よみがえりの力を持つ必要性


ベック兄

(吉祥寺学び会、2006/11/28)

引用聖句:列王記第II、3章16節-24節
16彼は次のように言った。「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』
17主がこう仰せられるからだ。『風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、獣もこれを飲む。』
18これは主の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。
19あなたがたは、城壁のある町々、りっぱな町々をことごとく打ち破り、すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石ころでだいなしにしよう。」
20朝になって、ささげ物をささげるころ、なんと、水がエドムのほうから流れて来て、この地は水で満たされた。
21モアブはみな、王たちが彼らを攻めに上って来たことを聞いた。よろいを着ることのできるほどの者は全部、呼び集められ、国境の守備についた。
22彼らが翌朝早く起きてみると、太陽が水の面を照らしていた。モアブは向こう側の水が血のように赤いのを見て、
23言った。「これは血だ。きっと王たちが切り合って、同士打ちをしたに違いない。さあ今、モアブよ、分捕りに行こう。」
24彼らがイスラエルの陣営に攻め入ると、イスラエルは立ってモアブを打った。モアブはイスラエルの前から逃げた。それで、イスラエルは攻め入って、モアブを打った。

エペソ人への手紙1:17-19
17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
19また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

信ずる者にとって最も大切なのは、結局、イエス様を知ることだけではなく、主のよみがえりの力を持つことなのではないでしょうか。
先週、私たちは、このよみがえりの力を得た結果、用いられたエリシャについて少しだけ考えたのです。彼は全力を尽くす男で、後ろの橋を断ち切る男で、信仰と忍耐力を持つ者で、そして上からの力を待ち望んだ人で、それから、死の川、いわゆるヨルダン川を渡るようになったのです。
結果として、本当に主の力に動かされて、用いられる器となったのです。

結局一番の悩みとはいったい何なのでしょうか。よみがえりの力を持たないことではないでしょうか。
今読まれた、エペソ人への手紙のパウロの祈りを見ても分かります。結局パウロはイエス様を信ずればそれでいいと思ったことがない。やっぱり前進しなければならない。自分の力に頼らないで、よみがえりの力によって動かされることこそが大切です。ですからパウロはいつも、キリストとその復活の力を知りたい。イエス様をもっと知りたい、と切に望み続けたのです。
私たちがイエス様のよみがえりの力をあんまりにも少ししか知らないということが、われわれの一番大きな悩みではないでしょうか。ですから、われわれの一番大きな悩み、すなわち、よみがえりの力について、もう少し考えたいと思います。

旧約聖書の中心人物のひとりは、言うまでもなくダビデでした。主は恵んでくださり、ダビデに完全な勝利を与えてくださったのです。
攻められたイスラエルの民は、結局、主は何でもできると経験しましたし、このダビデとは聖書の中で、神の心にかなう人と呼ばれていました。どうしてであるかと言いますと、主に拠り頼んだからです。
けれどダビデの子孫は主に完全に従おうとしませんでした。ダビデの子孫は主のみこころにかなわぬことを行ない、堕落し、偶像礼拝に陥ったと聖書は言っています。列王記第IIの3章の1節から読みましょうか。

列王記第II、3:1-2
1ユダの王ヨシャパテの第十八年に、アハブの子ヨラムがサマリヤでイスラエルの王となり、十二年間、王であった。
2彼は主の目の前に悪を行なった

もちろん意識して悪を行なった

列王記第II、3:2-3
2が、彼の父母ほどではなかった。彼は父が造ったバアルの石の柱を取り除いた。
3しかし、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を彼も犯し続け、それをやめようとはしなかった。

意識して悪を行なった。罪をやめようとしなかったとあります。結果は当然でしょう。イスラエルの民は、なるほど主に選ばれた選民ではありましたが、主に対する不従順によって非常に弱くなりました。
主との絶えざる結び付きがない限り、だんだん弱くなってしまいます。イスラエルの民は内面的に弱いばかりではなく、外からも絶えずイスラエルの敵であるモアブの人々によって脅かされてしまったのです。本当にあわれな状態でした。
モアブの人々は、今、アラビヤの国々と同じように、主の神であるイスラエルの人々を完全に滅ぼそうという、ただひとつの願いを持っていました。

けれどいかにして敵と相いまみえたらよいのでしょうか。今読みました3章の16節、17節をもう一回読みましょうか。
次のように書かれています。

列王記第II、3:16-17
16彼は次のように言った。「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』
17主がこう仰せられるからだ。『風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、獣もこれを飲む。』

イスラエルの人々、神の民は何の力も無く、敵に向かって立ちました。水を持っていなかったということは、滅びに近い状態にあったのです。けれどその翌日、モアブの人たちは負けてしまいました。
この秘密はいったいどこにあったのでしょうか。イスラエルの民は結局、自分の罪を認め、認めただけではなくて、それを告白しました。そして、主に従おうと心から望むようになったのです。
主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』、そのとき、雨が降りそうにもなかったし、また、どこからか水が流れて来る様子もありませんでした。

けれどイスラエルの民は、この、全くおかしい、馬鹿げた、考えられないことを信仰によって行ないました。すると水たまりに水が満ちたばかりではなくて、水は谷いっぱいに満ち溢れました。
もし私たちが主のみことばに従順に従うならば、主はいつも必ず応えてくださいます。
水はイスラエルの民にとって救いであり、また、力でした。この同じ水は敵にとっては災いとなりました。モアブの人々はこの水を血と勘違いしました。いのちの水の流れは、イスラエルの民の絶望的な状態からの逃れ道でした。

ダビデという王様はイエス様の象徴でした。ダビデは主の民に対する敵を打ち破ったと同じように、イエス様も敵なる悪魔を完全に打ち破りました。
イエス様は十字架で悪魔に打ち勝ちましたけれども、イエス様のあと、しばらくして悪魔は教会を攻撃し始めました。
悪魔は生きていて、私たちをも毎日攻撃します。もし私たちが誠実であるならば、悪魔の力はわれわれより強いと告白しなければならないのです。

今日問題なのは、悪魔に対する、この世に対する、また罪に対する戦いです。
イスラエルの民がモアブの人々に向かって立ったとき、精神的な力を持っていませんでした。それと同じように、私たちが悪魔に立ち向かうときも、自分の内面的な弱さを、力無さを覚えるのではないでしょうか。
それではいったいいかにして悪魔に立ち向かったらよいのでしょうか。旧約聖書のことばですけれども、

歴代誌第II、7:14
14わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、

条件付きです。

歴代誌第II、7:14
14わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

もし私たちが自分の過ち、わがままを告白し、へりくだってイエス様の顔を求めるならば、幸いです。もしそうするなら私たちは新しくイエス様を知るに至り、よみがえりの力を知ることになり、御霊に満たされます。
悪魔は私たちを滅ぼそうとしていますけれど、私たちは主の御顔を仰ぎ求め、信仰の従順によって前進しましょう。もしそうするならば、悪魔は私たちの生活に影響を及ぼさず、かえって私たちによって悪魔は滅ぼされ、主のご栄光と勝利が明らかになります。

イエス様のよみがえりのいのちはわれわれの勝利であり、悪魔の滅亡です。私たちの悩みはよみがえりの力を持つために、毎日、新しく主イエス様に会わなければいけません。
このほかのどんな方法によっても、私たちの問題を解決することができないのです。このほかのどんな手段によっても、私たちの家族を救いに導くことはできません。これによらなければ決して私たちから永遠のいのちに至る水は湧き出ないでしょう。
もし私たちが主のよみがえりのいのちを持っているならば、周囲の人々はそれに気付くのです。

私たちはこれよりほかに、人のたましいを得る方法がありません。私たちは主のよみがえりの力を必要とします。信仰の従順によってこの力がわれわれのものとなります。
「われわれの信仰こそ、世に勝つ勝利の力です、とヨハネは書き記したのです。
ちょっともう一ヶ所読みましょうか。列王記第IIの4章の1節からちょっとお読みいたします。

列王記第II、4:1-7
1預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」
2エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」
3すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。
4家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」
5そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。
6器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。
7彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

これを読むと、非常に困惑したやもめの状態が分かります。彼女の夫は死んでしまい、彼女はふたりの子どもといっしょでした。債権者が来て、この子どもたちを連れて行って、奴隷にしようとしました。考えられない悩みではないでしょうか。
彼女のよりどころである夫はすでに死に、実である子どもふたりが今、取り去られようとしている。このやもめは一瓶の油しか持っていませんでした。そのほかに何にも持っていなかったのです。
ヘブライ語では、ひとりの人に油そそぐに足る油が瓶の中に入っていた、とあります。ほんの少ししか入っていませんでした。

イラン、イラク、アラビヤ、また、イスラエルなどの地方では、油が一番大切です。したがって、いつも油をめぐって争いがあります。油を持っているということは結局、金持ちである。富んでいることを意味しています。油を持っている者は勝利者です。
いったい何のために油が使われたのでしょうか。今話したように、まず油そそぐために、それを使ったのです。病人が出ると、その病人に油をそそぎ、病人とともに祈ることです。ここでは油はいやしの力を意味します。
それから油は栄養物として、もちろん食べました。このやもめも油を食品として用いたに違いない。これはここでは、いのちの力を意味します。

三番目に油は灯りを灯すために用いられたのです。ここでは油は灯りの力です。やもめの悩みはこの油のつぼがほとんどからに近かったことです。油のつぼには、油と書いたレッテルが貼ってあったことでしょうけど、中はほとんどからでした。
けれど中に少しはありました。けれどもこれは十分な量ではありませんでした。これがやもめの悩みでした。
彼女は自分の貧しい状態を隠さずに話しました。2節の終わりを読むと、彼女は、一瓶の油のほかは家に何もありません、と言ったのです。何も隠さないで。正直に言ったのです。

自分の貧しさと自分の悩みを公に話す人にだけ、手助けしかやることはできない。このやもめは全イスラエルの民の霊的欠乏の状態を象徴しています。
イスラエルの民は主によって選ばれた民でした。また、イスラエルの民はいやす力、いのちの力、照らす力を経験すべき、またほかの人々にそれを与えるために選び出されたのです。
けれどイスラエルの民は偶像礼拝をし、主と主との交わりが少なくなってしまいました。イスラエルの民は、礼拝のために集ったでしょうけれど、いやしの力、いのちの力、照らす力を持っていなかったのです。形はあったけれど力が無かった。

油のつぼはそこにあったけれど、中身がほとんど入っていませんでした。形式的に集まることとは、主の忌み嫌うことではないでしょうか。
けれどこのやもめとは、非常に祝福されるようになったのです。どうしてでしょうか。素直な信仰を持っていたからです。信仰の現われとは、従順に従うことです。
エリシャは彼女に言いました。「ほかに行って、隣の人々から、器を借りなさい。少しばかりではありません。」空いた器を借りなさい。

「どうして?これは馬鹿げたことではないでしょうか。からの瓶で金持ちになれるはずはない。いったいどこから油を持って来ようと言うのでしょうか。」
生まれながらの人はこのような馬鹿げていることを理解することはできないと言うでしょう。「空いた器を借りなさい。」、周りの人々は、「いったい何を言うのでしょうか。」、きっとあざ笑うに違いない。
「家に入って、戸の内に閉じこもりなさい。戸を閉じて、隠れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい。」とイエス様は言われました。悩みをもってイエス様のところに行きなさい。イエス様だけが助けることができ、イエス様だけが助けようとしておられます。

4節、「そして家に入って、あなたの子どもたちといっしょに戸の内に閉じこもり、そのすべての器に油をつぎなさい。」とあります。これこそが信仰の従順ではないでしょうか。やもめは油をつぎました。
ほとんどからに近かった油の瓶が泉のようなものになったのです。もし私たちが信仰の従順によって主に従うならば、われわれの空虚は満たされ、主の栄光が現われ、周りの人々も満足するでしょう。
信仰の従順なくしては、私たちは主に喜ばれることはできません。信じます、信じます、と言っても、従おうとしなければ、この信仰はまったく役に立たないものです。

やもめは預言者のことばを聞いて、不可能なことがらを信じました。したがって奇蹟を経験したのです。
私たちは聖書により、主のみことばを知ることができます。そのみことばをしっかりとつかみ、信仰の従順によって前進しましょう。それが私たちの取りうる唯一の道です。
やもめの悩みは大きな富に変わりました。子どものような信仰の従順により、やもめの心の傷はいやされ、また、飢餓もなくなり、やもめは周りの人々を照らす光となることができたのです。油によるいやしの力、いのちの力、照らす力、これが何というすばらしい富でありましょう。

主は何を考えておられるのでしょうか。すなわち、いのちの力に満たされた器を主は望んでおられます。イエス様はあらゆるいやし、あらゆるいのち、あらゆる光の源そのものです。
もし私たちが信ずる者としてイエス様との堅い結び付きを持っていなければ、私たちは結局からっぽの油つぼと同じようなものです。油というレッテルは貼ってありますけれど、中身はほとんどない。
なるほど集会にやって来るけれど、うちに力がない。イスラエルの民は敵を攻撃しましたが、内なる力がなかったのです。われわれの場合はどうなのでしょうか。

昔の谷は水で満たされました。つぼは油で満たされました。私たちはどうなのでしょうか。私たちは主の富を持っているのでしょうか。それとも持っているのはあわれむべき貧困でしょうか。生ける水は富です。油は富です。
聖書全体を見ると言えることとは、水と油は聖霊の象徴です。イスラエルの民は主に選ばれましたが、民の心はふたつに分かれていました。
一方は主に礼拝し、また一方では偶像を拝んでいました。やもめは、少し油を持っていましたが、それだけでは十分ではなかったのです。

イスラエルの民は、やもめも、たくさん持っていませんでした。足りなかったのです。
私たちは霊的に死んでいる周りの人々の中で、イエス様の証し人として立とうとは思いませんでしょうか。
エリシャのことばに従いましょう。「ほかへ行って、隣の人々から、器を借りなさい。空いた器を借りなさい。」

ちょっとアブラハムを見てみましょうか。

創世記12:1
1その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

そしてヘブル人への手紙の11章の8節を見ると、次のように書かれています。

ヘブル人への手紙11:8
8信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

アブラハムに彼の旅の目的を尋ねても、彼は、「すみませんけれど私もわからない。」としか言えなかったのでしょう。
これは馬鹿げたことではないでしょうか。世の人の目から見たら、本当に馬鹿らしいことです。けれど主の目から見るならば、それは信仰の従順であり、そのあとに大きな祝福がともないます。
私たちはなぜ貧しいのでしょうか。貧しくありたいからです。

ひとりの非常に困ったやもめは、エリシャのところに行き、助けを求めました。するとエリシャは、からっぽの器を借りなさい。からの器を借りるようにと言いました。
人間的に考えるならば、確かにからの器を借りても、何の役にも立たないように思われますけれど、彼女は従うことによって満ち溢れるばかりの祝福をいただいたのです。
このような彼女の態度は、われわれの模範となりえます。なぜならば彼女は何ひとつ包み隠さず、ありのままの状態を、自分の困ったことをあらわに示したからです。

私たちもまた同じように、どんなに困ったことがあっても、そのときこそイエス様のみもとに行き、そのことを包み隠さず主に打ち明けると、罪、咎を赦され、束縛から解放され、用いられる器となります。
かつてのからっぽであった器は用いられる器となりました。もちろん言えることとは、イエス様こそがわれわれの天のエリシャです。私たちはからの器であり、イエス様はそのからの器を満たしたいと心から望んでおられるのです。
イエス様の弟子たちは次のことを経験したことがあります。

ヨハネの福音書1:16
16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

これはイエス様の弟子たちのすごい経験でした。イエス様はわれわれをも満たしたいと切に望んでおられます。
預言者エリシャはやもめが自分の持っている器だけを満たしてもらうだけではなく、ほかの人々の器をも借りて来て、満たしてもらうように言いました。
同じように私たちの場合も、自分だけが満たされるだけではなく、色々な問題で苦しみ、悩んでいる人々もまた満たしていただく。根本問題を解決していただくことです。

私たちだけが満たされればそれでいいというのではなく、ほかの人々もまた、満たされるように、私たちは主によって用いられるべき者です。
主は詩篇の作者を通して言われたのです。

詩篇81:10
10わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。
イエス様は私たちにほんの少しのものだけをあげたいとは思わず、完全に満たしたいと望んでおられます。
残念ながら多くの人は祈りを通して口を大きくあけようとはしませんし、またイエス様が私たちを豊かに満たしてくださるまで、辛抱強く待とうとはしない。

ヨハネの福音書2章の7節を見ると、いわゆるカナの婚礼の話なのですけれども、イエス様は当時の召し使いたちに、「水がめに水を満たしなさい。」、と言われたので、彼らは水がめを淵までいっぱいにしたと記されています。
そのとき彼らが必要なのは、ぶどう酒であって水ではない。水をいっぱいにしても、何にもならないと思ったならば、それはまったく意味のないことになってしまったでしょう。
彼らは人間的には主のご命令を理解することができませんでしたが、主のご命令でしたから、馬鹿らしいと思われるようなことを実行したのです。この従順を通して彼らは奇蹟を経験し、豊かな満たしを受けたのです。

要求されていることは、私たちが素直に信じ、主の要求に従順に従うことです。これこそ自分が満たされ、さらにまたほかの人のために用いられる秘訣です。
少しだけの満たしで満足せず、淵まで満たしていただくことを主は望んでおられます。私たちも、「主よ、どうか豊かに満たしてください。」、こういうふうに口を大きくあけて叫ぼうではないでしょうか。
聖霊に満たされることが要求されています。すなわち、聖霊なる主に支配されることです。私たちは聖霊の働きに対して、三つの異なった態度を取ることができます。

まず第一に、聖霊をまったく無視することができます。
イエス様を信ずるならば、だれにでも聖霊が宿っています。けれども問題は、それが聖霊の宮であるか、あるいは聖霊の牢屋であるかということです。
何と多くの兄弟姉妹はみことばに正しく向かい、聖霊の働きの導きに対して従うことをしていません。すなわち実際問題として、自分が決定権を持ち、聖霊は全く無視されているわけです。

二番目の態度は、聖霊を部分的に受け入れるということです。すなわち、ことばを変えて言うならば、聖霊が信者の全支配権を持つということではなく、部分的な支配権を持つということです。
そのような場合には、聖霊は単なるお客さまとして、よそよそしく取り扱われるのです。おもに自分が支配し、苦闘し、時々みこころは何かと尋ねるに過ぎないような信者が少なくありません。
そのような生活の結果は、決して幸福な生活ではなく、みじめな生活です。

聖霊を受け入れる第三の態度は、聖霊にすべてを明け渡し、聖霊がすべての支配権を持つという態度です。この態度を取る人は、次のように証しすることができます。
「生きているのはもはや私ではなく、イエス・キリストです。」
聖霊に満たされることとはもちろん決して感情の問題ではない。意思の問題です。

すべてを主に明け渡したときに初めて、私たちは聖霊に満たされるのです。したがって、聖霊に満たされるための前提条件は、まず第一に、献身、すなわち、自己否定であり、第二に、主が支配権を持ってくださった事実を信じ、確信することであり、感謝することです。
言うまでもなく、これはわれわれの決断にかかっています。ですから私たちは聖霊に満たされるまで待つ必要はない。私たちが心を開いて、すべてを主に明け渡しさえすれば、満たすことを常に望んでいる聖霊は、ただちに私たちを満たしてくださるのです。
大切な質問とは次のものでしょう。聖霊に満たされているかどうか。どういうふうに知ることができるものか、ということです。答えは、ガラテヤ人への手紙5章22節でしょう。

ガラテヤ人への手紙5:22-23
22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23柔和、自制です。

聖霊が支配できるならば、御霊の実は啓示されます。これは決して敬虔ぶった宗教家、あるいは宗教的な人の努力の結果ではなく、まさに御霊の実です。
もし私たちが自分の弱さと空虚さを意識して歩むならば、主が信仰の従順により、満たしを与えるということを経験します。
「私たちは何も持っていないから、証しすることができない。」と言うかもしれない。もし自分の考えや感情は大切ではない、と絶えず覚えるべきではないでしょうか。主が私たちの泉であるからです。私たちが主にだけ頼れば、主はわれわれの空虚を必ず満たしてくださいます。

われわれの空虚はよみがえりの力を必要としています。私たちの持っているものが大切なのではなく、主イエス様がどなたであるのか。それこそが大切です。
また私たちは、もうすでに受けた祝福はそんなに問題ではない。私たちがこれから受ける満たしが問題です。

主は私たちによみがえりの力を与えようとしておられます。この満たしは一度にやって来るものではなく、だんだんにやって来ます。
すなわち私は今満たされている。この状態がいつまでも続くということはできません。
けれどその満たしは、すなわち、よみがえりの力は、私たちが必要とする時、必ず信仰の従順により主から与えられることを経験します。




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