引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、4章1節
ヨハネの福音書15:4-8
コロサイ人への手紙1:10
今日の主題は、イエス様を喜ばせようというものです。 イエス様を信じ、またイエス様を知るようになった兄弟姉妹は、イエス様無き人生の無意味さを知るようになりました。 また、いかなる努力も尽力も、主なる神と人間の間の隔ての壁を取り除くことができないことも知るようになりました。 破産したことを申告し、自分の債務を主イエス様に交換する恵みにあずかるようになったのです。 幼子のような信仰をもって、罪の赦しを要求することの結果として、イエス様の血潮によって自分が贖われ、神の子どもとされたことを知るようになったのです。 そしてもはやさばかれることがないことも、確信するようになったのです。分かったからじゃない。聖書がそう言ってるからです。 そしてイエス様を知るようになった兄弟姉妹は、結局イエス様に喜ばれたいと切に望むようになったのです。 最も大切なのは一体何なのでしょうか。言うまでもなく一番大切なことがなされるということ。これこそ一番大切なことです。 現代人はみな、非常に忙しい毎日を送っています。このことは、あのことはどうしても行なわなければならないということを、みんな知っておられます。 私たちもなるほど、このこともあのことも喜んでやりたいと思うけど、どんなに頑張っても時間と力がない。すべてのことをすることはできない。だから私たちはなにが一番大切なことかと考えることほど大切なのではないでしょうか。考えて選択しなければならない。 最も大切なことは言うまでもなく、主イエス様を喜ばせることです。 新たに信仰に導かれた人たちに対してパウロは、今読んでもらいましたように、テサロニケの人に向かって書いたのですね。 テサロニケ人への手紙第I、4:1
主を喜ばすべきなのだ。 救われている人々と救われていない人々との間の区別は、一体なんなのでしょうか。 救われてる人は、イエス様を喜ばせたい。できるかどうか別です。けどもやっぱりイエス様を喜ばせたい気持ちを持ってます。 救われていない人は、もちろんイエス様に対して盲目であり、イエス様の声を聞けません。 私たちは毎日、私の思いはイエス様に喜ばれるか、私の言動はイエス様に喜ばれるかを新たに問うべきなのではないでしょうか。 これこそ最も大切なことです。 それから、喜ばれるという言葉は、普通どのように使われてるなのでしょうか。 ほかの人に喜ばれるという言葉は、好みが合うとか、考えが一致するという場合によく使われます。どんな結果の場合にもその前には必ず気に入られるということが起こるはずです。 例えば、外見、性質、全存在が魅力的な場合、男性も女性も気に入ったと言います。しばしば多くの場合、外面の顔、形から評価します。「彼女は美しい。」、「彼は男らしい。格好がいい。」、だから気に入るのであり、だから好きになる。 でも、しばしば多くの人が、失望してるという現実に直面します。というのは、外側の見かけは偽りだからです。 外側の美しさよりも大切なのは、最も内面的な性質です。人間は騙したり、騙されたりします。だから非常の多くの苦しみ、悩み、絶望に陥るのです。 けどもここでは、人間に気に入られるのは大切なのではなくて、生きるまことの主なる神に気に入られるほうが大切です。私たちはこのことについて真剣に考えると、驚かされます。 というのは、一体私たちはどうやって、光そのもの、少しも暗いところをご存じのないイエス様に喜んでいただけるなのでしょうか。 いったいどうして私たちは、絶対的な聖さと神聖さそのものであられるイエス様に喜ばれることができるなのでしょうか。 どうしたら私たちは、愛そのものであられる主イエス様に喜んでいただくことができるなのでしょうか。 イエス様は光そのものです。けど、なんと多くの利己的な性質、偽善と二重人格が私たちのうちにあることでしょうか。 イエス様は絶対聖なるお方ですけど、なんと多くの嘘と不純が私たちのうちにあるでしょうか。 イエス様は愛そのものですけど、なんと多くの自己追求と自己中心なわれわれのうちにあることでしょう。 イエス様はいかに私たちを気に入ってくださるなのでしょうか。 人間の創造以前に、主なる神はみこころにかなう人間をほしいと計画してくださったのです。 エペソ人への手紙1:4
主ご自身がご自分のほうから、私たちと主との間の裂け目を塞ぐ道を用意してくださったのです。 すなわち、御子イエス様が、われわれの贖いの代価を支払ってくださいました。その代価は、御子主イエス様がささげてくださったいのちです。 ローマ人への手紙の5章の8節。よく知られてる箇所ですけども、 ローマ人への手紙5:8
とあります。父なる神はどうして人間を喜ぶことがおできになるなのでしょうか。 それは決して、主に喜ばれる生涯を受けようと、私たち人間が自分の力で努力することではなく、御子主イエス様が私たちの代わりに死んでくださり、そして私たちのために生きてくださることからです。 救われたばかりの兄弟姉妹に対して、私たちはしばしば次のように言います。 「今から、すばらしい生活をしようと努力するのをやめてください。どうせできないからです。」 多くの兄弟姉妹は驚いたように、けど、そんなことが要求されてるなのではないか。 けどもイエス様のものになったとしても、イエス様を喜ばせようとする自分の努力はすべて、敗北から敗北へという結果になるからです。 イエス様がお生まれになったとき、御使いは次のように告げ知らせました。よくクリスマスのとき読む箇所なんですけど、 ルカの福音書2:9-11
期待された救いの神であるメシヤです。 ルカの福音書2:12-14
ここで、御心にかなう人々という表現が使われています。 生きるまことの神が喜んでくださるのは、もちろんただイエス様だけです。今、主イエス様が受け入れてくださる方は、主イエス様のうちにあり、主イエス様の意によって御心にかなった人間とされています。 けどもそれは自分自身のすばらしさのゆえじゃなくて、ただイエス様の贖いのゆえにそうされてるだけです。 主イエス様のうちにある者。すなわちイエス様と結び付いている者の生涯は、必ず変えられます。すぐには実を結ぶことができないかもしれません。 エペソ人への手紙の1章や、使徒たちの書いた手紙を見るともちろん分かります。みな、やっぱり、せっかく救われた人々が成長するようにと心から戦い、祈り続けました。 エペソ人への手紙1:5-7
人間の努力ではない。全部主の恵みです。また、コロサイ人への手紙の1章12節を見ても、同じようなこと書き記されています。 コロサイ人への手紙1:12-14
もちろん成長のこと、実を結ぶことについても、最も適切な言葉とは前に読まれました箇所でしょう。 ヨハネの福音書15:4-5
自分の努力ではなく、うちにおられるイエス様、これこそ勝利と祝福と実を結ぶことの秘訣です。 イエス様に喜ばれること、これこそ最も大切なことです。それは実際には何を意味してるなのでしょうか。三つのことが言えるなのではないかと思います。 第一番目。イエス様は私たちの裏表のない愛を心から望んでいます。 第二番目。イエス様は私たちの喜びをもった奉仕を望んでおられます。 第三番目。イエス様は私たちの正直な態度を望んでおられます。 まず、主はわれわれの愛を望んでおられます。 もちろん聖書全体同じことを何回も何回も言ってますけど、例えば申命記の6章5節を見ると、次のように書かれてます。イエス様もあとで何回もこの箇所を引用してくださいました。 申命記6:5
「主の存在を認めなさい。」じゃない。「主を信じなさい。」なのでもない。「主を心から愛しなさい。」 ご存知のようにイエス様は、自分の弟子であるペテロに三度同じことを尋ねたのです。すなわち、「あなたはわたしを愛するの?」 イエス様は今日も私たちのような者に問うておられるなのではないでしょうか。 私たちは本当にイエス様を愛してるなのでしょうか。イエス様を愛するということはただイエス様」を信ずるということ以上のことです。 例えばホセア書の6章の6節なんですけども、主の考えと人間の考えとは、もう根本的に間違ってると分かります。 ホセア書6:6
もう一ヶ所。 サムエル記第I、15:22-23
このサウルという王さまは結局、用いられなくなってしまったのです。 主の存在を相変わらず認めたんです。けども、初めの愛から完全に離れてしまったのです。 主を愛する者は、主がどういうことを喜んでくださるかを知りたいと望んでいます。だからこそ次のことを覚えるべきでしょう。 なにかある律法が私たちを導くのではなく、イエス様に対する愛が私たちを導くべきです。 毎日、「主よ。私は何をしたらよいなのでしょうか。あなたは何を望んでおられるなのでしょうか。」と尋ねましょう。 そうすれば主の祝福が豊かに注がれます。 イエス様に喜ばれること、これこそ最も大切なことです。それは実際には何を意味するなのでしょうか。 今、話したように、主はわれわれの裏表のない愛を望んでおられる。 第二番目の答えは、主は私たちの喜びをもった奉仕を望んでおられます。 主イエス様に喜ばれる奉仕とは、自分自身を無にした奉仕で、主イエス様のために喜んで犠牲を払う備え。 そしてまた、自分自身をささげ、自分を否定する備えのできた奉仕です。そういう生涯は、イザヤ書に記されています。結局主の考えと、イスラエルの民の考えとはやっぱり違いました。 イザヤ書58:5-10
第三番目の要求されてるのは、正直な態度を取ることです。正直な態度を通して、主イエス様が喜んでくださると聖書ははっきり言ってるのです。 歴代誌第I、29:17
とあります。直ぐな心の持ち主を捜し求められます。 それから、ソロモン王さまは同じことを何回も強調して、おもに箴言の中に色々なこと書いたのです。例えば、 箴言11:20
箴言11:27
主に喜ばれるが、 箴言11:27
箴言12:2
主に喜ばれる。 箴言12:2
箴言12:22
とあります。失敗することは別に大変なことではない。けど、曖昧にすること、隠すこと、陰でコソコソする者は悪いと、ソロモンははっきり書いたのです。 ただ人前だけ上手に繕い、人間を喜ばせようとする人は、物事を曖昧にしたり、隠したりします。 けどもイエス様の前に、光のうちを歩む者は、もはや隠したり、曖昧にしたりすることはもうできません。 主イエス様に喜ばれる生涯。これこそ私たちの人生の内容であるべきなのではないでしょうか。 その秘訣は、私たちのうちに主イエス様が生きておられるということです。 私たちはいつも失敗ばかりする者ですけど、イエス様は何事でもおできになるお方です。 主をより頼み、徹頭徹尾主に信頼する者は、勝利から勝利に至ります。ヘブル人への手紙の中で、次のようにあります。 ヘブル人への手紙13:20-21
とあります。ここで、みこころを行なうことができると書き記されています。最も大切なのはいったい何なのでしょうか。 答えは、主に喜ばれることです。 主はわれわれの裏表のない愛を望んでおられます。主はわれわれの喜びをもった奉仕を望んでおられます。また主はわれわれの正直な態度を望んでおられます。 最後にちょっとだけ、みこころにかなう人のひとりを見てみたいと思います。むかしむかしの人だったのです。 アダムからの七代目です。エノクという男でした。エノクとは、みこころにかなう人であったと聖書は言っています。 創世記の5章に彼のことについて次のように書かれています。彼はどうしてみこころにかなう人だったんでしょうか。 創世記5:23-24
結局彼は、主を信じただけではなく、主を愛した。主を喜ばせたいと願ったから、主とともに歩んだ人でした。 それから死を見ないで、そのまま引き上げられちゃった。ヘブル人への手紙の11章5節。彼について、また次のように書かれてます。 ヘブル人への手紙11:5
聖書ははっきり言ってます。エノクは主に喜ばれる人でした。 主に喜ばれるということは、エノクにとって毎日毎日主とともに歩むこと。一瞬一瞬主と結び付いていることを意味していたのです。 結局彼は毎日何十回も、「主よ。私はどうしたらいいの?教えてください。」という態度を取ったのです。 信ずるということは、ただ単に主のみことばを幼子のように受け入れるということだけではなく、意識して主にのみより頼むということでもあります。 信仰がなければ主に喜ばれることは不可能ですと、聖書は何回も何回も強調しているのであります。 信ずることとは結局、主に頼ることです。主に頼ると、大いに祝福されるようになります。 エノクの生涯とは結局、祝福された生涯でした。どうしてであるかと言いますと、彼は何があっても、「私は主を喜ばせたい。」と切に望んだからです。 |