引用聖句:マタイの福音書25章1節-13節
今日のテーマは、「用意ができているの」あるいは「愚かか、賢いかのどちらかですか」あるいは「備えあれば憂いなし」とつけることができるのではないかと思います。 我々にとって最も大切なのは、主の再臨を待ち望むことなのではないでしょうか。 間違いなく私たちは今、いわゆる世界の歴史の夜の時に生きているのです。そして真っ暗な夜の時に向かって歩く者です。 毎日、ラジオや新聞テレビで世界の動きを見ると、世界はますます深く、主なる神を無視するようになり、主の言葉に対して無関心となり、そして真っ暗な雲のような暗やみの力の中に沈んでゆく様子がよく解かるのではないでしょうか。 次の大きな出来事は、言うまでもなくイエス様の再臨、イエス様の日、すなわちイエス様が雲に乗って再びおいでになることです。そして信じる人々を、ご自身のもとに引き寄せることです。空で彼らにお会いになるその日の出来事です。 聖書はこの将来の偉大なる出来事について何と言っているのでしょうか。よく知られている箇所ですが、もう一回読みましょう。 テサロニケ人への手紙第I、4:13-18
この箇所に3つの事実が明らかにされているのではないでしょうか。 第1番目、イエス様ご自身が天から再びおいでになるということです。 第2番目、イエス様にあって死んだ人々の体がよみがえるということです。 第3番目、それから生き残っている主の恵みによって救われた人々が変えられます。よみがえった主のものになった人々と共に、雲の中で主に会うということです。 イエス様はおいでになります。私たちも準備をしなければなりません。もし準備がなければ、後で後悔します。将来に備えるために、私たちは将来のことを知らなければなりません。イエス様の再臨の日は、大きな啓示の日です。 すなわち第1番目、イエス様が信じる者の前に姿を現されるのであり、第2番目、イエス様に属する者が、イエス様の前に姿を現す日でもあります。私たちは、イエス様の真の姿を見るのです。それは想像できない考えられないすばらしい瞬間です。イエス様の真の姿を見るということは、考えられない栄光であります。 目に見えない方は、その覆いを脱ぎ捨て、イエス様は我々の目の前に、深い愛と聖さに包まれて、またこの上もなく力強い神聖さと栄光に包まれて立つのです。マタイの福音書の中で、3人はちょっとだけ主の栄光を見たと書いてあります。 マタイの福音書17:1-2
この山の上におけるイエス様の変容は、来るべき日に私たちが見るであろうところのものの、単なる予感にすぎません。 使徒の働き1:11
イエス様が再び来られます。この日は、イエス様が昇天された日と全く同様に確かであり、事実であり歴史的な真実です。イエス様はあの時、信者たちの目の前で消えたと同じように現れます。 しかし、再臨の日は、信者たちの前にイエス様が姿を現す日だけではない。イエス様の前に、信じる者が現れる日でもあります。その日には、本当に信じていた者、すなわちイエス様との有機的な結びつきを持っていた者が明らかにされます。 ただ口で「主よ。主よ。」と言っているのか、それとも本当にイエス様によって、恵みを得、永遠のいのちを持つようになったかが明らかになります。次の2箇所を見ると解かります。 マタイの福音書25:22-23
褒めことばですね。逆のことばは7章に書いているのです。 新約聖書の中の最も厳しいことばの一つじゃないかと思います。 マタイの福音書7:21-23
このような言葉を聞くようになる者は、悲劇そのものです。マタイの福音書25章に出て来る5人の愚かな乙女と5人の思慮深い乙女の二つに分けられる、この大きな決定が行なわれるのです。 この愚かな乙女たちの乱舞、形式、外部の入れ物を持っていますが、彼女たちは油と中身と真のいのちを持っていませんでした。すなわち彼女たちは、みことばを聞き、祈り、聖書を読みますが、形だけだったんです。 しかし、思慮深い乙女たちは、油すなわち聖霊と真のいのちそのものを、形も含めて持っていました。その日は、愚かな者たちと思慮深い者たちを分かち、その一方は「わたしは、お前たちを知らない」と言われ、もう一方は「お入りなさい」と言われるのです。イエス様のからだの肢体である者が、確実に明らかになります。 エペソ人への手紙5:30
イエス様は、信者たちを呼び、そして彼らは主イエス様の方に向かって急ぎます。すなわち、墓場から海からまたは信じる者の体のある所どこからも、信じる者のからだはこの偉大な第1の復活の日を、共に祝うためによみがえるようになります。 またその日に、この地上に永遠のいのちを持っている救われた者たちは、特別な特権を持つようになるのです。すなわち彼らは、死を見ないで墓を知らないのです。すなわち彼らは、一瞬にして変えられ、一瞬にしてよみがえりのからだを得るのです。 すべての本当の救われた人々のために、その救われた者たちがその日に死んだにしろ、生きる者に数えられるにしろ、この日は死に対する勝利です。 救われた人々は、新しいからだを持ってイエス様に会うようになります。このからだとは、イエス様がよみがえりの日に、身につけたと全く同じよみがえりのからだです。 コリント人への手紙第Iの15章は、いわゆるよみがえりの書と呼ばれている所です。 コリント人への手紙第I、15:23、51-52
その日には、また多くのことが起こります。私たちがキリストにあってということが明らかになります。すべてキリストにおける新しく造られた者は、一瞬にして完全にされます。 すなわちヨハネの手紙第I、3章2節のことばが実現されます。 ヨハネの手紙第I、3:2
なお私たちの身についているすべての汚いものは、清め落ち、私たちの内にある主イエス様は、すばらしい形のうちに姿を現すのです。その時、次のことばは全く完成されます。すなわち「古いものは去って、見よ。すべてが新しくなった」 ちょうど実例として言えますけど、いわゆる蝶々がカイコを脱ぎ捨て、翼を広げると同様に、古きものは私たちの中から取り去られ、そこにはただ新しいものがあります。 この瞬間に、すなわちこの世で最も大きな悩みであった我々の内にある罪が、もはやなくなる時、そして罪のもとすなわち我々の生活の最も深い悩みであるその元がなくなる時、すべてが新しくなり変わり、我々の願いは完全に満たされるのです。 しかし、その偉大な日には、我々の全生活も、またイエス様の光の前に現れるのです。 心の中にイエス様の姿を宿している、救われた一人ひとりは、イエス様の恵みの座の前に立つようになります。 パウロは、このことについてコリント人への手紙第IIの中で次のように書き記したのであります。 コリント人への手紙第II、5:10
聖書には2つの裁きがありますが、これは栄光かまたは破滅かを決定する裁きではありません。その日、この世における一人ひとりの救われた者の生活、働きが主の火によって試されるということです。 すなわち信じる者の行なった結果によって、イエス様は救われた人々に報酬、褒章、王冠を分け与えるのです。 パウロはそれを非常に解かりやすく、コリント人への手紙第Iの中で次のことばで述べたのであります。 コリント人への手紙第I、3:11-15
その火が私たちの生活を明らかにします。すなわち聖い火が、金、銀、宝石、木、草、わら、すなわちイエス様から出たものか、または自分から出たものかを明らかにします。 失われたいのちは、何と悔やまれることは、それは取り戻すことも取り代えることもできません。 永遠の実を結んだいのちは、これは大きな喜びであり勝利です。もしその時イエス様は、私たちに次のように言うことができれば本当に幸いです。 マタイの福音書25:21
世の中の人々の目に大きく映り、そして多分信じる者たちの前にも大きく見られる多くの人々は、彼らの生活が木や枯れ草やわらのように、火の中に消えるのを見るでしょう。それとは反対に、人々から忘れられ隠れた生活をした人々、そして信じる者どうしに語られなかった多くの人々は、金をあたえられるでしょう。 我々の生活に何が残るのでしょうか。私たちが本当にイエス様から出て、イエス様のために生活したか、それとも自分から自分のために生活したかどちらでしょうか。この火がそれを明らかにするのです。その日は、真の救われた人々にとってすばらしい日でしょう。 聖書はそのすばらしさを表現するために、ただ一つのことばで表現しています。すなわち栄光ということばです。パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。 コリント人への手紙第I、2:9
ローマ人への手紙8:18
とパウロは書いたのです。 今の時の我々の悩みは、いかに重く深いことでしょう。しかしこの栄光は、それに比べると限りなく大きいものであり、この世の苦しみは将来の栄光に比べると言うに足らないことです。 またローマ人への手紙の中で、パウロは当時の信じる者を力づけるためでしょう、励ますために書いたのです。 ローマ人への手紙13:11-14
イエス様の再臨の日のカーテンの後ろに、私たちの信仰の表れがあります。イエス様は私たちに見えるようになるのです。 私たちは、イエス様はすべてのすべてであるという目標を持っています。イエス様のこの再臨の日は、我々の生活における最も大きな大切な日です。ですから我々の生活にとって、この日が力強い原動力となるべきなのではないでしょうか。 イエス様の再臨は、我々に道を示してくれます。この目標の偉大さが道をまっすぐにはっきりと示すのに役立っています。 イエス様の啓示の日を目の前に見ている者は、その再臨の日に生きられるような生活をするはずです。私たちがあらゆる認識を信仰の中に、はっきりと自分のものとすれば、その認識は我々の生活に意味を持ち、役に立ちます。 すなわちイエス様の将来、私たちがイエス様と会う日が、信仰によって自分のものとならなければなりません。再臨の日が、自分にとって事実とならなければなりません。そしてこの事実が、我々の日ごとの生活に役割を演ずるのです。 もしもイエス様と会うことに向かって急ぎたいならば、私たちはもちろんイエス様のものとならなければならない。なぜならば、イエス様に属する者だけがその日、そばでイエス様に会うのであるからです。パウロはローマ人への手紙の中で、強いことばを書いたのです。 ローマ人への手紙8:9
ローマ人への手紙5:5
「我々に与えられた聖霊」大切なのはそれです。 同じ事実について、パウロはコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。 コリント人への手紙第I、12:13
イエス様の再臨は、イエス様の死とイエス様の復活と五旬節と、実に密接な繋がりがあります。私たちはすべての救いのための事実を自分のものとするならば、私たちは再臨の日に、燃えることない金や銀となって対等することができます。 イエス様の十字架の上で、イエス様と共に変えられた者がイエス様に属するのです。私たちはイエス様に、我々自身および我々の持っているものすべて、すなわち我々の罪、悩み、病、困難などすべてを捧げるのです。 するとイエス様は、それらすべてを受け取り、我々の罪の結果を担ってくださるのです。すなわちその表れは、十字架の死です。けども私たちがイエス様を、主のいのちを、そしてイエス様が持っておられるすべてのものを、すなわち罪の赦し、イエス様の義、また主のいのちを受け取るのです。 いのちのやり取り、それは完全にお互いに値することです。イエス様は、我々の罪の罰を十字架で担い、そしてイエス様のよみがえりのゆえに、イエス様のいのちは、我々の内によみがえっているのです。これが信じる者の一番初めの経験です。 すなわちイエス様が我々の救い主となり、私たちがイエス様のからだの肢体となることです。 イエス様は、信じる者すべてに与える聖霊によって、我々の内に生きておられるのです。私たちは、この最初の経験を体験的に知っているのでしょうか。イエス様の再臨の日を考える時、最も大切なそして個人的な質問がそこにあります。 すなわち「私は本当に生まれ変わっているのか。私はイエス様を、私自身の救い主として経験しているのでしょうか。」このことを知ることができるのでしょうか。もちろんそうです。 イエス様は、五旬節の時に弟子たちに与えられた力、また装備を我々にも与えたいのです。使徒の働き2章をみると書かれています。「一同は聖霊に満たされた。」と書かれているような聖霊の力を我々に与えたく思っておられるのです。 この装備なしに、私たちは再臨の日に、主の前に耐えることができるような生活をすることができません。聖霊の力なしには、誰でも聖霊による生活をすることができません。すなわちイエス様の光に耐えたいと思う者は、聖霊で満たされなければならない。 私たちが自分の生活に聖霊が、通行権をいかに充分持っているか。また私たちが聖霊に、聖霊は主であるとどれだけ許しているかは、我々の意思の決定にかかっています。 もし私たちが聖霊に、我々のすべてを捧げるならば、聖霊はすべてを受け取り、そして我々を完全に満たしてくださいます。 もしあなたが本当にイエス様のものであるならば、聖霊はあなたの内に宿っているはずです。それは私たちの内に住まれる聖霊の第一の働きの結果は、聖霊が我々をイエス様とのより深い交わりに導くということです。 聖霊は、我々を祈りに追いやります。聖霊は、我々に主の前にあって正しい道を差し示すのです。聖霊は、ただ一つの願い、すなわち私たちがより良く、より深くイエス様を知るという要求を持っています。 聖霊に満たされている人は、いつも平安を好む人であり、そして祈りの人です。 聖霊は、信者を主の姿に立ち返らせるという大きな使命を成し遂げるために、主の前に過ごす時間が何という必要なことでありましょうか。 再び来られるイエス様に対する愛は、我々が過ごす時間の静かな時の中で、養われていかなければなりません。私たちが過ごす静かな祈りの時ばかりでなく、働いている時も、我々の実際生活の毎日がイエス様の再臨の備えとしてあるのです。イエス様は、私たちのいのちであります。 このいのちは、私たちとの、私たちの非常に多忙な働きの日の合言葉であり、毎日の光と力であるべきなのではないでしょうか。 イエス様の再臨に対する、生き生きとした希望から清くなるという力も湧き出てきます。実際生活において罪に仕えている者が、イエス様の再臨を待っているなどということはあり得ないことです。 ヨハネの手紙第I、3:3
コロサイ人への手紙3:3-4
コロサイ人への手紙3:1-2
イエス様の再臨に対する希望から、力強い力が湧き出てきます。私たちがもし今日、我々の主を待っているのであれば、私たちは罪の中に生活することはできません。 もしも主の炎のような眼が、我々に隠された罪で曇るならば、また私たちがイエス様の再臨の時に、私たちの罪の驚きに心打たれるならば、それは非常に恐ろしいことではないでしょうか。 生き生きとした望みを心に抱いている者は、毎日、毎時間、主イエス様の血によって清められていくにちがいない。再臨の日が突然不意に襲いかかって来ないように、そしてイエス様が清くない者としないために。この世の生活において、希望は絶対に必要なものです。 人が希望を持っている限り、その人はひどい困難にも耐えることができます。 たとえば、生き埋めにされた鉱夫が、救われるという希望を持っていれば、超人間的に耐えとおすことができます。けどその希望が、彼らから消えてしまいますと、彼らはすぐにダメになってしまいます。 我々の生活において、イエス様の再臨に対する希望が、あらゆる悩みに耐えるための最も大きな力です。 イエス様は近い。イエス様はすぐ来られます。この言葉は、初代教会において、口から口へ語り告げられ、そしてこの言葉は当時の証し人に、迫害の最中において絶えず力を与え、喜んで死の旅路につかせたのでした。 彼らは欺かれたのでしょうか。それとも彼らは空しく待っていたのでしょうか。イエス様が「わたしは再び来る。しかし、その時は父が定めておられる。」と語られたから、というのもこのことばは、生き生きとした信仰の本質をなすものであり、イエス様の再臨の事実が目の前に、生き生きと認められるものです。 すなわち多分、今日にも来られる。ある信者が、この世に生きていて主の再臨の日を、あたかも彼がその日をこの肉体で体験するかどうかによって、生き生きと目の前に感じていない限り、その信者は主イエス様の戒めに逆らっていこうとするのです。 イエス様は、私たちがその日は今日かもしれないという希望の光によって、毎日を捧げることを望んでおられるに違いない。 イエス様は来られます。その時は近い。ですから何があっても今日かもしれないと思うべきなのではないでしょうか。 |