引用聖句:イザヤ書6章1節-8節
今年の夏、何回も同じみことばを引用したことがあります。歴代誌第IIの16章の9節です。 歴代誌第II、16:9
どういう人々を捜しておられるかと言いますと、聞く耳を持つ人々なのではないでしょうか。 確かに聞く耳を持つ人々はみことばに頼るようになります。「主よ。語ってください。聞いております。」という態度を取るに違いない。 あるとき姉妹は書いたことがあります。手紙の中で四ヶ所のみことばが引用されています。 結局姉妹にとってみことばこそが大切である。 詩篇19:12
姉妹は作者、詩篇の作者と同じ気持ちを持つようになった。 『昨日このみことばを読んだとき、私は自分の罪の重さに涙が止まりませんでした。今までのたくさんの罪と今日もまた犯している罪を思うと心が重くなりました。そして自分の感情で接してしまう。 この主が与えてくださった子どもたちは、こんな罪人の私といっしょにいて、真っ直ぐ主の道を歩んで行けるのかを考えたりもしました。 でも今日、テープを聞いて聖書を開いたら、心が楽になりました。すべてを主に渡して、主にゆだねたから。 出エジプト記15:26
この頃はできるだけたくさんイエス様からの喜びをいただこうと、聖書をいつもテーブルの上に置き、座る度に開いてみことばを食べています。』 みことばを勉強している、暗記している、分かっているではない。食べている。 また聖書の個所、 申命記4:7
コリント人への手紙第II、4:11
『私はイエス様が大好きです。』 あの姉妹は確かに悩みながら喜ぶようになっています。みことばのおかげです。 イエス様とは結局捜し求めておられます。呼んでおられます。イエス様の招きのことばはふた種類です。 前にもここで学んだように、やっぱり主は、「おいで。わたしのところに来なさい。」、意味は「キリスト教にはいれ。」ではない。「教会に行け。」ではない。ただ、「わたしのところに来なさい。休ませてあげます。」 結局主の招きのことばとは、神の子どもとなることです。私たちはみな神の子どもとなる特権にあずかったのでしょうか。 もしそうでないならば、今その機会が与えられているから、どうか受け入れて信じ、主の救いのみわざのために感謝してください。 けれども神の子となることとは決して十分ではない。イエス様はよく、「わたしに従いなさい。わたしの弟子となりなさい。」と呼ばれたのです。 自分の罪が赦され、神の子とされたことのあとでイエス様はご自分に従うこと、すなわち弟子になることを望んでおられます。「わたしについて来なさい。」 私たちは今までと同じように、自己決定と自己支配とをこれからも続けていきたいのか、あるいは、献身と本当の自由との新しい人生を始めたいのでしょうか。 この間私たちはひとりの女性についていっしょに考えてまいりました。タビタという女性について。彼女は神の子になっただけではなく、イエス様の弟子になったと書いてあります。 イエス様の弟子の特徴とは、主の望むことを行なうこと。それから主に徹頭徹尾聞き従うことです。主は同労者を、用いられる器を捜し求めておられます。 今、兄弟のお読みになりましたイザヤ書6章の5節に、 イザヤ書6:5
彼の告白された罪は赦されたのです。告白すると主は必ず赦してくださる。隠すと主は赦そうとしない。祝福することができない。 イザヤ書6:7-8
この態度を取ると必ず用いられます。 「おいで。わたしのところに来なさい。」と言う主イエス様の呼びかけとは、確かに今話したように、救いを得るため、また解放されるための呼びかけです。 マタイの福音書11:28
精神的に マタイの福音書11:28
色々なことで マタイの福音書11:28
おいで。 マタイの福音書11:28-30
悩んでいる、助けを求めている人のためにイエス様は呼びかけておられるのです。 いのちの水がほしい者は価なしにそれを受けるがよい。受ける者は父なる神との平和を得、罪の赦しを受け、主なる神の子どもとされた喜びをもち、永遠のいのちをもつことができるのです。 こういうふうにイエス様は呼びかけておられ、約束しておられるのです。 その呼びかけはいかなるものなのでしょうか。「わたしのもとに来なさい。」、罪の赦しを得るために神の子となるためです。 けれども福音書を見るとイエス様のもうひとつの大切な呼びかけとは違うものです。 「わたしの弟子、わたしの用いられる器となりなさい。」、「わたしについて来なさい。」、「人間をとる漁師にしてあげよう。」 すなわち救われた兄弟姉妹は主イエス様の用いられる器となるべきです。 けれどイエス様に従って行くとはいったいどういうことなのでしょうか。すなわち自分を否定すること。自分自身を捨てることです。 それだけではなく、自分自身を憎むことであり、自分の家族までも憎むことを意味する。曖昧な態度と妥協によっては救いは成就しません。 主のがわに立たないと周りの人々は決して救われません。イエス様を第一にすると、妥協のない態度を取ると主は必ず家族も知り合いの人々も救ってくださるのです。 従うとは結局、すべてを捨ておくことです。ちょっとルカの福音書の5章を見ると次のように書かれています。 ルカの福音書5:27-28
この男は今まで、お金、お金、お金と思ったのです。けれども彼は2、3日考えさせてください。と言わなかったのです。 何もかも捨てて、立ち上がって従った。マルコの福音書10章の28節を見ると次のように書かれています。 マルコの福音書10:28-30
確かに人間の性質とは、損をしたくない。儲けたい。何かをすると倍儲けたらすごいでしょ。イエス様は百倍と約束したから、本当にすごいのではないでしょうか。 外面的にはイエス様に従って行くことは、今まで自分の生活の領域の中にあったものや、人を捨てることを意味しました。 マタイの福音書19:21
アンデレとペテロは、 マルコの福音書1:18
ヤコブとヨハネとはイエスが彼らをお招きになると、父を雇い人たちといっしょに舟に置いて、イエスのあとについて来ましたとあります。また前に読みましたレビ、あとのマタイと呼ばれた男は、一切を捨てて立ち上がりイエスに従って行きました。 今日イエス様の弟子も当時と同じようにすべてを捨てて、イエス様に従う決意を常にもっていなければなりません。 少なくとも内面的にはそのような態度を取ることとはどうしても必要です。 したがって、みこころならば全国を巡り歩いて、あるいは外国へまでも出掛けて、イエス様を宣べ伝えるように示される場合もある。 そのようなことが実際に示されるかどうかは別としても、少なくともそのような備えの心構えが必要です。 イエス様の弟子たちは結局すべてを捨てました。彼らは網を捨て、自分の職業を放棄した。彼は父親一人を残して、家族からも離れました。イエス様に従おうとする者はすべてを捨てる覚悟ができていることが必要です。 前に読みましたマルコの福音書10章の30節に、迫害ということばが使われています。 事実イエス様に従うことは確かに散歩ではない。戦いです。自分の考え、自分の感情、あるいは意思を否定するということは決して簡単なことではない。 しかしながら注意したいことは、ここで弟子たちがすべてを捨て置いたことが決して大きな苦しみや犠牲に終わったのではなく、むしろその百倍を受けることができたということです。 もしペテロが100%主に従わなかったならば、彼の姑は決していやされず、死んでしまったことでしょう。表面的には家族を捨てたように見えるけれど実際は反対に得たのです。得るために捨てたのです。主のために捨てる者は決して損をしません。 今、この世においては大きな利益を受けることができ、しかも死んでからも大いなる報いを得ると記されています。 パウロという男は確かに多くのものを捨てたらしい。けれど得たものはすごかった。ピリピ人への手紙の3章の7節、8節を見ると彼は次のように書いたのです。御代田の別荘ではなく、ローマの刑務所の中でした。 ピリピ人への手紙3:7-8
ルカの福音書14章33節に、 ルカの福音書14:33
絶対的な放棄こそ、イエス様に従うことの土台です。そのためにはすべてのものから離れるという断固たる態度と決断が必要です。すべてのものを捨ててイエス様に従うと、その結果おのずから前よりもはるかに多くのものを得るようになるのです。 今イエス様に従う者は、生きている間だけではなく、死んでからも豊かに報いを得るのです。 弟子とされることの必要不可欠な条件は、徹頭徹尾主に信頼し、明け渡す献身です。したがって、自分の親しい家族や友人よりもだれよりもイエス様を愛し、イエス様のためにすべてを捨て、すべてを失う備えのできている者だけが、イエス様の弟子となることができるのです。 「主よ。主よ。」と呼ぶ者がイエスの弟子なのではなく、主のみこころを行なう者だけが本当の弟子であるとイエス様はよく言われたのです。 イエス様の弟子となるとその結果、必然的に憎しみや迫害をともなうのです。弟子は師にまさることはないと書かれているように、イエス様は死の受難を受けられたわけですが、イエス様の弟子とされた者の迫害を受けたり、憎まれたりするぐらいのことはいわば当然であると言えましょう。 マタイの福音書5:11
同情すべきなのではない。 ペテロも当時の迫害された兄弟姉妹を励ますために書いたのです。 ペテロの手紙第I、4:14
しあわせ。 ペテロの手紙第I、4:14
主に従うこととはいったい何なのでしょうか。みことばにとどまることなのではないでしょうか。 有名なヨハネの福音書8章31節にイエス様は次のように言われました。 ヨハネの福音書8:31
また、 ヨハネの福音書15:8
主に従うということは、多くの実を結ぶために主のみことばにとどまるということです。 主のみことばにとどまるということは、主のことばをそのまま神のことばそのものとして受け取ることを意味しているのです。 聖書は実際生活及び信仰の実際問題に対して最高の権威をもつべきです。そのように、絶対的な権威をもった者としてイエス様のみことばを求める者は、主のことばにとどまるのみならず、イエス様ご自身のうちにとどまっているのです。 すなわちイエス様につながっており、より頼んでいることです。そしてイエス様とつながって、イエス様により頼んでいると、おのずから、知らないうちに実を結ぶ結果になるのです。 イエス様に従う者は、おのずから実を結ぶのです。すなわち私たちの小さな奉仕を通して多くの人々が導かれ、救われます。もしそのことを通して多くの人が救われないとしたならば、私たちが本当に主に従っているかどうか疑わしいと言えましょう。 イエス様の当時、確かに多くの人々は、数えられない多くの人々はイエス様に従いました。おびただしい群衆が来て、イエスに従いましたとあります。大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながらついて来ました云々とあります。 イエス様はこれらの群衆に対して多くのみわざと多くの奇蹟を行ないました。けれども彼らは本当にイエス様に従って行く心の備えがまだ十分にはできていなかったのです。 ちょっと見てみましょうか。 ルカの福音書9:57-62
このような理由から多くの弟子たちはイエス様から離れてしまったのです。イエス様の要求は彼らにとって厳しすぎたのです。 結果とは、多くの人は離れてしまった。 ヨハネの福音書6章の60節と66節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書6:60
大部分でしょう。 ヨハネの福音書6:60
ヨハネの福音書6:66
本物ではなかったからです。これらの人々は聞くことだけで、行なうことをしなかった。従順ならざる弟子は要り得ません。 自分の思いを捨てて、主のみこころだけを大切にすることがどうしても必要です。 マタイの福音書26:39
マタイの福音書26:42
「自分の思いではなく、みこころだけがなるように。」、この態度を取る者は自由になります。 ルカの福音書14章の25節からちょっと2、3節読みます。 ルカの福音書14:25-33
弟子としてイエス様に従うことは徹底的な献身を意味し、あらゆる人間的な絆からの分離を意味するのです。 イエス様の呼びかけの目的とは前に話したように、「わたしはあなたがたを、人を、人間をとる漁師にしよう。」、「わたしはしてあげよう。」 私たちは自分の力ではもちろん人間をとる漁師にはなれず、それはすべてイエス様ご自身のなされることです。私たちはただイエス様に忠実に従いさえすれば、それは良いのです。あとは主ご自身がすべてを成してくださるのです。 仕える能力、仕える力は上から与えられるものです。イエス様が弟子たちをお招きになられた目的は、やっぱり人間をとる漁師にすることです。 イエス様が今日われわれひとりひとりを招いておられることの目的ももちろん同じく、人間をとる漁師にすることです。 例えば職業はもちろんお金を儲けるためです。そして私たちは真心から自分の仕事に従事すべきです。 けれどイエス様はお金を儲けるために私たちをお救いになったのではない。イエス様は、「わたしはあなたを証し人にしよう。」、「人間をとる漁師にしよう。」と言われました。 それこそまさに主の招きそのものであり、大切です。 われわれの証明、すなわち召しは職業よりもはるかに大切なのではないでしょうか。証明を第一にする者は、職業を損なうことはありません。そして決して損をすることはないのです。 反対に、職業を第一にする者は、証明を忘れ、損をする結果になってしまうのです。 イエス様は、「わたしについて来なさい。」と招いておられます。イエス様について行くということは、従順に従うことだけ。 イエス様が考えておられることは、だれにでもわかるのです。主に従うことによってすべては根本的に全く変わってしまいます。 イエス様に従うことは、毎日自分の意思と自分の思いとを主に明け渡すことを意味しているのです。 ヨハネの福音書10:4
ヨハネの福音書10:27
ついて来るべきなのではない。事実として言われているのです。わたしの羊はわたしについて来ます。わたしに従います。 イエス様の声に聞き従わない者は、主の弟子ではありません。救われているでしょうけれども用いられる器ではないのです。 イエス様の声に聞き従う者は、決して道に迷うことがありません。けれどもイエス様の声に聞き従わない者は、やみの中をさまようのです。そしていつも波のように揺れ動いて定まることがないのです。 イエス様は呼んでおられます。イエス様は用いようと望んでおられるのです。 主の呼びかけはわれわれに対していかなるものなのでしょうか。イエス様の呼びかけは、今日われわれにとってももちろん当てはまるものです。 われわれの周囲には、結局神なく、望みない人が大ぜいいます。そのような人々の救いのためにはイエス様に従い、すべてを主イエス様に明け渡すという、断固たる態度が必要です。 「わたしはしてあげよう。」とイエス様は言われました。イエス様はただ、「おいで。ついて来なさい。」と言われます。そのことが私たちをイエス様としっかりと結び付けるのです。 イエス様に従いたいと思う人は、以前の状態にとどまることはできない。イエス様に従うということは、まさに100%従うことであって、そうでなければ本当に従うことにはならないのです。 イエス様ご自身のなさることは呼びかけることであり、われわれのすべきことは従うことです。 「わたしはあなたを人間をとる漁師にしてあげよう。」、「わたしは学校において、台所において、会社においてあなたを証し人として用いよう」とイエス様は言われます。 イエス様が、「弟子になりなさい。従う者になりなさい。人間をとる漁師になりなさい。」と呼んでおられ、そしてこの呼びかけはひとりひとりにも当てはまるものです。 イエス様について行くということは、われわれの人生に対して主のご計画を認め、受けることです。 イエス様の呼びかけは、直ちに従うことを要求しておられます。そしてイエス様がわれわれに呼びかけておられることの理由は、まだ救われていないたましいを救いに導くことです。 失われたもののために全き献身が必要です。網を手にした人にとって網そのもの自体は決して悪いものではなく、むしろ必要不可欠なものです。けれど彼らはその網をいつまでも手にしていることはせず、それを捨て置いて直ちに主に従ったのです。 彼らは網を持ち続けるか、あるいはイエス様について行くかの二者択一に迫られたのです。彼らはイエス様との交わりは自分の職業や家族よりも大切なものであることをよく知っていました。 エゼキエル書22:30
わたしは捜し求めたが、見つからなかったとあります。イエス様は私たちを捜し求め、「わたしについて来なさい。わたしはあなたを人間をとる漁師にしてあげよう。」と呼びかけておられます。 今日この世が必要としているものは、イエス様に従って行く者、すなわちイエス様の弟子にほかならないのです。イエス様の弟子だけがこの世の光であり、地の塩なのです。 イエス様の弟子とはこの堕落した時代にあって、主のいのちのみことばをしっかりと受け止め、主の声に聞き従う者です。 私たちは主の呼びかけに従い、主について行くのでしょうか。それともエゼキエルの時代と同じように、主は捜し求めたが、見つからなかったということになるのでしょうか。 イエス様は私たちひとりひとりを見ておられ、呼びかけておられます。 イエス様は私たちが価値ある者であるからではなく、主の恵みによって変えられうる者であることをご存知であられるゆえに呼びかけておられます。 私たちは今までと同じように生活したいのか、あるいはイエス様を何があってもよりよく知りたいと思うのでしょうか。 もし私たちが心の底より、「弟子となしたまえ。主よ。語ってください。私を遣わしてください。」という態度を取ると、主は大いに祝福するに違いない。 |