なお深く主を知らん


ベック兄

(吉祥寺学び会、2006/12/12)

引用聖句:ピリピ人への手紙3章4節-11節
4ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
5私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
6その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
9キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
10私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
11どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

列王記第II、4:8-17
8ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこにひとりの裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それからは、そこを通りかかるたびごとに、そこに寄って、食事をするようになった。
9女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。
10ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机といすと燭台とを置きましょう。あの方が私たちのところにおいでになるたびに、そこをお使いになれますから。」
11ある日、エリシャはそこに来て、その屋上の部屋にはいり、そこで横になった。
12彼は若い者ゲハジに言った。「ここのシュネムの女を呼びなさい。」彼が呼ぶと、彼女は彼の前に立った。
13エリシャはゲハジに言った。「彼女にこう伝えなさい。『ほんとうに、あなたはこのように、私たちのことでいっしょうけんめいほねおってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。王か、それとも、将軍に、何か話してほしいことでもあるか。』」彼女は答えた。「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております。」
14エリシャは言った。「では、彼女のために何をしたら良いだろうか。」ゲハジは言った。「彼女には子どもがなく、それに、彼女の夫も年をとっています。」
15エリシャが、「彼女を呼んで来なさい。」と言ったので、ゲハジが彼女を呼ぶと、彼女は入口のところに立った。
16エリシャは言った。「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになろう。」彼女は言った。「いいえ。あなたさま。神の人よ。このはしために偽りを言わないでください。」
17しかし、この女はみごもり、エリシャが彼女に告げたとおり、翌年のちょうどそのころ、男の子を産んだ。

今日の題名は、続いてエリシャについて考えたいと思いますけれど題名は、「なお深く主を知らん」という題名です。おもにこのシュネムの女とエリシャについて少しだけ考えたいと思います。
預言者エリシャの生活はいよいよ偉大になってまいります。エリシャは霊的に非常に堕落していた時代に生きていました。すべてのいわゆる預言者たちは、形式的な集まりはあったけれど、内面的な力を失った時代に主から召された人々でした。
特別に召された人々とは、預言者と呼ばれました。預言者たちは主のみこころを知っており、それを実行し、また、ほかの人々にそれを告げ知らせた人々でした。預言者が語るならば、それは主なる神が語るのです。預言者が行なうならば、主が行なうのです。

このような預言者たちであるエリシャが、ある日シュネムにやってまいりました。そしてそこにいたひとりの婦人に招かれたのです。
9節を読むと、その女はエリシャを普通の人ではない、預言者であると認めたことが分かります。女は預言者の話すことは主の話すことであり、預言者の行なうことは主なる神の行なうことであることをよく知っていたのです。
けれどもこの女は預言者を通し、主をよりよく知りたいという願いをもっていました。主を知るようになった者はだれでも、主をよりよく知りたいという心からの願いをもっているはずです。イエス様をもっともっと知りたいと思うことは、救われたことのしるしではないでしょうか。

けれどこの婦人は、いかにして主を学んだのでしょうか。また、私たちはどうしたら主イエス様をよりよく知ることができるのでしょうか。9節です。

列王記第II、4:9
9女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。

エリシャはしばしば、お客さまとしてこの家に入ったことがありました。女は預言者のことば、すなわち、主のみことばを聞きたかったからです。結局、聞く耳をもっていたのです。
彼女は自分の家を預言者のためにあけたばかりではなくて、自分の心を主に向かって開いたのでした。
ヨハネの福音書の中で書かれています。「すなわち、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。

イエス様を受け入れた者は、みんな例外なく神の子どもです。けれど、こういうふうに救われ、新しく生まれた者に食べ物が必要なのであり、栄養が必要なのです。
新しく生まれた子どもは栄養を取らなければ死んでしまいます。新しく生まれ変わった人々も同じく、栄養を取らなければなりません。
私たちはいかにして、何によって新しい栄養を取ることができるのでしょうか。いかにしてイエス様をよりよく知ることができるのでしょうか。勝利に満ちた生活の秘密はいったいどこにあるのでしょうか。

まず静思の時をもつことによって、私たちは心の栄養を取ることができ、イエス様をよりよく知ることができ、静思の時間によって勝利の生活を獲得することができるのです。
詩篇の作者は次のように告白しました。

詩篇90:14
14どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。

毎朝、イエス様といっしょにいる静かな時をもっているのでしょうか。救い主なるイエス様に一日の最初の時をささげているのでしょうか。
イエス様は朝の静思の時を通して、その日の一日の心の糧を与えたいと望んでおられます。聖書を開いて、「主よ、語ってください。」という態度を取ることこそがもっとも大切ではないでしょうか。
朝、みことばを読み、食べ、聞き、自分のものにし、祈り、静思の時を持たなかった一日は、間違いなく敗北の一日です。

もし主が静思の時間を通して力を与えることができないならば、悪魔に立ち向かうことはできません。
もしその状態ならば、ちょうど襲い来るタンク、すなわち、戦車に泥をぶつけて、立ち向かうようなものです。何というあわれな状態でしょう。そして聖書の教えはいいけれど、実際生活に当てはまらないと不平をこぼすのでしょう。
もし朝ごとに主が私たちに会い、私たちに力をお与えになったならば、いかなる悪魔の軍勢と言えども、逃げ去ります。

旧約聖書を見ると、イスラエルの民が主に近づく時、いつも祭壇の側を通り過ぎてから聖所にはいったのです。この祭壇はイエス様の十字架を象徴しています。私たちも朝ごとに主の御前に歩み寄る時、必ず十字架の側を通ってから、行かなければならない。
これは単に何を意味しているのでしょうか。祭壇の上では毎日、いけにえの全部がささげられるのです。十字架は同じように、すべてをささげた場所です。
毎朝、イエス様に言いましょう。「私の両手、両足、目、舌、耳、意思、感情、理解力、これらすべてを、主よ、あなたにささげます。」と言いましょう。

私たちを束縛から解放してくださったイエス様に対し、毎朝、感謝をささげているのでしょうか。私たちは今日も血の力が自分のあらゆる罪を洗い聖め、救ってくれることを感謝しようではないでしょうか。
もし私たちがこの流された血を感謝するならば、私たちの信じたとおりになります。
イエス様は古い着物を脱がせ、新しい救いの衣を着せます。もしそうなったなら、聖所にはいることができ、聖なる、主なる神の御前で礼拝することができ、また、すべての人のためにとりなすことができるのです。主のご臨在のうちに主のご栄光と力を見ることができ、主を礼拝せざるを得なくなります。

もし私たちが毎朝、何よりも静思の時間を過ごさなければ、私たちは悩みと苦しみだけが見えて、主のご栄光は本当に小さなものになってしまいます。イエス様だけを見る代わりに、人間の環境だけが目にはいります。
私たちはどうしたらイエス様をもっとよく知ることができるのでしょうか。それは今話したように、朝の静かな時によってです。
飢え渇きをもって、みことばを読まない人は損をします。もし聖書を読まないと、祈りが止まり、主のみこころを知ることができません。

私たちのたましいはみことばに飢え渇いているでしょうか。それとも、満腹しているのでしょうか。
イエス様は、「わたしはいのちのパンである。」と言われました。パンは見て驚くために博物館の中に飾られているものではないし、また、そうしておいて良いものではありません。食べなければ、何の役にも立たないものです。
われわれの霊的ないのちは、このいのちのパンを食べるはかりにしたがって、程度にしたがって成長してまいります。いのちのパンであるイエス様ご自身がわれわれの食べ物とならなければいけませんし、また、イエス様ご自身はそうなりたく、われわれの心の奥底にはいることを願っておられます。

いったいどうしたらイエス様をもっとよく知ることができ、理解することができるのでしょうか。イエス様のみことばによって、それができます。
どこで、いかにして私たちは主を見いだし、主をよりよく知ることができるのでしょうか。
ただ、主のみことばのうちに、また、主のみことばによってのみ主を見いだす。主をよりよく知ることができるのです。

聖書はもちろん学問のために書かれたものではありません。新しい真理を打ち立てるために書かれたものでもありません。
神の呼吸だそうです。主なる神の息です。すなわち、主はご自身をこのみことばによって、みことばで包んで、みことばにご自身を含んで現わされているのですから、私たちはそのみことばを、イエス様をいのちのパンとして食べなければなりません。
食べるなら味がするはずです。食べたら消化して、その結果、力が与えられます。食べるなら、それは私たちのからだの一部分となり、そうすることによって栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられてまいります。

一日の最良の時をこのいのちのパンを食べるために用いましょう。私たちがイエス様ご自身により生けるいのちのパンによって生きる者となりたいものです。
静思の時間に私たちは主の御声を聴くために聖書を読みます。主の御声を聴いたならば、それに関する応えとして、私たちは祈ります。
聖書だけでは十分ではありません。みことばを通して主は私たちに語ろうと思っておられ、そして祈ることによって私たちは応えます。

ある兄弟姉妹は、ほんの少しだけしか聖書を読まず、主の御声を聴くことをしません。また、少しのことばで少ししか祈りませんので、良心にやましいところがあります。
イエス様はわれわれとの交わりを求めておられます。これをよく心に留めましょう。イエス様は私たちを求めておられます。
イエス様は私たちに聖霊をお与えになりました。そして今や私たちを愛し、私たちに会うことを心から願っておられます。これらのことを意識して、いつも主の御前に出ましょう。そうしたならば、私たちはイエス様を主として、友として、また、花婿としてよりよく知ることができるのです。

シュネムの女にとって預言者のことば、すなわち主のみことばとはすべてでした。
私たちにとっても主のみことばほどに大切なものはありません。主のことばほどに私たちに助けになるものはありません。
主のことばは私たちにとって両刃の剣とならなければならない、とヘブル人への手紙4章12節に書いてあります。

ヘブル人への手紙4:12
12神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

主は生きておられる。けれども主のことばも生きておられる。主のことばは単なることばではなく、いのちのことばです。
申命記の32章。モーセがイスラエルの民に向かって言われたことばです。次のように書いてあります。

申命記32:47
47これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。

もし私たちが主のみことばを受け入れて、私たちのうちに働くようにするならば、私たちは幸いであると思います。
テサロニケにいる人々とは、やっぱりこの主のみことばによって救われ、元気になり、はっきりとした人生の目的をもつようになったのです。

テサロニケ人への手紙第I、2:13
13こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。

イエス様は祈りの中で告白しました。あなたのみことばは真理です。このイエス様と同じ態度を取る者は祝福されます。理解できるかどうかは問題ありません。あなたのみことばは真理です。
エレミヤは、よく覚えている個所なのですけれど、

エレミヤ書15:16
16私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。

理解できたかどうか分かりません。けれど関係ありません。主のみことばですから、間違いなく真理です。エレミヤはこの態度を取ったから経験しました。すなわち、

エレミヤ書15:16
16あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

結局、喜ぼうと思えば、みことばを食べなさい。必ず元気になります。

主の語られたことばとは、書かれたようになったから本当にありがたい。この書いたことばに頼ることが大切です。
ヨハネの手紙第Iの5章13節を見ると、ヨハネは当時の信ずる者に次のように書き記したのであります。

ヨハネの手紙第I、5:13
13私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

本当は、確信するためです。確信の土台なるものは、書いたことばです。自分の気持ちではありません。
ダビデは、

詩篇119:162
162私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。

と言えたのです。

詩篇119:49-50
49どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。
50これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。

ダビデの告白です。

詩篇119:76-77
76どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、あなたの恵みが私の慰めとなりますように。
77私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。あなたのみおしえが私の喜びだからです。

詩篇107:20
20主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。

とあります。
みことばを読む目的は大切です。単なる知識を得るためではなく、心から真剣に真理を求めていくという飢え渇きをもつことこそが大切です。
聖書は主なる神のみことばですから、私たちはみことばを主のことばとして学び、主のことばとして素直に受け入れることが大切です。

私たちは聖書を読んでいる、前に話したことがあるのですけれども、絵を持っています。ひとつの絵ですけれども、本当はその中に四枚の絵も入っています。
一枚目の絵を見ると、大きな人がちっぽけな聖書を読んでいる。二枚目の絵になると、その大きな人は急にちょっと小さくなって、その代わりに小さな聖書は前よりもずっと大きくなっている。
三枚目の絵を見ると、その人は前よりもさらに小さくなり、聖書はその人と同じように大きいものになってしまった。四枚目の絵を見ると、その人は非常に小さくなり、それとは反対に、聖書は比較にならないほど大きなものになりました。

分かることは、初めは自分の考えによって聖書を解釈していた人が、聖書を読むうちに、聖書が絶対的権威を持つに至ったということ。
つまりこの人は、聖書を主のみことばとして真剣に読み、このみことばに耳を傾け、注意して聴きましたから、みことばがその人の血となり肉となって、自分の思いが結局消えてしまったのです。
その結果、みことばがすべてとなり、イエス様がますます大きくなったということです。

今日、多くの人はみことばを軽く考えて、自分の考えで勝手に解釈したり、みことばに対して耳を傾けることをしなくなってしまいました。
何十年か前に大変だったのは、その聖書批判なのです。もうその時は過ぎ去りました。聖書なんて、いてもいなくても関係ありません。みんな自分勝手なことをすればいいだろう。何が正しいか、正しくないか、だれも分かりません。そういう雰囲気なのです。
滅びに向かうことであります。みことばに頼ろうとしない国は必ずダメになります。今現在、みことばに頼る国はひとつもありません。これこそ悲劇的です。

アメリカは、前はいい国でした。どうしてこの国ができたかといいますと、大部分はヨーロッパから逃げた人々だったのです。みことばに頼ることができなくなった、迫害されてしまったから、やっぱり主を第一にしたいからアメリカに行こう。
今では大部分のアメリカの学校の中で公に祈ってはいけないということになっています。悲劇的。
兵隊のチャプレン(従軍牧師のこと)でさえもイエスの名によって祈ってはいけないとなっているのです。いったいどういう話でしょうか。

けれどもイエス様は近い。目に見える世界がダメになればなるほど、私たちはもうちょっと、と考えると、やっぱり嬉しくなります。
正しくみことばを読む時には、聖書のみことばこそ絶対的な権威を持たなければなりません。聖書というものは決して研究するためのものではなく、これを通して主がわれわれに語りかけてくださるみことばですから、私たちは注意深く聴かなければならない。
主のみことばを聴き、それに従う時にはローマ人への手紙10章17節のみことばを体験できます。

ローマ人への手紙10:17
17そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

聖書に書かれていることがらを絶対的な権威を持った主のみことばとして受け入れ、それに耳を傾けない者は、決して生き生きとした信仰をもち得ません。
みことばを読む場合、本当の目標は主イエス様を知り、イエス様に出会い、そしてイエス様を受け入れること、また、イエス様をよりよく知ることであるべきです。
いったいどうしたらイエス様をよりよく知ることができるのでしょうか。みことばによってです。聖書は主のことばです。

みことばは主なる神の啓示そのものです。すなわち、単なる教理、学説ではなく、主の啓示そのものです。
当時の聖書学者たちの多くは、そうじゃないかと思ったらしい。けれど真剣になろうとしませんでした。ヨハネの福音書5章の39節を見ると、次のように書かれています。

ヨハネの福音書5:39-40
39あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
40それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

聖書を読むことと、いのちを得ることはひとつのことがらであり、決してふたつのものではありません。だからモーセは、

申命記32:47
47これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。

と。
主はみことばをもってご自身をお現わしになります。主のみことばは私たちにとっていのちのパンとならなければなりません。なぜなら聖書は、教理や真理の原則を語っているのではなく、いのちのパン、そのものであるからです。イエス様は、

マタイの福音書4:4
4『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』

と、マタイの福音書4章4節で言われたのであります。イエス様ご自身は、私たちがそれによって生きる自分のいのちのパンとなりたく思っておられます。
私たちはイエス様によって生きているのでしょうか。私たちは主のみことばによって生きているのでしょうか。

ヨハネの福音書6:63
63いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

みことばは主ご自身を啓示するのです。みことばを食べることは、いのちを得ることを意味しています。生けるみことばがわれわれのうちにはいると、その必然的な結果として、いのちがやってまいります。
理解力をもってしては、決していのちは訪れて来ません。もし聖書がわれわれにとって単なる掟であり、また真理であるならば、それは自分にとって重荷であり、不自由なものです。けれどいのちならば自由と喜びをもたらすものです。
一日の最良な時をこのいのちのパンを食べるために用いましょう。詩篇の119篇の中でダビデはよく、そのみことばの大切さについて証ししたのであります。

詩篇119:72
72あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

詩篇119:97
97どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。

詩篇119:140
140あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。

列王記第IIの4章に出てくる女は、預言者のために特別な部屋を作りました。彼女の心は主のことばに対して開かれていました。彼女は主のことばを聞きたいと思い、主をもっともっとよく知りたいと願ったのです。そうするために、彼女は預言者のために部屋を作りました。
すなわち、神のみことばをもたらす人のために部屋を設けました。主のことばが彼女のうちに入り込む余地ができたのです。
シュネムの女は裕福で、非常によい知恵をもっていました。そして彼女は主なる神ご自身をよりよく知りたいと思ったから、預言者を招きました。

みたところ彼女には何の悩みも苦しみも無いかのように見えましたが、実は彼女の心にただひとつ悩みがあったのです。彼女はすべてを持っていましたけれど、本当に意味のあるもの、大切なものを持っていなかったのです。すなわち、子どもがなかったのです。
16節によると、「このはしために偽りを言わないでください。」ということばの意味は、
「私はただひとつの願いを持っていました。それは子どもがほしいという願いでした。けれどそれは、もうまったく不可能なことなので、私は諦めました。それは非常に苦しい戦いでした。しかし成果がないので今はもう諦めています。どうぞこのことについては話さないでください。あなたがそれを話しますと、また以前の苦しみが始まりますから。」という意味です。

けれどエリシャは彼女に「来年の今ごろ、あなたはひとりの子を抱くでしょう。」と言ったのです。そしてこの預言は実際に成就されました。
すなわち、女はついにみごもって、エリシャが彼女に言ったように、次の年のその頃に子を産んだと書いてあります。
預言者が語るならば、それは主がお語りになるのです。もし預言者が約束するなら、それは主が約束されるのです。そして主の約束は必ず成就します。

私たちもこの女と同じように、毎静思の時間を持ち、主のみことばを受け入れ、心の余地を主に与えるならば、同じように不可能を可能とする奇蹟を経験するようになるに違いない。
そしてひとりひとりが持っている心の深い傷もいやされ、また、深い悩み、苦しみも消え去るでしょう。
この女が子どもを得たときは、もう嬉しくて嬉しくてしょうがありませんでした。

この子どもが女の小さな偶像になったかどうかは知りません。この女が、与えられた子どもより与えてくれた主を愛したかどうかは分かりません。どちらにしても、この子どもは突然死んでしまったのです。
この出来事は女にとり、どんなに苦しみだったでしょう。母はこの子を預言者の寝台の上に置きました。しかし彼女はこの苦しみにより、もっともっと主をよく知るようになったのです。
私たちが困難を通して主をよりよく知るためには、次の三つのことを知っていなければいけません。

まず女は神の人である預言者のところへ行きました。主のことばを語る預言者のところへすぐに行きました。彼女は自分の夫のところへ行って、その苦しみを告げませんでした。まず預言者のところへ行きました。彼女は家で泣き続けているようなことはせず、できるだけ早く主の召し使いエリシャのもとにやって来ました。
私たちの場合はいったいどうなのでしょうか。私たちは悩みをもっているとき、いったいどうしましょうか。すぐに主のみことばに目を向けるのでしょうか。
罪を犯したときに、その罪の水たまりの中にいつまでもいるのでしょうか。それともすぐに起き上がって、主の御前に出るのでしょうか。もし多くの困難が群がり起こった場合、私たちがそれに対して示す反応はいったいどんなものでしょうか。

女は直ちに神のみことばを語る人のところへ行きました。問題をもつと、だれでもが悩んでいます。そしてどうすればいいか分からないから専門家のところへ行こうと思う人がなんと多いのでしょうか。
けれど、まずすべきことは、祈ることです。主のみこころを尋ねることです。確信を得ることです。

二番目。女は預言者のところへ来るや否や、身をかがめて願いました。私たちが悩みの中で、もっとよく主を知ろうとする場合は、絶えざる心からの熱心な祈りが必要です。
彼女は自分の悩みを隠さずに公に話しました。福音書の中で、彼女の親戚らしい人について書いてあります。女は恐れおののき、自分の身に起こったことを知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
もし私たちが自分の苦しみを公に話す時、悪魔がやって来ます。列王記第IIの4章の27節に書かれているように、すなわち、ゲハジのように、そうさせまいと押しのけようとします。

列王記第II、4:27
27それから、彼女は山の上の神の人のところに来て、彼の足にすがりついた。ゲハジが彼女を追い払おうと近寄ると、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠され、まだ、私に知らせておられないのだ。」

女は悩みを自分で処理しようとせずに、すぐに預言者のところへその悩みを持って行きました。

最後に第三番目。女は神のことばを話す人から離れませんでした。

列王記第II、4:30
30その子の母親は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」そこで、彼は立ち上がり、彼女のあとについて行った。

もし私たちが困難のうちに主をよりよく知ろうとする場合、確固たる信頼が必要です。「私は決してあなたを離しません。」と書いてあるとおりです。
「私を祝福してくださらないなら、あなたを去らせません。」という揺るぎない心構えをもって主の御前に出るならば、奇蹟を見ることができるのです。
そして、こういう人々だけが、困難のうちに主をよりよく知ることができるのです。




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