「大いに喜べ!」―――悩みながら喜ぶことができる


ベック兄

(結婚式)

引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、5章16節-18節
16いつも喜んでいなさい。
17絶えず祈りなさい。
18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

今日、このようにして大勢の方々と共に、愛する兄弟、姉妹のお祝いを共に喜ぶことができるのは、本当に感謝です。
何故ならば、イエス様が導いてくださった、と愛するお二人は告白するようになったからです。
お二人は勝手に考えたり、決めたりすることよりは、すべてを支配したもうイエス様が恵んでくださった、導いてくださったからです。

また今日のお祝いは、主の忠実さを誉め讃えるお祝いでもあります。イエス様は、愛する兄弟、姉妹に、「わたしは決してあなたを離れず、決してあなたを捨てない」と約束してくださったから、お二人は本気になって、この主の約束を信じ、すべてをゆだねることができたから、主はご自分の約束を守ってくださり、お二人を導いてくださったのです。
愛するお二人の選ばれたみことばは、今読まれた箇所です。結婚指輪を見て、一言葉しか書いていないんです。
もちろん二人は、今読まれた長い文章を短くして、一言葉だけ刻み込まれてもらったのです。どういう言葉かと言いますと、日本語じゃなくて、英語なんですね。REJOICE:「大いに喜べ!大いに喜びなさい」という言葉です。

パウロという男とは、自分で色々なことで苦労しましたし、そして毎日いろいろな人々と出会ったりして、「どうしましょうか?」と良く聞かれたんです。毎日、何十回もでしょう。彼の答えは明確でした。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」、終わり。
従えば大いに祝福されます。あらゆる問題は必ず解決されるからです。もちろん、ここで一番大切な言葉が、「キリストにあって」という言葉です。

例えば、「いつも喜びなさい。」「ハイ、かしこまりました。」そういう問題じゃない。「絶えず祈りなさい。」「ハイ、わかった。」と言ってもね、そんな簡単なもんじゃない。
あるいは、「すべてのことについて感謝しなさい。」「そうします。」と言ってもね、うまくいかない。
従って、キリスト・イエスにあってという言葉は大切です。すなわち自分で頑張っても何にもならない。だから、自分よりも強い方に頼らなければ、おしまいである。

人間は皆大したものじゃない。弱い者で惨めなんです。大体の人は皆うまく隠すんです。誰もわからないように。
けども人間は、いくら弱くても、惨めであっても別に問題じゃない。もし主イエス様に頼れば。
そして、愛するお二人はそれを体験的に知るようになったから本当に幸せ。おめでとう。

イエス様も、「重荷を負って苦労している者は、精神的に疲れている者は、満たされていない者、孤独になっている者は、わたしのところに来なさい。休ませてあげます。」
「わたしのところに来るものを、わたしは決して捨てません。」と、嘘を知らないイエス様は、約束してくださったのです。
愛する兄弟も姉妹も、このイエス様の約束を本気になって信じたんです。結果として、元気になっちゃった。希望がわいてきたんです。

結局、人間の心を知る人間はいない。人間の心の奥底を、わかる人間はいない。だから、人間はみんな淋しい。孤独なんです。人間の気持ちを理解できる方は、人間の心の造り主しかない。
したがって、人間を励ますことができ、力づけることができるのは神のみことばである聖書だけです。不思議な本です。いくら読んでも、わからない。けど、信ずれば元気になる。
わかろうと思えば、壁にぶつかります。わかるもんじゃないから。けども必ず聖書は喜びの源、まことの平安の源、生ける望みの源であります。

愛するお二人は、それを今まで別々に経験しましたし、今から共に経験するようになるのは、本当に楽しみです。
聖書に頼れば、毎日必要な力、必要な喜び、必ず与えられるようになります。
「いつも、喜んでいなさい。」と、主なる神が命じておられ、結局これこそが主の思いであり、主の望んでおられることです。

「いつも、喜んでいなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。
悲しさ、落胆、敗北感は禁じられています。主は、私たちがいつも喜ぶべきであると、はっきり言われています。
このような主の命令に対して、不従順な態度を取ることは、結局、どうでもいいことじゃない。罪です。

確かに多くの人々は、そういうこと聞くと笑います。「言うのは簡単だろう。けど、わたしの状態、分かれば無理だよ。喜ぼうと思ってもあり得ない。」と言うでしょう。
けども、この「いつも、喜びなさい。」と書いたパウロという男は、違うことも告白したんです。正直に告白したのです。隠そうとしなかったんです。
彼は、なんと言ったかと言いますと、「私は、何という惨めな人間なのだろうか。」、結局、「喜びたいけど、無理だよ。できません。」

結局、「私は、何という惨めな人間だろう。」というのは、決して喜びの叫びではない。結局、「自分の内に良い物は一つもない、いくら頑張っても、何にもならない。」という正直な告白であります。
けどそれにしても、すべてを知りたもう、結局我々の弱さ、惨めさを知っておられる方が、「いつも、喜んでいなさい。」と命令しておられます。
主なる神は、私たちがどうであるか、どのような状態であるかにはお構いなく、「いつも、喜びなさい。」とはっきり言われています。

例えば、病気を知らない人、何の問題も持っていない人々とは、ちょっと可哀想と思う。
幸せになりえない。必ず、いつか壁にぶつかるようになります。
愛するお二人は色々なことで苦労しましたし、悩みましたし、どうしたらいいかとわからない状態に置かれたとき、主は、救いの御手を差し伸べてくださったのです。

誰からも奪われることのない喜びの秘訣とは、イエス・キリストを知ることです。
イエス様を知り、生き生きとした交わりを持つことによって、あらゆる人間の思い、例えば、孤独、傲慢、自分中心の利己主義、無味乾燥な悲哀感、そして絶望など、あらゆる悩みが、解放、解消してしまうのです。
そして、他方においては本当の喜び、平安、満足が与えられます。

イエス様は、我々にまことの救い、すなわち罪の赦しを与えるためにこの世に来てくださり、救いの代価として自分のいのちを与えてくださったのです。
このイエス様を体験的に知ることは、永遠のいのちを持つことに他ならない。すなわち、イエス・キリストとの生き生きとした交わりの中にこそ、本当の喜び、絶えざる喜びの源があります。
イエス様こそ、希望、喜び、平安の泉そのものであるからです。

主イエス様によって、悲しみは喜びに変わります。イエス様によって、仕事の重荷が喜びに変わります。イエス様によって、疲れ果てたものが新しい力を得ます。
イエス様によって、あらゆる人間的な努力の虚しさや焦りが、全く平安と安らぎの静かに変わるのです。
喜びの泉とは、人間ではなく、見えるものではなく、主イエス様です。喜びがなければ、人生は全く重苦しいものになります。喜びがなければ、人生は退屈なものになってしまいます。

聖書を通して提供されている喜びは、いわゆる楽しみよりもずっと大切なものです。聖書が提供している喜びは、絶えざる喜びを、心から感じさせるものです。また、不安や心配を解消するものです。
そして、全き平安に導き、完全に主の御手の中に守られていることの確信を強めてくれるものです。
あらゆる人間にとって、最も大切なものは一体何なのでしょうか?変わらない喜びです。

ある病人は、5年間ぐらい入院されていましたし、11回手術受けましたし、よくなる可能性がない、という結論になったのです。
あの重病人が、何と言ったかと言いますと、「健康よりも大切なのは、変わらない喜びを持つこと。」、どうしたらいいの?
健康人だって、そういうこともちろんわかるよ。ね、健康人は、皆幸せじゃない。したがって、健康よりも大切なことがあるけれど、彼女の口から聞いたとき驚いたんです。やぁ、素晴らしい。

強い薬なしに、もう生活できなくなってしまったし、けど、会うたびごとに、いつも嬉しくなる。喜びの塊です。
イエス様を信ずることによって、あらゆる心配と不安から、完全に解放されたからです。
どうして解放されたかと言いますと、病気が治ったからじゃなくて、自分の我侭、過ちは赦されていると確信するようになったからです。

生けるまことの神は、人間の我侭、過ちを赦したくて、赦したくてしようがない。
人間はただ頭を下げて、「ごめんなさい。悪かった。赦して。」、そういう砕かれた気持ちを持つと、主は、必ず受け入れてくださり、赦してくださいます。
結局、身代わりとなる方がなければ、罪のない方が代わりに死ななければ、救いの道はない。罪の赦しはないと聖書ははっきり言ってるんです。

主イエス様が十字架で死んでくださった時、イエス様は私たち一人ひとりの代わりに死んでくださったのです。
すなわち、イエス様の死は、罪に対する罰、人間の我侭に対する裁きでした。
イエス様の死によって罪は罰せられたから、今になって聖なる神は、人間の罪を赦すことができるようになったのです。

条件とは、聖書を勉強することではない。キリスト教に入ることでもない。知識を得ることでもない。よりよい人間になろうと努力することでもない。
条件とは、正直になり、「ごめんなさい。我侭です。赦してください。」という態度を取ることです。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださる。」と聖書は言っています。

喜びについて考えると、いつも、昔の一人の預言者のことを思い出します。
彼は、日本語で「喜び勇み」という表現が出てきます。原語を見ると、「私は、もう嬉しくて嬉しくてしようがない。どうしたらいいかわからない。喜びでいっぱいです。」と。
けども彼は、色々な悲しみを持っていた人なんです。彼は、なんと言ったかと言いますと、「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。」

ちょっと、可哀想じゃないの?今までの仕事は全部無駄だった。空しい。けど、彼の出した結論は、ちょっと違う。
「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」
高い所から、この世界を見るとちょっと違うんです。

ある人々は、もう、一つの趣味しか持っていない。山登りです。もう、登った後で、考えられない気持ちだと言われます。
例えば、5〜6000メートルの山、8000メートルの山登ると、確かに大したもんでしょう。
けども、飛行機に乗ると、もっともっとよく見えるなのではないかと思うんです。飛行機に乗って、例えば雲を上から見ると、本当に素晴らしい。僕、何回も何回も写真を撮ったんです。

人間だって、そういう雲、作ろうと思っても無理だよ。本当に素晴らしい。同じ雲、下から見ると面白くない。いつ降るか分からないし、面白くない。
下から見るのと、上から見るのと、全然違う。今の預言者という男は、全部上から見たんです。ですから全部空しく見えても、絶望的に見えても、希望だらけ。
「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」と言ったのであります。たとえ私が、何の実を見なくても、それが一見空しいように思われるときでさえも、いつも喜ぶことができると。

「私は主にあって」、ここも同じ、「主にあって」という表現が使われています。私だけだったら、もちろん無理です。何をやっても、無駄です。
私じゃなくて、「私は主にあって」、主に頼りながら、「私の救いの神にあって喜ぼう。」
これは、当時のハバククという預言者の断固たる結論でした。「私は主にあって喜ぼう。」

気持ちは、ちょっとついて行かない。悲しいからです。全部面白くないからです。けど、それと関係なし。私は独りぼっちではない。主は、決して私から離れない、私を捨てないと言っちゃったから。だから、「私は主にあって喜ぼう」
愛する兄弟姉妹は、今からこの態度を取り続けてくだされば、お二人だけではなく、周りの人々も驚くようになる。
「大したもんだ。イエス様はすごい。」と思うようになるに違いない。

初代教会の人々とは、大いに喜んだ人々だったんです。結局、主の命令に従ったからです。
聖書の中で、「喜び」あるいは「喜びなさい」という言葉は、523回出てきます。考えて!
ですから喜ぶことができるか、できないかとは、どうでもいいことじゃないよ。

人間は、喜ぶことができなければ、周りの人々は、「あなたの信じている神は、大したもんじゃない。」、としか考えられないでしょう。けど、悩みを持ちながら、喜ぶことができるのとは、決して当たり前ではない。
初代教会の人々とは、大いに喜ぶことができた人々だったんです。全部うまくいったからじゃない。
彼らは、自分の信仰を公に告白した時、捕まえられ、刑務所に入れられ、考えられない多くの人々は殺されてしまったんです。

聖書は、初代教会の歴史について、次のように言っています。
「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」
怒りながらじゃない、諦めて出たのでもない。「喜びながら出た」とあります。

もう一箇所。
「何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」とあります。

結局、絶えず、喜びなさいと言う言葉を書いたパウロとは、刑務所に入れられたのです。どうして?イエス様のことを紹介したからです。
このパウロと言う男は哲学者であり、立派な学者でした。尊敬された人格者でもあり、そして多くの人々持っていなかった、ローマの市民権を持っていたのです。
ローマの市民権を持っていた人々とは、皆特別な人々だったんです。

例えば、どういう問題があっても、捕まえられ、裁きなし、刑務所に入れられない人々だったんです。パウロは、市民権を持ちながら、刑務所に入れられたんです。どうして?
人間的に言うならば、彼は馬鹿。口開けたらいいだろう。「ちょっと、ちょっと、私は、ローマの市民権を持っているものだ」と言ったならば、もうみんな驚いてしまって、「いやぁ大変だ、ごめんなさい。」としか、言えなかったんです。
彼は黙ったんです。どうしてでしょうか?一緒にいたシラスという同労者は、ローマの市民権を持っていなかったからです。彼一人で入るのは、やっぱりズルい。彼が入れば、良し、入りましょう。独りぼっちじゃないから。イエス様が一緒だから。

そして彼らは「真夜中ごろ」、結局一番暗かったとき、彼らは諦めたのではないし、つぶやいたのでもないし、「祈りつつ賛美の歌を歌った」
普通だったら気違いですよ。普通だったら、この世を呪うようになるでしょう。けども関係ない。結局、彼らは確かに無実の罪で、不当に牢獄に入れられました。
そこで鞭で打たれたり、棒で殴られたり、色々な拷問を受けました。それによって、もちろん、彼らは、肉体的に大きな苦痛を受けなければなりませんでした。

それにも拘らず、「真夜中ごろ」、真っ暗で、逃れ道もなく、何の希望もないように思われる時、二人は、「祈りつつ賛美の歌を歌った」、結局彼らは主の命令に従ったんです。絶えず祈りなさい。
人間は、死ぬまで悩みます。死ぬまで色々なことで苦労します。イエス様は、はっきり、そう言われました。
「あなたがたは、生きている間に患難がある。」
新興宗教の言っていることとは違う。入れば、金を出せば、大丈夫。嘘です。現実は違う。

イエス様は、「あなたがたは、わたしを信ずれば、迫害されるでしょう。もしかすると、殉教の死を遂げるようになるかもしれない。けども、わたしは、いつまでもあなたがたとともにいる。わたしは、あなたがたを孤児とはしない。近くにいる。」、それを経験する人は、どういう悲しみがあっても、本当の意味で喜ぶことができるのです。
「自分の財産が奪われても、喜んでしのびました。」と初代教会の人々について書かれています。何年か、何十年か貯めた財産、いっぺんに奪われれば、ちょっと、面白くないよ。けどここで、「我慢して」と書いてない、「喜んで忍んだ」

思い煩いや、また誤解や迫害を受ける時、心から喜ぶことが普通じゃない。当たり前ではない。簡単ではありません。それにも拘らず、これこそが主なる神の命令です。
まさに、前に読みましたハバククという預言者、また使徒たち、パウロあるいはシラスは、そのゆえに、いつも喜ぶことができたからです。
頑張ったからではない。

前に話した重病人、「健康よりも大切なのは、変わらない喜びである」と言った奥さんは、もう一つの素晴らしいこと言ったんです。「私にとって一番、イヤな言葉は、頑張るという言葉です。」
その時、もちろん彼女は聖書知らなかったし、イエス様も知らなかったし、けどそれを聞いた時、嬉しくなっちゃった。「あなたは、神様と似てますねぇ〜。」
神様にとっても、一番イヤな言葉は、頑張るという言葉です。いくら頑張っても壁にぶつかる。うまくいきません。

だからパウロは、絶えず喜びなさいと言われただけでなく、絶えず祈りなさい。祈ることとは、頼ることです。
私は惨めです。一度信じましたけど、相変わらず大したもんじゃない。だからあなたを必要とする。あなたに頼ります。
祈ることとは、結局それなんです。

詩篇の作者は次のように書いたことがあります。非常に面白い表現です。「私は、祈りです。」
「私は、祈るべきだ」なのではない。「私は、祈ること好きだ」でもない。「私は、祈っている」のでもない。「私、そのものは、祈りです。」
私の人生そのものは、主に対する叫びです。独りぼっちでおしまいだからです。

この態度をとる人は、大いに祝福されるようになります。祈ることとは、主に拠り頼むことです。主に拠り頼むことは義務ではなく、大いなる特権です。
聖書は、人間の力で守らなければならない律法の書物ではない。聖書は、人間の知恵でもって理解しなくちゃいけない教科書でもない。単なる祈りへの呼びかけです。
「疲れた人、重荷を負っている人はおいで。辛いでしょ。淋しいでしょ。待っとるよ。」、そういう呼びかけです。そして人間は、主に頼ると、主は必ず聞いてくださいます。

最後にパウロは、「すべてのことについて感謝しなさい。」と言ったのです。もちろん初めに言いましたように、「キリスト・イエスにあって」という言葉こそが、最も大切です。
どうしてであるかと言いますと、私たちそのものは、イエス様から離れて、誰からも奪われることのない喜びを知ることができないからです。
絶えず祈ることもできませんし、すべてのことについて感謝することができない。けど、イエス様とつながっていればうまくいく。

3,000年前に、当時の世界を治めたダビデという王は、次のように告白したのです。
「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも主への賛美がある。」と証ししたのです。
彼は嘘つき、偽善者ではなかったのです。心からそういうふうに言えたのです。結局、主に頼ったからです。

そして兄弟も姉妹も、今日同じように告白することができます。すなわち、「私たち二人はあらゆる時に主をほめたたえる。私たちの二人の口には、いつも、主への賛美があります。」と。
お二人は、どうして大いに喜ぶことができるなのでしょうか。彼らは、次の確信を持っているからです。
すなわち、「主は、私たちのために計画してくださり、私たちの道を平らにする。たとえ、私たちが逃れ道のない状態に置かれたとしても、私たちは、私たちを愛してくださるお方の御手の内にいる。」

何故、悩みを経験しなければならないなのか、確かに分からないけれど、私たちは、主が主のなさることをご存知でおられる、ということを知っている。
そして私たちの主は、無駄なこと、何一つなさいません。間違った計算や無計画性は、主にとって存在しない。
主イエス様は、我々の最善だけを考えておられるからです。

そして主は決して変わらない。私たちが感じようが、感じまいが、主が私たちのような者を愛していてくださることを知っている。
主は、私たち二人を贖ってくださり、決してお捨てにならない。
どうして、喜ぶことができるなのか?大きな声で、「REJOICE」ということができるかと言いますと、この確信を持っているからです。




戻る