引用聖句:エペソ人への手紙5章20節-33節
今日このようにして、愛する渡辺尚喜兄弟と、愛する福代美紀姉妹の結婚を、このようなかたちでお祝いすることができるのは本当に感謝です。 今司会者が言われたように、今日の結婚の中心なるお方とは、二人とも知るようになり必要になった、主イエス様です。 もちろん「結婚式」と言われていますけど、私は本当はいわゆる儀式そのものを大切にしたくありません。なぜならば、儀式とは表面的なものであり、形式的なものであるからです。 その意味で、今日のいわゆる「結婚式」とは一つの儀式よりも、愛するお二人の知るようになった主イエス様を紹介するための集いです。 みなさんご存知ですけども、結婚とは人間の幸せのためであるべきです。人間はみんな例外なく幸せになりたいと望んでいます。なぜならば、幸せにならなければすべては面白くないからです。物質的に恵まれたとしても、欲しいもの全部与えられたとしても人間は満たされていません。最近、多くの人々は思うようになっています。 すなわち「すべてはむなしい」と、感ずるようになっています。 例えば友達いっぱい与えられたとしても、人間そのものは相変わらず孤独なんです。心のよりどころを見出していない人、 心の平安を知らない人はみんな孤独です。 すべてがうまくいったとしても、心の奥底には良心の呵責があり、そして罪ほろぼしのために人間は実際問題として何にもできません。 それから考えられない多くの人々は、将来に対する不安、また恐怖によって、支配されています。不安から、すべての心配から解放されることこそ、本当の幸せであり、また満たされた幸せな結婚生活の秘訣そのものです。 愛する尚喜兄弟、また愛する美紀姉妹は、おそらくよく相談して、どういうみことばを選びましょうかと思われたでしょう。ふたりは一致してひとつの言葉を選んだんです。 この間の結婚式の時、やっぱりふたりは一致しなかったんです。「私はこう。」、相手の人は「ちがう。ああ。」と言ったんです。しかたがなくて二つの言葉を採ったんです。けども内容的まったく同じです。 ふたりは一致して、次の言葉をお選びになってくださったのです。すばらしい言葉です。イエス様の約束です。 ヨハネの福音書14:27
どうして恐れてはいかんか、とイエス様言われたなのでしょうか。 現実見ると心配するようになるからです。あらゆる心配からの解放とは、主イエス様の平安に満たされることなのではないでしょうか。 ですからイエス様は、「わたしはあなたがた、愛する尚喜、愛する美紀に、わたしの平安を与える。」、すばらしい約束なのではないでしょうか。 イエス様は当時、毎日毎日いろいろなことを話されたでしょう。けどもイエス様は、説教したい、いわゆる頭の知識を与えたいと思わなかったでしょう。なぜならば人間はひとつの教えを信じこむことによっては救われないからです。 イエス様の話された目的とは、いったいなんだったでしょうか。ヨハネの福音書16章の33節に次のように書かれています。 ヨハネの福音書16:33
人間はまことの平安を知らなければ、やっぱり悩み続けます。孤独のかたまりになってしまいます。ですから人間はだれでも平和を求め、平和を必要としています。 けど今日の世界を見ると、政治的にも、経済的にも、社会的にも、家庭においてもいたるところに争いや不和が見受けられます。けどこのような外側の世界に現われてる争いや不和は、心の中の状態が外側に現れてきてるのだということです。 つまり言葉を変えて言うならば、人間一人一人の心にある分裂また不一致というものが、外側に現われてきてるにほかならない、ということです。 そしていろいろな変化や、流行を追い求めるということは、心の中に本当の満足と平安がないことを証明しています。 有名な詩人であるゲーテは、彼の全生涯において24時間ほんとに幸福だった時はなかったと言っています。 いったいどうして人間はそのように満たされない状態にあるなのでしょうか?その原因はまさに、人間の心にほんとの平和と平安がないということです。 聖書は次のように言っています。 イザヤ書48:22
ヨブ記15:20
箴言28:1
今の読んだ3箇所で、新改訳聖書が「悪者」といってるものは、原語を見ると「悪者」ではなく「神なきもの」となってることに注意しましょう。神なき者はほんとの平安を持つことができません。 けども聖書は「すべての人間は、神なき者であり、したがって、平安なき者である。」、といってます。人間はだれでも平安を必要としてますが、その平安を与えるものは人間ではなく主なる神ご自身であり、ただ主なる神の恵みによるのです。 愛する尚喜兄弟も、また愛する美紀姉妹も、主イエス様を知ることによって、まことの平安を体験的に知るようになったのです。 3つの問いについてちょっとだけ、簡単に考えてみたいと思います。 第1番目、なぜ人間には平安がないのでしょうか。 第2番目、いかにして人間はまことの平安を得ることができるのでしょうか。 第3番目、いったいどこに平安があるのでしょうか。すなわち平安の土台なるものは、どこにあるのでしょうか。 そこでまず第1に、なぜ人間には平安がないなのかについて一緒に考えてみたいと思います。まず考えらるることは、良心の呵責から罪意識が生じ、そのために平安がないということです。 3,000年前に一人の王様は、平安のないものになっちゃたんです。この経験について彼は次のように言ったのです。 詩篇32:3-4
また、 詩篇38:3
とあります。義なる裁判のことを思うと、私たち人間には確かに平安がなくなります。 有名なフランスの思想家であるヴォルテールという男は、「俺は無神論者だ」と大きな声で宣言したのです。けれども彼はあるとき友達に言ったのです、「もしも神がいるとしたら、それはほんとに恐ろしいことだ」と。 もちろん彼はいるとわかった。けど、いると頭を下げなければ悔い改めなければ、大変な問題になる。 ですから正直になりたくなければ、悔い改めなければ、いないいないと言うならば、ひとつの愚かの考え方にすぎません。 もう1つ、人間は死んでから裁きを受けるため、人間は平安がないと聖書は言っています。さらに、平安のない状態の原因を考えてみると、この世の様々なことがらに対する思い煩いをあげることができるでしょう。また、愚かな、未だに満たされていない願いなども原因のひとつになってるかもしれない。 このように生まれつきの人間には、ほんとの喜びと平安がないのですが、そのような絶望的な人間に対して、ほんとの平安を与えてくださる方は、主なる神以外に何もないことを知らなければなりません。 次に第2の質問、すなわち、いかにして平安を得ることができるのでしょうか?について、考えたいと思います。 ただ、生けるまことの主なる神お一人だけが、平安をお与えになることができます。平和の君と呼ばれてる主イエス様だけが、本当の平安を与えられるお方です。 イエス・キリストはよく、「平和の君」と呼ばれていたのです。パウロはエペソ人への手紙2章13節に、キリストこそ私たちの平和である、と書いたのです。 この平和の君であられる主イエス様は、聖なる神との贖いをなしてくださいました。聖なる神に対する敵対関係を、無にしてくださいました。 私たち人間が主から離れている罪、あるいは債務はイエス様の尊い犠牲によって、完全に取り去っていただいたのです。まことの平和は、イエス様を信じることによって与えられます。 ローマ人への手紙5:1
今日結婚する、愛する尚喜兄弟も、また愛する美紀姉妹も、心から同じように言えるようになったのです。すなわち、「私たちふたりは、イエス様に信頼することによってよしとされ、受け入れられるようになたのです」と。 神との平和を持ってるということは、過去形で書かれてるのではなく現在形で書かれています。現在、今、私たちふたりは神との平和を持っています。 愛する尚喜兄弟、また愛する美紀姉妹は、今、私たちは聖なる神との平和、また贖いを持ってる。主なる神はもはや、怒りをもっておらず、主イエス様の犠牲によって、完全なる贖いと和解が成就されてる。 もはや何ものも、主なる神との結びつきを引き離すことはできません。イエス様こそあらゆる問題の解決です。 そして最大の問題は、債務の問題ですが、この問題をもイエス様は解決してくださったのです。 信仰によってよしとされることは、われわれの人生における最大の機会です。一撃でもって、私たちのすべての罪と債務が取り除かれます。 上からの光によって、私たちは突然イエス様の価値と十字架における大きな愛、贖いのみわざを知り、さらに自分のわがままが全部赦されてることを確信するに至ります。 この事実は、人間の理性によって説明することのできないものです。けど私たちの心にしっかりとした、不動の確信となります。 主イエス様の流された血によってよしとされたこと、これこそが愛する尚喜兄弟、また愛する美紀姉妹の喜びであり、歓呼であります。 イエス様を信ずる信仰は、愛するおふたりの人生を、見方を、価値観を変えたのです。イエス様が愛するおふたりの代わりに、罪に対する罰を受けてくださったから、もはや罪のゆえにおふたりを訴える根拠はなくなってしまったのです。 最後に第3の質問は、平安の土台なるものはいったいどこにあるのでしょうか。 この平安とは、決して感情ではありません。感情なるものは、過った方向にそれる可能性があるため、感情に身をゆだねることはまことに危険である、と言わなければならない。 平安の土台は主なる神との関係が、新たに回復されたという確信です。私たちが、罪を告白しイエス様を自分の救い主として受け入れるならば、罪が赦されると聖書は言ってます。そして私たちは、このみことばにしっかりと立つときに、確信を持つようになります。 ですから、確信の土台はわれわれの理解や感情ではなく、主のみことばにほかなりません。 平安の土台なるものは、私たちがほんとにイエス様に従っていきたいという意思でもあります。人間の自分勝手なわがままは、不和と不一致をもたらす大きな原因です。 けどそのような自分勝手なわがままが支配され、小さくなってゆくにつれて、ただイエス様にのみ仕え、イエス様にのみ従っていきたい、という意思が支配的となるのです。そうするとその他の願いは、第2、第3のものになるわけです。 聖なる神との平和は、主イエス様の十字架において現実となりました。主イエスは十字架の血によって平和をつくられた、と聖書に書き記されています。この主なる神との平和とは、一回限りのものであり、永遠に失われることのないものです。 本当におふたりの選んでくださった言葉はすばらしいものです。もう一回読みます。 ヨハネの福音書14:27
主なる神との平和だけではなく、主なる神ご自身の平和こそがイエス様は与えたいと望んでいます。わたしはあなたがたに、「わたし」の平安を与えるとイエス様は言われたのです。 信仰のゆえに迫害され、ローマの刑務所の中で、パウロはこの神の平安について書いたのです。自分で経験したからです。 ピリピ人への手紙4:6-7
…神ご自身の平安… ピリピ人への手紙4:7
また、コロサイ人への手紙3章15節に、パウロは当時の信じる者に次のように書いたのです。 コロサイ人への手紙3:15
と。もし私たちが自分勝手な道を行くならば、この神の平安は失われてしまいます。けど十字架における贖いのみわざは、すなわち神との平和は私たちと関係なくいつも変わることがないのです。 愛する尚喜兄弟また愛する美紀姉妹が信ずるようになったイエス様は、いったいどういうお方なのでしょうか。 おふたりの信ずるようになったイエス様とは、道を指し示すものや道しるべではない、道そのものです。おふたりの信じるようになったイエス様は贖う者だけではなく、贖いそのものです。おふたりの信じるようになったイエス様は、救い主であるだけでなく、救いそのものです。 聖書の中ですばらしい言葉が書かれてます。見よ。今は救いの時、今は、恵みの時です。 救われようと思う人は必ず救われます。今日救われようと願う人は、間違いなく今日救われます。 結婚は、私たちの生活における最も大切なことがら、そして結果の難しくなりうることがらです。考えられない多くの人々は、間違った結婚によって一生涯不幸に暮らします。 結婚について聖書はいったい何を言ってるなのでしょうか。結婚はひとりの男子とひとりの女子の間の、一生解かれることのない結びつきです。自分たちは死んで離れるまで一緒であるということを知らなければならない。 (テープ A面 → B面) ・・・男である。もう一回、読みます。 コリント人への手紙第I、11:3
・・・自分ではない・・・ コリント人への手紙第I、11:3
・・・自分ではなく・・・ コリント人への手紙第I、11:3
とあります。けどもこのみことばは男女が不平等であるとか、男の方が女よりもすぐれてるとかいうことを言わんとしてるのではない。ただ神の秩序を明らかにしてるだけです。そしてこの、神の秩序をごちゃごちゃしないで、正しく守る者はまちがいなく祝福されます。 もちろん誰でもわかることです。すなわち男が自分の意思、また自分の理性を主イエス様の御心に従わせるということはあまり面白くない。決して簡単ではない。そしてまた女が自分の意思や、自分の感情を男の意思に従わせるということも時々面白くないでしょう。決して簡単ではない。 けど、私たちはこの主なる神の秩序を正しく守る時に、ほんとに満たされた人生祝福された結婚生活を送ることができるのです。 本当の結婚とは、自分自身を否定するための神の訓練の場であると言えます。自分はいつも正しいと思いこんでる人は、もうはじめから結婚しないほうがいい。何かあって、ふたりの間に重苦しい空気が流れるような時には、「私は悪かった」「ほんとにすまなかった」という一言を言うことが非常に大切です。 また、自分の幸せだけを追求する者も結婚しないほうがいいでしょう。相手の人が幸せになるようにと努めることが、どうしても必要です。また自分だけが理解されたいと思う者も、結婚しないほうがいいでしょう。相手の人があなたによって理解されるということの方がはるかに大切であるからです。 私の心からの願いと祈りとは、愛するおふたりがいつも次のような態度をとり続けるということです。すなわち自分が考えたり、自分が感じたり、自分が欲したりすることが大切ではなく、主よあなたのご栄光があがめられますように、これこそがまことの幸せなほんとの結婚への道にほかなりません。 |