、他の人を顧みることをできないし、結局どうしようもない、もはやおさえることもできない者になってしまいます。
自分のことばっかり考えると、自分のためにだけ生きる者とは結局不幸になります。ただ人間だけを喜ばせようとする人も、また不幸になります。なぜならば、それは誰にもできないからです。いくら努力しても成功しないからです。

ある人は証の中で、次のように言ったのです。「人間が私を非難したり、褒めたり、大切にしたり、誤解してもかまわない。主よあなたに喜んでいただけることこそ、私にとってはすべてのすべてです。」と。
この切なる願いを持つ者は祝福されます。主にだけ喜ばるることを求むる者は、人間の判断から解放されます。そして、主に喜ばるることを求むる者が隣人に対してとる行動も、正しいものになります。

自分のことばっかり考える人の態度は、アダムとエバの長男のとった態度です。
カインは弟を殺してから何と言ったかといいますと、「私は弟の番人でなければならないなのか。」、ひどすぎじゃないですか。
われわれの生まれつきの性質は結局そういうものなんです。自分、自分、のことだけ考えると悩んでる人々に対して、全くめくらです。

私たちはただ救われて、きよめらるるためだけにこの地上にいるなのではない。主の器となるために。
主は、人間一人一人を用いようと望んでおられます。どういう人々は用いられるかといいますと、「主はさかんになり、私は衰えるべきです。」、という態度とる者なのではないでしょうか。
自分のために生きるなのではない人は必ず周りの人々の幸せのために、永遠の救いのために考えるようになり、心配するようになり、祈りの中で戦うようになります。
旧約聖書の中で書かれてる言葉です。

歴代誌第II、16:9
9主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

結局、主はあまねく全地を見わたし、この集会の中でも結局心を一つにして主だけを喜ばせたい、そういう人々を必死になって捜し求めておられます。
私たちも一つの「分かれ道」に立たされている者です。自分のために生きたいなのでしょうか、あるいは人間を喜ばせたいなのでしょうか、あるいは主にだけ生きたいと望むなのでしょうか。




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