引用聖句:ペテロの手紙第I、4章7節-11節
今読んでくださった箇所は、3回も「イエス様を知らない」と言ったペテロの励ましの言葉です。7節ですね、 ペテロの手紙第I、4:7
このようにペテロは、初代教会の信者たちに書き送ったのです。 彼の書いた目的とはいったい何だったのでしょうか。一つの教えを宣べ伝えるよりも、彼らを励ますために書いたに違いない。われわれも、一つの教えを知るよりも、励まされる必要があるなのではないでしょうか。 「万物の終わり」という表現は、ペテロは何を考えたなのでしょうか。疑いもなく、当時の「ユダヤ教」は終わりに近づいたといえるでしょう。けどもそれだけではない。多くの人々は、「自分のいのち」の終わりも近づいたなのではないでしょうか。 当時数えられない多くの人々は、自分の信仰のゆえに殉教の死を遂げるようになったのです。12節から見ても分かります。 ペテロの手紙第I、4:12-13
けどもそれだけではなく、疑いもなくペテロが「万物の終わり」という表現を使った、もう一つの理由は、「『今の時代』、いわゆる『恵みの時代』は終わり、 イエス様の再臨は近い。」と言いたかったに違いない。 初代教会の特徴とは、イエス様の再臨に対する待ち望みでした。ですから彼らは生き生きとした証し人だったのです。求道者は次々とみもとに導かれました。 使徒の働きを見ると、毎日人々は信ずる者の群れに加えられるようになったのです。「万物の終わりが近づきました」。 今日一番大切なのは、初代教会のように主を待ち望む生活をするなのではないでしょうか。ヤコブはちょっと違う言葉で同じこと言ったのです。 ヤコブの手紙5:8
そのときは短いのです。私たちはもはや多くの時間は持っていない。私たちがこの事実を待ち望みつつ生活するならば、われわれの日常生活は違ったものとなり、われわれの祈りの生活は大きく影響を受け、われわれの奉仕も違うものとなるに違いない。 聖書の中で「イエス様の再臨」が言及される時、それは「私たちの実践生活」といつも密接な関係を持っています。 というのは、ここでは何らかの「教え」じゃなくて、また「頭の知識としてのいろいろな問題」となっているなのではない。 一つの問いについてだけ、ちょっと考えたいと思います。すなわち「主イエス様の待ち望む生活」とはいったいどのようなものなのでしょうか。 この問いに対してペテロは、この7節から11節の中で7種類に分けて答えています。 すなわち、イエス様の再臨を待ち望む生活とは、 第一番目。心を整えた生活です。心を整え、理性的でありなさいと命令されています。 第二番目。祈りの生活です。祈りのために身を慎みなさいと命令されています。 第三番目。互いに愛し合う生活です。互いに熱心に愛し合いなさいと命令されています。 第四番目。真の友情の生活であります。つぶやかないで、互いに親切にもてなしあいなさいと命令されています。 第五番目。奉仕の生活です。互いに仕え合いなさいとあります。 第六番目。大胆な証しの生活です。語る人があれば、神のことばにふさわしく語りなさいと命令されています。 第七番目。神の栄光を現す生活です。全てのことにおいて神があがめられますようにと命令されています。 全部が命令です。提案じゃない。 まず、主の再臨を待ち望む生活とは、「心を整えた生活」であります。万物の終わりが近づきました。ですから心を整えなさい。 「まもなく、イエス様が再臨なさる。そのときが短いのですから、心を整えなさい」 と、ここで書き記されています。間近い主の再臨を意識して生活する者は、理性的となります。すなわち分別に富む賢明な者になります。その人は過ぎ行かない価値のために、全力を尽くすでしょう。その人は永遠のために働くようになるに違いない。 無分別に生きるということは、ただ現在のことだけしか考えないことであり、自分自身のことだけしか考えないことであり、悪魔に余地を与えてしまうことを意味してるのです。 初代教会の信者たちは、悪魔の絶えざる攻撃にさらされていました。彼らの周囲には、現在のことだけを考えイエス様と何の関わりも持ちたくない、と願う霊がいました。 それですから初代教会の信者たちは、励ましを必要としたのです。励まされるために、彼らは「間近いイエス様の再臨」を指摘されたのです。 それは彼らにとって驚くべき力の源泉でした。私たちもまた、この励ましを必要としてるなのではないでしょうか。 「主のために時間など全然ない」というのが、今の時代の特徴なのではないでしょうか。私たちがこの霊によって感染されられることは非常に危険です。 マタイの福音書24章6節では、私たちが戦争のことや、戦争のうわさを聞くとしてもイエス様は私たちが平安に保たれることを望んでおられます。 2,600年前にイザヤは次のように書いたのです。 イザヤ書26:3-4
それから、 箴言1:33
とあります。再臨を待ち望みつつ生活する者は何ものをも恐れません。その人は何ものにも心を騒がせず、分別に富む賢明な生活をします。 すなわち本当の意味で賢い生活をする者です。 第二番目。再臨を待ち望む生活とは、「祈りの生活」です。 「祈りのために身を慎みなさい」とペテロは書いたのです。「分別があること」と「冷静であること」とは一つに結びついています。もはや、冷静でない者は無分別となります。 「あなたが祈りのない状態に陥らないように警戒しなさい。用心していなさい」と。「あなたが、主により頼まないようになったり、『主』なしに物事を手におさめたりすることのないように注意しなさい」と。 祈りは常に二重の作用を持っています。私たちが祈る人たちが祝福され、私たち自身も豊かにされます。そのことについての実例を、私たちはヨブ記の42章10節に見出すことができます。 ヨブ記42:10
「そのとき」初めて。 ヨブ記42:10
ヨブは結局、主の目から見るととんでもない罪を犯してしまった。どういう罪かといいますと、あの変な友だちのために祈ることをやめた。もうイヤになったのです。 彼らは自分のこと同情しないで、攻撃しただけなんです。「あなたは最もひどい罪を犯さなければ考えられない。天罰だよ。天罰だよ。」 そしてヨブは「もう、イヤです。」祈ることをやめたんです。だから主は、働くことできなくなっちゃった。 けども彼が「友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された」とあります。 主が私たちを祝福なさりたいのなら、どうして私たちは祈らなければならないなのでしょうか。変な質問かもしれないけども、主がそう決めちゃったからです。 主はいつも私たちの祈りの答えとして祝福したい、と望んでおられます。祝福されなければ、主のせいじゃなくて自分のせいです。 「祝福されずに出て行く者は、自分のせいである」と、聖書ははっきり言っているのです。「祈りの人々」が、したがって求められています。 というのは主は、その人たちを通して祝福なさりたいと、望んでおられるのであり、ご自身を啓示なさりたいのです。 エゼキエル書の36章の37節に次のように書かれています。 エゼキエル書36:37
私たちが主に願い求める時、主が私たちのためになさってくださることがあります。けど私たちが主に願い求めないならば、主がなさらないこともあります。それですから私たちは、「祈るために身を慎みなさい」と要請されるのです。 何ものによっても祈りを妨げられないようにしましょう。主の前に立ち続け、主から大いなるものを期待しましょう。 エペソ人への手紙の6章18節を見ると、パウロは当時の信じる者に大切なことを書いたのです。 エペソ人への手紙6:18
私たちが祈りによって何が成就されるか、という事実を考えるならば、私たちが少ない祈りをすることや、期待することがあんまりにも少ないということは、おかしいなのではないでしょうか。 数え切れないほどの約束は、祈る人たちに与えられています。そして数えられないほどの人たちは約束の成就を経験しました。どうしてでしょう。なぜなら彼らは信じて祈ったからです。 なぜ私たちはもっと祈らないのでしょうか。主でさえもそのことを不思議に思われます。イザヤ書の59章16節を見ると次のように書き記されています。 イザヤ書59:16
とあります。一人の祈り人の祈りを通して、非常に多くのことが成就されます。ヤコブは次のように書いたのです。 ヤコブの手紙5:16
私たちは一つのこと、すなわちあんまり祈らなかったことを、召されてから後悔するなのではないでしょうか。間近い主イエス様の再臨を待ち望みつつ生活する者は、意識的に新たに祈りに没頭します。 第三番目、イエス様の再臨を待ち望む生活とは、「互いに愛し合う生活」です。 ですからペテロは「互いに熱心に愛し合いなさい」と書き記したのであります。イエス様はすぐに来ます。そのときは短いのです。お互いに愛し合いましょう。 ペテロは、8節「何よりもまず」という表現を使っていますね。「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」 私たちはお互いに愛し合うべきです。しかもこのことは、他のすべてにまさって大切なんです。 ですからここで、「何よりもまず」という表現が使われています。そしてこの「愛」は持続的で熱心であるべきです。 私たちはしたいことをすることができるでしょうけど、「愛」がなければお互いに近づき合うことができません。 初代教会について次のように言われています。「見よ。彼らはなんと愛し合っていることでしょう」。これは革命的な作用をもたらしました。 誰でもが自分のことだけしか考えない現代においては、「愛」はかたくなな心が開かれる手段です。 「お互いの愛が冷えないように気をつけましょう」と、ペテロは当時の信ずる者に注意したのです。なぜこの「お互いの愛」がそんなに大切なのでしょうか。 一つの理由がここであげられています。 「愛は多くの罪をおおうからです。」 「愛は赦しの道を見出します。」 「愛は恨みを抱きません。」 「愛は他の人の恥を負いたいと思います。」 私たちの主は、多くの革命的な発言をしてくださったのです。一つはマタイの福音書の18章なのではないかと思います。 マタイの福音書18章を見ると次のように書かれています。 マタイの福音書18:21-22
避けることのできない問いが、ここにもちろん現われます。「そんなことが どうしてできるもんか。」 私たちは、いかにすればお互いに持続的に、そして熱心に愛し合うことができるなのでしょうか。 ペテロはどうしてそのような具合に愛し合うべきかの理由を、われわれに言いました。「愛は多くの罪をおおうからです」と。 それはすなわち、私たちが愛し合うことによって、聖霊の実が明らかになることを意味しています。 よく知られてるガラテヤ人への手紙5章22節ですか、書かれてます。御霊の実は「愛」であります。ま、一番大切なのはそれでしょう。 ガラテヤ人への手紙5:22-23
と。おそらくここである人は異議を唱えるでしょう。 「私は、私の夫を心から愛することができない」 「私は、私の妻を心から愛することができない」 「私は、私の姑を愛することができない」云々と。 それは、言われた通りでしょう。この人やあの人を愛することは、あなたに不可能なことかもしれないけど、あなたが「あなたの愛」でもってこのことを試みることは、どこにも要求されていません。ただ「主の愛」によってのみそれは可能となるのです。 本当に生まれ変わった人は誰でも「神の愛」を経験しました。そして「神の愛」を持ってるのです。ローマ人への手紙5章の5節に書かれてます。 ローマ人への手紙5:5
単なる事実としてこういうふうに書かれてます。「神の愛」が注がれている。「主の愛」でもってあなたはどのような人をも愛することができる。あなたが聖霊に働く余地を与えれば、御霊の実としての「愛」があなたの生活の中で明らかになる。 これこそほんとに、持続的に熱心に愛することのできるただ一つの道です。 第四番目。主の再臨を待ち望む生活とは、「真の友情の生活」であります。 ペテロの手紙第Iに戻りまして、「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい」とあります。主はまもなく来てくださり、そのときは縮まっているので、自分の家を開放し友達や見知らぬ人に対してあなたの心を開きなさい。 初代教会の特徴は、福音が家々で宣べ伝えられたということです。これらの「家庭集会」は、その当時非常に大切なご奉仕でした。家々におけるこのご奉仕は、今日同じように大切で必要不可欠なものなのではないでしょうか。 今日何と多くの孤独な人・絶望的な人がいることでありましょうか。信ずる者が、そのような人たちのために自分の家を開放することは、考えられないほど大切です。 多くの人とは一人の友達をも持たず、いたるところで歓迎されません。そのような人たちの面倒を見て招き、その人たちのために時間を割き、その人たちのためにいることは、信ずる者の責任なのではないでしょうか。 人々が決断するときも、そのような人たちの面倒を見ることは大切です。彼は引き続き導かれなければなりません。彼らは愛と理解と配慮を必要としているのです。 多くの問いは家庭集会で答えられ、霊的な糧も家庭集会を通して新たに回心した人たちに与えられます。彼らだけではなく、神なく、望みなく、生きる目標もなく、無為に過ごす人たちが、数えきれないほどいます。 信者たちが、住まいを持っていて自分自身のことだけしか考えないならば、それは正しくありません。いわゆる「マイホーム」でさえも、私たちは「自分のもの」と呼ぶことができません。 それは私たちが管理しなければならない、「委託された財産」に過ぎないからです。 未信者たちは、説教によって導かれるよりも愛されることによって導かれます。彼らが私たちによって愛されており、心にかけてもらってるということを感ずるならば、彼らは福音に対しても心を開くでしょう。 人間は友情・交わり・愛を求めています。私たちは、これらのものを彼らに与える責任を持っています。 いろいろな人たちを自分の家に招く人は、へブル人への手紙の13章の2節に書いてありますように、「御使いたちを、それとは知らずにもてなす」ことになります。 「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい」と、この言葉は真の友情と関わり合いをもっています。しかもそれはただ単に家々が開放されることによってだけではなく、自分自身の心を開き、他の人々のために配慮することによって可能となります。 ペテロの手紙第I、4章8節において要求されている「愛」は、このようにしても明らかになるのです。 どこでも「真の交わり」・「ほんとの友情」に飢え乾いてる人たちがいます。私たちの心が神の愛と神のあわれみによって満たされるとき、私たちは困ってる人々をお世話し、その人たちを主イエスと結びつけたいという願いを持つようになります。 五番目。主の再臨を待ち望む生活とは、「奉仕の生活」です。「互いに仕え合いなさい」と命令されています。 ペテロの手紙第I、4:10
とあります。10節はすべての信者が「すべての人の幸せのために委託された賜物」として、一つの賜物あるいはいくつかの賜物を持っていることを指摘しています。信者は誰も何らかの賜物を聖霊によって与えられています。 けど、誰もこれらの賜物の「管理人」に過ぎません。それらの賜物は用いられなければなりません。それらが用いられずに遊んでいることは許されません。主が間もなく来てくださり、そのときが縮まっているのですから、「委託された賜物」は用いられなければなりません。 主イエス様は、信者たちの特権と責任について次のように言われたのです。 ルカの福音書19:12-13
と。今日多くの教会や集会における問題は「無責任さ」です。多くの人々は会社のために一生懸命頑張ります。けどさらに主のことと、失われてる多くの人々が忘れられてしまうとするならば、それは大変な問題です。 今日必要とされているのは、主にすべてを明け渡し、主の望みになることだけを切に望む人たちです。主イエス様にすべてをゆだねる人は、用いられます。 イエス様は、ただ主だけに仕え、主の御手のうちにある器であることだけが大切であるという同労者を探し求められています。 私たちは主の働きの妨げとなってるなのでしょうか。あるいは主は私たちをお用いになることができるなのでしょうか。 第六番目。イエス様の再臨を待ち望む生活とは、「大胆な証しの生活」です。 「語る人があれば、神のことばにふさわしく語りなさい」とここで命令されています。 「奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」と。 これは「あらゆる信者は『主の口』となるべきである」ということを意味しています。私たちは主のために証ししなければならない。もちろんこれは、いわゆる「義務」よりも「すごい特権」であります。 私たちは主のために証しすべきであり、主を紹介すべき者です。そして主ご自身が、そのための力をもちろん与えてくださいます。自分の力で主のために働くのではなく御霊に押し出され、力を与えられて語るのです。 「私は主のために語ることができない」と、嘆く人がいっぱいいます。「私は主のために生きたい。私は主に仕えたい。けど私は語ることができない」と嘆く信者がいます。 まさに同じことをエレミヤが2600年前に言ったのです。 エレミヤ書1:9
エレミヤはもちろん主を信じ、主を信頼し、主が彼を通して奇跡をなさることを経験しました。 私たちは主に信頼し、助けを求めつつ、主を見上げる時、主が私たちに必要なものをすべて与えてくださるということを経験するのです。 われわれの周囲に、いたるところにイエス様の福音を必要としてる人々がたくさんいます。私たちがしなければ、誰がその人たちに福音を宣べ伝えるのでしょう。 いったいどうして初代教会の人々は、そんなに早く成長したなのでしょうか。それはすべての信者たちが、「イエス様を知らせたい」という願いを持っていたからです。イエス様は大胆な証し人を捜し求めておられます。 初代教会の人々について、次のように書かれています。 使徒の働き4:17-20
と彼らは大胆に言ったのであります。イエス様を信じ救われた人々がみな、まだ救われていない知り合いにこの救い主について語るならば、必ず主は働いてくださいます。けど誰でもこれをする義務を持っています。だれ一人言い訳はできません。 私たちは「自分の救い」を喜んでいながら、知り合いの人々が「永遠の滅び」に向かっていることに無関心でいるほど、自己中心的なのでしょうか。 旧約聖書の中でみなさん読んだことのある箇所だと思いますけども、列王記第IIの7章1節から読めば一番いいですけど、ちょっと長いから部分的だけちょっと読みます。 列王記第II、7:9
サマリヤの外にいる4人のらい病人が、最も素晴らしい発見をした、ということが記されています。すなわちその発見というのは、シリヤ人たちが莫大な富のある彼らの陣営を残して去ったということです。 そこで4人のらい病人は飢えを満たしてから自分のものにしてしまいました。けども、やあ、ちょっと良くない。「私たちのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日だから。」 らい病人たちは、「福音」を自分たちだけの独占物にしませんでした。彼らは飢えている人たちにそれを持っていってあげました。それによって多くの人々がいのちを保たれました。私たちはみな主の知らせを宣べ伝える責任を持っています。人々はそれを待っているのです。 最後にもう一つの点ですね。イエス様の再臨を待ち望む生活とは、「神の栄光を現わす生活」です。 「すべてのことにおいて神があがめられますように」と命令されています。私たちは主イエス様の間近い再臨を信じ、そのときが縮まってると確信する時、すべてのことにおいて私たちの主が栄光をお受けになるために、全身全霊を持って臨むようになります。 ペテロの手紙第I、4:11
とあります。私たちはこの節をコリント人への手紙第Iの10章31節と比較することができるでしょう。 コリント人への手紙第I、10:31
とあります。 けど「ただ神の栄光を現わすためにする」とは、いったい何を意味してるなのでしょうか。 聖霊の助けにより、主が喜んでくださるように、私たちは考え、話し、行動するということが、われわれの関心事とならなければならない。「主の栄光が現われること」こそ、私たちの心からの関心事でなければならないのです。 私たち自身におけることは、結局大切ではありません。大切なのは主がすべての事柄において優先権を持つことです。 もう一箇所読みましょうか。 コロサイ人への手紙3:17
とあります。ここに全生涯が含まれています。私たちの日常生活は、次のような切なる願いによって特徴づけられるべきです。すなわち「どうすれば主を喜ばすことができ、どうすれば主が栄光を現すことができるなのでしょうか」と。 私たちは、他の人たちがわれわれを通して同じように「救い」にあずかるために救われました。どうすれば主から遠く離れている人たちが、われわれを通して「救いの確信」を持つようになるなのでしょうか。 それは私たちが「主の再臨を待ち望む生活」をすることによって、すなわち私たちが「真に待つ者」になることによってです。 主は場合によると「今日」いらっしゃるかもしれない。この事実は人生を変えます。 「私たちは 主を待ち望むために救われた」と、使徒たちはみんな強調したのです。 最後に、もう一箇所だけ読んで終わりましょうか。 テサロニケ人への手紙第I、1:9-10
「あなたがたが待ち望むようになった」、という事実を毎日考えるべきなのではないでしょうか。 |