その子をわたしのところに連れて来なさい


ベック兄

(岡山喜びの集い、2009/07/12)

引用聖句:マルコの福音書9章14節-29節
14さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。
15そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。
16イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか。」と聞かれた。
17すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。
18その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」
19イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
20そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。
21イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。
22この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
23するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
24するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
25イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」
26するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。
27しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。
28イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」
29すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

今日は、いわゆる学び会だけではなくて、こちらの兄姉の子供を祝福する日でもあります。どうしてそういう祝福する日を持つかと言いますと、今読みました箇所です。19節の後半です。「その子を私の所に連れて来なさい。」
あなたの、まだ救われていない主人、救われていない奥さん、救われていない子供、孫、幼児たちを、私の所に連れて来なさい。イエス様は、そう提案しておられるよりも、命令しておられます。
私の所に連れて来なさい。今読みました箇所の中で、二回も、同じ表現が出て来ます。

マルコの福音書9:15
15イエスを見ると

まず、15節です。

マルコの福音書9:15
15群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。

もう一箇所は、20節です。

マルコの福音書9:20
20その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。

最も大切なのは、イエス様を見ることなのではないでしょうか。イエス様のことを理解することなのではない。
自分の代わりに死なれたイエス様を心の目で見ると、誰でもが元気になります。イエス様とは、本当に比類なく素晴らしいお方です。
今の箇所を読めば、もちろん、人間の惨めさ弱さを知ることができるだけではなくて、イエス様だったら何でもできるという事実を知ることができるから、やっぱりうれしくなります。

マルコの福音書9章の初め、2−13節をみると、イエスが変わられたいわゆるの変貌について、書かれています。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、イエス様の変えられた姿、またイエス様の栄光を拝することができただけではなく、「これは、私の愛する子、これに聞け。」と言う父なる神の声を聞いたのです。
弟子達にとって、考えられない素晴らしい経験でした。

そしてイエス様は、今日の経験したことを、あながたにとって良かったかもしれないけど、しゃべってはいかん、他の人々は知る必要はない。どうせ受け入れようとしないからです。当分の間、黙っていなさい。
もちろん弟子達は従ったのです。おそらくイエス様は生きている間に、他の人々にしゃべらなかったらしい。でも、イエス様が復活なさり、天にお帰りになって、ペテロは何十年後で、手紙を書いたのです。
祈った結果として、昔の経験したことについて書いてもいいよ。言われたからペテロは書いたのです。

ペテロの手紙第II、1:16-18
16私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
17キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
18私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。

このように、12人の弟子ではなくて、3人の弟子だけ、イエス様のご栄光を見ることができたのです。本当にもう、うれしくてうれしくてしょうがなかった。
結局我々の主とはすごい。間違いなく、約束された救い主そのものであると、彼らは動かされない確信を持つようになったのであります。三人は大喜びで満たされたのです。
残り9人の弟子達は、困るのです。もう、どうしたら良いか全くわからなくなってしまったのです。

結局、一人の病人、汚れた霊につかれた病人に遭遇して、そして9人の弟子達は助けることができなかったし、もちろん癒すこともできなかったし、全く困り果ててしまったのです。
この汚れた霊につかれた息子は、本当に惨めな憐れむべき人間を象徴する姿なのではないでしょうか。人間は自由人ではない。自由になろうと思っても、不幸になります。人間の考えている自由は存在していない。
人間は自我の奴隷、罪の奴隷であるか、主に仕える奴隷であるかのどちらかです。主に仕える奴隷になると、自由になり解放されます。そうでなければ、人生は本当に重苦しいものになってしまいます。

この箇所を見るとわかります。そこに集まった人々は、病人に対してどうすることもできませんでした。
周囲の群衆は、多かれ少なかれ好奇心と動揺をもって、病人と父を見つめていたでしょう。けれどもそれしかなかった。どうすることもできませんでした。
もちろん群衆が集まった時、必ず当時の宗教家たち、聖書の学者たちも来たのです。彼らも、確かに社会的な名誉や地位、また知識を持っていたけど、この病人に対してどうすることもできませんでした。

それだけだったら有り難いけど、イエス様の弟子達も何にもできなかったのです。確かに癒そうと思ったのです。努力しました。けれども、結果は同じでした。
病人の父親は、あらゆる人間的な努力が無に帰したことを知って、全く絶望的な気持ちに陥ってしまったのです。
彼らの中心には、汚れた霊にとりつかれた病人がおりましたが、彼は、悪霊によって攻撃され、支配されてしまった憐れな人間にほかならなかったのです。

どうしてこう言うふうになったかは、わからない。生まれつき、悪霊につかれた人はいないはずです。
この子が生まれた時、やっぱり喜びの種だってでしょう。「見て、かわいいじゃないの。」
ある時、悪霊に攻撃され、負けてしまって、悪魔の支配下のもとに置かれるようになりました。

悪霊がこの男にとりつくと、彼をずたずたにし、彼を引き倒し、彼は、地面に倒れ、あわをふき、体を転げ回らせたと、18節に書いてあります。
さらに悪霊は彼を苦しめ、火の中、水の中に投げ入れて、結局彼を殺そうと思ったのです。
悪魔のひとつの名前は、「人殺し」です。もちろん、悪霊もそれしか考えられない。だめにしよう。殺そう。

私たちはこの病人の中に、自分の姿、すなわち同じように苦しみ、悩んでいる罪人の姿を見るときに、我々にとって、人間的な力は、なんの役にも立たないことを、知ることができるのです。
そして、この病人の周囲に集まっていたずべての人々は、全く何もすることができなかった。無能者、無力者でした。
イタリアに偉大なる画家がいました。ラファエロという画家なのです。彼は、この光景を一枚の絵に書き表したのです。

その絵の一番上には、栄光の中にモーセとエリヤとイエス様の姿が描かれています。その少し下のところには、眠り込んでいる弟子達が描かれています。
さらにその下には、深い悲しみのあまり絶望して両手をもみあわせている父親、むなしく試みている弟子達、その周辺には、敵対的な気持ちを持っていた聖書学者たちが、描かれています。
前に言いましたように、イエス様と人間は、本質的に相容れないものです。なぜならば、イエス様は永遠なる神でありながら、この世に遣わされたお方です。人間は、罪と悪魔と自我とに縛られた者である故に、もちろん一つになることができません。

けれども、そのような関係にあるイエス様と罪人は、それであるが故に一つにならなければならない。なぜならば、それこそ一つの救いの道であるからです。
完全に主の御手の中におられるイエス様と、悪魔の手の中にある病人との出会いこそが、いわば驚くべくして起こった出来事です。
イエス様との出会いによって、問題は、いっぺんに解決されました。このような状態の所にイエス様が現れると、事情は、全く一変してしまったのです。

イエス様は、次のように命令なさいました。前に読みました箇所ですね。「その子をわたしのところに連れてきなさい。」
それだけではなく、イエス様は、もう一つのことを命令なさったのです。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」
このような言葉は、詐欺師の言葉であるか、本当に遣わされた救い主であるかの、いずれかでしかありません。

それが、どちらであるかは、結果を見て判断する以外にないのではないでしょうか。
この場合に、もしも万が一、イエス様が、孔子や、釈迦や、マホメットのように偉大な宗教家にすぎなかったら、人々に啓蒙することができても、死から命に甦らせることはできなかったはずでしょう。
けれども、イエス様は、悪霊に出て行くことを命令し、実際に、悪霊はその病人から出たとあります。

イエス様は、なんと言う力を持っておられるお方でありましょうか。イエス様が悪霊に命令した時、悪霊は、それに従わざるを得なかったのです。
そのために悪霊と言えども、イエス様が、まことの神の御子であり、神の聖者であると、告白せざるを得なかったのです。
イエス様とその他のすべてのものとの相違は、なんと大きなものでありましょうか。イエス様以外のものは、すべて、例外なく無能者、無力者にほかなりません。

先ほど言いましたように、その場に居た聖書学者たち、当時の宗教家たちは、確かに社会的な名誉や地位を持っていたのです。いろいろな聖書の知識も持っていたのです。
彼らはよく聖書を学びましたし、疑問を抱かず全部そのままで信じたのです。けれども、聖書の中心であるまことの神を知らなかった。遣わされた救い主に対して、全く盲目でした。
聖書は、どうして書かれているかと言いますと、頭の知識を与えるためじゃない。聖書とは、生けるまことの神の愛の現れです。

遣わされたイエス様、犠牲になられたイエス様こそが、何を物語っているかと言いますと、人間ひとりひとりは、まことの神にとって尊い存在であるということです。
結局、聖書学者たちは何にもできなかった。努力しようともしなかったよ。もう無理よ。あきらめなさい。
もしかすると、宗教家であったから運命だと思ったかもしれない。天罰だと言ったかもしれない。お手上げです。

もちろん病人の周囲の群衆たちも、彼らは傍観者に過ぎなかったよ。見ただけ。助けようとしなかったし、助けられなかった。
イエス様がその少年の病いを癒された時、それは病人に対して非常に大きな反応を示し、その子は死人のようになっちゃったと書いてあるのです。

マルコの福音書9:26
26するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。

それまで、病人に対して支配していた悪霊は、イエス様の力によって叫び声を上げ、その子を激しくひきつけさせて、出て行ったのです。
そして、群衆の判断はおかしいでしょう。群衆はなんと言ったかと言いますと、「もう死んじゃった。」
この群衆の判断は、不信仰と疑いから出てきたものでした。実際は、本当の病人は、悪魔から解放され、病気を癒され全く新しい人間に生まれ変わったんですけど、群衆は、「彼は、死んだ。」と言いました。

つまり、死んだと言う群衆の判断は、イエス様が病人を前よりも悪い状態にしてしまったということになります。
もう死んだならば、希望がない。終わりだと群衆は思い込んでしまったのです。人間は、イエス様との結びつきを失い、ただ目に見えるものだけに縛られる時に、全く愚かな判断しかできません。
イエス様なしには、我々は全く現実に対して盲目になってしまいます。

けれども悪魔は、それと正反対のことを言ってるのではないでしょうか。
すなわち、もしも私たちがイエス様だけを大切にすると、それは非常に狭く偏った考え方であるばかりではなくて、現実から離れた雲の上の生活をすると言う結果になってしまうと言うのではないでしょうか。
けれども、ここでもわかるように実際は病人が癒され、全く新しい人間に生まれ変わった現実を見て、群衆は「彼は、もう死んだ。」と言う正しくない判断を下しているのです。

それで、もうちょっと手短に、弟子達のことを見てみましょうか。
弟子達は、すでに何年間かイエス様と共に生活する恵みに預かったのです。そしてもちろん、イエス様は、毎日運ばれた病人を癒したのです。無料で。本人が信じても、信じなくてもイエス様はみんなを癒してくださいました。
弟子達は、それを毎日、もちろん自分の目で見ることができたのです。

イエス様と共に生活することとは、イエス様にとってすごい生活でした。結局、彼らの動かすことのできない確信は、なんであったかと言いますと、イエス様にとって不可能なことはない。イエス様はなんでもできる。そう彼らは確信しました。
けれどもそれだけではなく、弟子達自身も、彼らによって多くの病人は癒されたのです。たとえば、この男と同じように悪霊につかれた病人でさえも、癒すことができたのです。
ちょっと見てみましょうか。ルカの福音書10章です。17節からです。

イエス様の弟子は、12人ではなくもっともっと多かったのです。ある時は、おそらく何百人だったでしょう。けれど、イエス様が十字架につくと話した時に、大部分は離れたのです。もう、面白くない。
けれども、残ったのは何人だったかはわからないけど、ある時、イエス様は七十人の弟子達を遣わしたのです。
この七十人は、喜んで帰ってきてこう言ったのです。

ルカの福音書10:17-20
17さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」
18イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
19確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
20だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

あなたの経験だって、たいしたもんじゃないよ。あなたがたは、用いられる器に過ぎなかったのです。けれども弟子達は、確かに経験しました。主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。
このような経験があっため、弟子達は、今度も同じように、病人を癒すと言う間違った自信をもって、一生懸命に試みたのでしょう。
たぶんペテロの兄弟であるアンデレは、「イエス様の御名によって命令します。悪霊よ、出て行け!」と大きな声で叫んだのでしょう。一回だけじゃなくて、二回も三回もやったかもしれない。他の弟子達も、同じようなことを何回もやってきたのですけどだめでした。

病人の状態は以前と同じであったため、多くの群衆は弟子達を取り囲み、聖書学者たちと論じあっていたのです。
けれども、彼らが論じあっている様子を見て、悪魔はうれしかったでしょう。なぜならば、彼らが論じあっているときには、彼らはもうすでに病人が問題の中心ではなくなっているからです。
そして、おくら議論しても、そこから本当の癒し、まことの救い、解放が生まれてくるはずがない。だから聖書は、よく言っているのです。議論してはいかん。主だけを見なさい。主に任せなさい。

聖書学者たちは、弟子達が意気消沈しているのを見て、うれしくなったでしょう。次のように言ったのではないでしょうか。
お前達のイエス様も同じもんだよ。お前達は、イエス様の御名によって、癒すことができなかったんじゃないの。お前たちだけではなくて、お前たちのイエスもうそつきです。詐欺師に過ぎないよ。
もちろん弟子達は、なんにも言えなくなってしまいました。

けれども、全部自分の目で見たこの息子の父親はちょっとたいへんでした。

マルコの福音書9:22-23
22この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
23するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

イエス様とつながっていれば、不可能なことが可能になる。その子の父親は、イエス様に、信じる者はどんなことでもできると言われた時に、すぐ叫んだのです。「信じます。不信仰の私をお助けください。」
信じますと言う言葉は、目に見える現実、すなわち全く不可能な病いから離れて、ただ100%イエス様だけを信頼するという意味を表しています。
「不信仰な私を助けてください。」という言葉は、私をあらゆる不信仰から解放して下さい。取り除いてくださいという意味を表しています。

この父親のように心からの飢え乾きと、惨めさを感じている者は、誰でも、イエス様の所に来るべきです。
この父親は、無関心ではなかったのです。彼にとって、大きな苦しみ悩みの種がなんであったかというと、子供の病気のことよりも、むしろ彼の不信仰でした。
彼はただ単に、不信仰の行いから救って欲しいと願っただけではなく、そのことを大声で叫んで言い表したのです。

結局、問題は問題ではない。悩んでいる息子でもない。問題に対する、病気に対する態度なんです。
自分の願いを外に言い表すものを、イエス様は助けざるを得ない。その父親が、自分の苦しみ、自分の悩みを正直に言い表した時に、イエス様は、彼を助けることができたのです。
父親の本当の問題は、今話したように、息子の問題、息子の病いを癒すことよりも、そのことに対する彼自身の心の態度であったのです。

その父親は、次のように告白せざるを得なかったのです。有名な医者が最高の医学をもってしても、癒すことができず、聖書学者たちが該博な知識をもってしても、癒すことができず、弟子達がイエス様の御名によって癒そうとしても、癒すことができませんでした。
何ものによっても癒すことができない。今が本当に絶望している。絶望して、全く望みを失ったものは、当然ですけど、喜びも力も平安も、持っていません。
そして、喜びも、力も、平安ももっていない人は、肉体的な健康も、必ずだめになってしまいます。息子が、癒されると言う確信を持っていれば、そこから新しい力と、勇気を持つことができます。そして、この確信と信仰がないことこそ、父親の悩みの種でした。

我々の場合も、悩みが問題なのではなく、その問題に対していかに対処するか、我々の心の態度こそが大切です。
私たちは興奮したり、悲しんだり、絶望したりする時、肉体的にも精神的にも必ずだめになってしまいます。
我々は、ときどき、これはあのせいだ、このせいだということがあるけど、これは決して正しくない。

悩みや苦しみを通して、我々の精神や肉体は、決してだめになりません。むしろ、そのような問題に対する態度こそが、本当の問題なのです。
我々が悩みや苦しみ対して、どのような反応を示したなのかによって、だめになるか、新しい力が与えられるかのどちらかです。
すなわちそこで、私たちが病気になるか健全に成長するかのどちらかに決まるわけです。いかなる鎮静剤にも増して有効なものは、聖書じゃないでしょうか。有効なものは、御言葉なのではないでしょうか。

たとえば、次のよな御言葉によって、大勢の人が慰められ力づけられたのです。コリント人への手紙第II4章6節からです。
初代教会とは当時、いろいろなことで悩みましたし、苦しみましたし、迫害され憎まれたのです。
けれども、彼らは、喜ぶことができたのです。どうしてでしょうか。

コリント人への手紙第II、4:16-18
16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

この断固たる態度をとると誰でもが元気になる。どういう状態に置かれていても、イエス様を仰ぎ見ると輝くと、詩篇の作者であるダビデは言ったのです。イエス様から目を離さないでいなさい。離す瞬間、大問題になります。
もう一箇所、ピリピ人への手紙。ピリピ人への手紙とは、ローマの刑務所の中で書かれた手紙です。
それにしても、喜びの文と呼ばれています。言うまでもなくパウロは、皆さんお願い私のこと忘れないで、早くこの刑務所から出られるようにと書いていないのです。かえって、刑務所に入っていない人々のために心配して、彼らが成長するために、彼は書いたのです。

ピリピ人への手紙4:6-7
6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

近所の人にしゃべりなさいじゃない。人間に話すよりも、先にすぐ主に話すほうが早道です。主に知って頂きなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
パウロは、これを経験したから証しすることができたのです。
このパウロとは、確かにいろいろなことで悩みましたし、大勢の病人を癒しただけじゃなくて、死人も甦らせたのです。けれども、彼も病気になっちゃった。どうしよう。もう一回、コリント人への手紙第IIに戻りまして12章です。

コリント人への手紙第II、12:8-9
8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

病気を癒して下さい。このとげを取り除いてくださいと祈ったのです。でも主は、わたしの恵みは、あなたに十分であると語りました。
ピンと来なかったでしょう。でも主がおしゃったから、パウロは、決心したのです。「大いに喜んで弱さを誇りましょう。」

コリント人への手紙第II、12:10
10ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

すごい証しです。主は、生きておられる。主に頼る者は失望させられることがない。
聖書全体の呼びかけとは、マタイの福音書11章28節でしょう。

マタイの福音書11:28
28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

もちろん、肉体的に疲れた人じゃないよ。肉体的に疲れたら早く寝たらいいよ。精神的に疲れた人、重荷を負ってる人です。
そして、キリスト教に入れではない。しっかりしなさいではない。私の所に来なさい、私があなたがたを休ませる。
重労働して疲労困憊しても、運動のハードトレーニングで疲れ果ててしまうことよりも、少しの不安、心配の方が、信者に対して悪い影響を及ぼすということは、医学的にも証明されているところです。

たとえば、胃潰瘍は食べ物のせいじゃない。食べ方のせいでもない。むしろ、悩みや苦しみのための不安や心配によって、引き起こされているものです。
聖書の中で、いろいろな言葉が薬として提供されています。一人の素晴らしい薬はなんであるかと言いますと、「すべてのことにおいて、感謝せよ。」、あることと書いていない。すべてのことにおいて感謝せよ。
これは単なる提案じゃなくて、命令です。このような御言葉に従わないと、精神的にも肉体的にも必ずおかしくなります。

どうして、このような言葉が与えられているかと言いますと、薬として与えられているからです。すべてのことにおいて感謝せよ。
なにもわからなくても良い。どうしてか考える必要もない。主が支配者です。主は、必要ない問題、必要ない悩みを与えられない。そう考えると、感謝することができるのではないでしょうか。
主は、完全です。主の導きも完全であられます。このような御言葉が、我々に与えられていることの目的は、今話したように、私たちが重荷を感じたり、束縛されることではなくて、反対に、喜びと平安を与えられ解放されることです。

すなわち私たちは波にもてあそばれるボールのように周囲の状況や環境によって左右される者であるか、あるいは御言葉によって、周囲の状況を越えて、全く平安を与えられているかのどちらかです。
この父親と同じように、主よ、不信仰から解放して下さい。目に見える世界から目をそらし、あなた様だけを見上げる力を与えて下さいと言う祈りができれば、本当に、幸いと思います。




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