エリシャとエリコ


ベック兄

(吉祥寺学び会、2006/12/05)

引用聖句:マルコの福音書10章46節-52節
46彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
47ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
48そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
49すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
50すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
51そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
52するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

今日は別にバルテマイについて話したくないのですけれど、このバルテマイとはエリコ出身の男でした。そして今日はエリシャとエリコについていっしょにちょっと考えてみたいと思いますけれども。

今読みました個所を見ても、イエス様の方から聞いたのです。「何をしてほしいのか。」、新しい車がほしいと言わなかったし、いい別荘があればと言わなかったし、当たり前のことを言ったのです。「先生。見えるようになりたい。」そして彼は見えるようになったのです。
このエリコという町はのろわれた町でした。結局彼も、もう希望なし、喜びなし、平安なしの将来に向かうべきだった。けれどイエス様は聞いたのです。「何がほしいのか。」彼は「あわれんでください。」としか言えなかったのです。
列王記第IIの2章をちょっと見てみましょうか。エリコについての個所です。

列王記第II、2:19-22
19この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」
20すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。
21エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」
22こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。

この間、私たちはこのエリシャの取った態度について考えました。
後戻りする恐れのある後ろの橋を全部断ち切って、信仰と忍耐をもって、上からの力を待ち望みつつ、死の川、ヨルダン川を渡る用意をして、主にすべてを、自分自身を明け渡したことについて考えました。これはエリシャの奉仕の生活の元をなすものだったのです。
もし私たちが主に仕えたいと思うならば、やはり私たちにも、ほかの道は無いのではないでしょうか。私たちはこの道をゆく用意をしているのでしょうか。

まず、エリコについて少しだけ考えたいと思います。エリコとはいったい何を意味しているのでしょうか。そのあとで、エリシャについてちょっと考えたいと思います。
エリコというのは何を意味しているかと言いますと、イスラエルの民が約束された国、カナンの地に入ろうとしたとき、一番最初の妨げとしたのが、このエリコという町でした。
結局エリコとは、神の民の敵そのものだったのです。エリコの町の人々は、主なる神によって選ばれた民であるイスラエルの人々を攻撃しました。

それはエリコの人々の攻撃だけではなく、悪魔がイスラエルの民をカナンの地に入ることを妨げようとして攻撃したのです。
今日の状態はちょっと逆です。この約束された救い主にはいっているイスラエル人を追い出そう。ひとり残らず殺そう。そういう動きです。
主なる神はあなたがたにこの国を与えたと言われました。悪魔はこの約束を不可能にしようと、あらゆる試みを試みたのです。悪魔は主に選ばれた民を攻撃するために、エリコの人々を、結局人間を用いました。悪魔は主のご目的を妨げるために、肉と血をもつ人間を用います。エリコは悪魔の全力を意味しています。

エリコは人間の力をも意味しているのです。なぜならば、悪魔はいつも人間を通して働くからです。エリコはイスラエルの人々によって占領されました。悪魔の力は神の民によってこぼたれました。
主なる神は、わたしはあなたがたにエリコを与えたと言われました。けれどエリコは目に見えるエリコの王、すなわち敵に属するものでしたけれど、信仰によってエリコは神の民のものでした。
なぜならば主は、この地をあなたがたに与えるよりも、もう与えた。と約束されたからです。エリコの征服は信仰の実行でした。

信仰の実行には三つのことが必要です。
第一番目。主のことばである聖書。主の約束です。
第二番目。人間のもつべき信頼。信仰です。
第三番目。信仰の実行です。

主ははっきり言われました。すなわち、「わたしはエリコを与えた。」、イスラエルの民は信仰によって六日間、エリコの町を回りました。七日目に七回目を回りました。これは信仰です。その七日目に町の城壁が崩れ、イスラエルの民はエリコを占領したのです。
なぜ戦いの実行が必要だったのでしょうか。それは信仰の実際が経験の実際となるためだったのです。戦いを通してのみ、自分のものにすることができるのです。
エペソ人への手紙に、主の救いにあずかった者をともによみがえらせ、ともに天の座に着かせてくださったのである、と書いてあります。

私たちの場合、このことばは確かなものなのでしょうか。私たちはイエス様との交わりを持っているのでしょうか。私たちは困難を克服しているのでしょうか。
同じエペソ人への手紙の中で、いわゆる戦いについて書かれています。よく知られている6章の12節。

エペソ人への手紙6:12
12私たち

信ずる者

エペソ人への手紙6:12
12の格闘は血肉に対するものではなく、

人間に対するものではなく、

エペソ人への手紙6:12
12主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

私たちはこの力に対する戦いによってだけ、主イエス様の満ち満ちたところに至るのです。このことをよく考えましょう。悪魔は人間の肉を用います。
イエス様は悪魔の力を滅ぼすために、同じ肉の形を取られたのです。イエス様の十字架は肉によって働きかけるあらゆる敵の力に対する勝利です。
これとまったく同じように、エリコは肉によって働きかける、あらゆる敵の力に対する勝利を意味します。

エリコとは、すなわち、主なる神に逆らう町でした。エリコは人間の力をもってしては、あんまりにも強すぎました。遣わされた人々は、エリコを征服することは絶対に不可能だと言いました。その町々は大きく、石垣が天に達していました。
遣わされた人々の判断は正しかったのです。遣わされた人々は、これは肉と血だけではなく、その後ろに悪魔の力があるから、絶対にダメだ。何をやっても成功しないと十人の遣わされた人々は判断しました。
ローマ人への手紙7章を読むと、それは血と肉に対する戦いだけではなく、悪魔に対する戦いであることが分かります。

戦いの終わりはみな悲痛な叫びで終わっています。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくださるのでしょうか。ローマ人への手紙7章は、肉に対する戦いは絶対不可能だという叫び声です。23節の後半。

ローマ人への手紙7:23
23私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいど(む)...のです。

ローマ人への手紙7:19
19私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

肉は受け身ではありません。罪と死の法則によって駆り立てます。その裏には悪魔の支配があります。

エリコは人間にとっては強すぎました。エリコの占領は肉を通して働く悪魔のあらゆる力に打ち勝ったイエス様の十字架の勝利を表わしています。
七という数字は完全な勝利を表わしています。主はイスラエルの民にエリコの町の周りを、毎日一回、六日間、回るように命令されました。そして七日目には七回回るように命じられました。
七はいつも「完全」を意味しています。主なる神はそれによってエリコの占領が完全であることを言っておられます。エリコは完全に征服されたのです。イエス様の十字架の勝利も完全でした。この主イエス様の勝利は、私たちひとりひとりのためです。

イスラエルの民のひとり、アカンという男は金の延べ棒と美しい外套を盗んだのです。
金の延べ棒は、当時の貨幣でした。物の売買にこの金の延べ棒を用いました。この金の延べ棒は当時、もっとも貴重なものだったようです。
今日でも金はこの世の人々にとってもっとも大切なものになってしまっています。エリコが占領される前に、主なる神はエリコの金は全部わたしのものである、と言われたのです。ちょっと見てみましょうか。

ヨシュア記6:18-19
18ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。
19ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない。」

けれどアカンという男は自分のためにそれを盗んだのです。これはいつも肉のやり方です。肉はいつも自分に栄光を帰せようとします。
そこでヨシュアはアカンに言った。「わが子よ。イスラエルの神、主の栄光を帰し、主に告白しなさい。あなたが何をしたのか私に告げなさい。私に隠してはいけない。」
肉はいつも主に属する立場を自分のものにしようとします。お金は全部、主に属します。栄光は全部、主に属します。悪魔は私たちが主に属するものを自分のものとさせようと、あらゆる試みを試みます。私たちをいざないます。

アカンはバビロニアの外套も盗んだのです。この外套は外国のものです。すなわち、バビロンの偶像礼拝の関係がありました。たぶんこの外套はバビロニアの偶像に仕える祭司の外套であったかもしれない。このことを主はのろいました。
偶像礼拝はこの世の神の仕事、すなわち、悪魔の仕事です。偶像礼拝は全部、本来、主に占めるべき場所を侵そうとするものです。アカンはその外套を盗みました。主とのろわれた者と関係を結んだのです。
この罪に対する主の刑罰は、私たちに偶像礼拝に対する刑罰を教えています。

ヨシュア記7:24-25
24ヨシュアは全イスラエルとともに、ゼラフの子アカンと、銀や、外套、金の延べ棒、および彼の息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、それに、彼の所有物全部を取って、アコルの谷へ連れて行った。
25そこでヨシュアは言った。「なぜあなたは私たちにわざわいをもたらしたのか。主は、きょう、あなたにわざわいをもたらされる。」全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけた。

とあります。エリコには偶像礼拝者がありました。エリコはカナン全地の縮図でした。カナンにはいたるところで偶像礼拝が行なわれました。アカンが刑罰を受けたと全く同じように、カナンの全地の偶像礼拝も、滅ぼされなければなりません。
使徒の働きの中に、主なる神がイスラエルの民より強い、カナンの七つの民を追い出したと書き記されています。七回、イスラエルの民はエリコの周りを回らなければならなかったのです。この七回は七つの民をも意味しています。
カナンの七つの民は、実質的には、エリコで完全に滅ぼされました。エリコは悪魔がそれを用いて働く肉に対する主イエス様の十字架の勝利を表わしています。

ここで私たちはひとつの大切な真理を覚えるべきではないかと思うのです。すなわち、十字架の力の信仰は、権威を意味しているのです。すべては信仰の問題です。
町をグルグル回ったのは、信仰の実行でした。毎日、同じ道を回ったけれど、何にも起こりませんでした。毎日同じでした。イスラエルの民は目的に少しも近づかないように思いました。
六日目も最初の日と同じように、何にも起こらなかったのです。七日目も回りました。一回目、二回目、三回目、四回目、五回目、六回目、回りましたが、何にも起こりませんでした。七回目を回りました。しかし前と変わりがなかったのです。

それからイスラエルの民は勝利の叫び声を上げなければならなかったのです。だれもが、これは馬鹿らしい、全部無駄なことだと言えたかもしれない。けれど一切は信仰の問題でした。
イスラエルの民は何も起こらず、何も見ませんでしたけれど、「勝利」、「万歳」、と叫ばなければならなかったのです。それから石垣が崩れ落ちたのです。この石垣とは、もう考えられない強いものでした。
今朝、ちょっと読んだのです。色々な人々は掘って、徹底的に調べたのです。結局もう、何をやってもダメ。どうしてこういうふうに崩れたか分からないけれど、たぶん地震だったのではないでしょうか。主にとって不可能なことはない。

最初はエリコののろいとアカンののろいについて考えました。ヨシュアはエリコをのろいました。エリコはのろいが悪魔の働きの上にある、と言っています。悪魔はその働きを、人間を通して行ないます。これは大切なことです。
すなわち、人間のやることにのろいがある。なぜなら人間の後ろには悪魔が働いているからです。
ヨシュアはエリコをのろいました。のろいは二重の意味をもっています。すなわち、死と空虚があります。

聖書は肉体的な死についてだけではなくて、霊的な死についても語っています。エリコは霊的な死とは何かを表わしている例です。
霊的な死は、働くことができないとか、自分の力を用いることができないとかという意味ではありませんけれども、霊的な死に際しては一番大切なことが欠けています。
エリコの人々は働き、努力し、何日もの間、畑で過ごし、収穫を得るために力いっぱい働きました。けれどそれらは一度にダメになってしまいました。なぜなら、水がダメになったからです。植物、果実は全部ダメになりました。これはのろいです。

のろいのもうひとつの面は空虚です。空虚は霊的な死のしるしです。空虚は働き、仕事、力をもっていますけれど、それらは終わりに至らず、実る実までは至らない。霊的な死は空虚まで至ります。決して実を結びません。
人間の働きは全部、空虚でとどまります。成功したように見えますけれど、本当の実は結びません。何と多くの人々がイエス様の御名を使って働いているのでしょうか。何と忙しく、また、何と力を込めて働くことでしょう。
そして私たちはそれが実だ、と言いますけれど、数年のちになってみて、その実が残るのでしょうか。もちろんそれは主のためにやっていることであり、善意からやっていることですけれど、そこに人間の力があれば、のろいがあります。

パウロは、被造物が虚無に服したと書いたのです。このように、人間から出るものはすべて主ののろいのもとにあります。
私たち信ずる者であっても、なくても、自分でする努力は全部主ののろいのもとにあります。私たちはこのことを知らなければならない。
エリコはのろいのもとにあります。エリコは人間にとっては強すぎました。あなたの生活にも何か強すぎて手に負えないことがあるのでしょうか。

ある人が私に言いました。「自分は頼るのが大嫌いです。」と。
もし今もっともすばらしい王さまが来たとしたら、その家来になることを恥としないでしょう。けれどイエス様は主の主、王の王であられます。
頼りたくない人間は全部、つまらないものに頼っているのではないでしょうか。例えば、酒、たばこ、自分の力などに頼っています。どうでしょうか。

何か強すぎて手に負えないことがあるのでしょうか。今からこそ、救われていない家族、親戚、友だちのために祈ろうと決心しても、なかなか上手くいかない。これは自分のためには強すぎるということを経験しているのです。
エリコは人間にはあまりにも強すぎましたので、主はひとつの逃れ道をお造りになったのです。すなわち、十字架による逃れ道をお造りになったのです。
十字架の勝利は完全な勝利です。たぶんあなたは、イエス様の勝利を信じているけれど、自分の生活のうちに、その勝利を認めることができないと言われるかもしれない。それはのろいなのではないでしょうか。

私たちは主に属する金や栄光をアカンのように盗んだのでしょうか。偶像礼拝と関係をもっているのでしょうか。
もしそうなら、悪魔がわれわれの生活を支配し、私たちに打ち勝ち、私たちは、自分には強すぎると叫ぶようになるでしょう。「私は何というみじめな人間なのでしょうか。」、と。
エリコは人間にとっては強すぎます。悪魔は私たちより強いのです。けれどイエス様は十字架で完全な勝利を治められました。
しかし、どうしたらその勝利を自分の生活のうちに、自分のものとすることができるのでしょうか。

前に述べたように、十字架の力の信仰は権威を意味していると。主イエス様は、血潮はすべての罪を赦す、と約束してくださったのです。主の言われることは事実です。
私たちはそれを感謝しようとは思いませんでしょうか。もし感謝すれば、この事実は自分のうちの経験となります。
もし今日来られた方々の中にまだ救いの確信をもっていない方々もおられるかもしれない。そうすれば霊的に死んでいる状態にあります。しかし聖書は言っています。今日変わることができます。

イエス様はすでにすべての人間の罪を背負われました。イエス様は私たちのために救いの代価を払ったのです。悔い改めて、イエス様の犠牲のために感謝しようではないでしょうか。
イエス様はあなたの生活に本当の内容を与えたいとしておられます。人間はだれでもが心の平安を必要とします。人間はだれでも主なる神との交わりを持たなければならない。もしそうしなければ、心の渇きは決していやされません。
静かにご自分の生活を考えてください。ひとりの場所を探し、イエス様に祈ってください。

「イエス様。私は幸福ではない。私には平安がない。私のわがままを赦してください。私を自由にしてください。
私のために亡くなられたことを感謝いたします。あなたの血潮がすべての過ちを洗い聖めることを感謝いたします。
今日からあなたについて行けることを感謝します。」

けれど多くのイエス様を信ずる者は次のように告白します。「私は冷たくもなく、熱くもない。私はまったく別の人間になりたい。」
私たちは死の川を渡る用意があるのでしょうか。自分の意思、計画、すべてを主にささげる用意があるのでしょうか。
エリコは前に話したように、主なる神に逆らい、人間には強すぎる、また偶像礼拝の町でした。
この悪魔の要塞であるエリコは主のことばを信ずる信仰と、主のことばに従うことによって初めて、占領をされたのです。これがエリコであり、エリコの歴史でした。

列王記第II、2:19
19この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」

エリシャは町の苦しみに立ちました。エリシャの生活はわれわれに何を示そうとしているのでしょうか。そのような環境でエリシャはどんな立場を取ったのでしょうか。エリシャの生活はわれわれによみがえりの力を教えています。
エリシャの生活を見ると、エリシャが死にあった時、死の方が逃げ出したことが分かります。ですから、もうちょっと最後にエリシャについてちょっと考えたいと思います。
三つの点について考えましょうか。

第一番目。エリシャの生活の根はどこにあったのでしょうか。
第二番目。エリシャの力はどこにあったのでしょうか。そして、
第三番目。エリシャは何によって権威を得たのでしょうか。

第一の点、すなわち、エリシャの生活の根はどこにあったのでしょうか。エリシャの生活の根はヨルダン川にありました。エリシャの生活の奉仕の始まりはヨルダン川にあったのです。
エリヤが昇天してからエリシャは、ヨルダン川を渡って帰って来ました。エリシャは死の川、ヨルダン川を渡って行きました。すなわち、エリシャの生活の初めは、十字架、すなわち、死でした。
したがって、エリシャの生活の土台なるものは、十字架だったのです。

列王記第II、2:14
14彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主は、どこにおられるのですか。」と言い、彼が再び水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。

とあります。エリシャは死の川を外套で打って、エリヤの神、主はどこにおられますかと言うと、水が右と左に分かれて、彼は川を渡りました。
私たちはここに死に対する勝利を見ることができます。なぜなら、エリシャは死の川を押し分けて、渡りましたから。
また、ここにエリシャが自分の主人エリヤの力を試したことが分かります。それはよみがえりの力でした。エリシャはさらに、主人のよみがえりの力をもって、先へ進んで行ったのです。

エリシャの生活の根はヨルダンにありました。エリシャの生活の土台は十字架の力でした。
パウロについて考えると、同じことが言えます。パウロの生活の根も、十字架の力でした。
パウロにとっては十字架が本当にすべてでした。ですから彼もよみがえりの力を現わした主なる神のしもべだったのです。

次に、エリシャの力はどこにあったのでしょうか。エリシャの力はよみがえりにあったのです。
エリシャはいつも問題の中におらず、そばか、上にいたのです。よみがえりはこの世の外にいることを意味しています。よみがえりはイエス様がこの世から離れたことを意味しています。
主イエス様はこの世から離れましたから、この世に対する力をもっていたのです。私たちもイエス様のよみがえりの力によって生活することを学ばなければならないのではないでしょうか。もしそうすることができれば、われわれの周りの人々もやっぱり導かれるようになります。

イエス様のよみがえりこそがエリシャにとってもパウロにとっても、結局すべてでした。イエス様とのよみがえりの交わりはわれわれを囲む死に打ち勝つことを意味しているのです。もしその交わりをもつようになれば、私たちは死に支配されずに、死に会うことができます。
私たちはよみがえりの力をもっているのでしょうか。もし私たちが死の川を渡る用意をしているならば、よみがえりの力をもつようになります。自己の生活をイエス様の足もとに置く用意のある兄弟姉妹がいるのでしょうか。
東京という町では死が支配しているのです。だから私たちはいのち、すなわち、よみがえりの力が必要です。

エリシャは何によって権威を得たのでしょうか。エリシャは油をそそがれたことにより、権威を与えられました。
彼は上からの霊を得ました。彼は特別な預言者でした。彼は油そそがれた、ただひとりの預言者だったのです。
旧約聖書では王さまや祭司はいつも油そそがれました。預言者たちは決して油そそぎを受けなかったのです。エリシャだけが油そそぎを受けたのです。

主はエリヤに、エリシャはエリヤの後継者として油そそがれるべきだと命令なさったのです。エリシャはなぜ油そそがれたのでしょうか。なぜならエリシャはエリヤの跡継ぎとなるべきだったからです。
ほかの言葉を使えば、エリヤとエリシャが元来からだはふたつですが、人格はひとつだったのです。
新約聖書を読むと、イエス様はからだなる教会のかしらであり、このかしらに属する者はみな、からだであることがはっきり分かります。そして、それだけではなく、このかしらとからだはひとつの同じ油そそぎの下にあるとあります。

救いにあずかった者は主イエス様を宿す者です。それはイエス様のみわざを油そそぎの力で推し進めるためです。
エリヤは昇天する時、エリシャの権威が現われました。エリシャは権威を油そそぎによってもっていたのです。
油そそぎとは何を意味しているのでしょうか。主なる神ご自身がお与えになる、また、油そそがれたところには主の権威があることが分かります。

ヨルダン川とよみがえりと油そそぎは、ただもうすでに救われた人々のためにだけあります。
もし私たちが主のものであれば、私たちの根はヨルダン川にあるのでしょうか。私たちの周りにある死に対する力はどこにあるのでしょうか。私たちは主のよみがえりの力をもっているのでしょうか。私たちは聖霊による権威をもっているのでしょうか。
パウロはこのすばらしい事実について次のように書いたのです。最後に読みます。

ガラテヤ人への手紙2:19-20
19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

もはや私ではなく、主です。




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