イエス様を喜ばせよう


ベック兄

(吉祥寺学び会、2004/07/06)

引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、4章1節
1終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。

ヨハネの福音書15:4-8
4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
6だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
7あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
8あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

コロサイ人への手紙1:10
10また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

今日の主題は、イエス様を喜ばせようというものです。
イエス様を信じ、またイエス様を知るようになった兄弟姉妹は、イエス様無き人生の無意味さを知るようになりました。
また、いかなる努力も尽力も、主なる神と人間の間の隔ての壁を取り除くことができないことも知るようになりました。

破産したことを申告し、自分の債務を主イエス様に交換する恵みにあずかるようになったのです。
幼子のような信仰をもって、罪の赦しを要求することの結果として、イエス様の血潮によって自分が贖われ、神の子どもとされたことを知るようになったのです。
そしてもはやさばかれることがないことも、確信するようになったのです。分かったからじゃない。聖書がそう言ってるからです。

そしてイエス様を知るようになった兄弟姉妹は、結局イエス様に喜ばれたいと切に望むようになったのです。
最も大切なのは一体何なのでしょうか。言うまでもなく一番大切なことがなされるということ。これこそ一番大切なことです。

現代人はみな、非常に忙しい毎日を送っています。このことは、あのことはどうしても行なわなければならないということを、みんな知っておられます。
私たちもなるほど、このこともあのことも喜んでやりたいと思うけど、どんなに頑張っても時間と力がない。すべてのことをすることはできない。だから私たちはなにが一番大切なことかと考えることほど大切なのではないでしょうか。考えて選択しなければならない。

最も大切なことは言うまでもなく、主イエス様を喜ばせることです。
新たに信仰に導かれた人たちに対してパウロは、今読んでもらいましたように、テサロニケの人に向かって書いたのですね。

テサロニケ人への手紙第I、4:1
1終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。

主を喜ばすべきなのだ。
救われている人々と救われていない人々との間の区別は、一体なんなのでしょうか。
救われてる人は、イエス様を喜ばせたい。できるかどうか別です。けどもやっぱりイエス様を喜ばせたい気持ちを持ってます。

救われていない人は、もちろんイエス様に対して盲目であり、イエス様の声を聞けません。
私たちは毎日、私の思いはイエス様に喜ばれるか、私の言動はイエス様に喜ばれるかを新たに問うべきなのではないでしょうか。
これこそ最も大切なことです。

それから、喜ばれるという言葉は、普通どのように使われてるなのでしょうか。
ほかの人に喜ばれるという言葉は、好みが合うとか、考えが一致するという場合によく使われます。どんな結果の場合にもその前には必ず気に入られるということが起こるはずです。

例えば、外見、性質、全存在が魅力的な場合、男性も女性も気に入ったと言います。しばしば多くの場合、外面の顔、形から評価します。「彼女は美しい。」、「彼は男らしい。格好がいい。」、だから気に入るのであり、だから好きになる。
でも、しばしば多くの人が、失望してるという現実に直面します。というのは、外側の見かけは偽りだからです。
外側の美しさよりも大切なのは、最も内面的な性質です。人間は騙したり、騙されたりします。だから非常の多くの苦しみ、悩み、絶望に陥るのです。

けどもここでは、人間に気に入られるのは大切なのではなくて、生きるまことの主なる神に気に入られるほうが大切です。私たちはこのことについて真剣に考えると、驚かされます。
というのは、一体私たちはどうやって、光そのもの、少しも暗いところをご存じのないイエス様に喜んでいただけるなのでしょうか。
いったいどうして私たちは、絶対的な聖さと神聖さそのものであられるイエス様に喜ばれることができるなのでしょうか。
どうしたら私たちは、愛そのものであられる主イエス様に喜んでいただくことができるなのでしょうか。

イエス様は光そのものです。けど、なんと多くの利己的な性質、偽善と二重人格が私たちのうちにあることでしょうか。
イエス様は絶対聖なるお方ですけど、なんと多くの嘘と不純が私たちのうちにあるでしょうか。
イエス様は愛そのものですけど、なんと多くの自己追求と自己中心なわれわれのうちにあることでしょう。

イエス様はいかに私たちを気に入ってくださるなのでしょうか。
人間の創造以前に、主なる神はみこころにかなう人間をほしいと計画してくださったのです。

エペソ人への手紙1:4
4すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

主ご自身がご自分のほうから、私たちと主との間の裂け目を塞ぐ道を用意してくださったのです。
すなわち、御子イエス様が、われわれの贖いの代価を支払ってくださいました。その代価は、御子主イエス様がささげてくださったいのちです。
ローマ人への手紙の5章の8節。よく知られてる箇所ですけども、

ローマ人への手紙5:8
8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

とあります。父なる神はどうして人間を喜ぶことがおできになるなのでしょうか。
それは決して、主に喜ばれる生涯を受けようと、私たち人間が自分の力で努力することではなく、御子主イエス様が私たちの代わりに死んでくださり、そして私たちのために生きてくださることからです。

救われたばかりの兄弟姉妹に対して、私たちはしばしば次のように言います。
「今から、すばらしい生活をしようと努力するのをやめてください。どうせできないからです。」
多くの兄弟姉妹は驚いたように、けど、そんなことが要求されてるなのではないか。
けどもイエス様のものになったとしても、イエス様を喜ばせようとする自分の努力はすべて、敗北から敗北へという結果になるからです。

イエス様がお生まれになったとき、御使いは次のように告げ知らせました。よくクリスマスのとき読む箇所なんですけど、

ルカの福音書2:9-11
9すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

期待された救いの神であるメシヤです。

ルカの福音書2:12-14
12あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
13すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

ここで、御心にかなう人々という表現が使われています。
生きるまことの神が喜んでくださるのは、もちろんただイエス様だけです。今、主イエス様が受け入れてくださる方は、主イエス様のうちにあり、主イエス様の意によって御心にかなった人間とされています。

けどもそれは自分自身のすばらしさのゆえじゃなくて、ただイエス様の贖いのゆえにそうされてるだけです。
主イエス様のうちにある者。すなわちイエス様と結び付いている者の生涯は、必ず変えられます。すぐには実を結ぶことができないかもしれません。
エペソ人への手紙の1章や、使徒たちの書いた手紙を見るともちろん分かります。みな、やっぱり、せっかく救われた人々が成長するようにと心から戦い、祈り続けました。

エペソ人への手紙1:5-7
5神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
6それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
7私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

人間の努力ではない。全部主の恵みです。また、コロサイ人への手紙の1章12節を見ても、同じようなこと書き記されています。

コロサイ人への手紙1:12-14
12また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。
13神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
14この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

もちろん成長のこと、実を結ぶことについても、最も適切な言葉とは前に読まれました箇所でしょう。

ヨハネの福音書15:4-5
4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

自分の努力ではなく、うちにおられるイエス様、これこそ勝利と祝福と実を結ぶことの秘訣です。
イエス様に喜ばれること、これこそ最も大切なことです。それは実際には何を意味してるなのでしょうか。三つのことが言えるなのではないかと思います。

第一番目。イエス様は私たちの裏表のない愛を心から望んでいます。
第二番目。イエス様は私たちの喜びをもった奉仕を望んでおられます。
第三番目。イエス様は私たちの正直な態度を望んでおられます。

まず、主はわれわれの愛を望んでおられます。
もちろん聖書全体同じことを何回も何回も言ってますけど、例えば申命記の6章5節を見ると、次のように書かれてます。イエス様もあとで何回もこの箇所を引用してくださいました。

申命記6:5
5心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

「主の存在を認めなさい。」じゃない。「主を信じなさい。」なのでもない。「主を心から愛しなさい。」

ご存知のようにイエス様は、自分の弟子であるペテロに三度同じことを尋ねたのです。すなわち、「あなたはわたしを愛するの?」
イエス様は今日も私たちのような者に問うておられるなのではないでしょうか。

私たちは本当にイエス様を愛してるなのでしょうか。イエス様を愛するということはただイエス様」を信ずるということ以上のことです。
例えばホセア書の6章の6節なんですけども、主の考えと人間の考えとは、もう根本的に間違ってると分かります。

ホセア書6:6
6わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

もう一ヶ所。

サムエル記第I、15:22-23
22するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
23まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

このサウルという王さまは結局、用いられなくなってしまったのです。
主の存在を相変わらず認めたんです。けども、初めの愛から完全に離れてしまったのです。
主を愛する者は、主がどういうことを喜んでくださるかを知りたいと望んでいます。だからこそ次のことを覚えるべきでしょう。
なにかある律法が私たちを導くのではなく、イエス様に対する愛が私たちを導くべきです。

毎日、「主よ。私は何をしたらよいなのでしょうか。あなたは何を望んでおられるなのでしょうか。」と尋ねましょう。
そうすれば主の祝福が豊かに注がれます。
イエス様に喜ばれること、これこそ最も大切なことです。それは実際には何を意味するなのでしょうか。
今、話したように、主はわれわれの裏表のない愛を望んでおられる。

第二番目の答えは、主は私たちの喜びをもった奉仕を望んでおられます。
主イエス様に喜ばれる奉仕とは、自分自身を無にした奉仕で、主イエス様のために喜んで犠牲を払う備え。
そしてまた、自分自身をささげ、自分を否定する備えのできた奉仕です。そういう生涯は、イザヤ書に記されています。結局主の考えと、イスラエルの民の考えとはやっぱり違いました。

イザヤ書58:5-10
5わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。
6わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。
7飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。
8そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。
9そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、
10飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。

第三番目の要求されてるのは、正直な態度を取ることです。正直な態度を通して、主イエス様が喜んでくださると聖書ははっきり言ってるのです。

歴代誌第I、29:17
17私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。

とあります。直ぐな心の持ち主を捜し求められます。
それから、ソロモン王さまは同じことを何回も強調して、おもに箴言の中に色々なこと書いたのです。例えば、

箴言11:20
20心の曲がった者は主に忌みきらわれる。しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。

箴言11:27
27熱心に善を捜し求める者は恵みを見つけるが、

主に喜ばれるが、

箴言11:27
27悪を求める者には悪が来る。

箴言12:2
2善人は主から恵みをいただき、

主に喜ばれる。

箴言12:2
2悪をたくらむ者は罰を受ける。

箴言12:22
22偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる。

とあります。失敗することは別に大変なことではない。けど、曖昧にすること、隠すこと、陰でコソコソする者は悪いと、ソロモンははっきり書いたのです。

ただ人前だけ上手に繕い、人間を喜ばせようとする人は、物事を曖昧にしたり、隠したりします。
けどもイエス様の前に、光のうちを歩む者は、もはや隠したり、曖昧にしたりすることはもうできません。

主イエス様に喜ばれる生涯。これこそ私たちの人生の内容であるべきなのではないでしょうか。
その秘訣は、私たちのうちに主イエス様が生きておられるということです。

私たちはいつも失敗ばかりする者ですけど、イエス様は何事でもおできになるお方です。
主をより頼み、徹頭徹尾主に信頼する者は、勝利から勝利に至ります。ヘブル人への手紙の中で、次のようにあります。

ヘブル人への手紙13:20-21
20永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、
21イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

とあります。ここで、みこころを行なうことができると書き記されています。最も大切なのはいったい何なのでしょうか。
答えは、主に喜ばれることです。
主はわれわれの裏表のない愛を望んでおられます。主はわれわれの喜びをもった奉仕を望んでおられます。また主はわれわれの正直な態度を望んでおられます。

最後にちょっとだけ、みこころにかなう人のひとりを見てみたいと思います。むかしむかしの人だったのです。
アダムからの七代目です。エノクという男でした。エノクとは、みこころにかなう人であったと聖書は言っています。
創世記の5章に彼のことについて次のように書かれています。彼はどうしてみこころにかなう人だったんでしょうか。

創世記5:23-24
23エノクの一生は三百六十五年であった。
24エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

結局彼は、主を信じただけではなく、主を愛した。主を喜ばせたいと願ったから、主とともに歩んだ人でした。
それから死を見ないで、そのまま引き上げられちゃった。ヘブル人への手紙の11章5節。彼について、また次のように書かれてます。

ヘブル人への手紙11:5
5信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

聖書ははっきり言ってます。エノクは主に喜ばれる人でした。
主に喜ばれるということは、エノクにとって毎日毎日主とともに歩むこと。一瞬一瞬主と結び付いていることを意味していたのです。
結局彼は毎日何十回も、「主よ。私はどうしたらいいの?教えてください。」という態度を取ったのです。

信ずるということは、ただ単に主のみことばを幼子のように受け入れるということだけではなく、意識して主にのみより頼むということでもあります。
信仰がなければ主に喜ばれることは不可能ですと、聖書は何回も何回も強調しているのであります。
信ずることとは結局、主に頼ることです。主に頼ると、大いに祝福されるようになります。

エノクの生涯とは結局、祝福された生涯でした。どうしてであるかと言いますと、彼は何があっても、「私は主を喜ばせたい。」と切に望んだからです。




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