引用聖句:ヨハネの黙示録4章8節-11節、5章1節-14節
ヨハネの黙示録7:9-17
今読んできてくださった箇所は、全部、将来起こることについての箇所です。 将来一番大切なのは、もちろん今読んでもらいました箇所を見ても解かる。礼拝です。 私たちは、礼拝の大切さをまだはっきり解からない。けれどもも最も大切なのではないでしょうか。 この宇宙の終わりは、「全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのです」と聖書は言っています。すなわち、礼拝の中心なのです。 そして「主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるためである」と。 この礼拝はただのこの世にかかっているものではなく、この世に勝るものだという事実を、私たちは聖書を通してはっきり知ることができるのです。 この間私たちは、この礼拝と関係している事柄という題名をもって学びました。今日は、いったい、いかにしてこの目的を達することが出来るかということについてちょっと一緒に考えてみたいと思います。 礼拝は、実に初めからこの世に勝るものでした。すなわち悪魔は、「いと高き者のようになろう。自分は上へ昇りたい。自分の位を高くしよう」と言った時、一番高い天から追放されてしまいました。その時から、強固な戦いが始まったのです。 すぐ後で、この戦いは、この地上にも始まりました。 人間が、どなたに礼拝するでしょうか。悪魔ですか、それとも主なる神なのでしょうか。他の事柄全部がこの礼拝の問題にかかっています。 絶対的に礼拝されたものは、いったいどなたでしょうか。これこそが、一番大事な問題です。 だから無意味なこと、いわゆる小さいことがない。毎日の生活のいわゆる小さな事柄が全部一番大切なことに、すなわち主なる神に対する礼拝にかかっています。 私たちの礼拝の中心は、生ける真の神なのでしょうか。徹頭徹尾、主なる神だけなのでしょうか。 「もし、あなたがひれ伏して、わたしを拝むなら」などは、これは問題であり、恐るべき戦いです。この戦いの勝利者は、どなたなのでしょうか。悪魔ですか、それとも生ける真の神なのでしょうか。 今読んでもらいました箇所を見ても、もちろんもう解かる。ヨハネの黙示録21章22節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの黙示録21:22、22:3
ここで、礼拝の問題は解決されています。戦いは終わった。全能者にして主なる神と小羊なる主イエス様とが、礼拝の中心なのです。 本当の意味で救われた者とは、いったい何者かと言いますと、単なる教えや教理を受けた者ではなく、悪いことを憎んでいる、善を行う者ではない。主によって救われた人々の際立っている特徴は、生ける真の神に対する礼拝です。 異性ではなく、金ではなく、仕事ではなく、主を拝むことが問題です。目に見えるものは、大切ではなく、この後ろにいる問題、すなわち礼拝の問題は大切です。 あらゆる出来事は、単なる出来事ではなく、この後ろにこの礼拝の問題がある、ということを知るべきなのではないでしょうか。 もし私たちが、主との生き生きとした交わりを持てば、私たちは主と共に働く者です。すなわち主イエス様によって、十字架によって、尊い血潮によって、主なる神がすべてとなられるのです。主なる神が礼拝の中心になるのです。 主なる神が、私たちにあってすべてとならなければいけません。そうしたら初めて、エペソ人への手紙3章10節というみことばが成就されます。 エペソ人への手紙3:10
我々の生活は、この宇宙の将来に対して、とっても大切だということを考えるべきなのではないでしょうか。だから、無意味なこと、いわゆる小さいことがないのです。 イエス様は人間となった、初めのない、終わりのない神が、人間の形をとって現れた事実こそが、聖書の中心テーマの一つなのではないでしょうか。 イエス様が人となることは、いったいどうして必要だったでしょうか。どうして、主なる神は、肉において現れたのでしょうか。主なる神の御子である主イエス様は、どうして人の子となったのでしょうか。 その答えは、万物が神に従う時には、御子自身もまた万物を従わせたその方に従うのである。それは、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるためであると。 万物が、主イエス様に従う時には、御子自身もまた万物を従わせたその方に従うのである。それは父なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるためであると聖書は言っています。 どうして、神なるイエスキリストは、人の子となったのでしょうか。主なる神がすべてのものにあって、すべてとなられるためです。 主なる神が、イスラエルの民の家族の生活を整理した時、一番大事な子は、長男であると言われたのです。なぜなら、お父さんの権利、栄光、名誉、目的は、長男にかかっているのであるから。 もし、長男が失敗したら、お父さんは、この恥を受けなければなりません。お父さんの遺産は、全部長男のものになった。したがって、息子はお父さんの名誉と満足のために、努力しなければいけない。 出エジプト記20章12節にあります。短い大切な文章です。 出エジプト記20:12
これは何を意味しているのでしょうか。単なる社会的な助けでしょうか。決してそうではありません。この後ろに礼拝の問題があるのです。父なる神と御子主イエス様は、密接に結ばれているのです。 そして、父なる神の栄光、権利、全部は御子にかかっています。これを考えると、イエス様が人間となることは、解かるはずです。 悪魔の「わたしが、いと高き者になるように、自分は上へ昇りたい、自分の位を高くしよう」という考えは、父なる神に対する攻撃でした。父なる神の場所、主なる神の権力、神の栄光に対する攻撃でした。 悪魔は、神の呪いのもとに堕ちて、また悪魔に従う人間みなが、呪われた者となったのです。困難と苦しみがあります。 けれども、その中に「主よ。御旨が行なわれますように」とあえて言うことができれば、すばらしい。こういう風に、私たちは、生ける真の神を拝むことができるのです。 我々の内に子たる身分の霊があると聖書は言っています。エペソ人への手紙1章を見ると、次のように書かれています。 エペソ人への手紙1:5
ヘブル人への手紙2:10
ご存知のように我々信者は、本当に新生を経験し、聖霊の働きによってイエス様を宿し、永遠のいのちを持っていますけれども、これは終わりではありません。 私たちは成長し、成人した神の息子、娘とならなければいけません。それは私たちが、神のご栄光を現す、神の同労者として、主に対する働きと責任を持つようになるためです。 本当にそうです。すなわち私たち一人ひとりが、どうしても成人した神の息子、娘までに前進しなければなりません。なぜならば、成人した神の息子、娘によってのみ、主が徹頭徹尾この宇宙の礼拝を持つようになるからです。 いったいどうして主なる神は、人間を子とするようになったのでしょうか。神がすべてのものにあって、すべてとなられるためであると聖書は答えています。 私たちの内に、子たる身分の霊があるのでしょうか。新生によって、私たちは、聖霊を自分のものとしました。そして聖霊によって、主イエス様は、我々の内に住んでいらっしゃいます。私たちは、霊なる神の住まいです。 ローマ人への手紙8章15節をちょっとお読みいたします。 ローマ人への手紙8:15
イエス様の生活の目的と我々の目的は、同じはずです。すなわち、主なる神のみが、この宇宙の礼拝の中心になるように、また主なる神がすべてとなられるように。これは、個人個人の使命であり、共同的に教会の使命であります。 私たちによって、神の栄光や名誉や権威があるように。これは、毎日毎日、恐るべき戦いを意味しています。 たとえば、私はいつも次のような質問に答えなければいけません。すなわち、私はこれを今やると、主なる神が満足されているのでしょうか。あるいは、悪魔が喜ぶのでしょうか。 もし、私はこの問題を解決しなければ、神に栄光があるでしょうか、それとも悪魔が勝利を得るのでしょうか。 私たちがひれ伏して悪魔を拝むことは、悪魔の望みであり、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられることは、主の目的です。 どなたが、我々の生活の礼拝の中心になるのでしょうか。悪魔ですか、それとも生ける真の神でしょうか。 これは、実に恐るべき戦いです。もちろんこれは教理的な問題ではなく、これは徹頭徹尾、実際的な問題です。 私たちは、毎日の生活の苦しみの最中に、この質問に答えなければなりません。誰が礼拝の中心なのか。悪魔か、それとも主イエス様かのどちらかです。 エペソ人への手紙3章20節を見ると次のように書かれています。 エペソ人への手紙3:20-21
私たちは、子たる身分をさずける霊を受けました。私たちは、御子イエス様との交わりを持つようになりました。 なぜなら、私たちは御子イエス様と共に、悪魔の攻撃によって起こった問題を解決するために、神に、教会により、また主イエス様によって、栄光が世々限りなくあるように。 私たちは、工場に行っても、事務所に行っても、学校に行ってもどこでも同じことを経験するでしょう。すなわち、どこでも悪魔の攻撃を感じ、困難と苦しみを味わうでしょう。 けれども、これらの事柄は、単なる出来事ではないのであります。この後ろに、恐るべき戦いがあるのです。 すなわち、貴方の礼拝の中心はどなたでしょうか。イエス様ですか、それとも悪の霊ですか。 私たちは、いったいどうして、救われたのでしょうか。と言いますと、私たちによって、主なる神が、すべてのものにあって、すべてとなられるためです。 主イエス様は、神が宇宙の礼拝の中心になるように、人間となり、呪いとなり、十字架によって、ご自分のいのちを捧げたのです。 イエス様は、お生まれになった時、地獄が激怒して攻撃しました。この者を滅ぼそうと悪魔は、人間によって、努力しました。 そして、主イエス様は、あらゆる出来事は、単なる出来事ではないということを確信しました。 出来事の後ろに、この礼拝の問題があります。どなたが礼拝の中心になるか。生ける真の神でしょうか。あるいは悪の霊、悪の軍勢なのでしょうか。 これを確信しながら、イエス様はいつも「父よ。御旨が行なわれるように」と祈りました。これこそが礼拝です。 こういう風に、主なる神がすべてのものにあって、すべてとなられるのです。 もちろん聖書の中心となるものとは、イエス様の代わりの死であり、十字架です。 いったいどうして、イエス様の十字架は必要だったでしょうか。イエス様の犠牲の血は、歴史的な事実ですけれども、この歴史的な事実の後ろに、もっともっと偉大なる戦いがあったのです。 ちょっと、ヨハネの福音書12章を見てみましょうか。 ヨハネの福音書12:31-32
今こそ、この世の君は追い出されるのです。そして、イエス様の亡くなられた時に、創造物全体がこれを感じました。たとえばルカの福音書23章44節を見ると次のように書かれています。 ルカの福音書23:44
マタイの福音書27:51-52
大地震のようなものだったらしい。この出来事は、単なる外側の出来事ではなく、この後ろに恐るべき戦いがあったのです。 パウロは、コロサイにいる兄弟姉妹に書いたのです。2章15節ですけれども。 コロサイ人への手紙2:15
これが問題でした。どうして十字架は必要だったのでしょうか。なぜならば、悪魔はこの宇宙の支配の中心になろうと考えたからです。悪魔は、「わたしは、いと高き者のようになろう」という考えは、父なる神に対する攻撃でした。 父なる神の場所、主なる神の権力、主なる神の栄光に対する攻撃でした。 こういう風に悪魔は、神の呪いのもとに堕ちてしまいました。けれどもそれだけではなく、悪魔に従う人間みなが呪われた者となったのです。 人間は、悪魔の権力の下に入れられました。人間は敵に、意識して降参しました。人間は、自分に意識して悪魔に降参したのですから、悪魔は、今やアダムを合法的に支配するに至りました。 この考えも及ばないほど絶望的な状態に対する、主なる神の答えは、十字架でした。 この呪いに対する主なる神ご自身の逃れ道は、小羊であられるイエス様です。 イエス様は、十字架によって、罪の創設者である悪魔に完全に打ち勝ちました。 そればかりではなく、ガラテヤ人への手紙3章13節を見ると次のように書かれています。 ガラテヤ人への手紙3:13
これこそは十字架の意味です。 十字架によって、イエス様は、悪魔や罪に対する絶対的な主になりました。御子のよみがえりは、この事実を証明しています。 ところが、この動くことのできない事実が、私達の内に現実とならなければなりません。イエス様の勝利が、我々の経験とならなければいけないのです。 悪魔は、我々に対する合法的な権利を持っていません。私達は、尊い血潮によって買い戻された者です。私達はもはや、罪を犯さなくてもいいわけです。 イエス様は、勝利者であるからです。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」とローマ人への手紙8章1節に書いてあります。 「諸々の支配と権威との嘘を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えてさらしものとされたのである」とあります。 諸々の支配と権威との嘘を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えてさらしものとされたのは、考えられないすばらしい事実なのではないでしょうか。 悪魔は、実に我々に対する合法的な権利を持っていません。イエス様は、父なる神の裁きを担って、代わりに呪いのもとに亡くなられました。したがって、私達は、合法的に徹頭徹尾、生ける真の神のものです。 けれども、この動くことのできない事実を実際的に我々の経験とならなければいけません。そのために十字架、困難、苦しみが必要なのです。 回心によって、イエス様が私達の内に住むことによって、私達は永遠のいのちの持ち主となりました。 我々の霊は主の宿です。そして主の影響は、だんだん魂や体に及ぼします。 コリント人への手紙第I、15章54節というみことばは、成就されます。 コリント人への手紙第I、15:54
十字架は、いったいどうして必要だったのでしょうか。合法的に行われた救いは実際的になるように、実に悪魔は、私達に対する合法的な権利を持っていません。けれども、これは実際的になるように十字架は必要でした。 この根本的な問題は、いったい何なのでしょうか。十字架は、いったいどうして必要だったのでしょうか。 礼拝は、生ける真の神に対する礼拝は問題であるからです。 悪魔の権利のもとにいる者は、主を拝まない者です。けれども、大きな苦しみと困難によって清められた者は、主を愛し、主を知っている。主を礼拝せざるを得なくなるのです。 ヨブという男の生活を観察すると解かります。ヨブ記のメッセージは何でしょうか。あらゆる、争いと困難の後ろにいる者は、何だったでしょうか。 このヨブ記の中で一つの質問があるのです。すなわちヨブは、主なる神に無償で仕えるでしょうかという質問があるのです。 悪魔は、決してそうではないと言いました。そしてヨブは、非常に病気になって、財産も全部ダメになってしまいました。彼の10人の子供はみな命を失いました。自分の奥さんや一番良い友達も、攻撃しました。 ヨブの力、知恵、人気、権威、威厳、職業、財産などが全部ダメになってしまいました。そして、神のみことばは、「すべてのことにおいて、ヨブは罪を犯さず」と書いてあります。 ヨブの主に対する態度は、「神よ。御旨を行うように」これでした。こう言う風に主なる神が礼拝の中心になったのです。 私達もみな、ヨブと同じ経験をしなければいけないでしょう。 だから私達は今、ヨハネの黙示録4章、5章、7章を読んでもらいました。ここで、礼拝は中心です。 「ほふられた小羊こそ、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」「御座にいます方と小羊とに、賛美と、誉れと、栄光と、権力とが世々限りなくあるように」と彼らは喜びに満ちて礼拝するのです。 彼らに対しては、悪魔はもはや要求の権利を少しも持てません。 すなわち、全能にして主なる神と小羊なる主イエス様とが、その聖所、すなわち礼拝の中心であるからです。 最後にちょっと、ダニエルという預言者について考えて終わります。 ダニエル書1:8
いったい、どうしてでしょうか。これは、たいしたものではないのでしょうか。外側だけ見ると、これは本当にたいしたものではないでしょう。けれども、あらゆる事柄の後ろに恐るべき戦いがあり、この一番大切な礼拝の問題があるのです。 今日は暇がないけれども、家でダニエル書3章を、ぜひお読みになってください。 どうして、ダニエルは当時の王様、世界を支配したネブカデネザルの食物を食べたくないと決心したのでしょうか。大したご馳走だったと思います。 この3章を読むと、この答えが解かります。その答えは、一つの言葉です。といいますと、礼拝なのです。 この王様は、確かに世界一の金持ちだったし、すべてを支配した男でした。彼は一つの金の像を作りました。そして、民みながこの像を拝まなければならなかったのです。 けれども、ダニエルまたダニエルの友達は、反対して、結果として火の燃える炉の中に投げ込まれてしまいました。人間的に考えれば、そうしたらお終いですけれどもも、お終いではなかったのです。 結局、火の炉に投げ込まれた人々とは死ななかったのです。奇跡そのものです。 ですから、彼を王に投げ込まれてもらいたいと命令した男が、当時の王様は告白しました。 ダニエル書3:28
すばらしい証しですね。 パウロは、彼の書いた手紙を読むと解かります。礼拝の大切さを強調しました。 ローマ人への手紙12:1
聖化というのは、いったい何なのでしょうか。聖化は、少しも妥協しないで、心を全うすることを意味します。 ダニエル書から一箇所お読みします。 ダニエル書7:13-14
御座への道は、十字架、苦しみと困難です。 私達は、少しくらい妥協しても、大したものじゃないと考えると災いです。妥協すると割合楽な生活をすることができるでしょう。けれども、悪魔は勝利を得、生ける真の神が礼拝の中心にならないからです。 私達みなが真の礼拝者になるように、主ご自身が、我々にあってすべてとなられるように。最後にもう一箇所読みます。 歴代誌第II、16:9
|