真の礼拝について


ベック兄

(吉祥寺学び会、2011/04/26)

引用聖句:マタイの福音書14章24節-27節
24しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
25すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
26弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
27しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

歴代誌第II、33:10-13
10主はマナセとその民に語られたが、彼らは聞こうともしなかった。
11そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。
12しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、
13神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。

今日の話のテーマは、「真の礼拝とは、いったい何なのでしょうか」です。
主なる神を、イエス様を通して知り、イエス様の前にひれ伏し、また自分の理解しがたい悩みは、主のせいだ、主の道であると認めた人は、礼拝に導かれます。
イエス様は、霊とまことをもって礼拝する、真の礼拝者を尋ね求めておられます。最も大切なのは、結局、主の前にひれ伏して、礼拝することなのではないでしょうか。

我々の全生涯そのものは、主に対する真の礼拝そのものであるべきです。
私達は、日曜日の朝、いったいどういう気持ちで集会に集うのでしょうか。「もっともっと愛するイエス様を知りたい」という切なる願いを持って集まるのでしょうか。
イエス様の弟子たちは、主を礼拝するようになったと聖書は言っています。今読んでもらいましたマタイの福音書14章26節ですね。

マタイの福音書14:26-27
26弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
27しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

イエス様の弟子たちは、嵐の真っ最中、海の真ん中に出て行き、荒れ狂う波を行かんともすることが出来ないでいました。そこへ変な姿が現れましたから、弟子たちはなおさら恐れおののきました。彼らは、確信して幽霊だと思ったんです。
けど、幽霊ではなく、イエス様でした。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」
イエス様は、ご自身を啓示してくださったから、弟子たちは主を知るようになったのです。イエス様を知ることこそ、主に対する礼拝のもとです。

マタイの福音書14:33
33そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。

拝んだ、結局礼拝したとあります。そして今読んできてもらいました、歴代誌第IIの中で、マナセという王様について書かれています。もう一回、12節だけ読みます。

歴代誌第II、33:12
12しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、

大いにへりくだることなしに、心から主を礼拝することができないのではないでしょうか。このマナセは、いったいいかにして、主を知るようになったのでしょうか。いろいろな苦しみを通してです。
彼は敵によって鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ敵の国へ引いていかれました。この悩みを通して、理解しがたい導きを通して、彼の心の眼が開かれました。
そしてマナセは、主こそ神であると体験的に知るようになったのです。これを知るようになった人は、もちろん主を拝まざるを得ないのであります。

私達は、いったいどういうふうに、真の礼拝者となることができるのでしょうか。主なる神が、私達の天のお父様であり、また私達は、この偉大なる主の子供であるという知識を持つことが充分です。
私達は、主を、すべてを支配しておられるお方として知る必要があります。主を知ること、自分は徹頭徹尾主のものである、自分の持っているものすべては、主のものであるということを意味しているのです。
主を単なる助け手として、救い主としてだけではなく、主として知ることだけが、霊と真をもって礼拝することができるのです。

イエス様の弟子たちが、波の上で主の声を聞いた時、すなわちイエス様が自分自身を明らかにして啓示してくださった時、彼らが「それは主である」と知るようになり、主を拝むようになりました。結局、前の悩みとは、礼拝に変えられました。
このマナセという王様は、それが主の道であると知った時、それが主であることを知りました。主を知り、主の前にひれ伏し、また自分の理解しがたい悩みは、主のせいである、主の道であると認めた人は、真の礼拝に導かれます。
今日、なお主は、我々の真ん中に御臨在しておられ、霊と真をもって礼拝する真の礼拝者を訪ね求めておられます。真の礼拝者について考えると、おそらく、誰でもヨハネの福音書4章を考えるのじゃないかと思います。

ヨハネの福音書4:23-24
23しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
24神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

けど、礼拝とは何でしょうかね。2つのことが言えます。
第1番目、真の礼拝とは主の道、また主の導きに全く心からなる賛意を表することです。
第2番目、すべてのことを主の御心のままに、お委ねすることです。主の道に己を委ねることです。

主のなさること、主の導きは、もちろん主の道です。主は、ご自身のなさること、ご自身の導き、経験によって、私達が主に眼を開くその結果は、私達が、自発的に心から、主を礼拝せざるを得なくなるように、主は働いておられます。
主に心から礼拝を捧げ得る人のみ、主の導きを歩みゆくことができるのです。主の道を知り、主の道を喜ぶ、これが一番大切な私達の課題です。そうなったから私達は、なぜ、どうしてと主に言うことができなくなります。
どうしてでしょう、なぜかという人は、主を見上げない人であり、従って真の礼拝を成すことができない。主の道を歩みえない人です。ちょっと、エジプトの国からイスラエルの民を導き出した指導者であるモーセについて考えましょうか。

出エジプト記34:5-9
5主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。
6主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、
7恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
8モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、
9お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」

「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。」と書いてありますが、モーセはこの恵みのことばを聞いた時、エホバなる主を礼拝せずにはおられませんでした。
けれども、この恵みのことばと共にモーセは、「主は罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」という厳しいことばを聞いた時、モーセは主の前にまず、己の罪を赦してくださいと謝る前に、主を礼拝いたしました。
モーセは急いで、地にひざまずき、伏し拝んだとあります。

主の恵みのことばを聴いた時、主を礼拝することは、もちろん簡単でしょ。
けれども、厳しいみことばの前にあっても、主を礼拝するということは、きわめて難しいです。
自分の力で絶対にできません。礼拝とは、何でしょう。主の導きに、全く心からなる賛意を表することです。

そしてもう一つ、真の礼拝とは、すべてのことを主の御心のままにお委ねすることです。主の道に己を委ねることです。
私達はしばしば、「主よ。御心をこのように変えてください。この環境を変えてください。」と祈り、叫び求めるのではないでしょうか。
祈りは、結局、我々の願いの言い表しです。それは別に悪くない。けれども礼拝は、己のすべてを何もかも、主にお委ねすることです。十字架につけられる前に、イエス様はゲッセマネの園で祈りました。

マタイの福音書26:39
39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

イエス様の祈りは、自分の願いの言い表しよりも、本当の礼拝でした。「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」真の礼拝とは、そういうものです。
モーセに続いて、イスラエルの歴史の最もすぐれた人とは、言うまでもなくダビデという王様でした。
どうして彼は、御心にかなう人だったんでしょうか。完全だったからじゃない。主を礼拝した男だったから。

サムエル記第II、12:13-20
13ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。
14しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」
15こうしてナタンは自分の家へ戻った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。
16ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。
17彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らといっしょに食事を取ろうともしなかった。
18七日目に子どもは死んだが、ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。「王はあの子が生きている時、われわれが話しても、言うことを聞かなかった。どうしてあの子が死んだことを王に言えようか。王は何か悪い事をされるかもしれない。」と彼らが思ったからである。
19しかしダビデは、家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、子どもが死んだことを悟った。それでダビデは家来たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「なくなられました。」
20するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。

子供が死んだことがわかった時、彼は礼拝したとあります。
聖書はダビデについて、彼は神の御心にかなう者だと言っています。どうしてでしょうかね。ダビデは、主を拝む真の礼拝者だったから。
ダビデが歌った詩篇を読むと、最も深いどん底の苦しみにあっても、また非常な絶望に陥っている時も、逃れ道が見えないで前途が真っ暗な時も、ひたすらに主を礼拝する礼拝者だったと解かります。

主なる神の道、また導きは、いつも我々の願いと同じとはかぎりません。ダビデの場合がそうだったでしょ。この主なる神の御心にかなう人ダビデに「あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」という恐るべきことばが臨みました。
ダビデは自分の子を愛し、主に請い求め、断食し、地に伏して、ひたすらに祈り求めましたけど、その子は死んだと聖書は言っています。多くの人は、かかる立場に置かれる時、どうして、なぜと言うでしょ。けど、ダビデは主の宮に入り、礼拝したとあります。
礼拝とは、真の礼拝とは何でしょうか。主の導きに全く心からなる賛意を表することであり、全てのことを主の御心のままにお委ねすることです。主の道に己を委ねることです。

最後にもう一人の教師の人、すなわちヨブについて、ちょっと考えたいと思います。

ヨブ記1:13-22
13ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、
14使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、
15シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
16この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
17この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
18この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。
19そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」
20このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
21そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
22ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

彼は、必ず「どうして主は、許すの。どうして私は、この不幸を経験しなくちゃいけないの」と思ったに違いないけど、考えても意味がない。大切なのは、礼拝することです。
ヨブのそれまで持っていた財産の全部が取り去られ、愛する10人の子供も全部死にました。多くの人が、あの神に仕える人が、どうしてこんな苦しみに会うのでしょうと、いぶかしく思ったに違いない。けど、ヨブはどうでしょう。ヨブは、礼拝したと書いてあります。
「主の御名はほむべきかな。」と彼は告白しました。私達は、主の道に従うことを学ばなければいけません。これはただ、礼拝によってのみ、出来得る事です。

何千年前にヨブは次のように証ししました。「私は知っている。私を贖う方は生きておられます。」このヨブは、短期間の内に、彼の全財産、富も宝もまた子供たちも自分の健康も失ってしまいました。
けれども、ヨブは不平や不満を言わず主なる神の完全な愛をも疑いませんでした。たとえ彼が神の導きを理解することが出来なかったとしても、彼は主なる神を次の言葉でもって礼拝したのです。
「私の創り主なる神は、夜には褒め歌を与える。主が与え、主が取られたのだ。主の御名は褒むべきかな。私は知っている。私を贖う方は生きておられる。」と。

ダビデは、確かに罪を犯してしまったんですけど、ヨブは、主の前に全き人だったと聖書は言っています。
それにもかかわらず、2人とも、己をすべて主の御心に委ねたのではないでしょうか。「なぜでしょう。どうしてでしょうか。」と尋ねられても答えることができません。
なぜか全然理解できなくても、ただただ心から主を褒め称え、礼拝することこそが大切です。

「主よ。あなたは常に完全なるお方です。全きことをなされます。あなたの導きも完全です。理解することができませんけど、あなたを心から崇めます。」という態度をとることができれば、本当に幸いです。
礼拝とは、すべてのことを主の御心のままにお委ねすることです。
主の道に己を委ねることであります。




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