よみがえられたイエス様と、マリヤ、ペテロ、トマス、ヤコブ


ベック兄

(大阪福音集会、2010/04/04)

引用聖句:ヨハネの福音書20章1節
1さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

ヨハネの福音書20:11-18
11しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
12すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
13彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
14彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
15イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
16イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
17イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
18マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

ヨハネの福音書20:24-29
24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
25それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
26八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
27それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
28トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

コリント人への手紙第I、15:3-8
3私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
5また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
6その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
7その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
8そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。

ある時、一人の姉妹は言ったのです。「痛みのかたまりです。だからいつも祈っています。耳も聞こえないし、食べることもできず、ラッパの音を待つばかりです。」
どうしていつも祈るようになったかと言いますと、それしかできないから。
そして主の望んでいるのは、それだけではないでしょうか。

今の2箇所読んでもらった理由は、今日は復活祭です。残念なんですけど、日本のカレンダー見ても書いてないんです。
確かに新しい年になるといつも、日本のカレンダーも見ます。友引はいつあるのか知りたいから。東京の近辺での火葬場は全部、友引の日は休みだからです。
けども日本のカレンダーだったらね、クリスマスぐらいは書いてるかもしれないけど、イースターのこと、ペンテコステのこと勝利の記念日、ぜんぜん述べていない。ちょっと大変なのではないでしょうか。

復活の朝について、聖書は言っています。
兵士たちは恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。そこで祭司長たちは、民の長老たちと共に集まって、協議し、兵士たちに多額の金を与えた。
兵士たちは、確かに死人のようになったけど、事実を隠すために彼らは多額の金をもらっただけなんです。

イエス様の弟子であるヨハネも、死人のようになったと書いているんですけど、彼は今までよりもイエス様をもっと恐れるようになり、もっと愛するようになり、イエス様を心から礼拝するようになりました。
彼は書いたのです。「それで私はこの方を見たとき、その足元にたおれて、死人のようになった。」
しかし、彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデス(死者の国)とのかぎを持っている。」

多くの人々は、分かっていないかもしれないけど、昔のロシアという国は、もちろん今よりもずっと大きな国だったし、キリスト者の国だったと言ってもいいでしょう。
そのロシアで復活祭がどのようにお祝いされたかと言いますと、主のよみがえりを讃える教会の鐘は、一週間のあいだ町々にひびきわたり、人々は喜びに胸はずませて、イエス様を賛美し、町で会うと「こんにちは」のかわりに、「主イエスはよみがえった」という言葉をかけます。その返事として、「まことに主はよみがえった」と言います。
実に喜びにあふれた、活気に満ちた町々でした。しかも、40日後の昇天記念日まで、いつも床にひざまずいて祈る習慣を今度は立ったままで、よみがえりの喜びのあまり、40日間は立ったままで祈ったということです。

また、このよみがえりから昇天までの40日間のあいだに誰かが死ぬと、墓の周りで悲しい賛美歌は謳いません。死に打ち勝ちたもうたイエス様を讃える、よみがえりの歌を謳ったということ。
それからもう1つの面白い習慣がありました。復活の礼拝には、その集いの最中に、一同大笑いし、復活の喜びをたたえたということです。
イエス様は、我々の罪と咎をおおい、死と悪魔に打ち勝ちました。悪魔は我々に、何の権利も持っていないと悪魔をあざ笑う、笑い声を礼拝の最中に声高くあげたということ。
私達も上を見上げて望みをいだく、悪魔に打ち勝ち、よみがえられたイエス様とともに、天に座さしめられた喜びを新たにし、悪魔を大声であざ笑うことが許されています。

もちろんその後に、悪魔にとって面白くなかったから、いわゆる革命が起こったんです。レーニンという男、ドイツのカールマルクスという男がいっしょになって、「神が死んだ、神が死んだ」と言うようになったのです何十年間。
違う意見を持つ人々は皆、殺されてしまいました。何百万人。このレーニンは、死ぬ前に叫んだんです。
「ごめんなさい、ごめんなさい悪かった、悪かった」誰に向かって叫んだかと言いますと、テーブルとイスに向かってです。これこそ悲劇的そのものじゃないの。いくら丈夫なイスであってもテーブルであっても、人の罪を赦すことはできない。

我々は、おおいに喜ぶことができる。イエス様は復活なさいました。イエス様は生きておられるのです。そして私達が今一番大切なのは、新しくよみがえりの主にまみえ、新たにされることなのではないでしょうか。
パウロは、「イエス様は、最後に私に現れた。」と言ってよみがえりのイエス様にお会いした喜びを書いてます。我々も主に新しく会いたいのではないでしょうか。
パウロはなぜ、イエス様を知るようになったのでしょうか。理屈で攻められ、納得させられたからイエス様を知るようになったのではない。また、脅かされて、強制させられたからイエス様を知るようになったのでもありません。

実にパウロは、よみがえりの主にお会いしたため、イエス様を知り、監禁され、捕まえられたのです。
また、パウロはどうしてイエス様を紹介する者となり、イエス様の証し人となったのでしょうか。勉強したからでしょうか。そうではない。パウロはよみがえられたイエス様にお会いしたので、この主を紹介せざるを得なくなりました。
パウロはイエス様のよみがえりの書、今読みましたコリント人への手紙第I、15章をコリントにいる兄弟姉妹に書き送っています。いったいどうして。必要だったからです。もちろんコリントにいる兄弟姉妹だけではなく、私達にもこの書がどうしても必要であるからです。

コリントの信者たちは、よみがえりの主を知っていましたけど、彼らはよみがえりの主の力を持っていなかったのです。コリントにいる兄弟姉妹は、等しくイエス様に仕え、イエス様のためにご奉仕をしようと心がけました。けど、全部失敗に終わっていました。
パウロはこのコリントにいる兄弟姉妹の、失敗の原因の根本について書いたのです。「あなたがたは、よみがえりを体験する前の状態にある、よみがえりの土台の上に生活していない」と指摘したのです。
もし、私達が生まれつきの性質から開放され、イエス様のよみがえりの力に合わせられないなら、信仰生活は、上がったり下がったりでしょう。

ペテロもヤコブもパウロも、その他多くのよみがえりの主イエス様に出会った人々は、自分の肉の力から開放され、御霊に動かされた生活に引き入れられました。
これは、彼らすべてが告白していることですけど、これこそ彼らにとって本当の復活祭だったのです。
今パウロはコリントにいる兄弟姉妹も同じよみがえりの体験に入ることを願って、コリントへの手紙を書いたのです。私達もさまざまな苦しみを通して、イエス様の驚くべきよみがえりの力を体験的に自分のものとする必要があります。

ちょっとだけ、よみがえりの主にお会いした生活を変えられた人々を観察してみたいと思います。
第1番目、マグダラのマリヤです。2番目、ペテロです。3番目、トマスです。第4番目ヤコブです。
マグダラのマリヤは、よみがえりのイエス様にお会いして、新しい愛を持つようになりました。彼女は墓より復活されたイエス様に、最初にお目にかかった人です。弟子達じゃないんです。彼女はどうして、このすばらしい特権にあずかることができたのでしょうかね。

イエス様を一番、心から愛し、イエス様に一番すべてをささげ尽くしていたのではないでしょうか。
けど、なぜ一番初めにマリアにイエス様は現れたか、もう一つ考えられることがある。それは、彼女は一刻も早く、よみがえりのイエス様を見る必要があったからです。
彼女はイエス様が亡くなられた時、そんなにがっかりして絶望し、沈んでしまったのです。マルコの福音書16章9節に次ように書かれています。

マルコの福音書16:9
9〔さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。

この節を見ると、彼女はかつてイエス様に、七つの悪霊を追い出していただいたことが書かれています。彼女は悪霊につかれて、恐ろしい生活をしたにちがいない。
ですからイエス様に霊を追い出していただいた時、彼女が体験した解放もすばらしいものであったにちがいない。もう自由になった、解放された。
このイエス様にマリヤがもってる愛のすべてを捧げ尽くしたのは無理もない。イエス様は、彼女のすべてでした。

イエス様が十字架で亡くなられた時も、彼女の悲しみは、想像できないものでした。もし、イエス様が、よみがえらなかったらマリヤのイエス様に対する愛は、なおさらマリヤを絶望においやり、悲しみに落とし込んだにちがいない。
もちろん、このマリヤの愛の対象は決して間違っていなかったんです。神の御子イエス様を愛しぬいたのです。
けど、その愛がよみがえりの力に基づかず、人間的な愛だったから、絶望に終わってしまいました。

現れたイエス様を見た時、マリヤは喜びのあまりイエス様に抱きつこうとしました。聖書によるとその時、イエス様はマリヤに「わたしにさわってはいけない」と御声をかけられたことが書かれています。
イエス様は、なぜそのように言われたのでしょうかね。
マリヤの御自分に対する、清くはあるが、肉による愛を霊による愛に変えなければならないことを教えたかったのであります。

もちろん、イエス様は昇天され、マリヤは霊によって、イエス様を愛するようになる備えをなさしめたのです。
もし、私達がイエス様に対する愛や献身が、よみがえりの土台の上に立っていないなら、やがてそれらは崩れて、絶望に終わるでしょう。
よみがえりがイエス様に対する新しい愛を与えてくれます。

よみがえりの前の土台に立っている者は、イエス様とともに十字架につけられ、主とともに葬られていない人です。マリヤがそうでした。
マリヤの愛は、本当にきれいな清い愛でしたけど、人間の愛でした。マリヤのこの愛を少し考えてみましょうか。
まず、マリヤの愛は、イエス様が自分になしてくださった恵みの御業に応える愛でした。自由になり、開放されるから。

彼女は7つの悪霊を追い出していただいたから、感謝の思いからイエス様を愛しました。
見た目に彼女が愛したイエス様は、肉体をとっておられたので、目に見えるお方としてのイエス様を愛していたわけです。
マリヤは目に見えるイエス様を愛した。最後にこのマリヤの愛は、結局人間の愛であったから、絶望に終わってしまいました。

これに対し、よみがえりの主にあずかり、よみがえりの土台としてその上に立っている人は、苦しみを通し、悩みを通し、主とともに十字架につけられて死に、ともによみがえらされ、キリストの座につかしめられた人であり、まことの主の愛をいただいた人です。
よみがえりの主にあずかり、主の愛を持つ者はまず、イエス様が成してくださった業のために主を愛するのじゃなくて、イエス様ご自身を愛します。
それらの人々は、イエス様を知っています。イエス様との交わりを持っています。イエス様の御旨を知って、イエス様だけを喜びにしています。

2番目に、よみがえりに基づいた人々は、目に見えないイエス様を愛しています。
聖書は信仰によって、歩んでいます。よく知られている箇所ですけど、コリント人への手紙第IIの4章をちょと見てみましょうか。

コリント人への手紙第II、4:16-18
16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

このイエス様に、マリアが持てる愛のすべてを捧げ尽くしたのは、無理もない。本当に彼女は、イエス様を心から愛した。
けども、最後にこのイエス様の愛は、たとえ訳が分からないことがあっても、理解に苦しむようなところに置かれても、愛して愛し抜く愛です。
このような人々は、パウロと同じように次のように言うことができるでしょう。すごいすばらしい箇所です。初代教会の兄弟姉妹の告白でもあり、心からの証しです。

ローマ人への手紙8:35-39
35私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
36「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
37しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

すごい証し、主なる神の愛は、すべての者に勝ち得て余りある愛です。
この主なる神の愛は、パウロはやっぱりコリント人への手紙第Iの13章で言っている愛です。

コリント人への手紙第I、13:4-7
4愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
5礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
6不正を喜ばずに真理を喜びます。
7すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

この愛は人間の愛じゃない。ですからここで、愛の代わりに主イエスと書いたほうが、分かりやすいのではないでしょうか。
私たちはイエス様のために、あれをやり、これをやり、奉仕しますけど、イエス様と親しい交わりを持っている方はどれだけいるのでしょうか。
祈りはそのまま、イエス様との交わりであるということはできません。イエス様も我々に語りかけることができなければ、交わりになりません。

私たちもマリヤのように、よみがえりの前の土台に立っているのではないでしょうか。マリヤは、イエス様を神の御子と信じ、しかも、自分を悪の霊から解き放ってくださったお方として信じ、愛していましたけど、彼女は、絶望に陥っています。
多くの救われた兄弟姉妹は、罪の赦しを確信し、主なる神との平和をいただいています。そして、人間的な愛で、イエス様を愛してます。生まれながらの賜物と力を持って、イエス様に仕えようとしています。
けれども、信仰生活は、とめどもなく上がったり、下がったりします。イエス様との親しい交わりがない。イエス様と一つになることができない。それは、よみがえりの前の土台に立っているからです。

よみがえりの土台に立つ者は、自らの力でイエス様に仕えようとしません。自分の力に頼ることをやめ、自分の誉れを望まず、よみがえりの主にまかせ、おゆだねするということは、なんという自由でしょうか。
自分を愛する愛は、哀れっぽい愛です。自分を愛する愛は、傷つきやすいものです。
イエス様の愛は、これに対して傷つきにくいものです。主なる神の愛は、しるしを求めません。主なる神の愛は、信仰によって、目に見えない物を望み見て歩みます。

私たちが今さし迫って必要としている愛は、この新らしい主なる愛なのではないでしょうか。
もし、イエス様がよみがえらなかったなら、はたしてマリヤは7つの悪霊に立ち向かうことができたでしょうか。よみがえりの土台に立っていない、コリントの兄弟姉妹たちは、どうだったでしょうか。
憎しみと妬みと傲慢と汚れの霊に打ち負かされ、ぜんぜん証しが立っていませんでした。我々の集会はどうでありましょうか。
イエス様が、我々にマグダラのマリヤのように、新しい愛をさずけられ、私たちが心からパウロのように、よみがえりの主は、最後にこの私に現れたと喜ぶことができたら、本当に幸いです。

イエス様のよみがえりの姿を拝した第二番目は、ペテロです。新しくされたペテロです。ペテロはよみがえりの主にお会いして、新しい信頼を学びました。イエス様のよみがえりは、ペテロのすべてとなりました。
もし、イエス様がよみがえられなかったら、ペテロはどうなったのか分かりません。ペテロはイエス様を公然と否認しました。「私はイエス様を知らない。何のことか分からない」と愛するイエス様を裏切ってしまったのです。
ペテロは特に主のそば近く歩み、3年半イエス様に愛されるという特権にあずかるようになりました。色々な忠告をイエス様の御口から聞くことができたにもかかわらず、しかも「私は決してイエス様を捨てない」と誓ったにもかかわらず、彼はイエス様を否んでしまった。

否んだイエス様は、十字架で亡くなられました。
地上でペテロを助ける者は一人もいない。よみがえりのイエス様だけが、ペテロを助けることができたのです。
マルコの福音書16章を読むと、次のように書かれています。

マルコの福音書16:6-7
6青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
7ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」

よみがえられたイエス様は、使いを送り、ご自分のよみがえりを弟子達に告げましたが、ここにペテロの名前をあげて、「イエスはよみがえった。今からペテロと弟子達の所へ行ってこう伝えなさい」と言われました。
ペテロはイエス様を否んだまま、イエス様に死なれたので、まったく打ちのめされていました。
もし、弟子達とペテロ、ペテロの名前を特別につけて、名指しで呼ばれなければ、ペテロは立ち上がらなかったでしょう。

他の弟子達は、「たぶんペテロは主を裏切ったから、もう我々の群れには縁のない者だ。」とペテロを軽蔑していたかもしれない。ペテロがイエス様を否んだから、他の弟子達はペテロを指導者として仰ぐことをやめていたかもしれない。
ペテロは信頼を失っちゃった。このペテロに対する疑いを解くために、弟子達とペテロ、ペテロの名前を特にイエス様は、付け加えられに違いない。
我々はペテロと同じではないでしょうか。ペテロは我々のあいだで、例外ではなく、当たり前のことのようになってはいないでしょうか。

もし私たちが、よみがえりの前の土台に立っているなら、何か大きな試みがやって来ると簡単にイエス様を否んでしまわなければなりません。
私たちは、偽りやすい自らを信頼することは絶対にできません。前に決心し、誓っても、自分の決心はいつか崩れ、裏切るといった結果になってしまいます。
ペテロは指導者となるべく、主イエス様から召しを受けました。けど、今、ペテロはイエス様を否み、イエス様の弟子であるかどうかさえ、疑われています。

イエス様のよみがえりは、ペテロをどん底から救い出しました。ペテロは元のペテロになりました。他の仲間の目にも、ペテロは見事な立ち直りを見せたのです。
ペテロは主を否むという悲しむべき出来事を通して、自らの真相を知ることができました。イエス様を否んでから、イエス様がよみがえられるまでの3日間は、何という怖い日々だったでしょう。
ペテロにとってはこの3日間は、真っ暗闇でした。けど、この真っ暗闇を通される必要があったんです。

もし、ペテロに、よみがえりの主が現れてくださらなければ、ペテロは絶望し、立ち上がることができなかったでしょう。我々も、イエス様に用いられるためには、ペテロと同じ体験をしなければならないでしょう。
私たちは、自我に満ちた生活をやめ、主に生きる、よみがえりの土台に立たせられることができたら本当に幸いです。
よみがえりの主は、ペテロに現れ、二人で何かお話し合ったはずですけど、その時イエス様はペテロに何をお語りになったか、聖書にしるされていないから分かりません。けどルカの福音書24章34節に次のように書かれています。

ルカの福音書24:34
34「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。

この箇所を見ると、言えることはイエス様は、シモンペテロと親しくお話になったことだけは、よく分かる。
イエス様とペテロは、何を話したか知る必要はないし、知る由もありませんが、私たちはペテロと同じように、主に対して不真実で、不信頼に満ちた心の持ち主であることを、教えていただかなければならない。
それを教えられて初めて、後で見事に立ち直ったペテロと同じようになるにちがいない。

ペテロは火を通された後、実にゆるがない、その名前のように岩のような主の本当の弟子となりました。ペテロは多くの人々の信頼を受けるにたる者になっちゃったんです。
よみがえりの主は、ペテロを新しくし、ペテロはイエス様に対する新しい信頼を持ち、また多くの人々に信頼される人と造り変えられました。
今、私たちが差し迫って必要としているものの1つは、その主に対する、新しいより頼みないでしょうか。

3番目、よみがえりの主にお会いした、著しく変えられたトマスについて、ちょっと考えたいと思います。
トマスは新しい信仰を与えられました。彼はもともと疑問に満ちた疑い深い性質の持ち主でした。
ヨハネの福音書20章を見ると次のように書かれています。

ヨハネの福音書20:24-25
24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
25それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

他の弟子たちは、イエス様のよみがえりをして、喜び、これを仲間のトマスに伝えましたけど、彼は頑として信じようとしませんでした。個人的な疑いは、イエス様に親しくお目にかかるまで、解けません。
聖書を読んでいきますと、よみがえりの主は、疑い深いトマスのために、わざわざもう一度現れて下さいました。何という恵み深いお方なのでしょうか。私たちのイエス様は。
「自分のこの指をイエス様の手と足とわき腹の傷にさしてみないうちは、イエス様のよみがえりを信じることができない。」と言っていたトマスは、目の前に現れたイエス様の御姿を拝した時、指を傷にあてるどころか、ただ、その場にひれ伏してイエス様を拝したと聖書は言っています。

疑い深いトマスがこんなに、変えられたのは、驚くべきことです。彼はまことの礼拝者になりました。トマスは疑惑に満ちた者でしたが、新しい光が与えられたらこの疑惑が解けるのだがと、絶えず光を求めていました。
けど、イエス様は、なぜもっと早くトマスに現れてくださらなかったのでしょうか。いうまでもなくそれは、イエス様のせいではなかった。トマスは悪かったからです。
他の兄弟たち、他の弟子たちと一緒にいなかったからです。もし、トマスが兄弟たちのところに帰ってこないで、そのまま自分の道を歩んだなら、主に会うことができなかったばかりか、悲しい結果になったかもしれない。

イエス様は救われた者の一人ひとりの頭であるばかりでなく、信じる者の群れ、すなわちご自分のからだなる教会の頭です。ですから主は、兄弟姉妹が共に集まり、御名を賛美しているところに、ご自分を現される場合が多いのです。
疑いはもちろんそんなにひどく悪いことではない。トマスは疑ったけど、正直な男でした。彼はイエス様のよみがえりを信じることができなかったから、自分を偽らずにはっきり、信じられないと正直に言ったんです。
多くの人々は、信じられないのに、あたかも信じたかのように自分を偽って進みます。トマスは、これらの人々よりよほどましだと思います。

私たちは、それぞれ問題を持っています。またこれから持つでしょう。その中には、よみがえりの主が現れてくだされなければ、どうしても解決できない問題にぶつかることが必ずあると思います。
そのような時は、トマスのように、心から新しい光を求めましょう。そうすれば、必ずよみがえりの主が問題を解決してくださいます。
トマスは新しい光を求めて、それを受ける備えをしていました。トマスは、主を信じる仲間に入って、いっしょに先へ進むことを拒みませんでした。

トマスは疑いながらも交わりに加わっていました。そして、イエス様がトマスに現れた時、トマスはイエス様の御前にひざまずきました。
我々の過去を振り返ってみると、本当に主に対する不信仰者であり、イエス様を悲しませた者であることが分かります。
私たちが今日、今一番必要としているものの1つは、よみがえりのイエス様に新しくお会いし、新しい信仰をいただくことではないでしょうか。

最後に4番目、ヤコブについてちょっと考えたいと思います。このヤコブは、よみがえりの主にお会いし、新しい義をいただきました。
前に読みました、コリント人への手紙第I、15章7節にその後、キリストはヤコブに現われたと書いてあります。
このヤコブは、肉体的にイエス様の弟でした。

後にこのヤコブは、義人ヤコブと言われるようになり、エルサレムの諸教会の監督になった人です。
ヤコブの手紙を読みますと、彼は、正しさ、義を強く主張していた者でした。このヤコブは長年、心に持っていた悩みは、本当の義を自分は持っていないで、自分の持っている義はおきての義、自分の義だけだということでした。
彼は生まれ落ちるなり、神の御子であるイエス様を兄として、いっしょに暮らしていながら、イエス様を批判し、最後にはイエス様を拒んだようです。

たぶん彼は、イエス様が罪人といっしょに食事をし、いわゆる掟をまもらないで、安息日を守らないでいたところから、当時の聖書学者たちと同じようにイエス様を拒んだにちがいない。

ヨハネの福音書7:5
5兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

とあります。ヤコブはイエス様の生きている間にイエス様を信じませんでした。このイエス様を受け入れなかったヤコブは、ついにイエス様を受け入れる時がやってきます。
イエス様は、今、十字架の上で苦しんでおられます。苦しみの中からイエス様は、弟子たち、ヨハネに向かって「ヨハネよ。見よ、これはあなたの母である」と言ってご自分の肉体の母マリヤを弟子のヨハネに託されました。
つづいて、お母さんのマリヤに向かい、「女よ。これはあなたの子です。」と言ってヨハネに生涯の面倒をみてもらうように、話されました。

イエス様はなぜ、ご自分の母を、実の弟であるヤコブに託さないで、ヨハネに託したのでしょうか。たぶんヤコブは、始めからイエス様を心から信じていた母親のマリヤと仲が合わず、離れていたからでしょう。
自分を産んでくれた実の母を、自分に任せられず、他人の手に委ねなければならないとは、なんというひどい悲しいことでしょう。これは、己を正しいとする罪の結果です。
自分を義とする結果は、いつも過激です。悲劇的です。当たり前のこの世の人でさえ、信仰のゆえに自分の母を見捨てるなどとは、ちょっと心外なのではないでしょうか。
けど、自分を義としたヤコブは、結局、母の面倒をみようとしなかった。見捨てました。ヤコブはこのように、己を正しいとする男でした。

パウロは、前に読みましたコリント人への手紙第I15章によみがえりのイエス様が、誰と誰と誰に現れたか、順序を追って書いていますが、ヤコブの名前は後のほうに書かれています。イエス様は、己を正しいとするヤコブより、先に罪人や収税人に現れたのです。
けど、ヤコブの身についに奇跡が起こりました。ヤコブは、自分が正しいとすることは、何の役にも立たない、むしろ妨げとなることを悟り、イエス様の前に砕かれ、新しい義をいただいたのです。
多くの人々は、己を義とし、めくらになり、かつてのヤコブのように、悲惨な状態に陥っています。よみがえりの主だけが、自分を義とするところから、ヤコブを解放することができたのです。

我々も、よみがえりの主に新しくお会いすることによってのみ、ヤコブと同じように義人と呼ばれることができれば。
最後にパウロは、イエス様が自分に現れてくださったことを書いたのですね。
前に読みましたコリント人への手紙第I、15章8節

コリント人への手紙第I、15:8
8そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。

パウロはよみがえりの主イエス様を愛して、新しい愛、新しい信頼、新しい信仰、新しい義を受けたのです。私たちもパウロのように、そして最後に、よみがえりの主は私に現れたのですと、喜びをもって言えるようになったら幸いです。
よみがえりのイエス様にお会いしたら、我々の生活は、根底から変えられるのです。イエス様は私たちに、よみがえりのいのち、またよみがえりの力を与えるために、死よりよみがえられました。
イエス様が与えてくださる、よみがえりの力を受ける時、そこから新しい愛と信頼と信仰と義が湧き出てくるのです。

私たちは、コリントの兄弟姉妹がそうであったように、理論ではなく、実際にイエス様の御前にひざまずき、砕かれ、主の備えられるよみがえりの力を受け取りたいものです。
イエス様が、もし実際によみがえられたのなら、イエス様のよみがえりのいのちとイエス様のよみがえりの力は、我々のために備えられ、隠されています。
このよみがえりのいのちは、我々の生まれながらのいのちと全く性質を異にするするものです。

このいのちは、マリヤの内に、またペテロ、トマス、ヤコブ、パウロの内に宿ったいのちであるばかりでなく、我々の内にも宿っておられるキリストのよみがえりのいのちです。
イエス様が、我々にマリヤのように新しい愛、ペテロのように新しい信頼、トマスのように新しい信仰、ヤコブのように新しい義と授けられ、私たちが心からパウロのようによみがえりの主は、最後にこの私に現れたと喜ぶことができたら幸いなのではないでしょうか。

最後に吉祥寺であちこち読んだことがある、すばらしい手紙です。94歳で、召された日、電話で話し合ったんです。死にそうではなかったよ。元気な声で。彼女は、一番上の娘に書いた手紙の中なんです。

「主の御名を賛美します。今私は元気です。けど、いつ召されるか分からないので、皆さんに最後のことばを残しておきたいと思います。
私の今の気持ちは、詩篇23編の「たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが、私と共におられますから。」というとおりです。
また、「私の杯はあふれています。」というみことばは何とうれしいことでしょう。私もそのように言えるように導いてくださったのは、イエス様です。

ありがたいことです。イエス様がいつも共にいてくださる。その人生は何とすばらしいことでしょうか。私はその喜びで平安で、希望で満たされています。
ですから、今なんの心配もありません。思い煩いがありません。天国へ行くことを喜んでいます。皆さんとの思い出はたくさんあります。

楽しいことが、いっぱいありました。私のために色々なことをしてくださいましたね。よく尽くしてくださったね。本当にありがとうございました。
1人1人の幸せを心から願っています。主に祈っています。イエス様の豊かな祝福がありますように。私はいつまでも、主の家に住まいましょう。イエス様に心から感謝いたしております。」

結局、イエス様は生きておられる証拠です。「今、何の心配もない。思い煩いがない。」と言える人はあまりいないのではないでしょうか。
よみがえりの主とつながっていれば、もちろん、あの母親と同じように言うことができるのです。
イエス様のためだったら、喜んで犠牲をはらうだけじゃなく、犠牲になってもいい。そういう方々を見ると、やっぱりうれしくなる。イエス様は確かに生きておられるからです。




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