引用聖句:列王記第I、19章19節-21節
列王記第II、2:9
ピリピ人への手紙3:7-10
人間にとって最も大切なのは、イエス様との出会いによって、イエス様を自分の救い主として、主として知ることではないでしょうか。イエス様を通して初めて、内容ある人生とはっきりとした目的を持った意味のある人生が確立されるからです。 イエス様の絶えざる呼びかけとは、もちろん未信者に対する呼びかけだけではなく、信ずる者に対する呼びかけも同じです。「おいで、わたしのところに来なさい。」 主のみもとに来るということは、結局、救われることであり、新たにされることです。 聖書は、私たちが何を手に入れることができるかということに、確かに重点が置かれます。例えば罪の赦し、本当の心の平安、真の喜び、また、生き生きとした希望などですけれど、事態はそれからさらに進行しなければならない。 というのは、いつまでも元の状態にとどまることは許されないからです。すなわち、イエス様を通して私たちがいただいたものは、確かにすばらしいけれど、さらに私たち自身が変わらなければならない。 イエス様を知ることは本当に大切ですけれども、それからイエス様とともに歩むことも必要です。 だから前にも何回も言いましたように、よみがえりに基づく信仰生活こそが大切であります。 すべてのキリスト者は、遅かれ早かれ、自分の信仰生活の妨げとなるものは、自分の周りの環境、あるいは、周りにいる人間よりも自分の心のうちにあるということに気付きます。 なぜ多くの信ずる者は、霊的に進歩しないのでしょうか。それは自分の生活の支配者がイエス様よりも自分の自我であるからです。 確かに信ずる者のうちに二つの相逆らういのちがある。御霊によって新しく生まれたキリスト者は、永遠のいのちを与えられていますけれど、生まれながらのいのちは、この新しく与えられた主のいのちを外に出さないように覆い隠そうとします。 今、兄弟のお読みになりました個所を見ると、少しだけエリシャの考えていること、あるいはパウロの経験したことについて書かれています。題名は、よみがえりに基づくエリシャの信仰生活です。 エリシャもパウロもただひとつの願いを持っていました。もちろん、主の恵みによって救われた者として彼らは主をよりよく知りたい、主とその復活の力を知りたい。そういう気持ちがあったから、彼らは用いられる器、本当の意味での主のしもべとなったのです。 主のしもべになる秘訣とは何なのでしょうか。エリシャの生活を見ると五つのことが言えます。 第一番目、全力を尽くすこと。 第二番目、後ろの橋を断ち切ること。 第三番目、信仰と忍耐力を持つこと。 第四番目、上からの力を待ち望むこと。そして、 第五番目、死の川、ヨルダン川を渡ることです。 ドイツにある諺があるのです。すなわち、あなたの願いを私に言ってください。そうしたら私はあなたがどんな人か言いましょう。 結局、私たちは何を望んでいるのでしょうか。これこそが大切です。 ある者は、大金持ちになれば、名誉人になれば、健康になればと言い、考え、ある者は、聖書を読み、主イエス様を知る時間がほしいと言います。 主がエリヤという預言者を天に行かせる前に、エリヤはエリシャに、「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」と言いました。 イエス様もよく、「求めなさい、そうすれば与えられます。」と言われたのです。これこそが福音そのものではないでしょうか。 何でもできるお方が、どうしようもない、みじめな人間に、求めなさい、と願っておられるのです。 そのときエリシャは、自分はまだ年若く、経験もそんなにない。だから自分がこのような大きな使命を成し遂げるには、霊の力が必要であることを知っていたのです。ですから前に読みました個所、 列王記第II、2:9
とあります。エリシャが終わりまで自分の願いをそのまま持ち続けるかどうかにすべてがかかったのです。ただエリシャが最後まで自分の願いを持ち続けるならば、すばらしい恵みと力を受けるのです。 エリヤとエリシャの関係はイエス様と救われた者たちの間を表わしているようなものではないでしょうか。エリヤは昇天し、エリシャは二つの分の霊を受けました。 イエス様は昇天し、弟子たちは満ち溢れる聖霊を受けました。エリシャは新約の救われた者たちを旧約で表わしています。エリシャはよみがえりの力で働きましたし、新約の救われた者たちもよみがえりの力で働くべきです。 エリシャの願いはわれわれの願いなのでしょうか。どうぞ、あなたの霊の、二つの分を私に継がせてください、と。 私たちはあなたのために何をしようか。求めなさい。もし主がこういうふうに、このような質問を私たちにされれば、私たちは何を答えるのでしょうか。 われわれの今日持っている願いとは、いったいどういうものなのでしょうか。 私たちはイエス様を本当にもっともっとよく知りたい、と切に願っているのでしょうか。パウロは、 ピリピ人への手紙3:10
と願ったのです。多くの人は、初めは心に熱しています。けれど、イエス様のよみがえりの力にあずかりたいという願いはすぐに消えてしまいます。したがって、このようなキリスト者は、霊的に独立できず、内面生活に不具合をきたします。 私たちの願いは、すべての信ずる者に近日中に御霊の動きが来ることです。すなわち、深い悔い改めと聖別がひとりひとりにやって来ることです。 もしそれがやって来たならば、私たちは高尚な召し手と使命を知り、パウロと同じように、ただひとつの願いを持つようになるのです。すなわち、キリストとその復活の力とを知りたい。 ところで、一つの問いについて考えたいと思います。すなわち、どうしたら主のしもべとなることができるのでしょうか。もしエリシャの願いがわれわれの願いとなったら、私たちは祝福された人々になるでしょう。 われわれの願いは、イエス様をもっともっとよく知りたいというものであるべきです。信ずる者はみな分かっています。 すなわち、主イエス様をよりよく知らなければならないし、また、イエス様のよみがえりの力を自分のものにしなければならない。そうでないと用いられないということです。 前に読みました列王記第Iの19章、もう一回お読みいたします。 列王記第I、19:19-21
とあります。もし、主がしもべになりたいと思っている人をお選びになると、その人に非常に重きを置かれます。これは興味深いことです。この個所に私たちは主の見ておられる、ある人の生活を見ることができるのではないでしょうか。 エリシャは自分がやったことは徹底的にやりました。主はそれに非常な重きを置かれました。なぜなら、この個所が今日まで聖書の中に残されて、伝えられているから。 エリシャは、十二くびきの牛を前に行かせ、耕していました。全力を仕事に集中していました。主はそのエリシャの徹底したさまをご覧になりました。それは大して大切には見えませんけれど、主にとっては大切でした。 十二くびきの牛を使ったということは、結局、徹底的にことを行なったことを意味します。エリシャは全力を尽くして働いた男です。控えめにしておくことは決してやりませんでした。 牛は、結局、働く力を表わしています。私たちはエリシャが全力を振り絞って働いたことを見ることができます。また、主もそれをご覧になりました。 私たちはいつか主に仕える時が来るであろうと思い、その時まで半分ぐらいの力しか出さないでいるかもしれない。けれどそのような状態では主は私たちをお用いになることはできません。よみがえりの力を私たちを通して表わすことはおできにならないのです。 主がその道を開かれるまで、なすべきことを100%の力を出してなさねばならない。それは非常に主にとって大切です。 私たちは普通の仕事より、いわゆる霊的な仕事を大切に思うかもしれないけれど、それは違う。決してそうではない。あなたは今、普通の仕事をやっていますけれど、それは主のために絶対必要な準備の時なのではないでしょうか。 この準備の時に50%ないし、60%しか働かなかったなら、主はそののちにも私たちをお用いになることができなくなります。もし、毎日の仕事を全力を尽くし、徹底的にやるならば、主はそれをちゃんと見てくださいます。 イエス様はご自身の働きのうちにあなたを召し、よみがえりの力をあなたを通して表わされます。 ちょっとパウロについて考えると分かります。疑いもなく彼はまったく目くらのような者でした。間違った道を走ってしまったのです。けれど彼のやったことは心からの仕事でした。 彼はイエス様を信ずる者を徹底的に迫害したのです。適当にしなかった。そして主はそれをご覧になりました。 私たちはどんな仕事でもいい、全力を尽くしてそれをやるならば、主はそれをみこころに留められます。主はこのような人に深い訓戒を与えることができます。 主はこのような人が奉仕の生活に耐え、どこへ行こうと、主とともに生きる人であることを知っておられます。 私たちが全力を尽くして働かなければならない。主は私たちをどこの場所へも自由に導くことができないのです。主がそれで十分だと言われるまで私たちは全力を尽くして働くべきなのであります。 次にエリヤはエリシャに外套を掛けました。これは今までエリヤの受け持っていた、主によって決められた預言の仕事を公にしたことを意味しています。エリシャはエリヤの後継者となるのです。20節に書いています。 列王記第I、19:20
これを読むと、新約聖書の次の個所と同じではないかと言われるかもしれない。 マタイの福音書8:21-22
もちろんいつ死ぬのか、もちろん分からないから、ふた月あとかもしれない、五年先かもしれない。従いますけれど、今はちょっと・・・。 ルカの福音書9:61-62
けれどエリシャの場合はまったく違っていました。彼は大きなお別れの会をやりませんでした。エリシャはあとで戻ることができないように、過去の橋を全部燃してしまいました。そしてエリヤに従ったのです。これは徹底した徹底さです。 エリシャはもし今、預言者になり、上手くいかなかったらなどと物怖じせず、もとの百姓に返らないように牛を殺してしまいました。 エリシャは、今主ご自身が私を召した、とそれを知っていました。エリシャは突然主の虜とされ、もはや逃れ出ることができなくなりました。それは、エリヤがエリシャに満ちたせいだけではなく、主ご自身がエリシャの心に語りかけたからです。 この主のことばによって、センチメンタル、すなわち感傷とか、このようなものを全部脱ぎ捨てました。主が語りかけました。そしてエリシャはそれに応え、後ろにある橋渡しになるものを全部断ち切りました。 もしあなたが主のために働きたいと思うならば、人間の言葉によって動かされたのではダメで、また、失われた人々の苦しみのせいでもダメなのであって、主ご自身があなたに直接語りかけたのでなければならない。 もし主が語ったならば、すべては解決されます。主は責任を取ってくださるからです。道を備えていてくださるからです。 もし主が語りかけたならば、ただひとつのことを行なうのみです。すなわち、過去の一切の結び付きや興味を断ち切り、主とともに前進することです。 大切なのは主が語ったことで、大切でないのは人間の語ったことです。 生きるまことの主のことばだけを受け入れましょう。もし主が語ったならば、すべては変わります。もし主が語ったならば、あとで後悔することなく、後ろにある橋を全部断ち切ることができます。 エリシャが召された時、信仰と忍耐力を試されたのです。一方には、エリヤに、「ここにとどまりなさい。」、と三度も言われ、エリシャは信仰を試されました。その度にエリシャは、「主は生きておられます。また、あなたは生きておられます。私はあなたを離れません。」、と答えました。 他方、預言者の輩がエリシャに、「主が今日、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか。」、と言って、エリシャを試します。 けれどもエリシャは、これら預言者の輩によって落胆させられるようなことはありませんでした。その度にエリシャは、「はい、知っています、あなたがたは黙っていてください。」、と言いました。 エリシャの態度は、自分は最後まで耐え忍ぶ、この態度でした。エリヤも預言者の輩もエリシャに影響を及ぼすことができませんでした。これは信仰と忍耐です。 私たちは、この信仰と忍耐を持っているのでしょうか。エリシャは自分の霊の父、エリヤや預言者の輩によって勇気を失わせられたかもしれない。それはありえたことです。 けれどエリシャは、エリシャの心の底にある態度は最後まで耐え忍ぶ、それでした。 エリシャも次のように言うことができたかもしれない。「これはひどいことばだ。だれがそのことを聞いておられようか。」、けれどエリシャは勇気を失いませんでした。 ヨハネの福音書を読むと、イエス様がご自身のことばによって、ご自身の弟子たちに現わされたことが分かります。けれど弟子たちの多くの者は、「これはひどい、ひどいことばです。だれがそんなことを聞いておられようか。」、と言い、それ以来多くの弟子たちは去って、もはやイエス様と行動をともにしなかったのです。 ちょっと見てみましょうか。ヨハネの福音書6章の60節です。 ヨハネの福音書6:60
ヨハネの福音書6:66-69
イエス様の弟子たちもエリシャと同じ態度を取りました。イエス様の弟子たちは、他に影響されず、勇気を失うことはありませんでした。 イエス様の弟子たちは、自分たちに必要なものを全部、イエス様が持っておられることを知っていたのです。だからイエス様のもとにとどまったのです。イエス様を拒むとか、イエス様から離れる勇気を失う、そのような考えは弟子たちに浮かんで来ませんでした。 エリシャも、エリヤが自分に必要なもの、全部を持っていることを知っていました。生活に必要なもの、奉仕に必要なものを持っていることを知っていたのです。 ですからエリヤはエリシャに、「私が取られて、あなたを離れる前に、あなたのして欲しいことを求めなさい。」、と言った時、エリシャは、「どうぞあなたの霊の、二つの分を私に継がせてください。」、と願ったのです。 エリシャはエリヤと手を切ることなく、また失望させられることもありませんでした。何という信仰、何という忍耐でありましょうか。 私たちもまたこのようなエリシャと同じ経験をしているかもしれない。主が自分と手を切るなどと考えているかもしれない。私たちもこのような体験をして、主はもはや自分を欲しくないし、用いられないと考え、勇気を失ってしまっているかもしれない。 私たちは召しをもらい、今は召しをもらったにも関わらず、すべてがメチャクチャ、メチャクチャになってしまったかもしれない。 私たちはすぐに勇気を失い、信仰はすぐに弱くなってしまうのでしょうか。 エリシャは試験に合格しました。その試験は簡単ではなかったのです。自分の主人と預言者の輩が試験をしたからです。 たぶんあなたはエリシャと同じ状態にあるかもしれない。どうしましょうか。 そこには、ただひとつの頼るところがあるのみです。主は私を招いた。私はそれを知っている。主が私をこの道に導いた。私は後戻りする橋を断ち切った。そして主とともに歩いて来た。 なるほど私は主の道を行った。けれど主は私を試し、兄弟姉妹は私の勇気を失わせた。しかし私はなおも主とともにいる。もしこの態度を取るならば、本当に幸いです。 エリシャは実行力を持った人であったことを私たちは知りました。彼は全部、100%の力を振り絞ってやりました。けれど主によって完全に用いられたいと思う前に、上から与えられる力の秘密を学ばなければならない。パウロはそれを学んだのです。 何という熱意、何という真剣さをパウロは持っていたのでしょう。パウロは、全部の力は上から来なければならず、自分からは決してその力が出ないことを自覚させられる、その点に到達したのです。 エリシャもまた霊の力が上から来なければならないという秘密を学ばなければならなかったのです。 エリシャは、強さは自分のうちになく、上から与えられなければならないことを知っていたのです。 昇天され、父の右に座しておられるイエス様は私たちの力の源です。主イエス様が生きておられるから、私たちも生きています。私たちは主の力にあって生活し、働くべきです。 栄光の主はわれわれの力です。エリシャはそれを学びました。エリシャの未来にとって昇天したエリシャの主人、エリヤの霊は、エリシャの生活の源となったのです。 私たちもこれを学ばなければなりません。エリシャは、あらゆる始めはヨルダン川の中にある。これに出会わなければなりませんでした。 エリヤとの旅の最後の歩みは、ヨルダン川の中でした。上からの霊のうちにある最初の歩みも、ヨルダンを通ってありました。エリシャはエリヤとともにヨルダン川を渡って来ました。 ヨルダンはご存知のように、いつも死を象徴する川です。ヨルダン川は死の川です。その死の川をエリシャはエリヤとともに渡ったのです。 エリシャはよみがえりの力をもって、この死の川を戻って来ました。預言者の輩は、そのエリシャを見て、主の霊がエリシャの上にとどまっていることを認めました。 エリシャの奉仕の生活の始めとその根源は、死の川でした。私たちはイエス様の死とよみがえりの力を、私たち個人の生活に経験しなければならない。 良い面、悪い面に関わらず、私たちの生活の一切、また、主のための奉仕の源となる力も、すべて一度はヨルダン川を、死の川を通らなければならない。 私たちがもしも上からの力を持っていなければ、どうすることもできません。すべてはもう終わりだ。もうダメだ。そのように言えたら十分です。これこそわれわれにとって一番大切なことです。 信ずる者が主イエス様のよみがえりの力の証し人となるべきです。けれどそれは私たちが自分ではダメだ、という終わりに来なければならない。 私たちは次のことをもうすでに経験したのではないでしょうか。「もうダメだ。もう先へ進みたくない。自分の生活は信ずる者として主の妨げとなっていた。自分の力で働いていた。」 私たちはもしこれらのことを経験したならば、非常にありがたくあり、幸いです。喜ぶべきです。これこそが一番大切なことであるからです。 私たちは今より上からの霊を自分のものとすべきです。私たちは今や、一刻一刻と主のご臨在を確認して、生活したく思うでしょう。私たちは今日より毎日、主の力を受け取るべきです。 主は私たちを愛しておられます。イエス様はもし、私たちがイエス様の力を自分のものとすれば喜ばれます。私たちが行なうすべてのことは、今よりすべて、よみがえりの力によらなければなりませんけれどこれらのことはすべて私たちがヨルダンを渡り、自分はもうダメだ、その点にまで来なければ不可能です。 この経験は決してすばらしい経験ではなく、深い醜態です。けれどそのあとに私たちの生活は主イエス様のよみがえりの力の証しとなります。 これだけが大切です。神学校に行ったり、伝道者になる、それから、あれをやったりこれをやったりする、それらは大して大切ではない。われわれの生活はよみがえりの力の証しでなければならない。 エリシャの奉仕の生活の出発はヨルダン川でした。これは奉仕の生活のための準備そのものだったのです。これは奉仕の生活のための装備の時でした。 「自分はもうダメ。もう終わりだ。もう先へ進みたくない。本当にもう終わりだ。」、もしだれかがこのように言えば、その人は本当にもうおしまいですけれど、これはおしまいであるばかりでなく、始まりでもあるのです。 ちょっと三つのことを考えたい。 第一番目、主は私たちを尋ねておられます。 第二番目、主は私たちを愛しておられます。 第三番目、主は私たちをお用いになりたいのです。 まず、主は私たちのような者を尋ねておられます。これは聖書も言っていますし、われわれの心の中でもそのように言っている事実です。主は私たちを尋ねておられます。 主は天も地もお造りになったお方です。この主は私たちをもお造りになったお方でもあります。ですから造り主なる主はわれわれと、われわれの生活を支配する権利を持っておられます。 イエス様はわれわれを知っているし、われわれを見ておられるし、そして私たちを尋ねておられます。 イエス様は自分勝手な道を歩いている私たちを捜しているし、イエス様は罪の滅びの状態にある私たちを捜しておられるし、イエス様に逆らい、主を見失っている私たちを捜しておられます。 イエス様はわれわれを何回も呼ばれ、しかし私たちはそれを聞こうともしなかったけれど、それと関係なく、私たちを捜しておられます。 考えてください。「あなたはどこにいるか。」、と主は呼んでおられるのです。「主イエス様よ、私はここにいます。語りかけてください。」と答えようとしないのでしょうか。 二番目、イエス様はあなたを愛しておられます。 われわれの多くは主の愛を自分の生活に経験して生きてきましたけれど、私たちは自分の生活の中で、主のみこころを尋ね求めようとしなかった。 私たちはひとりで出来た。自分の好きなことだけをやった。けれど色々な問題と困難が自分ひとりで何もできないと教えています。主は私たちを愛しておられます。 主の愛のもっとも大きな証明は、死に渡された主イエス様です。イエス様は失われた者を尋ね出して救うためにやって来られました。 イエス様は十字架で私たちのために亡くなられ、私たちのために血潮を流されたのです。 だれでもが失敗した、汚れた、無駄に過ごしてしまった生活をイエス様のみもとに持って行くことができます。 主イエス様はすべての債務をご自身で担い、私たちのわがままを全部ご自身の血で洗い聖める、と保証されています。 たとえあなたの罪が血のように赤くても、イエス様は雪のように白くすることができるのです。 イエス様は罪の鎖、全部を断ち切り、生き生きとした希望を与えてくださいます。 最後に三番目。主はあなたを用いたいと望んでおられます。とりもなおさず、主は私たちのような者を求めていてくださるのです。イエス様はわれわれを救う者として、ほかの形に変えたいのです。 主のお召しはわれわれの生活に新しい意味を与えます。絶望に陥っている人をイエス様に導き、罪の奴隷を自由にするイエス様に導く。 人間にとってこれより偉大なことはほかにありません。自分を本当に満足させなかったこの世で、もはやあなたの生活を無駄に費やすことをしないでください。なぜ貴重な時間を失ったのでしょう。 主はひとりひとりを用いようと望んでおられます。自分を主に明け渡すと用いられ、大いに祝福されます。 私たちもエリシャのように心から全力を尽くして、後戻りする恐れのある後ろの橋を全部断ち切り、信仰と忍耐を持って上からの力を待ち望みつつ、死の川、ヨルダン川を渡る用意をして明け渡すのでしょうか。 戻る |