引用聖句:マルコの福音書1章29節-31節
マルコの福音書5:21-43
今日の話のテーマは、「全く予期せずして助かった。」 おそらくイエス様を知るようになった人々は、みな告白せざるを得ないのではと思います。 すなわち、私はイエス・キリストとはどういうお方であるか全くわからなかったし、必要な救いとはどういうものかわからなかったけど、全く予期せずして救われちゃったと、言わざるを得ないのではないでしょうか。 今日の集いとは、いわゆる勉強会ではない。いくら勉強しても理性でもって掴むものではにから。信じるか、信じないか。 今日の集いとはいつも言われますが、喜びの集いです。どうして喜びの集いかと言いますと、理由は少なくても2つあるのです。 ひとつは悔い改められるからです。 昨日もちょっと話したのですけど、ドイツである人に聞かれたのです。「私も、悔い改めなくちゃならないの?」、それを聞いたとき、もうショックだったのです。それぐらいわからなければ... 悔い改めなくてもいい人はいない。主なる神の目から見るとみんなめちゃくちゃです。人間は、どうしようもない者です。 だからどうしても必要なのは、ただ後悔して反省するだけではなくて悔い改めることです。その意味で、聖書は確かにちょっと大変な本なんです。 今週、土曜も日曜も、四国の松山へ行くつもりなんです。けどある人はやっぱり、会社を経営したからいろいろな問題があったのでしょう。アルコール中毒になっちゃって。 そして奥様が彼を車で連れてきたのです。本人はアルコール中毒になって、もちろん自分で出て行けなくなったのです。けども彼は、その日、やっぱり悔い改める恵みに預かるようになったのです。 彼は面白いことを言ったのです。「いやぁ。3つのことが嫌いでした。一つは警察。二番目は税務署。三番目は聖書...」 結局聖書は鏡のようなものです。読めば読むほど、「いやーたいへんだ。」、主なる神が憐れんでくださらなければ、もうおしまいです。 結局、悔い改められることとはすごい恵みです。悔い改めようとしない人の場合はもう大変です。 けども聖書は、「大切なのは今からです。」、悔い改められるから喜びの集いです。 もう一つ、イエス様を紹介することができるから本当に有り難い。イエス・キリストは生きておられます。十字架につけられてから、復活なさって40日目、弟子達の目の前で昇天なさったのです。後で、イエス様は、ひとりの弟子にまた現れたのです。 天にお帰りになったイエス様の姿を見たヨハネは、聖書によると死人のようになっちゃった。周りの人は死んじゃったかと思ったのです。あまりに変わった姿だったからです。 その時イエス様は、「恐れるな。私は死んだが、見よ、いつまでも生きてる。」とおっしゃったのです。 この、いつまでも生きておられるイエス様は、今歌ったようにまた来られます。 今の世界の唯一の望みとは、イエス様の来られることです。みんなわかるでしょう。世界の国々のことを考えたら、たいへんな速さで、全部、おかしくなってきている。ブレーキをかけようとしても、もう遅い。 この世界が良くなる可能性は、まずない。 主な理由は宗教なんです。宗教が存在している限り平和になり得ません。戦争も、これは宗教戦争なんです。 いわゆるキリスト教や、カトリック教会も、今まで、過去において何回も何回も何回も戦争をしました。 けど、彼らの使ってる聖書の中には、「あなたの敵を愛せよ。」と書いてあるじゃないの。「戦争して殺す。」のではないよ。 結局、イエス様を紹介することとは、キリスト教のために宣伝することではないのです。イエス・キリスト、本物のイエス様とは無宗教です。宗教と関係のないお方です。 日本で多くの人々は、どうして聖書の話しを聞きたくないかと言いますと、キリスト教という名前がつくと、「キリスト教か。うちは違います。」、で、もう終わり。困っちゃうよ。 イエス様は、もちろん仏教と関係のないお方です。それと全く同じように、キリスト教とも全く関係ないお方です。 宗教に入ってる人々は、皆騙されています。遅かれ早かれわかります。「騙された。」 イエス様を信じる人は騙されません。やっぱり変わらない喜びを、心の平安を持つようになるに違いない。 このイエス様の呼びかけとは、「すべて疲れた人、重荷を負う人はおいで。私のところに来なさい。」、素晴らしい御言葉です。 人間は何をやるべきか、何を行うべきかと考えます。確かに人間が中心です。 イエス様の呼びかけとは全く違う。精神的に疲れているから、重荷を負っているから、いろいろなことで悩んでいるから、孤独になっちゃったから、おいでよ。待ってる。休ませてあげます。 イエス様の呼びかけとは、そういうものです。 聖書の中の素晴らしい約束のひとつは、「求めよ、そうすれば与えられます。」 あらゆる宗教、キリスト教を含めて宗教の救いとは偽物です。そして偽物を得るために勉強をしなくちゃいけない。偽物を得るために立派にならなくちゃいけない。偽物のために金も要求されます。 まともな人間は、偽物じゃなくて本物が必要なのではないでしょうか。従って勉強せよではない。悔い改めれば、へりくだればOK。 今読んで頂いた箇所から、主に、二人の人物について、書き記されていました。一人は、年配と言っても何歳かわからないけど、ペテロの姑。 ペテロはイエス様に従うようになった時にすでに結婚していたし、姑との関係はどういうものであったか。特別に親しい関係ではなかったようです。けども彼女は、全く予期せずして救われちゃったのです。 そして、若いヤイロの娘。 マルコの福音書1章をみると、シモン・ペテロの姑は、一度病気になったのです。もちろん当時も今日と同じように多くの病人がいました。 人間は、やっぱり病気になると悩む。力がないし、自分の無力さも認めざるを得ない。けども、ペテロの姑の病気はだんだん悪くなったようです。 元気もなく、それにもちろん一人で寝ていたから他の人々と話すチャンスはあまりなかったでしょう。だから、知らないうちにひとりぼっちになり、孤独になったに違いない。 病気になると一番の問題は何でしょうかね?・・・治ればたいしたもんじゃない。けど、治るかどうかでさえもわからない。そうするとちょっと面白くない。 彼女の熱病は重かったらしいから、彼女が頼んだのではなくて、人々はそのことを早速イエス様に知らせたのです。 そして、イエス様は彼女が非常に苦しんでおり弱っていることを聞いて、彼女のために時間を作ちゃったのです。 イエス様は、もういつも忙しくて大変でした。けど、イエス様は時間を作りました。 誰でもできるはずです。多くの人は、暇がないと言うのです。うそです。作ろうと思えば、誰でも時間は作れます。一番大切なことを大切にしないと、もちろん無理なんですけど... イエス様は、彼女のために時間を作りました。イエス様はどういう態度をとったのでしょうか。一番大切なことを大切にしたと言えます。 我々は、イエス様を主として導き手として仕えるのと反対に、イエス様を召使いのように取り扱おうとしてしまうのではないでしょうか。 多くの人々は、困った時に、「来て下さい。よろしくお願いします。」と言います。主は、人間に仕える僕ではない。 確かに人間に必要なものを必ず与えて下さる。けど、人間の欲しいものをそのまま与えようとはしない。もし、人間のために最善でなければ与えられない。 人間は何を祈ってもいいよ。なんでもいいよ。 けど、最後に自分の思いではなくて、御心だけがなるようにという態度をとるべきではないでしょうか。 イエス様と出会って本当の喜びを得た者は、イエス様との交わりの中にこそ、本当の喜びを、平安を見いだすようになります。 イエス様は、ペテロの姑のために時間をお作りになりました。愛と理解とを持って彼女の手を持って起こされたのです。イエス様が触られると病気が治り、彼女は元気になった。失望、落胆、孤独は、一瞬にして消えてしまいました。 彼女は心から感謝したに違いない。結局、彼女はイエス様との出会いの前に、すでに義理の息子であるペテロからいろいろなことを聞いたはずです。 このペテロとは、間違いなくまじめな男でした。娘と彼が結婚するとき、別に反対しなかったでしょう。必ず幸せになると思ったに違いない。 けれどもちょっと問題になったのです。このまじめなペテロは、仕事やめちゃったのです。ある程度まで、彼女の目から見ると狂信的になっちゃったのです。 イエス様、イエス様、イエス様のことばっかり話すようになったのです。彼女は、いくら考えてもわからなかったのです。もしかすると家族を顧みないかもしれない。全く不思議に思えたのではないでしょうか。 いろいろなことを思ったのでしょう。このナザレのイエスは、約束された救い主、本当のメサイアであるということを、彼女はいくら考えても、やっぱり理解できなかった。 そのようにして、イエス様のことが全然わからなかった彼女は、イエス様に来てもらうために、人に頼むことをしなかったのです。 イエス様が来られた時も、別にどうということもなかった。全く予期せずして、彼女は、イエス様の偉大なる力を経験するようになりました。そして、彼女は、イエス様との出会いによって本当に変わったのです。彼女の考え方も。 彼女は結局、力なく失望落胆して孤独であったかわりに元気になった。新しい力を持つようになったのです。イエス様との交わりによって、今まで知らなかった喜びを持つようになったのです。 かつては、生きる望みも勇気もなかった彼女は、はっきりした目的を持つようになったのです。 彼女は、マタイの福音書によると、イエス様に仕えるようになったとあります。そして、このマルコの福音書によると、弟子達をもてなしたとあります。つまり、彼女は人生の目的は、イエス様と、イエス様を信じる者に仕えることに変わったのです。 その前には彼女は、自分、自分、自分、自分のことしか考えていなかったでしょう。このような変化が、予期せず、人間の努力によらずして、起ったのです。 信ずる者は、誰でも同じように言うことができるはずです。「私がイエス様を選んだのではない、イエス様が私を捕らえてくださったのです。イエス様は、私を捕らえた。」、そう言える人は、本当に幸せなのではないでしょうか。 イエス様が私たちの心の中に入ると、私たちを捕らえてくださると、私たちは予期せずして変わります。人生が変わります。価値観も変わります。新しい目的を持つようになります。 ひとたびイエス様に捕らえられた者は、イエス様の御手の中にあるために、もはや離れられない。イエス様は離さないから。 たとえ、ある時に自分がイエス様から離れてしまったのではないかと考えるようなことがあっても、決してそうではなくて、捕らえられた者は決して離れられない。これこそ恵みなのではないでしょうかね。 マルコの福音書5章のヤイロの娘も結局同じことを体験しました。彼女も、イエス様に癒されようと願って癒されたのではなく、全く予期しない形で癒されました。 彼女の病気の経過も普通の病気の経過と同じように、病気になった時から回復せずに次第に悪化して、ついに死んだ。彼女は、本当に死にました。 ここで、彼女の父親について書かれています。この父親がイエス様を信頼したから、その屍はイエス様の死に対する力を表すためのものとなりました。 娘の病気が、決して薬や強靱な体のために回復したのではない。イエス様によって癒されたことを知る時に、誰でもイエス様の偉大さに驚嘆せずにはおれないのではないでしょうか。イエス様は、私たちが気付くよりもはるかに多くのことをしてくださっています。 彼女のために、父親はイエス様の所に行って、ひれ伏して、祈り願いました。もしも、我々のために多くの祈りが捧げられなかったら、わたしたちは、イエス様を信ずることにはならなかったのではないでしょうか。 祈りは聞かれます。自分のために祈ることはもちろん大切ですけど、それだけでは十分ではない。やっぱり、悩んでる人々のために祈ること、祈り続けることこそが要求されています。 イエス様はご自身のために、私たちが予期せぬ形で御業をなしてくださる。 イザヤ書43:24-25
イエス様は今日も、我々の祈りに応えて、我々の予期しない形であしらってくださいます。ヤイロの娘が癒されたのも、父親の祈りと真剣な態度にイエスが答えてくださった表れであることがわかります。 この父親は、当時の会堂の管理者の一人でした。その当時、非常な権威と名声を持っていた人々だけが会堂管理者になれました。 けど、彼の名声と評判といえども娘の病気を治すのには何の役にも立たなかったのです。 言うまでもなく、彼は非常に娘を愛したために、娘の病気は彼にとって大きな苦しみ、悩みでした。 もしも彼がイエス様を100%信頼しなかったなら、死にかかっている娘から危篤状態になった娘から離れることはしなかったでしょう。 「イエス様しかない。イエス様だったら、できる。」、と彼は確信しました。この父親は、そのような時にも決して絶望することなくイエス様のもとに来て、足下にひれふして、自分を投げ出して、ありのままをイエス様に願いました。 このヤイロは、ほかの人々が何と言おうとかまわなかったのです。 多くの人は周囲の人のうわさを気にするものです。それは、イエス様の力を体験する妨げとなってしまうのです。 私たちも、このヤイロのように徹頭徹尾イエス様に信頼するか、あるいは人を恐れるかのどちからかです。 もう一回、22節読みましょうか。 マルコの福音書5:22-23
この祈りの中に、ヤイロがイエス様を全く信頼し、救いの確信を持っていることがはっきりと表わされています。 ここで「手を置く」とは、その人とひとつになることを意味します。イエス様が苦しみ悩む人の上に手を置くと、その人は苦しみが去っていくのです。 信仰はイエス様の力により頼む期待することであり、ヤイロはそれを行ったのです。 けども、なかなか思うとおりに行かなかったのです。彼の信仰は結局、試されました。つまり次々に出てきたのです。ヤイロは、1秒も早くイエス様の所へ行きたかったのですが、それを妨げるものがあったのです。 3つありました。1つは群衆でした。群衆がイエス様に押し迫り、早く行こうと思ってももう無理でした。ヤイロにとってちょっと面白くなかった。 2番目の妨げは、別の病気の女でした。それで、イエス様は彼女のために多くの時間を費やしてしまったのです。 ヤイロの心は、そわそわしたでしょう。早く娘の所に行って欲しい。けれどもヤイロにとって、このような経験はどうしても必要だったのです。その時彼はもちろんわからなかったのですけど、後でふりかえった時、「ああ、良かった。」と必ず思ったことでしょう。なぜならば、絶望的な病気の女がイエス様に癒されるのを、つぶさに見ることができたのです。 彼は、イエス様がその女に、すっかり治って、「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言うイエス様の言葉を確かに聞いたのです。多くの試練に遭遇していた父親の前で、イエス様はご自身の力を表されました。 けれども第三の妨げは最も困難なものでした。すなわちヤイロは、娘はもう死んだという情報を聞いたのです。したがって、もはやイエス様を煩わすには及びますまい。あきらめるにほかならない。ヤイロの信仰は、今や風前の灯火でした。 娘が死んだ以上、信仰を持ち続けても役に立たないのではないでしょうか。目に見える支えは、結局すべてダメになっちゃったのです。命がある限り望みがあるけれども、命がなければ望みはないと、普通の人は考えるのではないでしょうか。 ヤイロもそのように考える危険性のなかに確かにあったのです。けれども、彼は、主の心強い御言葉を聞いたのです。 マルコの福音書5:36
このようなことを言うのは、頭のおかしい空想家であるか、あるいは将来をも御手の中に治めておられる救い主・神の子であるかのどちらかです。 わたしたちは、この御言葉は、単にヤイロを慰めるための絶望的な御言葉でないことをよく知っています。そのことは、ヤイロも知っていた。 というのは、少し前にイエス様が、絶望的な病気の女、長血の女を癒されたのを見ていたからです。 「恐れないで、ただ信じていなさい。」、イエス様は一番必要な時に、一番必要な言葉を与えて下さったのです。イエス様の御言葉がなければ、ヤイロはもうがっかりしてしまったでしょう。 イエス様は何という愛と理解を示されたことでしょうか。この御言葉によって、ヤイロの揺れ動く信仰が平静に戻ったのです。 彼らが家に着くと人々が大声で泣いたり叫んだり、騒いでいました。けれどもヤイロはそのことによって動揺したり、ふらついたりすることはありませんでした。彼はただ、イエス様だけを見たのです。 信ずることとはそれなんです。イエス様は、「ただ信じなさい。」と言われ、ヤイロは信じました。現実がどうであれ関係ない。ヤイロは、主の御言葉の上にしっかりと立っていたのです。 その時、ヤイロはイエス様の素晴らしさと偉大さを体験することができました。普通の人は、瀕死の病人が死ぬまでは希望を持って一生懸命やるでしょうけど、死んでしまうと、それで一巻の終わりと考えるのではないでしょうか。けど、イエス様の場合はそうではない。 終わりと思われている場合も、イエス様にとって不可能なことはない。人々が終わりだとあきらめてしまうその時は、イエス様の力と御業が明らかにされるのです。 「わたしは命です。」と、イエス様は言われました。「わたしは命そのものであり、わたしは甦りそのものです。」、イエス様は、おられる所はどこでも命が啓示されます。 命そのものであるイエス様と、死人であるヤイロの娘。なんという対称を示していることでありましょうか。この両者は、本来相容れないものであるにもかかわらずお互いに一つにならなければならない。 そうしなければ、希望は生まれて来ない。 マルコの福音書5:41-42
イエス様が死人の手をとって起こされると、死の病は去りました。少女はただ生き返っただけではなくて、非常に元気になったとあります。 私たちは、霊的な死が肉体的な死よりもはるかに恐ろしいことを知っています。いわゆる霊的な死とは主なる神に対して死んでいることを意味し、主なる神との結びつき交わりを持っていない状態です。人間の生まれつきの状態は、罪と罪過によって死んでいる状態です。 いわゆる放蕩息子も、父から離れてしまったから、父の目から見ると彼はもう死んだのです。この息子が、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだからとルカの福音書15章に書かれています。 聖書の一番最後のヨハネの黙示録の3章1節に書かれています。 ヨハネの黙示録3:1
イエス様の御手が触れたとき、死んでいた者が生き返る。イエス様によって新しく生まれ変わった者は死から命へと移っているのです。 初代教会の人々は次のように告白したのです。 ヨハネの手紙第I、3:14
命そのものであるイエス様の力は、何という偉大なる力でありましょう。そのことをペテロの姑が体験し、同じ力によってヤイロの娘は死から命へと呼び戻されたのです。 けど私たちは、命の君であるイエス様の偉大な力を、もうすでに体験しているのでしょうか? イエス様は私たちの中に、私たちの家族の中に、そして職場の中にご自身の力を現したく思っておられるのです。私たちは、目に見える支えが無くても、イエス様の導きがわからなくても、イエス様にすべてを明け渡し信頼しているのでしょうか? 「恐れないで、ただ信じていなさい。」 ここでは、私たちだけではなく、家族や友人の救いも問題となっています。もう一箇所読んで終わりましょう。 ヨハネの福音書5:24
聖書は、永遠の滅びについて、永遠の命についてはっきり書かれています。「渇く者は来なさい。命の水、永遠の命が欲しい者はただで受けなさい。」 提供されたものを受け取らないこととは、最も愚かなことであり、行き先は地獄です。 イエス様は、天国の栄光よりも、地獄の恐ろしさについて語ったのです。なぜならば、考えられないことです。 今の人生とは、確かにたいしたもんじゃない。みんな悩んでいるし、苦労しているし、どうしていろんなことで悩んでいるかと言うと永遠の世界の準備のために必要だからです。 悩まなければ助け求めない。そうでしょう。助け求めなければ、助け主を知る可能性もない。そして、助け主を知らなければ、結果は永遠の滅びです。ですから、主は恵んでくださり、いろいろな悩みや苦しみを与えてくださるのです。 人間は長い目で見ることができなから、やっぱり嫌です。面白くない。けれどもいつか必ずわかるようになる。イエス様、あなたは完全であるだけではなくて、あなたの導きも最善であると言わざるを得ない。 |