引用聖句:ピリピ人への手紙3章12節-21節
今読んできてくださった個所とは本当に、考えられないほどすばらしい個所です。最後の20節ですか、 ピリピ人への手紙3:20
行く先は決まってる。 昨日も、ある兄弟のお宅で集会があったんです。97歳で召されたお母さまの記念会だったのです。昨日4人が証ししてくださったんです。 その時、それぞれ似てる点もあるし似てない点もあると思ったんです。あのお母さまは子ども6人持っていたんです。娘さんばっかり。私も娘ばっかり6人持っていた。おばあちゃんは孫9人持っていた。私たちも孫9人持ってる。 まあ違う点あるのですけど、私たちの3人の子ども達は天国行っちゃった。あのおばあちゃんの娘達はまだ知らん顔する。「イエス様結構です。」 下の三人はイエス様信じてます。みな集会の姉妹です。 あのおばあちゃんは、88歳までずっと「聖書結構です。」、もうまったく聞く耳がなかったんです。イエス様とは赦すお方である。罪を赦すお方であることを知らなかったから仕方がないでしょうですけど、急にイエス様信じたいと言い出したんです。周りの人みんなびっくりしたんです。 それからやっぱり聖書を読みたくて読みたくてしょうがなかったのです。初めの頃、4番目の姉妹が下で聖書読んで、彼女に書いて病院に行ったんです。けどもまあつまらなくなったらし。それからみんなにイエス様のこと紹介したい気持ちいっぱいになったんです。希望を持って天に召されたんです。 一人の娘はお母さまを見てすぐ心を開いて、イエス様に導かれるようになったんです。まあ孫である姉妹は「やっぱりおばあちゃんは変わった。顔つき変わった。輝くようになった。」と証してくださったのです。 彼女とわれわれの違う点は、彼女は悲しみのない世界、喜びに満たされている世界、死を知らない世界に入っちゃった。私たちはまだ生きなくちゃならない。戦い続けなくちゃならない。 先週、二人の奥さんと初めて会いましたけど、一人は、「主人は定年になった。」と言ったんです。「定年になったから解放された。楽になった。」 うれしいなのではなく、大変だった。定年=すなわち大変? 言いたいことわかるでしょう。もちろん二人とも説明したんです。会話のない結婚生活です.。 もう一人の若い20歳の女の子は、何と言ったかといいますと「もう、2年間笑うことができていません。」、考えられない世界なのではないでしょうか。 ですから初代教会の人達のように、私たちの国籍は天国だとわかれば、最高なのではないなのでしょうか。 今、兄弟のお読みになりました個所は、パウロの書いた言葉です。どうして書いたかといいますと、聖霊に動かされて書いたからです。当時の人々にとってどうしても必要であったからです。 パウロはこの言葉を通してなんと言ったかといいますと、イエス様の救いにあずかること、イエス様の者となることとは終わりではない。イエス様を信ずること、イエス様に従うこととは、戦いの中に投げ込まれることであると言ったんです。 家族の中で一人が救われますと、必ず問題になります。例外もあります。家族みないっぺんに救われることもある。そうすればやっぱりありがたい。 ある兄弟の同級生だったんですが、京都に住んでるある兄姉が、第1回目の神戸の喜びの集いに家族みんなで来て、いっぺんに家族みんな信じ救われたんです。ちょっとめずらしい。 主の目的とはそれなんですけども、もしまず奥さんが導かれれば大変です。問題になる。結局イエス様の約束を経験しなくちゃいけない。「わたしは平和ではなく、剣をもたらせるために来た。」 一人の奥さん、姉妹は次のように言ったんです。ご主人は、今年の3月6日、三家族そろって何処か遊びに行ったんです。みんな、未信者のため聖書開いてエペソ人への手紙読んでいたんです。そして一人のご主人は急に祈り始めました。泣きながら。それで知らないうちに救われちゃった。 昨日、車の中で彼はなんと言ったかといいますと、「私は悪魔の塊でした。悪魔の心がまだ心の中にいっぱい入ってる。」と。言いたかったのは、「立派になっていないけど、イエス様を信じるようになってうれしい。」 子どもさんたちも、本当に驚いているんです。お父さんとお母さんが毎日聖書読んでる。考えられないことです。 奥様は、「私は主人に従うようになった。主人はイエス様に従いたいからです。」、素晴らしいのではないでしょうか。 イエス様を信ずることとは戦いの中に投げこまるれることです。この戦いに勝つために全力をかけて走らなければならない。それほど激しい戦いになると、ピリピにいる兄弟姉妹に書き送ったのであります。 もちろん、ほかのところにいる兄弟姉妹に書いたことがあります。たとえばコリント人への手紙第Iの9章24節見ても、同じような言葉がかかれてます。 コリント人への手紙第I、9:24
救われている人々に対する呼びかけです。「走りなさい。」 未信者は走れない。目的を知らないからです。信ずる者は目的を知っているのです。目的とは永遠の天国でありイエス様とひとつになることです。 ヘブル人への手紙10節にもまったく同じような言葉が書き記されています。 へブル人への手紙12:1
「走りなさい。走りつづけなさい。」、と使徒たちはみんな兄弟姉妹を励ましたのです。 パウロも自分の証として、使徒の働きの20章24節を見ると次のように告白したことがあります。 使徒の働き20:24
パウロは走るべき行程を走り尽くした者でした。今のような言葉を読むと、信仰の競争を走りぬくには、まつわりつくいろいろなものを捨てなければならない。それが思い煩いである場合もあるでしょう。憂鬱な気持ち、不信仰人間を恐れる恐れであるかもしれない。 また十字架を負うことを拒むことであるかもしれない。すべてを主の御手から受けたくない気持ちもあるかも知れない。 パウロの目指した目標とは、もちろん普通に言われている救いではない。彼の目指した目標とはひとつの報いだったのです。なぜならばパウロはもうすでにイエス様に出会ったし、永遠のいのちを持っていたし、自分のわがままあやまちは赦されてる。 赦されてる、そのことだけではなく、主は私のとんでもない過去のことを忘れたと、彼は確信したのです。 パウロの目指した目的とは、地上における名声でもなかったのです。パウロはこの手紙を書いた時、もうすでにイエス様のものになっただけじゃなくて、ま特別に選ばれた主のしもべとして認められたし、動かすことのできない名声を隠していました。 そして、いわゆるユダヤ人でない国々の人々に対して、彼は特別の使命を持つ者であることをみんなわかったのです。パウロは、他の人々に1度も認められたいなどとは思ったことがないと、彼の手紙を通してはっきりと知ることができます。みんなそうではなかったんです。 主にこのピリピ人への手紙を読むとわかります。当時のパウロの時代には、自分の栄誉のために働く兄弟姉妹がおりました。これらの兄弟姉妹は、妬みや闘争心に、また党派心や教理からイエス様を述べ伝える人々だったのです。 パウロの時代にはそうでしたが、この世の末ならなおさらそうなのではないでしょうか。信ずる者の中にも、認めてもらいたいと願う霊が働き、何とかして信用を得、名声をはくし、大いなる者と唱えられたく働く人々がいます。 確かに、イエス様に出会った者は、初めてイエス様によって救われたから、その喜びの余りに自分のこときれいに忘れます。もう自分の持ってるものはイエス様に全部ささげても良い。やっぱりイエス様に生きたい。イエス様に仕えたい。この世の名声だって問題ではないと、だれでも思うでしょう。 けどそのうちに、名誉心が頭をもたげてきて、自分は何かになりたい、認めてもらいたいと思うようになるのはだれでも経験するなのではないなのでしょうか。 主に仕えてると言いながら、実際には人の誉れを求める兄弟姉妹が、もちろんいるなのではないでしょうか。もし人の誉れを求めていると、肉においてはおのれを喜ばせ、当たり障りのない楽な生活をするかもしれないけど、パウロのようにただ主の誉れだけを求め、上のものだけをめざして走ろうとする者は、いろいろなことで悩むようになります。いろいろな困難が振りかかってきます。 この経験についてパウロは、コリント人への手紙第Iに次のように書いたのです。 コリント人への手紙第I、4:9-13
パウロの目指した目標は、罪の赦しではなかった。もうすでに赦された。自分の罪あやまちは永久的に忘れられたと確信していたからです。 またパウロの目指した目標は、地上における名声でもなかったのです。パウロの目指して走っていたものは、自分の持ち物ではなかったのです。自分の物を少しでも多く持とうと思う願いは、若い頃のパウロの願いそのものでした。 彼は知的にも人よりすぐれようとし、非常な努力いたしました。この、昔の努力について、パウロが誇りを持って思ってたことについて、ピリピ人への手紙の中で告白してます。 ピリピ人への手紙3:5-6
パウロのもっていた若い頃のこのような霊は、天からのものではなかったのです。従って天の報いとは少しの関係もありません。 多くのキリスト者は、自分の祝福を求めて祈り、信仰生活を続けますけど、他人の祝福を願わないで自分の祝福だけを求める人々とは、どういう人々なのでしょうか。 あたかも、登山靴とリュックサックを背負って走る競技者のようなものです。このような人たちは、しばらくすると疲れてしまい、動けなくなってしまいます。 パウロは、当時イエス様のことを述べ伝えた人々について次のように言わざるを得なかったのです。 ピリピ人への手紙2:21
3章18節では、パウロはこのような人々はキリストの十字架に敵対して歩いてる人々だと言ってます。彼らはイエス様に敵対してはいません。イエス様を知り、イエス様を信じ、罪の赦しをいただいた兄弟姉妹です。それでもなお十字架に逆らっているというのです。 それらの人々は、誤解されたくない、侮られたくない、イエス様のために恥じを負いたくない人々です。結局、はっきりとした態度を取らないで妥協する人々です。 人の思いで、イエス様に十字架にかからないようにといさめたペテロに似てます。イエス様はマタイの福音書16章の23節を見ると次のようにペテロに言われたことがあります。 マタイの福音書16:23
ちょっと激しい言葉です。 イエス様の十字架の敵とは、前に読みましたピリピ人への手紙3章19節によると、地上のことを思ってる人々のことを言います。 私たちは十字架に敵対してるなのでしょうか?それとも私たちは、神の国とその義とをまず第一に求めてるなのでしょうか。 パウロは、からだを伸ばして走るようになりました。どうしてでしょうか。言うまでもなく、救われるためではなく、地上における名声のためではなく、また自分の持ち物を得ようと思ったからではない。パウロがからだを伸ばして走ったのは、奉仕の結果のためでもなかったのです。 種を蒔けばそれで良いです。蒔いてから全部主に任せた方がいいなのではないでしょうか。確かにパウロは主に祝福されすばらしいご奉仕をしました。けど、奉仕の結果がパウロの目的ではなかったんです。 パウロは、この手紙を書いた時ローマの牢獄にいたのであり、ピリピにいる兄弟姉妹に手紙を書き送っています。パウロはその奉仕の大部分を、もうすでにその時終わったと確信したのです。 しかもただこの一事に励んでます。すなわち後のものを忘れ、ひたむきに前のものに向って進み、目標を目指して一心に走ってますと彼は言ったのです。 多くの人々は、パウロの奉仕によって救われ、彼の奉仕によって、主にだけ従いたいと思う人々もたくさんでました。けどパウロは、奉仕の結果を目標にはしていなかったのです。もしも奉仕の結果を最後の目的にするならば誤りです。 ある人は、奉仕、奉仕と言って奉仕に夢中になってますけど、もし病に倒れて何年間も寝なければならないようになったらどうでしょうか。絶望してしまいます。もう何の喜びも平安もなくなってしまいます。 もし他の人々は奉仕できる環境にあるのに自分はできない。ほかの人々だけ祝福されて自分は祝福されない。そのような時は一体どうでしょうか。もちろんイエス様は、私たちが真実を尽くして奉仕することを願っておられますけど、祝福そのものが目的となり、まことの目的の妨げとなるならば悲しいことなのではないでしょうか。 前に言いましたように、パウロは言えたのです。 使徒の働き20:24
パウロが求めていた報いとは何であるかを見てきましたけど、「最後に」パウロが求めていた報いとは何だったのでしょうか。ただパウロが求めていたのは主の誉れでした。主が中心になれば、主に栄光が帰されれば私は嬉しいと彼は心から思ったのです。 まことの報いを目指してひたすらに走る者や、信ずるものや、他の人々の栄誉を求めないで、ただ主の栄誉を求めて走ります。ダマスコの途上、主がパウロを捕らえられた時、主は一つの目的を持ってパウロを、御自身を器として光によって洗い聖め、引き寄せられました。 その時パウロは、主が、自分が主のしもべとしてご奉仕をするために救ってくださったのだと思ったに違いない。けど今、パウロは何年もの間奉仕を続けた後、捕らわれの身となってローマの刑務所の牢獄につながれています。そしてピリピの主にある兄弟姉妹に手紙を書き送っています。 目に見える伝道のご奉仕は終わったというのに、彼は目的を目指して走ってるというのは一体どういうわけなのでしょうか? 御霊は、絶えずパウロを前のほうに追いやってやみません。ですからパウロは、そのように言わざるを得なかったのです。主ご自身が、パウロよりもっと大きな関心を持って、このまことの目標を達成しようと願っておられました。だからパウロを通して、「目標を目指して走ろう。」と願われたのです。 問題は、私たちが満足することではなく、主が満足するかどうかです。また、主が私たちに示す目的だけに向って邁進するのを願っておられます。その時はじめて主は満足なさいます。 パウロの著しい特徴は、ただ主を喜ばせるために全てのことをしたと言うことです。 大切なひとつの質問とは、「救われるためにはどうしたらいいの?」、けども、少なくても同じように大切なのは、「主を喜ばせたいけどどうしたらいいの?」 教えてくださいという態度を取り続けることなのではないでしょうか。 復活なさったいえすさまに出会ったパウロは、いつも「主よ、私はこれから何をしたら良いなのでしょうか。」と祈り続けたのです.。 パウロは、生涯主の指図通りに動いていた。祈り続ける瞬間瞬間の結果と言えます。ですから彼は用いられるようになったのです。ですからパウロ自信に、ご自身のご目的を上から教えられたのです。 パウロは、主のまことの目的を知ってから、ただひたすらにからだを前に伸ばし、それを目指し前進しました。けど、この主のご目的とは一体何だったのでしょうか? イエス様は、十字架につけられる前に、父なる神に祈ってこのご目的について話されたのです。イエス様の心の奥底の現れそのものです。 ヨハネの福音書17:24
こいうふうにイエス様は祈ったのです。もちろんイエス様は心からそう思ったし、心から願ったのです。 それから復活なさり、昇天され、高く引き上げられたイエス様は、一人の弟子であるヨハネに次のように言ったのであります。主の望んでおられるご目的とは一体何なのでしょうか。 ヨハネの黙示録3:21
ちょと考えられない内容なのではないでしょうか。 イエス様とともに御座に着き、主なる神とともに永遠に支配する。これがパウロの目指したまことの目的であり、報いでした。 何という驚くべき栄光に満ちた立場でしょう。 人からの誉れは小さいものです。主とともに永遠に過ごすという驚くべき声が、私たちを待ってるからです。 |